第11話
十月二十六日土曜日
私は午前八時に起き、食パンとスープで軽い朝食をとった。身支度を整え、母に「地区大会の手伝いに行ってくる」と言い残すと、家を出た。
玄関脇に置いてある自転車を道路まで出し、跨る。
自転車は、昨日の朝、つまり私が自転車と啓太を置いて走り去った日の翌日、私の家の門柱の脇に立て掛けてあった。恐らく、あの日の夜のうちに啓太がここまで来て、ご丁寧に置いて行ったのだろう。
ペダルに力いっぱい体重を掛けると、自転車はゆっくりと動きはじめる。
もしここでペダルを漕ぐのをやめてしまうと、自転車も私の心も、きっと倒れてしまうだろう。もう、ペダルを止めるわけにはいかない。
いつも通り、十数分ほど掛けて駅まで行くと、丁度ホームに到着した電車に素早く乗り込んだ。このまま電車に揺られていれば、十分ほどでT駅に到着するはずだ。
T駅は、龍崎先生のマンションの最寄り駅だ。そのT駅で、レコード会社に行った時と同じように、市街地に向かう急行電車に乗り換え、二十分ほど掛けて到着したS駅で、今度は会場の最寄り駅であるM駅に向かう電車に乗り換える。
S駅からM駅までの乗車時間は、約十分。M駅から会場までは、歩いて約五分。T駅に向かっている今は午前八時五十分ぐらいだから、乗り換え時間を考えても、開演の午前十時までには余裕で到着するだろう。
会場までの道中をシミュレーションしている間に、T駅に着いた。私は足早にホームを横切ると、向かいのホームに止まっていた急行電車に乗り換える。ここまでは予定通りだった。
しかし、予定の時間になっても、一向に出発する気配がなかった。不思議に思ってホームの電光掲示板に目を遣ると、通常は時刻が表示されているはずの枠に、「先発」、「次発」と表示されている。
どうやら、ダイヤが乱れているようだ。
――マジ?
このままじゃ間に合わない。
――いやいや、まだ間に合わないと決まったわけじゃない。
焦る気持ちを抑えながら周囲を見渡すと、車内の他の人たちも一様に苛立ちを覚えている様子だった。私は、周囲の人々の不穏な空気に飲み込まれないように、心を平静に保とうと目を瞑った。
それにしても、目覚まし時計はあんなに慎重に何度も確認したのに、こんなところに別の罠が仕掛けられていようとは、本当にツイてない。
そうだ。こんな時は、神頼みだ。
私は右肩に下げたトートバッグに右手を突っ込んで、啓太に渡しそびれていた二個のお守りを、袋の上からぎゅっと握った。
――どうか、大会の開演に間に合いますように。
突然、車内にアナウンスが流れた。
「非常停止ボタンが押された関係で安全確認をおこなっておりましたが、ただ今、安全が確認できましたので、間もなく出発致します。長らくお待たせ致しました。誠に申し訳ありませんでした」
車内に「おおーっ」という安堵の声が広がり、不穏に張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。
さすが、私が敬愛して止まない高畑先輩の実家のお守り。想像以上に霊験あらたかだ。
玲香と啓太に渡す前にお守りのご利益を消費してしまった事実に、少々の罪悪感を感じないわけではないが、この際だから仕方がない。
許して、玲香。そして許せ、啓太。
間もなく出発した電車は、何事もなかったかのように順調に走り続け、予定より十分遅れでS駅に到着した。
私はお守りへの感謝と二人、とくに玲香への謝罪を胸に秘めながら、ホームの階段を上がり、乗り換え口へと走り、再びホームへの階段を駆け下りると、M駅方面行きの電車に飛び乗った。
電車は乗車から十分後、今度こそ予定通り、M駅に到着した。
この時間なら、開演には間に合いそうだ。私は気持ちを落ち着かせながら改札を出ると、会場である市民ホールへとへと向かった。
しかし、会場が近付くにつれて、少しずつ気が重くなってきた。
まるで、市民ホールへと続く道に、人間の気力と体力を消耗させる魔法の毒霧が漂っているかのようだ。
私は、ともすれば道を見失いそうになる毒霧の中を歩きながら、考える。
