封印の守り巫女と九尾の妖狐

藤咲メア

第1話 夢

沙羅は夢を見ていた。


——ああ、またこの夢か


と、夢の中の幼い自分を、どこからか俯瞰する自分がいる。


 夢の中の自分はいつも幼い姿で、そしていつも何かから逃げている。


 見知った館の見知った廊下。時刻は夜で、壁に据えられた燭台の明かりを頼りに、幼い沙羅は荒い息を吐きながら駆けてゆく。沙羅が燭台の前を通り過ぎるたびに、廊下を照らす燭台の明かりが消えて、彼女の後ろは闇に閉ざされる。夜の森よりも深く、鴉の羽よりも濃く、何もかもを飲み込んで、黒く塗り潰してしまうかのような、深く濃い闇。それが燭台の明かりを飲み込んで、沙羅の背を追いかけてくる。


 ——そうだ


と、どこからか冷静に夢の中の幼い自分を俯瞰する、もう一人の沙羅が思い出した。自分はいつもこの恐ろしい闇から逃げているのだと。そして、結局はいつも逃げきれない。


(誰か助けて)


 幼い沙羅は、助けを呼ぼうと声をあげた。だが、口からは何の音も発せられなかった。声が出ないのだ。から回った舌先に外気が触れて、口の中がひんやりする。


 その時、沙羅の前を照らしてくれていた燭台の明かりが忽然と消えた。今明かりを放っているのは、沙羅の両隣の燭台二つだけ。

 驚いて立ち止まった沙羅は身をすくませた。そうして恐々と背後を振り返る。


(あッ)


 沙羅は息を飲んだ。


 すぐそこまで迫っていた闇が、沙羅の両隣で灯るわずかな燭台の明かりに照らされて影となる。影は先の尖った鞭のような形態をとって、沙羅の小さな体に迫ってきた。


 悲鳴をあげて逃げるよりも早く、影は沙羅の体を絡め取った。腕に、足に、首元に、影に絡みつかれた沙羅の体は強引に闇の中へ引きずりこまれる。目前にあったはずの燭台の明かりがぐんと遠ざかり、代わりに視界を深く濃い闇が覆い尽くす。やがては何も見えなくなった。目の前にあるはずの己の腕すらも見えない。まるで自分が目だけの存在になったような気がして、沙羅は怖くなった。自分の体の在処さえも不確かで、その存在を強く感じようと、沙羅は自分で自分の体を掻き抱いた。それから目をぎゅっと閉じる。目を閉じようが閉じまいが、何も見えないことに変わりはないが、まだ自分の瞼の裏を見ている方がマシだと思ったのだ。だが沙羅はすぐに目を開けることになった。すぐ近くで、ボッと炎が燃え上がる音が聞こえてきたからだ。


 穴倉に籠る獣のような体勢を崩し、沙羅は目を開けて炎を探した。暗闇の中を照らしてくれる炎。どれほど安心するだろうか。だが、炎を見つけた沙羅の顔は真っ青になった。炎を捉えた視線の先にあったのは、幽鬼のようにゆらゆらと揺れる青白い炎。それがポツンと闇の中に灯っている。いや、浮かんでいる。未練を残し、闇を彷徨さまよう死人の魂を彷彿とさせるそれはあまりに不気味だった。


——見てはいけない


 本能的にそう思った沙羅は、青白い炎から目を逸らそうとした。だがどうしてもそれをすることができなかった。自分の意思を反映しようとしても、体が言うことを聞かないのだ。恐怖で震える瞳は青白い炎を映し続け、魅入られたように視線は動かない。だが心臓だけは正直だ。沙羅の気持ちを反映しているのだろう。心臓は狂ったような速度で脈を打ち、沙羅の体に血を巡らせ続ける。


 青白い炎を見つめ続ける沙羅の目は、やがて炎の炎心部に吸い寄せられた。不吉な白い色で彩られた炎心の中に、何かがうごめいている。幾つもの尾を持つ、奇妙な獣……。血のように赤い、獣の瞳。


