第13話

十月四日金曜日~十月七日月曜日


 金曜日の夕方、私は校舎を出ようとする龍崎先生を待ち伏せし、偶然を装って背後から声を掛けた。

「先生、ちょうどよかった。お話があるんですけど」

 龍崎先生が、驚いた様子で振り向いた

「高畑君か。君から声を掛けてくれるとは珍しい。で、用事とは何かな」

「婉曲に申し上げるのも何ですので、単刀直入に申し上げます。私、一度でいいですから、龍崎先生のレッスンを受けてみたいのです」

 龍崎先生の表情が、ぱっと明るくなったのが、私にはわかった。龍崎先生が、以前から私に対してレッスンをしたがっている事実を、私は知っていた。

「なるほど。それは光栄な話だ。ところで、佐伯先生には、その話を通してあるのかな。私が、佐伯先生から君を取り上げたなんて話になっては敵わないからな」

 龍崎先生はそう言いながらも、まんざらでもない表情を隠そうともしない。どこまでも厚顔無知な男だ。

「正式に龍崎先生のレッスンを受けるというお話ではありませんので、まだ佐伯先生にはお話ししていません。正式に龍崎先生のご指導を仰ぐかどうかは、一度、ご一緒させていただいたうえで考えさせていただけませんか」

 私は、ちょっと恥ずかしそうな表情を演出しながら、龍崎先生の表情を観察する。

「わかった。で、今すぐにでもはじめたほうがいいのかな?」

「いいえ、今日はもうこんな時間ですので、日曜日は如何ですか。先生には、私の好きなコーヒーも淹れて差し上げたいですし。先日、先生に淹れて差し上げようと思って、行きつけのお汁粉屋で美味しいコーヒーとその淹れ方を教えてもらったんです。コーヒー、お好きですよね」

 龍崎先生に飲んでもらうためというのは、嘘ではない。ただし、睡眠薬といっしょに飲んでもらうためだ。龍崎先生は、一瞬考える素振りをすると、勿体を付けながら答えた。

「いいだろう」

 龍崎先生が、もともとコーヒー好きであると誰もが知っていた。龍崎先生の教員室には、コーヒーミルやドリッパー、ポット、サーバーまで、コーヒーを入れるための道具が一通り揃っていることは、周知の事実だった。

 ただ一つの心配事は、コーヒーに並々ならぬこだわりを持っている龍崎先生に、私が淹れるコーヒーを飲んでもらえるのかどうかだった。しかし、どうやら龍崎先生の態度を見る限りでは、飲んでもらえそうな雰囲気だ。

 私は、そっと胸を撫で下ろした。

「で、何時頃がいいのかな」

 龍崎先生は、右手で自分の顎を撫で回しながら、私に尋ねる。

「午前十時に先生の教員室というのは如何でしょう。正式なレッスンではありませんし、他の人に見られて有りもしない噂を立てられるのは不本意ですので、できるだけ人目に付かないようにお願いしたいのです」

「わかった。いいだろう」

 その時の、龍崎先生の嫌らしい笑顔は、今でも忘れられない。


         *


 日曜日の午前十時。

 私は、約束通りの時刻に、龍崎先生の教員室を訪ねた。ノックをすると、中から「はい」と返事があり、すぐにドアが開いた。

 龍崎先生は私を招き入れると、私の後ろに素早く回り込み、ドアに鍵を掛けた。

「いらっしゃい。待っていたよ」

 龍崎先生は、部屋の奥にある椅子にどかりと腰を下ろすと、両手を組みながら、私のほうを向いた。

「すぐに、レッスンをはじめるかい」

 私は、頬を赤らめて、斜め下を向く。

「そんなに急がないでください。先日も申し上げましたけれど、先生に取って置きの美味しいコーヒーをお持ちしたんです。まずは、コーヒーを淹れさせてください。レッスンはその後ということで、よろしいでしょうか」

 私の言葉に、先生は椅子にふんぞり返ったまま、小さく頷いた。

 私は、先生の反応を確かめると、部屋の片隅にある小さなキッチンの右側に置かれた、ステンレス製のポットを手に取った。

「ポット、お借りしますね。あ、ガスコンロも」

 小型浄水器が取り付けられた蛇口からポットに水を注ぐと、キッチンの左側にある小型ガスコンロの上に置き、火を点ける。点火を確認した後、バッグから豆の入った袋を取り出し、中の豆を傍らのコーヒーミルに入れた。

 豆は昨日の夕方、三日月屋で購入した。三日月屋は、お汁粉屋と名乗ってはいるものの、ご主人のコーヒーに対する思い入れが半端ではない。自分の目で見たうえで納得のいく豆だけを仕入れ、店で専用の焙煎機を用いて焙煎している。

