新開地物語
北風 嵐
第1話 新開地物語
これは私が書いた長い小説『神戸フアッション物語』の一節から抜き書きしたものである。前半部分は「神戸案内書としてはよく出来ていると辛口の友からお褒めを頂いた。
これまで・・
深見エミは洲本実業高校を卒業して、神戸の洋裁学校に入学すべく神戸にやってきた。自分の手で素敵な洋服を作りたい、デザイナーが長年の夢だった。洲本実業の野球部のメンバー達とも一緒だった。彼らの就職先も神戸だった。エミは野球部のマネージャーをやっていた。親友の高島花子は野球部だけでなく全ての運動部を応援する応援団のチェアーガールをしていた。花子の母親はスナックをやっている。花子は母から離れて叔母の経営する婦人服店に勤め、叔母の自宅のある北野町に住むことになっている。
エミの父親は腕のいい桶職人だった。それ以上に人形浄瑠璃の使い手であった。幼いころエミは、父親が綺麗な着物を着た他所の女の人と一緒に歩いているのを見た。港に行く方向の道であった。それが父親を見た最後であった。
エミが洋裁学校の3年間を過ごすのは母方の伯父〈つかはん〉の家である。中学校のとき母と口論したとき、ひと夏を世話になっている。〈つかはん〉の家は三角公園の傍にあって、「つかはん」は、夕方、新開地を散歩するのが日課だった。
4 『なつかしの新開地―エミ』
エミは神戸駅で降りた。ロータリー正面に湊川神社*が見える。今は昼時、大楠公は昼寝であるらしく、神社内は人影もなく森閑としていた。「楠公さん、これから神戸で暮らします。よろしく」と、エミは社殿に向かって一礼をした。
神社前の多聞通りを、西に7、8分歩けば、多聞通りは大開通りと柳原筋に分かれる。その分岐点に新開地の三角公園があって、市電やバスの発着場になっている。そこから1分とかからない所に〈播政市場〉という小さな市場があり、その中に伯父の家はあった。この大開通りに沿って、かつて、ウエスト・キャンプと呼ばれる米軍キャンプがあった。
エミは小学校の入りたての頃だったか、母に連れられて、初めて神戸に来たとき、蒲鉾兵舎の中から、黒いアメリカの兵隊さんが出てきたのにはびっくりした。須磨に母の姉になる伯母がいるので、神戸に出てくるときは、バスで岩屋まで出て、フェリーで明石に渡り、須磨に寄って神戸駅に来るのであって、今回のように船で神戸港に直接入ったのは初めてであった。
2回目に神戸に来たときは、母と須磨から山陽電車に乗って兵庫駅前終点で降りた。その時にはキャンプは既に無くなっていた。
3回目に神戸に来たのは中学校2年生のときであった。夏休みに入ったばかりの頃、花子らと泳ぎに行ったり、遊ぶのに忙しかった。
「お前は最近遊んでばかりで、弟の世話はしないわ、家の手伝いはしないわ」と何時にない、母がヒステリックになってエミを叱ったことがあった。弟と云っても小学校6年になっていて、自分たちの友だちと遊びたがったし、確かに家の手伝いは最近手抜きになってはいるが、父がいなくなってから、母のことを思って一生懸命、エミなりにはやって来たつもりだった。
我慢強いエミが切れた。バスに乗り、フェリーに乗って明石に着いた。伯母のとこに行けば、すぐに連絡が入って、母が向かえにきそうに思えて、神戸駅まで来て、伯父に電話を入れたのだ。
「エミちゃんか、そこにおりや」と、伯父は車で直ぐに来てくれた。伯父は母に連絡を入れ、何かを言ったのだろう、「お母ぁ―ちゃんの許可もうたから、狭いけどゆっくりしていったらええ」と云ってくれ、その一夏をエミは神戸で過ごしたのだった。
注釈と資料
湊川神社:建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍、尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した楠正成公を祀っている。この地を訪れた水戸光圀がまともに祀られていない正成を偲び、「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を立てた。明治天皇は正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治5年神社が建立された。湊川神社、生田神社、長田神社を神戸の三神社と云う。
