第2話 守り巫女

 若葉と他愛もない話を交わしながら歩くうちに、食事をとる広間に着いた。侍女である若葉はここで辞し、沙羅は一人で広間に入って父と母の前に座る。


「おはようございます。父上、母上」


 娘の挨拶に、父の宗右衛門は一見すると厳しい人柄を思わせる相好を崩し、

「ああ、おはよう沙羅」と一人の父親のような顔をした。


 沙羅が座ると、すぐに朝餉の膳が運ばれてきた。今日は弓月彦がいないので、膳は三人分だ。


 黒漆で塗られた膳の上には、先ほど若葉が述べた通りの料理が並んでいる。ヤマメの塩焼きに白米、お吸い物。それから、若葉から知らされていない可愛らしいお菓子があった。桜らしき愛らしい花を象った薄紅色の菓子だ。大きさも手頃で、ちょうど一口でパクリといけそうである。


「これは?」


 沙羅が首を傾げて父に目線を送ると、父の宗右衛門が「私からだ」と言った。


「へ?父上からの?」


「ああ。近頃都で流行りの菓子だそうでな。都へ行っていた家臣に頼んで、取り寄せてもらったのだ」


「まあ、ありがとう。父上」


 沙羅は、我慢できずに真っ先に菓子を口に放り込んだ。何かと礼儀作法にうるさい継母の千代の方(弓月彦の実母)が、「これ」と注意の声を上げる。それを「まあまあ」と言ってたしなめる宗右衛門の声。そんな二人のやり取りを尻目に、沙羅は菓子を頬張った。さすが、都で流行りと言うだけある。砂糖をふんだんに使った菓子は甘くて、舌に触れただけでとろけてしまいそうだ。


 あと二つ同じ菓子が懐紙の上に置かれていたので、沙羅はそれにも手を伸ばしかけた。だが、甘いものが好きな若葉にあとであげようと思って、伸ばしかけた手を引っ込める。そんな沙羅を見やりながら、千代の方が「まったく」とため息を零した。


「菓子などは食事のあとに食べるものです。あなたも嫁入り前の娘なのですから、身に付ける作法も身につけておかないと、嫁げるものも嫁げませんよ」


「大丈夫ですよ。私は嫁ぎませんから」


「……そういえばそうでしたね」


 千代の方はツンとすまして答える。


 沙羅は別に、嫁ぐつもりがないと言ったわけではない。沙羅の担う役目上嫁げないのだ。沙羅の担う役目。それはこの多津瀬領にとって、なくてはならない大切な役目。何百年も途絶えることなく続いてきた、歴史ある役目だった。


 食事が済むと、沙羅は自室に戻った。そこでこれから行う大切な儀式のために別の衣服に袖を通す。沙羅が身にまとったのは、白衣に緋袴を合わせた巫女装束だ。


 つまるところ、沙羅は多津瀬の姫であると同時に巫女であった。巫女は神に仕える者であり、基本的に婚姻を結びはしない。だから、先ほど千代の方に「私は嫁ぎませんよ」といったのである。千代の方の実家の方では、領主の娘の中で霊力の強い者が巫女となるといった習慣がないので、ついつい沙羅が巫女であり、嫁がないことを忘れてしまって、彼女はたまにああいう小言を言うのである。


 巫女装束に着替えた沙羅は、背中に長く垂らしていた髪を垂髪すいはつにして後ろでまとめると、神棚に置いてあった赤い勾玉の連なる首飾りを手に取った。それを首にかける。連なる五つの赤い勾玉は、対照的な白い衣の上で日の光を受けて、キラリと瞬いた。


 準備が済み、領主の家族やその臣下の住まう館を出ると、若葉が沙羅の馬を用意して待ってくれていた。


 沙羅の馬は黒鹿毛くろかげの雌で、名前は水月。仔馬の頃から世話してくれた主人の沙羅に、彼女はよく懐いている。だから沙羅が水月の元へかけよると、水月は親愛の証に鼻面を沙羅の腕に押し付けてきた。沙羅は微笑んで、水月の鼻頭を撫でてやる。


 水月の隣には、若葉が乗る馬もいる。水月よりも年若いその鹿毛の馬は、尾を振りながら虫を追っ払うのに夢中の様子である。水月のように正式な名はつけられていなかったが、実はこっそり沙羅と若葉で「おっとりさん」と呼んでいた。由来はそのままの意味で、ひどくおっとりした性格ののんびり屋さんなのである。