「今から豆を挽きますので、ちょっと待っていてください」

「手伝わなくていいのかな」

 先生の、品定めをするような冷たい視線を、背中に感じた。

「いえ、大丈夫です。家で時々やっていますので」

 コーヒーミルのハンドルを回すと、ガリガリと音を立てながら、豆が中央の隙間に飲み込まれていく。その様子は、まるで蟻地獄のようだ。

 豆を一通り挽き終わると、ドリッパーにフィルターをセットし、ガラス製のサーバーの上に置いた。

 ドリッパーは円錐形のハリオ式。中央に大きな穴が一つ空いているのが大きな特徴で、コーヒーの成分をしっかりと抽出できる。

 コーヒーミルの引き出しを開けると、フルーティな香りが部屋の中に広がった。

「いい香りだ。何という豆なのかな」

 龍崎先生が、深く息を吸い込んだ。

 私は顔を上げ、目の前の窓ガラスに視線を移す。ガラスの中に、椅子に腰掛けたまま、品定めをするような目付きで私の後ろ姿を見詰める龍崎先生の姿があった。

「ブラックアイボリーです」

 私は、後ろ姿のままで答える。

 ブラックアイボリーは、三日月屋のご主人お勧めの逸品だ。コーヒーの実を食べさせたゾウの糞から採取するという珍しい製法が特徴の、タイ産のコーヒー豆という話だった。

 先生は、銘柄を聞いただけで「おお」と驚きの声を上げた。

「コーヒー豆の中でも最高級の部類に入るといわれる、幻のコーヒーだな。フルーティな味わいが特徴だ」

 以前、三日月屋で一度だけ飲ませてもらった。

 確かにフルーツのような香りの中にしっかりとしたコーヒー本来のテイストが感じられる、逸品と呼ぶにふさわしい味わいのコーヒーだった。

「さすがは龍崎先生。よくご存じですね。先日もお話したお汁粉屋のご主人に、勧めていただいたんです。でも、先生のお口に合うかしら」

 龍崎先生には申し訳ないが、これが先生にとって最期の飲み物だ。だからこそ、失礼のないように、迷わず最高級の銘柄を選んだ。いわば、はなむけだ。

 コンロの上にあるステンレス製のポットからは、静かに湯気が立ち上っている。私は、フィルターの中に二人分のコーヒーを入れると、ゆっくりとポットのお湯を注ぐ。

 粉が蒸れるのを待ちながら、龍崎先生に問い掛けた。

「もし、私が正式に先生のレッスンを受けると決めたら、佐伯先生はどう思われるでしょうか」

 龍崎先生は椅子から立ち上がると、私の後ろ姿にゆっくりと近付いた。

「どうもこうも、君が決めた話だから、佐伯先生にはどうしようもないのではないかな」

 龍崎先生の右手が、私の右肩に触れた。

「それに、佐伯先生は、私には逆らえないのだよ」

 瞬間、私の中で嫌悪と憎悪の念が沸き上がった。今にも爆発しそうな感情を押し留めながら、尋ねる。

「どうして、佐伯先生は龍崎先生に逆らえないのですか」

「それはまあ、大人の事情という奴だ」

 私の心の中にある憎悪の感情が、ドクンドクンと音を立てながら急速に成長した。

 何とでも言うがいい。間もなく、そのような無責任で残酷な言葉を発する行為は二度とできなくなるのだから。

 ――あなたは、自分でも気が付かないうちに、地獄の門をくぐるのだ。

 蒸らし終わったコーヒーに、ポットのお湯をゆっくりと回すように注ぎ入れる。フィルターの最下端から、透明感のある茶色い液体が細く長く滴り落ちる。

 私には、その液体の形が、首吊りの紐のように見えた。

「先生、そんなに近くで見られたら、緊張してしまいます。どうぞお座りになっていらして」

 感情を押し殺した言葉を向けると、龍崎先生は「あ、ああ」と頷き、慌てたように席に戻った。

 私は、龍崎先生が愛用するカップを手元に引き寄せ、ポケットに忍ばせていた白い粉を、すばやくカップに入れた。

 続いて、手にしたサーバーを傾け、淹れたばかりのコーヒーを静かに注ぎ入れる。

 これが、先生が口にする、最期の飲み物なのだ。そう考えると、歓びと緊張が入り混じった不思議な気持ちに襲われて、心臓の鼓動が早くなった。

 私は、心臓の鼓動を抑えながら、カップの底の白い粉が徐々に消えてゆくのを、ただじっと眺めていた。


         *


 その後、私たちはコーヒーカップを片手に、古典派やロマン派の魅力について語り合った。話している間にも、龍崎先生の反応は少しずつ鈍くなり、やがて三十分と経たないうちに、静かに眠りに落ちた。

 思ったよりも効き目が早かった。静かに寝息を立てる先生の横で、私は立ち上がり、すぐに作業をはじめる。

 まず、意識のない龍崎先生の体を椅子から下ろし、防音室へと引き摺っていく。ズボンが汚れないように、念のため、尻の下にはごみ収集用のビニール袋を敷いた。

 思ったよりも障害物が少ないのが、不幸中の幸いだった。

 何度も机やドアの角にぶつけながら、何とか防音室まで運び込んだ時には、龍崎先生が意識を失ってから十分もの時間がたっていた。

 続いて、鮪のように横たわったまま身動き一つしない龍崎先生の体に、あらかじめ用意していた食品ラップをぐるぐると巻き付けていく。

 最初は下半身。足を上げながら、膝からふくらはぎにかけて、念入りに巻いていく。

 先生が目覚めてから殺害を実行に移すまでの間に、振りほどかれ、逃げられては、全ての計画が台無しだ。かといって、きつく巻き過ぎては、死亡後に拘束の形跡が残ってしまう。

