第3話 行き着く先

 酒楼の二階を貸し切って舞台をしつらえ、酒や料理を振る舞う中、寂柑はあちこちに挨拶回りで忙しかったが、会場の隅で春応が退屈そうにしているのをしっかり見つけた。見てろよ、と胸のうちで呟く。

 座が温まったところで、楽団が舞台の裏に揃い、香が焚かれた。白から濃紺へ移り変わる薄絹を重ね、銀糸で龍の刺繍をほどこした衣装を身につけた人形が舞台に登る。それだけで場の空気がぴんと張り詰めるようだった。

 伴奏が始まり、人形はゆっくりと秀麗な面をあげた。なかば伏せた深い闇の瞳で場を見渡し、袖を押さえて卓上の酒器をとる。ひと息にあおる。肺を持たぬ人形が長く息をつくのが、見えた。

 戯胡の音色に誘われるように人形が立ち上がり、名乗りの歌を歌いはじめる。その深遠ながらも硬質で美しい声が響くと、観客がざわついた。何か異様なものを感じて、寂柑は眉をひそめる。ざわめきは舞台が進むごとに静まり、観客が一様に人形に見入っているのがわかった。

 舞台の上で演じ終えた人形が眠りにつき、伴奏の余韻が消えると、会場の向こうで椅子を蹴って立ち上がる者があった。目をやると、春応である。呆然と目を見開き、唇を震わせている。

「……七星しちせいさま……」

 静まり返った会場に、春応の呟きは思いがけず大きく聞こえた。再びざわつく会場を、春応はよろめきながら舞台に向かってくる。

「七星さま、七星さまの声だ……! 顔も、姿も、あの頃のまま……!」

 舞台に取りすがろうとする春応を寂柑が飛び出して取り押さえる。春応の体には全く力が入っておらず、簡単に押さえることができた。観客のざわめきがしだいに大きくなる。

「やはり、程七星ていしちせいだ」「雷春応が言うのなら間違いない」といったささやきが飛び交う。程七星の名は寂柑も何度か聞いたことがあった。都で名高い役者だったはずだ。近頃は噂を聞かなかったが……。


 寂柑の作り上げた人形は「程七星の声で歌う」という評判を得てますます注目の的となった。寂柑は知らなかったが、都で離散した劇団とは程七星の劇団であり、春応は彼専属の楽士だったのだという。程七星は行方知れずで、一説によると庇護を受けていた大臣が失脚したあおりで毒をんで死んだとも言われている。

 失われた名優の声を再現したとあって、人形の引き取り手に名乗りを上げたのは寂柑の父だった。父は今までと態度を一変させてたびたび寂柑に使いをよこし、しつこく人形を買わせてくれと頼みこんできた。使いの頭は日に日に低くなり、積み上げられる銀は日に日に高くなる。しかし寂柑は首を縦に振らなかった。人形とともに寂柑も家に戻るよう、という主張を父が変えなかったからだ。今まですまなかった、これからは親子として共に暮らそう、と使いを通して謝りさえしたが、したたかな人のことだ。どんな魂胆かわかったものではない。

 工房に月の光が影を落とす中、寂柑はひとり人形と向き合っていた。寂柑は家に戻って何不自由ない暮らしをしたいのではない。人形は静かに座っている。あんなに心血を注いだ造形が、なんだかよそよそしく見えた。

「あなたの声はすばらしい」

 寂柑はひとりごちる。

「でも、あなたは程七星のにせものだったのか……」


 春応は金枝楼を出る支度をしていた。突然現れた寂柑を見て驚いた顔をする。

「どうした? まだ家に戻る決心がつかないのか?」

 春応の言葉に、寂柑は苦いものが口の中に広がるような思いがした。春応も楚家に招かれているのかもしれない。それでも、思い切って口を開く。

「家には戻らない。わたしはこの街を出て、新しい工房を作りたいの」

 はっきりとそう告げると、春応は見知らぬ国の言葉を聞いたような顔をした。

「正気か?」

「あたりまえです。ここにいても、あの程七星人形に縛られるだけ。悪くすると一生実家から出られない。わたしはもっと新しい人形を作りたいの。まだ見たこともない、聞いたこともない声で歌う人形を」