「じゃあ、行きましょう。若葉」


 沙羅はあぶみに足を引っ掛けて水月の背に跨ると、若葉を見下ろして言った。


「はい」


 沙羅の言葉を合図に、若葉もおっとりさんへ跨る。


 若葉の準備が整うのを待ってから、沙羅は手綱を握りしめ、軽く水月の腹を足で押した。沙羅の動作に従って、水月は蹄を鳴らしながら前に進み出す。


 二人が館の門を出るとき、館で働いている人々が沙羅を見送りに顔を出しに来た。「いってらっしゃい、姫様」と彼らは沙羅に手を振る。沙羅もそれに手を振り返しつつ、門の下をくぐった。


 門を出ると、あとは下り坂だ。


 沙羅の住む領主の館は、小さな山を切り開いた場所に作られているので、館からは多津瀬領を一望することができる。沙羅は小さい頃から、館から見えるこの景色が大好きだった。


 今沙羅の視界には、その景色がいっぱいに広がっている。沙羅の視界を横切るようにして流れているのは、清流として有名な多津川。多津川の周囲には田園が広がり、その間に民家が立ち並ぶ。田園のずっと先には森が広がり、その背後には緑青色の山々が険しい峰を連ね、この小さな多津瀬領を見下ろしていた。


 季節は春。沙羅が一番好きな季節だ。多津瀬領を囲む豊かな自然は新緑の若々しい緑に彩られ、ところどころに薄紅色の桜の花々が可憐に芽吹いている。愛の言葉を囀る鶯の声も、柔らかな風に乗って沙羅の耳まで届いてくる。


 うぐいすの声に耳を澄ませ、大好きな景色を眺めていると、今朝のことなどどうでもよいことに感じられてきた。今ここで見る勇気はさすがにないが、後で見てみると痣は案外もう消えているかもしれないし、大したことではないかもしれない。沙羅は気楽に考えながら、下り坂を馬の水月と共にゆっくりと下っていく。


 館のある山を下りると、沙羅と若葉は馬の進路を北へと変えた。多津川の上流の方である。途中、民家が立ち並ぶ土地を抜けるので、自然と領民たちは仕事の手を一旦止めて、領主の娘である沙羅に挨拶の声を投げかけてくる。


「姫さま、おはようございます」


「今日もお務めですか?いつもお疲れ様です」


「お姫様いってらっしゃーい」


 年齢も性別も様々な領民たちから親しみ深く声をかけられ、沙羅はその一つ一つに言葉を返していく。


「おはよう。ええ、あなたもお仕事がんばって。行ってきます」


 人々の表情はどれも朗らかで、彼らの顔を見るだけでこちらの顔もほぐれてくる。いつもしている日常的なやりとりではあるが、沙羅にとっては大切な一日の始まりだ。


 やがて民家を抜けて田に挟まれた道を進み、沙羅と若葉は多津瀬領の外れまでやってきた。ここからもう少し北へ進めば多津川の上流にたどり着くが、そこまではいかない。進路を東に変更して、二人は目的地へ向かった。


 途中、他愛もない話を交わしたり、朝食時に父から貰った菓子を若葉にあげたりしながら森の道を東に進むことしばし、二人の前に、岩肌がむき出しになった山の急斜面が見えてきた。急斜面には大きな穴が穿たれていて、洞窟になっている。洞窟の手前には石造りの立派な鳥居が建てられており、ここからでは見えないが、その洞窟の奥は祭壇になっていた。


 沙羅と若葉は馬を降りると、水月たちを洞窟のそばに打たれた杭に繋いだ。そして、沙羅は若葉を後ろに連れて鳥居の前に立った。鳥居に向かって一礼してから洞窟の中へ足を踏み入れる。


 洞窟の中は、松明の明かりで照らされているのでそれほど暗くはない。むしろ洞窟にしては十分明るいくらいである。


 二人は、左右の壁にかかる松明の横を通り過ぎながら奥へ向かった。松明のパチパチと炎の爆ぜる音と、二人の足音だけが洞窟内に響き渡る。光が生じればまた影も生まれる。沙羅と若葉の影が、出口に向かってぬっと伸びていった。