 私は、きつからず、緩からずを心掛けながら、丁寧に、丁寧に作業を進めた。

 下半身が終わったら上半身に取り掛かるが、下半身よりも重い上半身を持ち上げながら巻き付けるのは、容易ではない。

 試しに、起こした上半身を部屋の隅の部分に寄り掛からせてみると、思ったよりも巻き付けやすくなった。

 食品ラップを巻き終わったら、今度は龍崎先生の尻の下に、シリコンでできた座布団型のエアジャッキを、ガムテープで固定する。ネット通販で二個三千円ほどで購入した便利グッズだ。

 そのまま、壁に取り付けられたフックの下まで引き摺って運ぶ。

 龍崎先生は決して大柄な体格ではないが、それでも私は普通の女子高生だ。しかも、食品ラップを巻き付けたせいで、脇の下に手を入れられない。フックの下に運ぶまでには、防音室に運び入れる以上の体力を要した。

 運び終わった龍崎先生は、壁に背中を付けて、くの字になった状態で横たわっていた。

 私は、横たわっている龍崎先生の上半身を、壁に寄り掛かって座っている状態になるように横から抱き起こし、倒れないように二脚のピアノ用の椅子で支えた。ちょうど、龍崎先生の上半身が、左右から椅子に挟まれる形になった。

 椅子が動いたり、龍崎先生の上半身が前に倒れたりしないように、左右の椅子はマジックテープがついたベルトでしっかりと連結した。これで、少々の衝撃では倒れないはずだ。

 先生の上半身が倒れないことを確認した私は、エアジャッキを固定しているガムテープを剝がす。

 試しに、ジャッキ本体に取り付けられている卵型のポンプを押してみた。龍崎先生の上半身が、ほんの少し、持ち上がった気がした。

 続けて、何回か押してみる。押す度に、先生の上半身が持ち上がっていくのが、今度ははっきりとわかった。

 さすがは、百㎏の荷重に耐えられると謳っているだけのことはある。頼もしい。

 持ち上げられる高さは、一枚で十㎝弱。二枚重ねているから、最終的には合計で十五㎝ぐらいまでは持ち上がるはずだ。そんな計算をしながら空気を入れ続けていると、ほんの数分後には予定通り、龍崎先生の上半身が十五㎝ほど持ち上がった。

 ここまで終えてしまえば、ゴールは近い。私は、ふうと大きく息を吐いた。

 気が付くと、私の腕は筋肉疲労でパンパンに張っていた。

 しかし、休んでいる暇はない。私は肩で息をしながらも、あらかじめ用意していた紐を先生の首に巻き付け、長さを慎重に調節しながら壁のフックに結び付ける。

 ようやく作業を終えた時には、作業をはじめてから一時間近くが経っていた。

 最後に、先生の口に猿轡を噛ませる。

 これで、準備は完了だ。

 あとは、龍崎先生が覚醒し、体内の代謝によって睡眠薬の成分が抜けるのを待つだけ……。

 使ったのは、インターネットで手に入れた超短時間作用型の睡眠薬だ。

 遺体発見後、事件性がないと判断されれば尿や血液の検査はおこなわれないだろうし、もし検査がおこなわれたとしても、代謝速度が速い超短時間作用型の睡眠薬なら、摂取から一日経っていれば検出される可能性は低い。