 そこでようやく、沙羅の口から甲高い悲鳴が漏れた。やっと声が出た。そう安堵する沙羅の周囲から青白い炎が消えて、闇も一気に引いていく。これでもう大丈夫だ。安心した沙羅は、その場にへなへなと崩折れた。



 目を覚ますと、沙羅の体はもう幼い少女のものではなくなっていた。十五歳の娘の体。これが現実の沙羅の姿だ。


 仰向けに横たわる沙羅の視線の先には、木目の広がった天井がある。襖の隙間から差し込む朝日によって、明るく照らされた木目の一本一本がはっきり見えた。


 どこからか聞こえて来る雀たちのさえずりに耳を傾けながら、沙羅は体を起こした。うんと伸びをしようとしたところで、自分の体が汗だくなことに気づく。特に首筋や額のあたりがひどい。前髪は汗でべったりと額に張り付いているし、首元は着物の襟に汗が染み込んでいて気持ちが悪い。その不快感に顔をしかめながら、沙羅は起き上がった。手ぬぐいはどこにしまってあったかしらと、部屋に置いてある箪笥たんすの中を探りながら、沙羅はさっきまで見ていた夢のことを恨めしく思った。


 あれは、小さな頃から定期的に繰り返し見る夢だ。何回見たのかいちいち数えてられないほど見ている。小さな頃は恐ろしくて仕方がなかったが、今ではさすがにもう慣れた。夢を見るのが恐ろしくて眠れないわけでもないし、見た後に一人で厠に行けないということもない。だが、夢の中の小さな自分は、いつまでたっても変わらなかった。いつも暗闇に怯え、逃げ惑っている。きっとそのせいなのだろう。決まってその夢を見て起きると、全身が冷や汗でぐっしょり濡れているのは。


 箪笥の中に手を突っ込んでゴソゴソしていると、手ぬぐいを見つけた。その手ぬぐいを首元と額にあてがって汗を拭き取る。すると随分不快感がマシになった。すっきりした面持ちで、沙羅は手ぬぐいをそばの文机へ置こうと手を伸ばす。ところが、前方へ伸びる手ぬぐいを持つ自身の腕を見下ろした途端、沙羅はグッと愁眉を引き寄せた。


「なにこれ……」


 一言つぶやき、自分の手を引き寄せる。袖口から覗く手首に、何かに巻きつかれたような痣があった。その痣は手首から腕の方に広がっているように見える。

沙羅は着物で隠されて見えない部分を見ようと、袖をまくった。


「……」


 沙羅は目を見開いた。寝起きでまだぼうっとしていた頭がガン、と殴られたように冴え渡る。


「気持ち悪い……」


 そう呟いた沙羅の視線の先にある彼女の右腕には、無数の縄が食い込んだ痕のような黒々とした痣が浮かんでいた。さらに袖をまくると、その気味の悪い痣は右手首から肘のあたりまで広がっていた。


 まさかと思い、沙羅は反対の左腕の方も確認してみた。続いて足も。そのどれを見ても、沙羅は引きつったように喉を鳴らした。左腕にも、右足にも、左足にも、右腕と同じような痣が広がっていたのだ。もちろんこの痣ができるような覚えなど全くない。いや、そうだろうか、と沙羅は痣を見つめながら思案した。一つだけ、思い当たることがあった。さっきまで見ていた夢だ。夢の中で、沙羅は先端の尖った鞭のような何本かの影に体を絡め取られた。夢の中の出来事でありながら、それが体に食い込んできた感触を今でもありありと思い返すことができる。感触まではっきりと感じ取れるなんて、いつもよりも現実味が増していやしないか。いや、増しているどころの騒ぎではない。夢の中の出来事が、現実の沙羅の体に影響を及ぼしている……?