5 『新開地散歩』
伯父の藤井司(つかさ)は淡路島で淡路交通のバスの運転手だった。エミも小学校の1、2年生のとき、学校帰りに見つけて、乗せて貰ったことが何回かあった。一緒に乗った友達には少し鼻高であった。淡路交通が神戸にタクシーの営業所を作ったので、伯父は昭和28年に神戸に出てきたのであった。
藤井性は母の旧姓で、藤井家は淡路の西淡で小さな農家を営んでいた。跡を継いだ長男は南方戦線で戦死し、男手をなくした藤井家を支えたのは、この伯父であった。
バスの運転手の傍ら、非番の日には田を手伝い、本当はいけないことなのだが、作った作物をバスのトランクに積んで、洲本に買い付けに来ている闇屋に売ってしのいで来た。戦時下の昭和18年に須磨の伯母が結婚し、20年には既にお腹に子供がいた母の婚礼が出来たのも全て、伯父のお陰であって、母も須磨の伯母もこの伯父には頭が上がらない。母も、須磨の伯母も伯父のことを「つかはん」と呼んでいた。エミもそれに習った。
同じ家を持つなら市場で奥さんが小商いでも出来るところということで、須磨の伯母がだいぶ力になった。奥さんは良子さんと云い、蒲鉾や天ぷらの取り売をしていた。子供はエミより3学年上の高校2年生の勝治一人である。伯父は背がかなり低い。あんな小さいのに、あのような大きいバスをどうして運転できるのか、小さい頃、エミは不思議で仕方なかった。良子さんは一方、当時の女性としては大女の口だった。よく云う「蚤の夫婦」という奴である。2年の時、従兄の勝治(エミは当時お兄ちゃんと呼んでいたが)がこんな話をして、エミを笑わせたことがある。
「2階に二間あるやろぅ、夫婦は上やった。えらい2階で滅多にない口喧嘩や。そのうちバタバタ、ドターンと音がして、誰が階段を転がり落ちてきたと思う?親父や。それから親父ら夫婦は下の一間を使い、俺が2階の二間を使うことになったのや」
お陰で、エミはこの夏、2階の一間、4畳半を使えたのである。この夏休みは、エミにとって忘れられないことだらけの休みだった。
エミは〈つかはん〉の新開地散歩によくお供をした。新開地は天井川、湊川が付け替えられた跡に出来たものである。神戸は六甲山系から流れるこれらの川が作った扇状地の上に出来た街で、神戸の川は殆どが天井川で、このため、度々洪水に悩まされ(代表的なのが1932年の神戸大水害)、川を付け替えたり、最初、官営の鉄道を通すにも墜道を作ったりと、色々と苦労し、ある意味川との戦いの歴史でもあった。
散歩コースは決まっていた。家から湊川トンネル横を越して、神有電車*の湊川駅の前を通り、馬に跨った楠公像のある湊川公園に出る。そこで、詰将棋の一団を覗いたあと新開地通りに入り、タワーそばの温泉劇場に行く。普段は風呂だけだが、たまに観たい映画がかかっている時は、映画券付きの入浴券を買う。映画代がただみたいに安いのだという。
貸タオルがあって、エミも入ったが、天井が高く、浴槽が一杯あって、お湯もふんだんにあって、まるで温泉みたいだった。伯父が毎日ここに来る理由が分かった。温泉劇場を出て、春陽軒に立ち寄る。「エミちゃんここの豚まんは有名なんやで」といって、生ビールの中ジョッキーを伯父は一杯注文する。エミは豚まんより、店頭にあるコーンに渦巻きになったソフトクリームが楽しみであった。
帰りは、店を出て、聚楽館*の前を通って、家に着くというコースであった。聚楽館の前を通るときは、この建物のいきさつを伯父はいつも話した。
「こんな歌があるのや『ええとこ、ええとこ、聚楽館。悪いとこ、悪いとこ、松本座』悪いとこの意味は安いとこという意味や、出来たての時は東の帝国劇場に負けへん建物やゆうて、かかるのも歌舞伎や一流のもんばっかりで、庶民はいけなんだ。庶民は安い松本座で我慢という羨望の歌や。聚楽館が華やかりし頃が新開地も全盛やったなぁー」と、戦前の新開地を懐かしげに語った。