 しかも、仮に検出されたとしても微量だから、先生の死との因果関係を疑われる事はないだろう。

 ――可哀想な龍崎先生。

 でも、全ては龍崎先生自身が蒔いた種だ。

 私は、意識がない龍崎先生の頬を右手でそっと撫でると、先生の前頭部にそっと額を押し当てた。


         *


 月曜日の朝、私は午前六時五十分に登校した。

 誰にも見られないように注意しながら、第三校舎の階段を上がり、龍崎先生の教員室に向かう。幸い、校内にはまだ人気はなく、誰にも見られずに教員室に辿り着けた。

 防音室に入ると、龍崎先生は昨日と同じ姿のまま、エアジャッキの上に座り込んでいた。

「おはようございます」

 私が声を掛けると、龍崎先生はゆっくりと首を回し、顔だけをこちらに向けた。

 一日の間に、随分と体力を使ってしまったように見えた。きっと、ひとしきり脱出を試みたのだろう。

 いや、ひょっとしたら、体よりも心のほうが疲れてしまっているのかもしれない。

 一晩、漆黒の闇の中で、自分の罪と向き合ったためか。それとも、刻一刻と近付いてくる死の恐怖が、心をすっかり摩耗させてしまったためか。

 私には、どちらでもよかった。私は、できる限り優しい声で話し掛けた。

「先生、申し訳ありません。私もこんな行為はしたくありませんでした。でも、先生が悪いのですよ」

 恐らく、これが私たちにとって最期の会話になる。最期ぐらいは、穏やかな会話とともに見送ってあげたい。

 龍崎先生は、いよいよ最期の時が近付いている事実を悟ったのだろう。食品ラップに包まれて自由を奪われている足をバタバタと暴れさせ、頭部を上下左右に激しく振った。

「暴れても無駄ですよ。ここは先生がご自分のためにつくられた、防音室の中なんですから」

 猿轡の奥から、「ウウーッ」という唸りにも似た声が聞こえた。

 私は、先生を左右から支えていた二脚の椅子を、手早く片付ける。

「さようなら、先生。今まで、有り難うございました」

 私は別れの挨拶を口にすると、龍崎先生の尻の下に敷かれているエアジャッキの弁を静かに開いた。シューッという音とともに、先生の上半身が、少しずつ沈んでいく。

 緩んでいた紐が徐々に緊張しはじめる。

 同時に、先生の全体重が、徐々に気管と頸動脈に集中していく。

 龍崎先生の首が、重力に逆らって、上へと引っ張り上げられているように見えた。

 やがて、紐は限界まで張り詰めた。

 龍崎先生の口から「ウーッ」という小さな声が漏れた。

 先生の全身の、筋肉という筋肉が緊張するのがわかった。体全体を、ググッと大きくくねらせる先生。

「無駄な抵抗ですよ。先生ったら、本当にお馬鹿さんなんだから」

 体をくねらせる度に、紐はより強固に首に食い込んでいった。

 先生の姿が物凄く滑稽に思えて、私はクスリと笑った。笑いながら、先生の頭に腕を回して、素早く猿轡を外す。

 大きく見開かれた龍崎先生の目が、私の顔を正面から捉えた。白目は、既に真っ赤に充血している。白目の中央にある真っ黒な瞳に、私の姿が小さく、しかしはっきりと写り込んでいた。

 だらしなく開かれた口からは、悍ましいナメクジのような舌がぶら下がっている。舌の奥からブクブクと小さな泡が湧き出し、上半身を包んでいる食品ラップに垂れ落ちた。

 最初はとても力強かった龍崎先生の動きが、少しずつ弱まりはじめていた。

 やがて、龍崎先生は全く動かなくなった。

 今にしてみれば、ほんの数分のできごとだったと思う。しかし、その時の私には、先生が動かなくなるまでの数分が、数時間もの長い時間に感じられた。

 私は、動かなくなった先生の肉体を確認すると、食品ラップと肉塊の間にできた僅かな隙間にハサミを入れ、食品ラップを素早く切り開く。

 私は、微かな異臭に気が付いた。龍崎先生は、失禁していた。

 ――最期まで、何て汚らしい。

 私は、思わず眉をひそめた。

 気が付くと、午前七時十五分を過ぎていた。

 ――急がなければ。

 私は切り開いた食品ラップを先生の体から剥がし取り、鞄の中に入れた。

 続いて、尻の下に敷いていたエアジャッキをビニール袋に入れて鞄に詰め込む。

 最後に、睡眠薬の容器を先生の机の引き出しの一番奥に入れると、何事もなかったかのように教員室を後にした。

「さようなら、龍崎先生」

 私は、教員室を振り返らずに、小さく呟いた。

 第一校舎の横を回り込み、校門に面した玄関前に向かう。玄関前には、既に多くの生徒たちが集まっていた。

「おはよう」

 私は笑顔をつくり、生徒たちの輪の中に入っていった。




十月二十六日土曜日


 控室には、高畑先輩と私、佐伯先生、そして、ついでに啓太がいた。

「そういえば先生、さっきは話すのを忘れたんですが、防音室のドアの横に落ちていた高畑先輩のペンは、遺体発見時の写真には、写っていませんでした。先生は、遺書を置くと同時に、高畑先輩による犯行の証拠になりかねないペンを回収したんですよね」

 もし、遺体発見時にもペンがその場にあったのなら、警察が気付いて高畑先輩をマークしたはずだ。しかし、高畑先輩が警察に疑われていた様子はない。

 恐らく、佐伯先生がペンを持ち去ったのだろう。

 そう考えた。

 しかし、佐伯先生の答えは、意外なものだった。

「いや、私が龍崎先生の教員室に入った時、そんなペンは落ちていなかったと思うが」

 私は驚いて、佐伯先生の顔を見た。芝居ではなく、本当に驚いているようだった。

 第一、この期に及んで嘘をつく必要など、先生にはないはずだ。

 ――じゃあ、いったい誰が?

 混乱する私の脳裏に、ある場面が思い出された。

 学生食堂で、由紀のために高畑先輩からサインをもらおうとした場面だ。

 ペンがなくて困惑している高畑先輩に、啓太がペンを差し出した。

 ――ピンク色の水玉模様のペン。

 それは、防音室のドアの横に落ちていた、高畑先輩のペンと同じものだった。

 そしてその時、啓太は高畑先輩に対して、確かにこう言った。

「俺は先輩の力になれるだけで、光栄なんです」

 ――そうだったのか!

