第12話

二年前 その一


 私が彼女と初めて出会ったのは、二年前の春だった。

 その日の昼休み、私は教員室に向かおうと、第三校舎の階段を上がっていた。

 二階に差し掛かった時だった。廊下の奥にあるレッスン室の方角から、微かなピアノの音が聞こえてきた。

 何気なく、耳を澄ます。

 曲名は、リストの「ハンガリー狂詩曲第六番変二長調」。

 演奏時間が短く、構成が比較的シンプルである点、導入部分から華やかさが際立っている点などから、人気の高い曲だ。

 一方で、構成がシンプルでありながら、速さ、メリハリ、正確さなどに高い技量が要求されるため、演奏者の力量が如実に表れる難曲でもある。

 ――こんな時間に、一体誰が?

 私は、無意識のうちに音の方角に足を向けた。

 とくに心惹かれたというわけではない。その時の私には、自分がなぜ、その音の方角に足を向けたのかさえ、理解できていなかった。

 部屋に近付くにつれて、ピアノの音は徐々にはっきりと、音としての色彩を帯びてくる。

 部屋の前に立った時、私は初めて、自分がこの部屋に足を向けた理由が理解できた気がした。

 リズムは心許なく、音符が足りないかと思えば、次の瞬間、過剰な装飾音に彩られる。自由奔放というのとも少し違う。むしろ、目に見えない束縛と必死に戦っているかのような演奏だった。

 気が付くと、私はピアノから一生懸命に飛び立とうとする音符たちに吸い寄せられるように、部屋の中に入っていた。

 ピアノを弾いていたのは、一人の女子生徒だった。

 ピアノの演奏に没頭しているのだろうか。私に気付く気配が全くない。

 私は、彼女に近付くと傍らに立ち、一本一本の指の動きを注意深く観察した。

 細く華奢な指がしなやかに動き、鍵盤を叩く。その度に、虹色に彩られた空気が生まれ、膨らみ、気紛れなシャボン玉のように儚く消えていく。

 ――バランスは最悪だが、面白い。

 例えるなら、セオリーを通り越し、その向こう側にある何かを、無意識のうちに追い求めているとでも言うのだろうか。

 しかし、無意識ゆえ、出口を見つけられずに彷徨っている。そんな危うさを感じさせる演奏だった。

 私が彼女の運指を凝視し、音符たちの戯れを自らの音楽理論に則って分析しようとしているうちに、演奏は波が引くように終わった。

 演奏を終えた彼女は、何気なく私のほうに視線を移し、ぎょっとした表情を浮かべた。

 目を見開き、唇を軽く震わせている。

「……先生、いつからここに……?」

 彼女は、震える唇を僅かに動かしながら、怯える子犬のような恐怖と驚愕に満ちた視線を、今一度私に送って寄こした。

「いや、申し訳ない。こんな時間に、一体誰が弾いているのかと思ってね。君は、ええと……」

「一年F組の高畑、高畑瑞奈です」

 彼女、高畑瑞奈は、やや落ち着きを取り戻したのか、先ほどの第一声よりややはっきりとした声で自己紹介をした。

 私は、落ち着きを取り戻した高畑君の声に、安堵を覚えた。

「高畑君、君はなかなか面白い演奏をするね。素晴らしい。ただ、もう少し楽譜を意識して、作曲者の意図に思いを馳せながら演奏したほうが、もっとよくなると思うよ」

「なぜ、そう思うのですか」

 高畑君は、答を心から欲するように、私の顔を見詰めた。

「君は、自分が容易に理解できるフレーズには気持ちが入っている反面、理解しにくいフレーズに差し掛かると、途端に演奏が御座なりになる傾向があるね。例えば、この部分だが……」

 私は、譜面台に置いてある楽譜を勝手に捲ると、曲の前半部分、Andanteと書かれた部分を指差した。ちょうど、演奏開始から二分を過ぎる辺りだ。

「この部分は、今までの部分との対比が重要だ。今までの軽やかさに対して、抒情性が要求される。技術的には決して難しい部分ではないが、いい加減に流すのではなく、もっと作者の意図するアンダンテやフェルマータの意味を意識して演奏した方がいいと思う」