 奥へ向かうことしばし。やがて二人の前に祭壇が見えてきた。洞窟の最奥部に木の棚で作られた祭壇の上には、神酒や塩、魚、銅器、鏡などが丁重に置かれている。その後ろには、巨大な水晶のようなものが屹立していた。


「いつ見ても不気味です……」


 祭壇の背後にありながら、祭壇よりも目立っている、巨大な水晶のようなものを見上げながら、若葉がポツリと声を漏らした。沙羅も彼女の見ているものを見ながら、「そうかしら」と首をひねる。


「私はむしろ綺麗だと思うわ。白くて、透き通っていて」


「それはまあ、そうですけど。やっぱり由来を知っていると……」


「ああ、由来ね……」


 沙羅は水晶のようなそれを続けて見つめた。


 この洞窟の奥で祀られているこれは、「封印石」と呼ばれている。なんでもあやかしを封印した際に生じる物質らしく、故に「封印石」という名なのだそうだ。


 封印石があるということは、この石の中にはあやかしが封じられていることを意味する。事実、沙羅と若葉の目の前にある封印石にはあやかしが封じられていた。大昔、この国を荒らしまわったという九つの尾を持つ狐のあやかしーー九尾の妖狐という名で、口伝や書物の中で伝えられているあやかしが。


「姫様は、あやかしをご覧になったことはありますか」


 不意に若葉に尋ねられ、沙羅は「いいえ」と首を横に振った。


「ないわね。若葉は?」


「私もありません」


「見てないってことは、それだけ多津瀬領が安全ということだわ。」


 若葉の言葉に、沙羅は頷く。


 「あやかし」とは、人ならざる生き物のことだ。といっても、犬や猫、熊や鹿のような獣でもない。定義としては人の人智を超えた能力・姿を持ち、時に災いを、時に恵みを人々にもたらす「神」以外の存在。だが恵みをもたらすことは滅多になく、ほとんどが前者だ。そのため一般的に人々の間では、あやかしは人に害を与える存在として認識され、忌み嫌われている。


 人々が恐れるそのあやかし達は、この多津瀬領も属する百世の国中に古来より生息している。だが、先ほどの会話のように沙羅と若葉は生まれてこのかたあやかしというのを見たことがない。この封印石を除けば、多津瀬の人々はあやかしとは縁遠い生活をしているというわけだ。他の領地では、しばしばあやかしが人を襲ったりイタズラをしたりして害を為すことがあるというが、多津瀬領ではそうしたことは起こらない。父によれば、それは封印石を祀っているかららしい。


 封印石は、あやかしを封じた際に生じる物質。だが、決して不浄な存在ではない。むしろ清浄なものだ。浄化に弱いあやかしの体を浄化物質が包み込むことによって、あやかしを弱体化して内部に閉じ込め、封印する。その浄化物質が封印石と呼ばれる存在のことだ。封印石は常に浄化の力を発し続けるため、その力を恐れてあやかしは寄ってこない。だから、封印石のある多津瀬領にはあやかしが入り込んでこないのだ。よって、人々は封印石をありがたいものとして、こうして神の依代のごとく祀っている。


 しかし封印石も管理しなければ、中に封じたあやかしの力に徐々に汚染され始める。浄化の力があやかしの力に負ければ、封じられたあやかしは再びこの世に出てしまう。そうならないための管理を行うのが、巫女としての沙羅の役目なのである。


 沙羅は若葉との会話を切り上げて、緋袴の裾が土埃で汚れるのも構わず祭壇の前の地べたに座り込んだ。それから、まっすぐに封印石を見上げる。


 封印石は白く透き通っており、一片の淀みも見えない。


 この封印石は、あやかしが封じられてから数百年は経っているらしい。数百年経ってもなお封印石が白く美しいのは、歴代の巫女を務めてきた沙羅の一族の女性たちがきちんと管理を担ってきた証拠。封印石の管理、それすなわち、巫女の霊力と、秋月家が代々祀ってきた神の力を借りて、外に出ようともがくあやかしを鎮め、封印石の浄化の力が弱まるのを防ぐこと。多津瀬では、それを魂鎮めの祈り、または魂鎮めの儀式と呼んでいる。そしてそれを行う巫女のことを、特別な畏敬の念を込めて、人々は「守り巫女」と呼んだ。

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