 私は三人を見渡し、動揺を気取られないように、落ち着いた表情を一生懸命に演出する。

 ともすれば動転しそうになる気持ちを抑えながら、口を開いた。

「ペンを回収した人物、それはアンタだったのね、啓太」

 啓太は一瞬、ぎょっとしたように目を見開いたが、次の瞬間、躊躇いがちに頷いた。

「啓太、覚えてる? 私が学生食堂で高畑先輩にサインをお願いした時、アンタが出したペンは、まさに防音室のドアの横に落ちていたものと同じペンだった。今日会った時、アンタは高畑神社には行った経験がないって言ってたよね。なのに、学生食堂で高畑神社のペンを持ってたのは明らかにおかしい。啓太、アンタは私と一緒に龍崎先生の教員室に入った時、ペンを見つけてこっそり拾ったんでしょ」

 いや、それだけではない。

 私の靴箱に脅迫状を入れて、私の犯人探しを妨害しようとしたのも、下校途中の私を襲ったのも、他ならぬ啓太だった。

 私は俯いた啓太に対して、次々と疑問をぶつける。ぶつけないではいられなかった。

「どうしてそんな行為をしたの。ひょっとして、高畑先輩が犯人である事実を隠すため?」

 私の勢いに気圧されたのだろうか。啓太は歯切れの悪い口調で、言い訳めいた言葉を口にする。

「いや。あの時は、龍崎先生が中で亡くなってるなんて知らなかったから、高畑先輩が犯人である事実を隠すつもりなんて、全くなかった。ただ、龍崎先生が以前から高畑先輩に目を付けているっていう噂は知ってたから、あのペンは何となく、あそこにあってはいけないような気がしたんだ」

 啓太は、そこから先の話を意図的に避けている。そう感じた私は、さらに畳み掛けた。

「でも、県大会から帰ってきて、龍崎先生の死を知ったアンタは、高畑先輩の犯行だと気付いた。私、覚えてるわよ。学生食堂でサインをもらう時、アンタは高畑先輩にペンを差し出しながら『俺は先輩の力になれるだけで、光栄なんです』って言ったでしょ。あの時は気付かなかったけど、あの言葉は『高畑先輩が犯人だと気付いているけど、誰にも言いません』って意味だったんでしょ」

 私は、啓太の理解不能な行動を思い出し、やや苛立たしささえ覚えながら問い詰める。

「でも、なぜペンの存在も、高畑先輩の犯行である事も知っていながら、私に黙って……」

 拳を握り締めながら俯いていた啓太は、私の言葉を遮るように突然叫んだ。

「お前のためだったんだよ!」

 私と啓太の腐れ縁は、かれこれ八年になる。そんな私が見た経験がないほどに、激しい感情を露わにした啓太の怒号だった。私は、思わず首を竦めた。

「タマ、鈍いお前のことだから気付いてなかったかもしれないけど……」

 固く握りしめた啓太の拳が、ブルブルと震えていた。

「お前も一年生のときから、ずっと龍崎先生に目を付けられてたんだよ」

 ――目を、付けられてた……?

 初耳だ。目を付けられるような失態を龍崎先生の前で犯した記憶はないし、何より話の流れが見えない。

「一体、何の話?」

 私の反応が、予め予想できていたのだろうか。啓太はゆっくりと目を瞑り、静かに息を吐いた。

「龍崎先生は、お前が一年生のときから、お前を教えたがっていたんだ。それで、ことあるごとに佐伯先生に圧力をかけていた。タマを自分に教えさせろってね」

 話の展開について行けず、「まさか、嘘でしょ……」と答えるのが精一杯だった。私の呆けた表情に苛立ちを感じたのか、啓太の口調が、ややきつめのそれに変化した。

「嘘じゃないさ。お前、『一年生の時の体験レッスンの時期に、龍崎先生が誰かと言い争いをしてるのを聞いた』って、以前言ってたことがあったよな」

 私は、啓太の厳しい表情に気圧されながら、必死に記憶の糸を手繰る。

「あったけど……」

「その時、龍崎先生はタマを譲るよう佐伯先生に迫ってたんだよ!」

 突然、あの時の場面がまざまざと脳裏に蘇った。

 ――あの時の言い争いの原因が、私?