 その後も、私の講釈は続く。

 フォルテの部分でのペダルの使い方。

 全体を通しての、十本の指への力のバランス。

 最後の部分でスタミナ負けしないペース配分の重要性……。

 私が、彼女の演奏について気が付いた点を一頻り話し終えた時、昼休みの終了五分前を告げるチャイムが鳴った。

 はっとした。

 私は、調子に乗って喋り過ぎたかもしれない。

 つい先ほどまで名前も知らなかった生徒に対して、指導めいた行為をおこなうなど、越権行為に等しい。すでに高畑君を指導する先生が決まっていたら、それこそちょっとした問題になっても不思議ではない。

「いきなり、申し訳なかった。つい、君の演奏を放っておけない気持ちになってしまってね。気分を害してしまったのなら、今の話は忘れてくれて構わない。ついでにと言っては何だが、君の担当教員には内緒にしておいてもらえると嬉しいのだが……」

 私の謝罪とも、自己保身とも受け取られかねない言葉を遮るように、高畑君は呟いた。

「まだ、どの先生に教えていただくかは、決めていないんです」

 高畑君は、楽譜を纏め、ゆっくりと席を立ち上がる。

「もう行かないと……」と、困ったように口にすると、私に向かって軽く会釈をした。

 レッスン室を後にする後ろ姿に、私は思わず声を掛けていた。

「もしよければ、私の指導を受けてみないか」

 高畑君は、私の声に振り向き、嬉しそうな笑顔を浮かべながら、頷いてくれた。


         *


 高畑君は、レッスン申込書の希望教員の欄に、私の名を記入して提出した。こうして私と高畑君は、教える者と教えられる者という関係になった。

 高畑君は、不思議な生徒だった。

 私が指摘する内容を、まるでスポンジが水を吸い込むかのように、次々と吸収する。

 高畑君は学業成績も極めて優秀だったが、彼女の音楽に関する吸収力の早さは、学業における記憶力のよさや的確な思考力とは、次元の異なる能力だった。

 吸い込んだ水をそのまま出すのではなく、美しい色を付けて表現するとでも言えばいいのだろうか。

 その色は、ある時はどこまでも澄み切った淡い青色であったり、またある時は情熱に彩られた濃い赤色であったりする。

 そんな高畑君だから、ピアノの演奏技術は、目に見えて向上した。

 いつしか、私は出逢った時以上に高畑君の才能に惚れ込み、教える行為にこの上ない歓びを感じるようになっていた。

 その年の秋におこなわれたコンクールで、高畑君は誰もの予想を裏切って県大会と地区大会を勝ち抜いたばかりか、全国大会では高い表現力と演奏技術で審査員特別賞に輝いた。

 高畑君の活躍は、全国コンクールだけには留まらなかった。その後、ゲストとして呼ばれたリサイタルでも、多くの聴衆を魅了した。

 当初、高畑君に対する評価を過大評価だと冷ややかな目で見ていた一部の関係者も、この頃には掌を返したように褒めそやすようになった。

 高畑瑞奈という名は、その美貌と相まって一躍、全国に知れ渡るようになり、マスコミの取材も日を追うごとに増えていった。

 そして、二年生の秋。

 全国コンクールでは準優勝に終わったものの、前年にも増して正確で表現力豊かな演奏は審査員を驚かせ、優勝者以上に高い評価を得た。

 気が付くと、高畑君はピアノ界の未来を担う逸材とまで言われるようになっていた。

 ――奇跡的ともいえる、現代のシンデレラストーリー。

 奇跡の成功物語を通して、私と高畑君の間には、すでに何物にも代え難い信頼関係が生まれていた。


         *


 そんなある日、私は龍崎先生のために作曲した曲を、昼休みのレッスン室で弾いていた。

 春に公開される映画のための曲だった。

 一頻り演奏し終わり、深く息を吐いた時、目の前に白いハンカチが差し出された。ハンカチを持つ、か細く白い五本の指……。

 私は顔を上げた。

 予想通り、高畑君だった。

 驚く私に、高畑君は「すごい汗ですね」と声を掛けてくれた。

「ああ。つい、演奏に熱が入ってしまってね」

 私は、高畑君からハンカチを受け取り、額の汗を拭いた。

「今の曲、先生が作曲されたのですか」

 確かに、この曲は私が作曲した曲だが、私の曲として世に出る曲ではない。どう答えるべきか逡巡していると、高畑君は優しく微笑んだ。