母の話によると、伯父は若いときに活動写真の弁士になりたくて神戸に出てきていたが、そんな極道な仕事はダメと父親に島に連れ戻されたそうだ。
演芸場や映画館が一杯あって、今でも華やかで賑やかしいのに、戦前はどれだけ華やかだったろうかと、エミには想像出来なかった。今の聚楽館は上にアイススケート場があって入れた。勝治が連れて来てくれたのである。淡路にはアイススケート場なんてなかった。最初は怖かったが、勝治に手を引っ張ってもらって滑って、何回か尻餅をついて、やっと滑れるようになった。
「エミちゃんは運動神経抜群やなぁー、一日で滑れるようになる子はそういてへんで」と褒められて、「今度はウチがお金払うから」とその後、二回連れて来て貰った。お金があったら毎日来たいほどに思われた。映画も良子さんに、この聚楽館に一回連れて来てもらった。エミにはもはや聚楽館は敷居の高い所ではなかった。
伯父といつもの新開地散歩に出かけた。その伯父が何時もの店で生中を注文し、エミがソフトクリームを舐めていたとき、いつにない2杯目を注文して、「エミちゃんよ、お父さんを恨んでるかい?」と訊いてきた。
エミは不意を突かれた格好だったが、ソフトクリームを舐めながら、頷いた。
「そうかい、せやろな。で、お父さんのことは思い出すかい?」
「うん、思い出すけど、最近忘れている時の方が多いねん」と、エミは申し訳なさそうに答えた。
「それでええ。100%忘れられたら寂しいけどなぁー。あのな、3年程前にな、新開地でバッタリお父ちゃんに会ったのや。女の人も一緒やった。この近くの大衆演劇の木屋に出ていると云ってな、身なりも綺麗やったし、木屋を見にくるかと誘われたけど、女の人に別段興味があったわけでなし、それであくる日、新開地の居酒屋で会うことにしたのや」
突然の話にエミは手にしていたソフトクリームを落としてしまい、伯父は豚まんを注文した。一言でも聞き逃すまいとエミは伯父の話に聴き入った。
「お父ちゃんは、久しぶりの神戸やと云ったあと、『家のもんは元気しとりますか』と訊いてきた。『敏江さんも、エミも、義晴も元気でやってます。親はのうても子は育つですなぁー』と、皮肉も交えて答えたんや。賢三さん、それを聞いて『耳の痛い話しどす』ゆうて、涙をポロと流して、会うたことは内緒にしといて下さいと頼みはった。『エミは確か今小学校5年か6年の筈なんですが・・』と訊いてきはった。賢三さんは一日も子供のことが忘れられへんねんやと思った。エミちゃん、分かっていてもどうにもならんことがこの世にはあるねん。大きいなったら分かる時があるやろぅけど・・」と云ってから、伯父は伝票を持って立ち上がった。
エミの皿の上にはまだ齧りかけの饅頭が残っていたが、水を一口飲んで、伯父に続いて立ち上がった。帰り道、「お母ぁーちゃんには絶対内緒やで、顔には出さんけど、あれかて淋しいて、それをどこに持って行ってええのか分からん時かてある。そう思ってやってくれんか」と伯父は言った。
エミは恥ずかしかったけど、娘のように〈つかはん〉の腕に手を回した。
「えらい、若うて綺麗なべっぴさんと腕を組むなんて、何十年振りやろぅー」と〈つかはん〉は照れ臭そうに笑った。
注釈と資料
神有電車:神戸電鉄、1928年(昭和3年)湊川~有馬温泉で開業。同年三田まで開通。現在、新開地駅で神戸高速鉄道につながる。
聚楽館:1913年(大正2年)帝国劇場をモデルに建てられた。昭和2年から映画の常設館となり、昭和53年閉館となった。新開地のシンボル的存在であった。
6 『遠矢浜に海水浴』