 思わぬ展開に、体が硬直した。からくり人形のようにぎこちない動作で、首だけを佐伯先生に向ける。佐伯先生は、私の目を見詰めながら静かに頷いた。傍らに立つ高畑先輩も、同じように頷いていた。

「龍崎先生がお前を教えたがってるってのは、俺も以前から、何となくだけど気付いてた。ある日、そんな状況がどうしても心配になって、佐伯先生に相談したんだ。その時、佐伯先生の口から直接、あの日の言い争いの真相を聞かされたんだよ。一年生の春、お前の体験レッスンの後、教員室でお前の話で龍崎先生と言い争いになったってね。つまり、お前が聞いたのは、その言い争いだったんだ」

 想像を超える急展開に混乱し、私の脳はその瞬間、無意識に思考を停止した。

「それ以降も、龍崎先生はことあるごとに佐伯先生に迫っていたそうだ。お前を譲れってね。でも、龍崎先生のいろんな要求を飲んできた佐伯先生も、お前の話だけは首を縦に振らなかった。なぜだかわかるか」

 私は、頷く行為も首を横に振る行為もできずに、ただ怯えた子犬のような目で啓太を見詰め返す。

「龍崎先生がお前の指導を望んだのは、ピアノの伸びしろっていうのももちろんあったんだろうけど、それよりもちょっと気が強くてルックスも……、その、それほど悪くないってのが、より大きな理由らしかった。あくまで、マスコミへのアピール度を第一に考えていたんだ。一方の佐伯先生は、お前に秘められた才能に気付いてた。そして、その才能を、先生自身の手で開花させてあげたいって、純粋に、強く望んでくれてたんだよ」

 ――佐伯先生、私の才能、開花?

 見開かれた啓太の瞳を前に、私の心臓がドクンドクンと早鐘のように鼓動を速めた。佐伯先生が、押し殺した声で啓太の言葉に続けた。

「だが、今年の夏休みを前に、龍崎先生の要求は、さらに激しさを増していった。私には、もうどうすることもできないレベルに近付いていたんだ」

 私は、なす術もなく、ただゴクリと唾を飲む。冷や汗が頬から流れ落ちる感触が、首筋を冷たく刺激した。

「……そんな矢先、龍崎先生が亡くなった。高畑先輩が龍崎先生を殺したって気付いた時、俺は思ったんだ。先輩が、龍崎先生からタマを救ってくれたって。だから、龍崎先生が自殺じゃなくて殺されたんだっていう事実も、犯人が高畑先輩であるっていう事実も、誰にも言えなかった。言っちゃいけないと思ったんだよ……」

 絞り出すような、苦し気な啓太の声が、部屋の中に静かに響いた。

 私はこの時、初めて気が付いた。

 ――ここにいる私以外の三人は、龍崎先生の存在に苦しみ、そして先生に等しく憎しみを抱いていた。その事実に気付いていないのは、私だけだったんだ。

 今まで、私だけが真実を知っていると思ってた。でも、逆だった。私だけが、真実を知らなかった。啓太と佐伯先生は、私自身が知らない、私に関する真実を知っていて、ずっと私を守ろうとしてくれていたというのに……。

 龍崎先生に執拗に求められていたという恐怖感、啓太や佐伯先生に心配を掛け続けていたという罪悪感、そして何も知らず勝手気ままに振る舞い、啓太に我儘な怒りをぶつけ続けていた自分への腹立たしさ……。

 激しい波のように繰り返し押し寄せてくる感情を前に、周囲の景色がどろりと溶け落ちた気がして、私は平衡感覚を失った。高畑先輩が肩を支えてくれなかったら、きっとそのまま床に崩れ落ちていただろう。

 高畑先輩に抱き留められた私は、先輩の胸に顔をうずめた。気が付くと、私の目からは涙が溢れ出していた。睫毛を濡らしながらポロポロと零れ落ちる涙が、高畑先輩の薄紫色のドレスに吸い込まれていった。

 高畑先輩は両手で私の上半身をきつく、しかし優しく抱き締めてくれた。高畑先輩の胸の鼓動が、私の心をゆっくりと包み込んだ。

「鷹水君は、あなたを守ってあげたかったのよ。鷹水君の心の中にあった思いは、ただそれだけ。私にはわかる。だって、私と同じなんですもの。ただし、私が守ってあげたかったのは、あなたではなく佐伯先生だった。それだけの違い。だから……」

 高畑先輩は、湧き上がる感情を抑えているかのように、静かな声で語る。

「あなたが責任を感じる必要なんて、全然ないの」

 先輩の柔和な指先、慈しみに満ちた言葉に秘められた魔法で、私の胸の中の小さな傷が、少しずつ癒えていく気がした。

「私は佐伯先生を、いえ音楽そのものさえも卑しめている龍崎先生が許せなかった。だから、自分の思いに対して正直に行動したの。もちろん、後悔はしていない。鷹水君も、きっと同じ。だって、鷹水君はあなたのことが……」