「私、知っているんです。今の曲、佐伯先生がつくった曲ですが、佐伯先生の曲ではないのでしょう」

 知られてはいけない秘密を知られてしまった事実に、私の心臓の鼓動が俄かに高まった。

 同時に、高畑君になら知られても構わない。心の片隅に、そんな気持ちも芽生えていた。

「私、ずっと先生のそばにいたんですよ。それぐらい、わかります。誰にも言いませんから、機会があったらまた聞かせてください」

 その日からだった。第二レッスン室でしばしば、私と高畑君の二人だけが参加する秘密の演奏会が開かれるようになったのは。




二年前 その二


 私が先生と初めて出会ったのは、二年前の春だった。

 その日の昼休み、第二レッスン室を借りた私は、一人でピアノを演奏していた。

 曲名は、リストの「ハンガリー狂詩曲第六番変ニ長調」。

 私のような若輩者には、手に余る大作だ。しかし、私はこの曲が好きだった。

 他に類を見ない旋律の美しさと完璧な構成。華やかなリズム。

 私の手に余るとは知っていても、いつか自分の思うままに弾きこなしてみたい。常々そう思っている、そんな曲だった。

 昼休みの残り時間は、少なくなっていた。

 ――仕方がない。

 私は、三回目の演奏で、練習を切り上げた。練習開始から、すでに二十分が経っていた。

 後片付けをしようと、鍵盤から手を下ろした時だった。何気なく入り口のほうを見ると、一人の男性が立っていた。

 予想もしていなかったできごとに、私はぎょっとした。

 驚きながら、目の前の男性に見覚えがある事実に気付いた。

 ――ピアノの教員をされている……、確か、佐伯先生。

 私の下手な演奏が、聞かれてしまったに違いない。動揺と緊張で目を見開き、唇を軽く震わせながら、私は佐伯先生に尋ねた。

「……先生、いつからここに……?」

 私の視線を受けて、佐伯先生はゆっくりと口を開いた。

「いや、申し訳ない。こんな時間に、一体誰が弾いているのかと思ってね。君は、ええと……」

 私を驚かせたことを、不本意に思っているのだろう。怯える子犬を宥めるかのように、優しい口ぶりだった。

「一年F組の高畑、高畑瑞奈です」

 やや落ち着きを取り戻した私は、先ほどの第一声よりはっきりとした声で自己紹介をした。

 佐伯先生は、私が落ち着きを取り戻した事実に、安堵したように見えた。

「高畑君、君はなかなか面白い演奏をするね。素晴らしい。ただ、もう少し楽譜を意識して、作曲者の意図に思いを馳せながら演奏したほうが、もっとよくなると思うよ」

「なぜ、そう思うのですか」

 佐伯先生は、ちょっと困ったように、私の顔を見詰めた。

「君は、自分が容易に理解できるフレーズには気持ちが入っている反面、理解しにくいフレーズに差し掛かると、途端に演奏が御座なりになる傾向があるね。例えば、この部分だが……」

 佐伯先生は、譜面台に置いてある楽譜を勝手に捲ると、曲の前半部分、Andanteと書かれた部分を指差した。ちょうど、演奏開始から二分を過ぎる辺りだ。

「この部分は、今までの部分との対比が重要だ。今までの軽やかさに対して、抒情性が要求される。技術的には決して難しい部分ではないが、いい加減に流すのではなく、もっと作者の意図するアンダンテやフェルマータの意味を意識して演奏した方がいいと思う」

 続いて佐伯先生は、私の課題を次々と指摘した。

 フォルテの部分でのペダルの使い方。

 全体を通しての、十本の指への力のバランス。

 最後の部分でスタミナ負けしないペース配分の重要性……。

 どれも、明らかに私の演奏に不足している要素だった。

 佐伯先生が、私の演奏について課題点を指摘し終えた時、昼休みの終了五分前を告げるチャイムが鳴った。

 佐伯先生は、はっとした表情になった。

 きっと、つい先ほどまで名前も知らなかった生徒に対して、指導めいた行為をおこなったことを、後悔しているのだろう。

「いきなり、申し訳なかった。つい、君の演奏を放っておけない気持ちになってしまってね。気分を害してしまったのなら、今の話は忘れてくれて構わない。ついでにと言っては何だが、君の担当教員には内緒にしておいてもらえると嬉しいのだが……」