昼間、部屋で所在なげにしていたら、勝治が「エミちゃん泳ぎに行けへんか」とふすま越しに声がした。隔てるものは襖1枚である。勝治は開けるときは「エミちゃんええか」と声をかけてから開けるが、エミは声もかけず、一度「お兄ちゃん」と襖を開けたことがある。勝治は大事な所をおっぴろげて、団扇で扇いでいる最中であった。「ごめん」と云って直ぐに閉めたが、恥ずかしさと、いけないものを見てしまった思いで、エミの心臓は激しく波打った。
「エミちゃんごめんな、陰金田虫知ってるか、あれやねん。そのチンキが効くけど、やたら沁みるねん。すまん、ごめん」と、しばらくして勝治が襖越しに声をかけて来た。
「悪いのはウチや、声もかけんと、大事なもの見てしもうて」と答えると、
「ギャハハ、大事なもんか。ギャハハ、せやなぁー」と勝治の笑いで、エミは救われた。それからは暑いけど、襖は開けずに話しをすることになった。扇風機が1台、不要の出費となった。
「須磨まで行くんか」
「いや、近くに泳げるとこがあるねん」
行ったところが、遠矢浜であった。兵庫区内の三菱電気裏にあって、自転車の二人乗りで出かけた。太平記の本間孫四郎遠射の浜からついた名前だそうだが、そんな人をエミは知らない。まだ砂浜を残した浜だった。家から水着をつけて来ていたが、裸になった勝治は青年らしくなった筋肉をしていて眩しかった。それに比べて、エミはまだいくらも膨らんでいない水着姿が少し恥ずかしかったが、最初だけで、水の中に入ると、淡路の大浜のように遠慮がなくなった。
追いかけっこや、持って来たタイヤ浮き輪で遊んだ。勝治は砂浜で休憩し、持ってきたジュースを飲みながら将来の夢を語った。「親父は陸(おか)の運転手やろぅ、俺は海の運転手、小さい船でもええ、船長になって運転するんや。神戸の海が大好きやねん」と。
エミには浮き輪に浮かんで海から見る白い神戸の街は、まるでおもちゃの街のように見えた。この浜も昭和40年、臨界工業地帯計画で埋め立てられ、砂浜を失った。
エミは花子に手紙を書いた。花子からすぐに返事が来た。
《お手紙ありがとう。神戸の楽しい様子がわかり安心しました。おばさんが「知りませんか?」と聞きに来たときは本当、びっくりした。大人しいエミもやるときはやるんや、と思いました。私でもようせんことをね。伯父さんとこやと聞いて安心しました。私も直ぐに神戸に行こうと思いましたが、こんなときに限って、いけずママが夏風邪こじらして入院で、店は長いこと休むわけにもいかず、若いわがまま娘が臨時ママで私はその下で、女中となってこき使われて、散々な夏休みを送っています。エミと一緒の色々と楽しい遊びを考えていたのにぃー、エミのいない淡路は私にとって火の消えた島で、こんな寂しくつまらないことはありません。早く帰ってこー。泣いている花子より》と大粒の涙を流し、口をへの字にした漫画の絵が添えられていた。花子の友情が素直に嬉しかった。
須磨の伯母も心配して来てくれて、滅多にない金額のお小遣いを置いていってくれた。夏休みもお終り近い日、母が迎えに来た。母の顔を見たとたん、エミはしがみついて泣いた。まるで幼稚園児のように、あたりはばからず大声を上げて、泣いた。
「なんやろね、この子はええ歳して」と云った母も泣いていた。その晩、母と一つ布団で寝て、あくる日、須磨の伯母の所に挨拶を入れて、明石からフェリーで岩屋に渡った。こうしてエミの夏休みは終わったのだった。
あの夏休みから思うと、エミは自分がずいぶんと大人に近くなったのだと思った。あれ以来である。三角公園のとこまで来て、播政市場の入口が見えたとき、これから暮らす神戸に胸がときめいた。〈つかはん〉は元気やろか、良子おばさんの蒲鉾屋さんは繁盛しているやろか、既に学校を出ている勝治兄さんは、船に乗ってるのやろか、5年ぶりの神戸の思いがエミの胸を熱くした。
『神戸ファッション物語』 https://kakuyomu.jp/works/4852201425154976266/episodes/4852201425154976277
新開地物語 北風 嵐 @masaru2355
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