 突然、佐伯先生が、高畑先輩の言葉を遮るように叫んだ。

「私がもっと強ければ、こんな事態にはならなかったんだ!」

 その声に、私は高畑先輩の胸から、ゆっくりと顔を離す。私は、右手で涙を拭きながら先輩の顔を見上げ、続いて佐伯先生と啓太に目を向けた。

 重苦しい空気の向こうに、唇を噛み締めている啓太と佐伯先生の姿が、幻のように滲んで見えた。

「いえ、今回の事件は、あくまで私が自分で望み、私一人で実行したものです。それに……」

 高畑先輩は、小さく深呼吸をし、桜色の唇を静かに開いた。

「先生は、私のために最善を尽くしてくださいました。責任を感じる必要など、微塵もありません」

 高畑先輩の言葉には、すべての人の罪を浄化してくれる能力があるのかもしれない。そんな気がした。

 そのまま、どれくらいの静寂が過ぎただろうか。

 高畑先輩は不意に顔を上げた。私は、高畑先輩の表情を見る。

 先輩は、天使かと見まがう清らかな表情で微笑んでいた。まるで、重苦しいこの部屋の空気をリセットするかのような、一点の曇りもない完璧な笑顔だった。

 高畑先輩は、桜色の艷やかな唇を今一度、微かに動かす。

「で、鷺沢さん、あなたは、私の罪に対してどう対処するおつもり?」

 思いがけない一言に、私は我に返った。

 ――そうだ。今は、私一人が勝手に悲しんでいる場合ではない。

 この状況は、事件の真相究明などと称して、私が一方的に話をはじめた結果、生まれたのだ。私が責任をもって、けりをつけなければならない。

 私は、高畑先輩の腕を離れ、静かに立ち上がる。再び涙を拭うと深呼吸をして、思考回路をクリアにする。目の前の、重苦しい空気を纏った霧が晴れたのを確認し、高畑先輩を正面から見詰めた。

 ……とは言うものの、ミステリー小説に登場する頭脳明晰、百戦錬磨の名探偵のように、洒落た決め台詞を用意しているわけではない。

 私は、しどろもどろになりながらも、正直な気持ちを込めて、精一杯の言葉を繋いだ。

「えーと、さっきもお話ししたように、証拠と言えるものは残念ながら、私の頼りない記憶の中にしかありません。なので、私にはどうしようもないとしか……」

 決意した割には、何とも中途半端な言葉だった。このようにシリアスな場面でなかったら、恐らくここにいる全員が、ドリフのコントのようにずっこけていただろう。

 しかし、部外者だと考えていた自分自身が、ある意味では犯罪の当事者の一人だったのだ。自分がどうするべきかなど、今すぐにわかろうはずもない。

 それが正直な感想だった。

 高畑先輩は俯いたまま、小さな声で「ふふ」と微かに笑った。

「鷺沢さん、あなたは一見とても強い女性に見えるけど、実は意外と慎重で繊細な人なのね」

 瞬間、耳たぶがカッと熱くなった。


         *


 遠くから、拍手の音が聞こえた。

 佐倉希美の演奏が終わったことを意味する拍手だった。同時に、高畑先輩の順番が回ってきた事実を告げる拍手でもあった。

 その音に、私はピアノコンクールの地区大会という現実の世界に引き戻された。

 ここは学生食堂でもなければ、私の部屋でもない、大会の会場だ。

 高畑先輩は今から、多くの聴衆が見守る中、自分の未来を賭けて最高の演奏を披露しなければならないのだ。

 ――不可抗力だったとはいえ、ステージを目前に控えた高畑先輩に対して、私は取り返しのつかない行為をしてしまったのではないか。

 私の額から、後悔という名の冷や汗が滴り落ちた。

「高畑君、大丈夫かい」

 高畑先輩は、心配そうに声をかける佐伯先生に対して、はっきりした声で「はい」と答えると、すっくと立ち上がった。

 見ている私が惚れ惚れとするような、凛とした立ち姿だ。やっぱり先輩、君は薔薇より美しい。

「では、演奏して参ります」

 高畑先輩は、私たちに完璧な微笑みを向けると、軽く頭を下げた。そのまま踵を返し、落ち着いた足取りでドアの方向に進む。

 ドアを開けた時、高畑先輩は「佐伯先生」と静かに呟いた。

「何だい、高畑君」

 佐伯先生はやや不安そうに、高畑先輩に視線を向ける。高畑先輩は振り向くと、佐伯先生の目を見詰め返し、今度ははっきりとした口調で言った。

「私は、先生を愛していました」

 唇を噛んだ佐伯先生は、ちょっと間を置いて、静かに息を吐く。

「……ああ、気付いていた」

 佐伯先生の答に、高畑先輩は安心した表情になった。

 女神のように優しい、崇高にも思える微笑みを湛えたまま、部屋の外へと消えていく高畑先輩。部屋に取り残された私は、黙ってその後ろ姿を見送るしかなかった。

 高畑先輩がいなくなった部屋の中に、「愛していました」という先輩の最後の一言が、いつまでも響いていた。


         *


 私と佐伯先生、佐倉希美、そして啓太の四人は、高畑先輩に遅れて部屋を出た。廊下を進んでロビーに行き、中央の扉を開けて会場に入る。席には着かず、観客席の最後尾に並んで立った。