 佐伯先生の熱意は、何となく感じた。でも、そんな熱意について深く考えている余裕は、今の私にはなかった。

 なぜなら、急がないと、午後の授業に間に合わない。

「まだ、どの先生に教えていただくかは、決めていないんです」

 私は、楽譜を纏めてゆっくりと席を立ち上がると、佐伯先生に向かって軽く会釈をした。

「もう行かないと……」

 正直、焦っていた。しかし、焦りながらも、不思議な満足感があった。

 ――この先生に、もう一度指導してもらいたい。

 後ろ髪を引かれながら、レッスン室を後にしようと歩き出すと、後方から佐伯先生の声が聞こえた。

「もしよければ、私の指導を受けてみないか」

 私は、佐伯先生の声に振り向き、笑顔で頷いた。


         *


 私は、レッスン申込書の希望教員の欄に、佐伯先生の名を記入して提出した。こうして私と佐伯先生は、教えられる者と教える者という関係になった。

 佐伯先生は、不思議な先生だった。

 私が抱えている問題点を、まるで昔から知っていたかのように的確に指摘し、その問題点について何年も考察していたかのように完璧な解決策を提示する。

 記憶力のよさや思考力に比較的自信があった私は、学校の勉強が苦手ではなかった。しかし、先生の的確な指導は、私の記憶力や思考力とは別の部分を刺激し、沁み込んでくる。

 今まで感じた経験のない感覚とともに、佐伯先生の指導が私の中で花となり、実を結んでいくのが、はっきりとわかった。

 いつしか、私は出逢った時以上に佐伯先生を信頼し、教わる行為にこの上ない歓びを感じるようになっていた。

 その年の秋におこなわれたコンクールで、私は誰もの予想を裏切って県大会と地区大会を勝ち抜き、全国大会では審査員特別賞を受賞した。

 そして、二年生の秋。

 全国コンクールでは、準優勝を果たした。

 ――以前の私には想像することすらできなかった、夢のようなストーリー。

 奇跡の成長を通して、私と佐伯先生の間には、すでに何物にも代え難い信頼関係が生まれていた。


         *


 そんなある日、私は昼休みの第三校舎で、聞き慣れない曲を耳にした。

 ――オリジナル曲?

 柔らかく、とても優しい、それでいてどこか悲しげな曲だった。

 幾層にも折り重なった音符が感情となって複雑な色を生み出し、私の聴覚を心地よく刺激する。そんな曲だった。

 五線譜の甘美な網に絡め捕られた小さな昆虫のように、私の体は自らの意志と関係なく、レッスン室に惹き寄せられていく。

 惹き寄せられながら、ある考えが閃いた。

 ――ひょっとしたら……。

 閃きが正解であることを期待しながら、ドアの隙間から中を覗き込んだ。

 予想通り、佐伯先生だった。

 思えば、初めて佐伯先生と出会った時とは、全く逆の立場だった。

 すでにその時の私は、佐伯先生がある人のために曲をつくり、提供している事実に、うっすらとだが気付いていた。

 私は部屋に入り、そっとピアノの傍らに立つ。演奏に集中している佐伯先生は、私の存在には、全く気付いていない様子だった。

 演奏が終わると、私は額に汗を浮かべている佐伯先生に、ハンカチをそっと差し出した。

「すごい汗ですね」

 佐伯先生は、戸惑いながらも私からハンカチを受け取り、額の汗を拭いた。

「ああ。つい、演奏に熱が入ってしまってね」

「今の曲、先生が作曲されたのですか」

 先生は一瞬、硬い表情になった。

 この曲は佐伯先生が作曲した曲だが、先生の曲として世に出る曲ではない。その事実を、自らの口で告白するべきかどうか迷っているのだろう。

 私は声を掛けてしまった行為をちょっと後悔したが、それ以上に、先生と秘密を共有したいという衝動に駆られた。

「私、知っているんです。今の曲、佐伯先生がつくった曲ですが、佐伯先生の曲ではないのでしょう」

 佐伯先生が、明らかに動揺したのがわかった。私は続ける。

「私、ずっと先生のそばにいたんですよ。それぐらい、わかります。誰にも言いませんから、機会があったらまた聞かせてください」

 その日からだった。第二レッスン室でしばしば、私と佐伯先生の二人だけが参加する秘密の演奏会が開かれるようになったのは。

 佐伯先生の傍にいる時間の中で、私は佐伯先生のさまざまな秘密も知った。

 佐伯先生が、私とは異なる性的指向をもっている事。佐伯先生は、自身の性的指向とそれに起因する感染症を材料に、龍崎先生から脅迫めいた言動を受け、逆らうことができないまま無条件で作品を提供し続けていた事。そして、その脅迫めいた言動は、ある時は怒号であり、ある時は人格否定などの精神的暴力であり、時には身体的暴力を伴っていた事……。

 ――佐伯先生を、地獄から救い出してあげたい。それができるのは、私だけだ。

 そしてある日、私は一つの計画を実行する決意を固めた。

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