 今度は春応が苦い顔をした。

「……お前も捨てるのか」

「え?」

「一度失われたものを取り戻すことができたのに、また捨てるのは愚か者だ。作り手のお前が、あの二度とない人形を捨てるというのか!」

 声を荒げる春応に、一瞬ひるんだ寂柑も唇を引き結ぶ。

「確かにもう一度同じものは作れない。だからこそ、次を作らなければ。わたしはあなたの力を借りたいの。都をよく知るあなたに、歌を教えてほしい」

 そう言葉を重ねるが、春応は眉を逆立てて寂柑をなじった。

「ふざけるな! お前が捨てても、俺が捨てられるものか。俺は七星さまのために奏でると決めたのだ」

 寂柑は小さくため息をついた。このまま説得を続けても無意味だろう。そしてここを去れば、春応が楚家に告げ口し、力ずくで家に連れ戻される可能性がある。急がなければ。

「わかった。今日は家に戻ります」

 そう言い残し、寂柑は家には戻らず小さくまとめた荷物を負ってすぐに街を出た。

 

 戸口に現れた姿に、春応は目を疑った。

 髪で隠した顔の半分はひどく傷つけられ、見る影もない。だが見間違えるはずもない。彼の主人、程七星だった。

「やあ」

 短く漏れた声でもはっきりとわかる、七星の、この世の宝である声は永遠に失われた。ひどくしわがれ、苦しげで、おそらく息も長くは続かないだろう。愕然としながらも、春応は彼の前にひざまずいた。

「再びお会いできるとは思いませんでした……! 七星さま、よくぞご無事で……」

「無事、か。お前にそう言われるとはね」

 皮肉げにこぼされた呟きに、春応の胸は絞られる。七星は二度と舞台に立つことはできない。それを無事とは言わないだろう。舞台の上に生きた人なのだ。

「ねえ春応、あの人形はすばらしいね。見事に私の声を再現してみせた」

 あの人形、が何を指すかは明らかだった。春応は何も言えずにうつむく。

「私はね、あの人形が憎くてたまらないよ。いまや私の声はあの人形のものだ。お前もあれのために奏でるのだろう? あれは私ではないのに」

 春応は弾かれたように顔をあげる。大きく残る傷跡のせいで引きつった七星の顔は、薄く微笑んでいた。

「私は二度と歌えないのに、あの人形が私の声で歌うのだ。ぞっとする。打ち壊してしまおうか」

 かすれてひび割れた声で、それでも歌うように軽やかに紡がれる言葉に、春応は両手をついてうなだれる。

「打ち壊すならば、どうぞこの春応もともに殺してください」

 震える声を絞り出す春応の髪をつかみ、七星は春応の顔をあげさせた。

「お前は何も失っていないのに、私に殉じようというのか」

 冷たい底無しの闇に見つめられ、春応は小さく首を横に振る。

「いいえ、俺はあなたを失ったのです。奏でる意味を」

 七星は驚くほどの力で春応を投げ倒す。力なく床にうずくまった春応を見下ろし、吐き捨てた。

「意味など、自分で探せばいい。お前は私のものではない」


 寂柑は足場の悪い道を急いでいた。慌てて出てきたから、日が暮れるまでに人里にたどり着けるかわからない。あたりは暗くなってきていた。西に行くにつれて道は山がちになる。見通しも悪く、獣が出てもおかしくない。

 にわかに乱れた足音がして、道を複数の男にふさがれた。山賊だ。

「……金目のものは何も持っていません」

 両手をあげると、山賊は品定めするように寂柑を眺める。

「そんなに体は良くねえが、顔はまずまずだな。背が高いのは着飾れば見栄えがするぜ」

 じり、と間合いを詰められて、寂柑は歯を食いしばった。ここまでか、と思いかけたとき、遠くから馬蹄の音が聞こえてきた。山賊がそちらに気を取られた隙に駆け出し、道の脇の物陰に隠れる。

 ひゅっ、ひゅっと矢羽根が空を切る音がして、山賊がひとりまたひとりと矢を受けて倒れた。馬上で弓を構える春応の姿が見え、残り数人になった山賊は慌てて怪我人を拾って逃げ出した。馬を止めて降りた春応の前に、寂柑は物陰から這い出す。

「助かった……」

 春応の手を借りてよろよろと立ち上がる。春応は気まずそうにしていた。

「遅くなってすまなかった」

 寂柑はまじまじと春応の顔を見る。春応はたちまち不機嫌そうな顔になった。

「何を見ている」

「いや、謝れるんだなあと思って……」

「馬鹿にするな。礼儀くらいはわきまえている」

「人間相手にはね。これからはわたしのことも人間扱いできるようになってね。一緒に来てくれるつもりなら」

 そう言うと、春応はぐっと言葉に詰まる。

「……ともに行くつもりだ。何をすべきかはわからんが、お前の役に立てるなら」

 春応が噛みしめるようにそう言うと、寂柑はなんだかほっとして大きく息をついた。道は険しいが、きっと行き着く先は悪くない。

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人形はうたう 伊藤影踏 @xiaoxiaoque

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