 沙羅は自分の荒唐無稽なその考えに首を振った。そんな馬鹿げた話があるわけがない。だが、そうでなければこの痣の説明がつかないこともまた事実だ。


 沙羅はしばらくじっと考えた後、一旦この怪現象を無視することにした。もうすぐしたら侍女が朝餉の支度ができたと告げにくるだろうし、早いところ着替えを済ませておかなければならない。


 臭いものに蓋をするような気持ちでまくっていた袖を戻すと、沙羅は寝間着からちゃんとした着物に着替え始めた。


 さっき手拭いを取り出した箪笥から上質な絹の着物を出してそれに着替え、衣桁にかけてあった深緋こきひに染め上げられた美しい打掛を上に纏う。衣服の乱れを整えた後、文机に置かれた鏡の前へ座って、長い黒髪を櫛で梳き、頬や唇に紅を差す。


 もっといいところの姫御前ならば、こうした身支度もすべて侍女に任せるのかもしれないが、沙羅は小さな領地を収める小領主の娘でしかない。姫と呼ばれはするものの、都やもっと大きな領地の姫御前と比べればその暮らしは雲泥の差だろう。だが、沙羅は自分のこの身分と暮らしが気楽でいいと満足していた。もっと大きな領地や都にいる姫御前は、暗い部屋からほとんど外に出ることなく暮らすというし、それでいてすぐに恋の駆け引きや政治などという面倒くさいことに巻き込まれるものだと聞く。生来活発な気質を持つ沙羅からすれば、そんな生活は御免だった。小領主の娘でも色々と窮屈さを感じることもあるというのに。


 化粧道具を元の場所へ戻していると、ちょうど沙羅付きの侍女がやってきた。部屋には入ってこずに、侍女は朝餉の支度ができた旨を告げる。沙羅はそれに返事をし、部屋の戸を開けた。幸いあの不気味な痣は服で完全に隠すことができたので、なるべく思い出さないように努めながら、沙羅はいつも通りに侍女に接する。


「おはようございます。姫様」


「ええ、おはよう。よく眠れた?」


「はい」


 侍女は彼女らしい優しげな笑みを浮かべて頷いた。


 彼女の名は、若葉。多津瀬に暮らす細工師の娘だ。沙羅より一つ年下で年の近いこともあり、二人は子供の頃からの仲良しだ。だが、一応姫とそれに使える侍女という関係のため、表立ってはあくまで主従関係を貫いている。


 沙羅が打掛を翻して廊下を歩き出すと、若葉もそれに従って付いてきた。


「今日の朝食は、ヤマメの塩焼きと白米、椎茸のお吸い物です。ヤマメは、宮一郎が今朝方獲ってきた新鮮なものを使っております」


 若葉がいつも通り朝食の献立を移動中に教えてくれる。


「宮一郎が?後で詰所に行って、お礼を言っておかなくちゃね」


 宮一郎は、沙羅の父・秋月宗右衛門が治める多津瀬たつせ領の武士だ。沙羅より二つ上の十八歳で、彼からは小さい頃はよく「ちび」と言われてからかわれたものだ。さすがに今はもうそんなことは言ってこないが。


「姫様、宮一郎は今日、釣りから帰ってきたその足で、弓月彦さまと共に狩りに行くと言っていましたから、もう詰所にはいないと思います」


 そう言われ、沙羅はちょっと残念そうに言った。


「そう。じゃあ、弓月彦ゆづきひこも早起きして早く出かけて行ったのね。普段はお寝坊さんのくせに、狩りとなったら早すぎるくらい早く起きるのよね、あの子」


「ふふふ、お父上の狩り好きを受け継がれたのでしょう。きっと、大きな獲物を仕留めて帰ってきますよ」


 若葉は上品に袖元を口にあてがいながら笑う。沙羅もそれにつられて笑った。


 弓月彦とは、沙羅の弟のことだ。と言っても、腹ちがいの異母弟である。沙羅の母は十年前に亡くなっており、後に迎えられた奥方の息子が彼というわけだ。だが、沙羅はこの腹ちがいの弟のことを生意気だと思いながらも大変かわいがっていた。ゆくゆくは彼が多津瀬領の領主となる。立派な領主が務まるよう、姉としてできる限りのことをしようと弓月彦にきつく当たることもあったが、基本的には弟として好いている。この弓月彦は狩りで野山を駆け回るのが好きな性分で、この部分は若葉の言う通り、弓月彦の父、つまり沙羅の父親でもある宗右衛門の気性を強く受け継いでいると言えよう。

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