 ピンと張り詰めた会場の空気が、私の体の中に少しずつ沁み込んでくる。

 息をするのも忘れてステージを見詰めていると、やがてステージの下手から高畑先輩が姿を現した。

 背筋を伸ばし、いつものように凛とした姿勢でピアノに歩み寄る高畑先輩。

 ピアノのすぐ傍らまで近付き、聴衆のほうに向き直る。聴衆に向かって軽く頭を下げると、ゆっくりと席に着いた。

 落ち着いた様子で椅子の位置を調節した後、ペダルを確認し、鍵盤に視線を移す。

 静寂の中、左手を静かに鍵盤の上に置く。そのまま、宙を見つめるような姿勢で、一旦静止した。

 全世界の時が止まる。

 次の瞬間。

 突然、命を吹き込まれた魚が水面を高く跳ね上がるかのように、左手が力強く鍵盤を叩きはじめる。

 曲名はもちろん、リスト作曲「巡礼の年 第二年『イタリア』『ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲』」。

 テーマは、「愛」と「人間性の復興」だ。




十一月五日火曜日


 地区大会で、非の打ち所がないほどに見事な演奏を披露した高畑先輩は、文句なしの成績で全国大会への出場を決めた。

 だが、地区大会の二日後、高畑先輩はこの学校から突然、姿を消した。

 啓太の話では、自主退学した後、警察に出頭したとの話だった。恐らく、少年院送致になるのだろう。当然だが、全国大会も辞退していた。

 いっぽう、佐伯先生は高畑先輩とは別に、やはり警察署に出頭し、犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪で逮捕されたという。弁護士である啓太の従兄の話だと、恐らく執行猶予の罪になるのではないかという話だった。

 ちなみに、これも啓太の従兄の話なのだが、警察は龍崎先生が他殺である可能性をすでに視野に入れていて、怪しい人物をある程度まで絞り込んでいたらしい。ところが、あと一息で容疑者に辿り着くというところで、高畑先輩や佐伯先生が出頭してきたというのが真相らしかった。

 私は、担当刑事である小山内さんや酒向さんの顔を思い出した。

 あの人たちは、高畑先輩と佐伯先生が自ら出頭してきたことを嬉しく思ったのだろうか。それとも、自分たちの力で犯人を逮捕できなかった結果に、無念さを感じたのだろか。

 優しそうな刑事さんたちだったから、恐らく前者なのだろう。

 で、当の啓太はというと、刑事さんに連絡を取って自身の行為を告白したが、事情聴取の後、事件への直接的な関与の度合いが低いという判断でお咎めなしとなった。その代わり、学校側の判断で一週間の自宅謹慎処分が決定した。

 だが、幸か不幸か、高畑先輩と佐伯先生の出頭で騒然となっていた校内で、啓太のささやかな自宅謹慎など、気に留める者はほとんどいなかった。


         *


 昼休みの校舎で、私は廊下の窓枠に頬杖を突き、正門の向こうに広がる景色をボーッと眺めていた。

 学校がある高台の麓を流れる川。その向こう側には、低層の住宅街がのっぺりと広がっている。茶色や黒色の屋根がランダムに入り混じっている様子は、まるで地上に描かれた巨大な抽象絵画のようだ。

 住宅街のところどころには銀色のタケノコのように鉄塔が生え、高圧電線を支えながら、青い空を縫うようにどこまでも続いている。

 いつも通りの景色だ。

 校舎のすぐ下に目を移す。

 一階の校舎横では、文化祭の準備に余念がない生徒たちが、刷毛を片手に巨大なベニヤ板にペンキを塗りたくっていた。

 時折、ハハハという甲高い笑い声が聞こえてくる。

 ――そっか、今週の土日は、文化祭か。

 いつの間にか、季節はもうすっかり秋らしくなっていた。県大会のときには暑苦しく感じた合服も、もう暑く感じることはない。

 ――来週からは、いよいよ冬服だ。

 私は、目を瞑って二人、高畑先輩と佐伯先生の姿を思い浮かべた。

 高畑先輩や佐伯先生は、私などとは比べ物にならないほどの才能に恵まれていた。

 でも、ふと、こうも思う。

 ――先輩と先生は、幸せだったのかな?

 才能というものは、輝かしい未来を約束する魔法のランプにもなれば、人生を狂わせる足枷にもなる。同時に「持たざる者」にとって、それは羨望の対象であるとともに、禁断の果実でもある。

 私は今まで、高畑先輩や佐伯先生を、ずっと羨ましく思っていた。でも、高畑先輩や佐伯先生は、必ずしも私が思っているほど、幸せではなかったのかもしれない。

 きっと人は、他人の才能に憧れながらも、自分の才能と上手く折り合いを付けながら生きていくぐらいが、一番いいのだろう。

 ――凡庸も、決して捨てたものではない。

 私がそんな思索に耽っていると、教室の外から凡庸なる人間の声が聞こえた。

「おーい、タマ。トルコライス、食いに行こうぜ」

 振り向かなくてもわかる。本日、自宅謹慎が明けたばかりの幼馴染だ。

 そして、凡庸な存在である私は、愛すべき凡庸な幼馴染と学生食堂で向かい合いながら、今日もトルコライスを口に運ぶ。

 凡庸な私には、きっとそんなシチュエーションが似合っている。

 そして、そんな何気ないひと時が、私にとっては意外に幸せな時間なのだ。


                    (了)

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放課後の幻想曲 児島らせつ @yamoyamo

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