優しい佐伯先生の事だから、きっと私の話を最後まで聞いてくれるだろう。でも、その時、先生はどんな顔をしているのだろうか。
悲しげに微笑む先生の顔が、容易に想像できた。
果たして、私が今からしようとしている行為は、正しいのだろうか。
急に、正体不明の不安に襲われた。
ふと、啓太の顔が浮かんだ。
――もし、啓太がここにいてくれたら……。
一昨日のできごと、一連の脅迫事件や襲撃事件は、私にとってすごくショックな事件だった。
でも、冷静で思慮深い普段の啓太なら、あんな衝動的な行動はしないはずだ。佐伯先生のカミングアウトが、余りに衝撃的過ぎて、つい衝動的にあんな脅迫状を書いてしまったのかもしれない。
啓太は啓太なりに、私を心配してくれていたということか。
――いやいや、それは違うし。
私は慌てて自分の考えを打ち消した。啓太なんてあてにしてはいけない。アイツは一昨日から、私の敵なのだから。
いよいよ、会場が近付いてきた。遠目に見ても、入り口付近が多くの人で賑わっている様子がよくわかる。そりゃそうだ。今日は何と言っても花の地区大会なのだから。
と、人ごみの中でも一際大きな人物が、こちら方面に向かって手を振っているのが目に入った。
見覚えのある、無駄に筋肉質の体格。畑にたわわと実っているキャベツぐらいなら、むんずと掴んでそのまま地面から引っこ抜いてしまいそうなほどにでかい掌。
啓太だった。
私は、気恥ずかしさと嬉しさが入り混じった不思議な気持ちを持て余しながら、啓太に歩み寄った。本当は駆け寄りたかったが、理性が邪魔をした。
「啓太! どうしてここに?」
「お前の家に電話したら、お母さんが出て、お前が地区大会の手伝いに出掛けたっていうからさ。どうせ、一人で勝手に謎解き敏腕探偵を気取ろうっていうんだろう。だいたい、お前一人じゃ誰が暴走を止めるんだよ。俺が一緒にいるしかないだろう」
啓太は、鼻を掻きながら言い訳めいた言葉を口にした。何だか嫌味な物言いだったが、不思議と怒りは湧いてこなかった。代わりに、安堵している自分がいた。
「有り難うね」
啓太は、驚いた表情で私を見た。きっと私の口から、こんなに素直な感謝の言葉が聞けるとは、思っていなかったのだろう。
啓太は、私から目線を逸らし、口を尖らせながら言った。
「一昨日は本当、悪かった。でも、あれから俺、考えたんだ。ここまで一緒に来たんだから、やっぱ最後まで付き合わなきゃなって」
私は知っている。この表情は、照れ隠しをしている時の啓太の癖だ。小学生の時から変わらない。
でも、ここでふと気付く。私なんかを相手にしていていいんだろうか。啓太には、もっと大事な人がいるはずだ。
「玲香は、放っておいていいの?」
「何で、ここで土岐川の話が出てくるんだ?」
不思議そうな顔をする啓太。コイツ、鈍すぎる。思わず、玲香が不憫に思えた。
「だって、あなたたち、付き合ってるんでしょ?」
啓太は、いきなり大声で笑い出した。周囲の人たちが、一斉に私たちを見た。
周囲の視線など気に留める様子もなく、啓太は笑いを堪えながら大声で説明しはじめる。
「土岐川からは、確かに告られたよ。でも、断った」
私は耳を疑った。
一生に一度あるかないか、ひょっとしたら最初で最後かもしれない愛の告白を、人生の大チャンスを、深く考えもせず拒絶したというのか、この男は。
しかも相手は玲香。表現は悪いが、啓太にとっては棚から落ちてきた牡丹餅、葱を背負ってきた鴨ではないか。
今更ながら、啓太の浅はかさに眩暈を覚えた。
「でも、どうして……?」
「他に好きな人がいるってね。で、今はただの友達だ」
――他に好きな人がいる。
この一言は、好きではない相手から告られた時に、やんわりと断るための常套句だ。同時に、モテ男君だけの専売特許であるはずの魔法の言葉でもある。啓太には、身分不相応というものだ。
「それ、本当?」
「ああ、本当だ」
私の前には、微塵の迷いもなく、自信に満ちた表情で笑っている啓太の姿があった。余りに自信ありげな啓太の笑顔に釣られてクスリと笑う私の前で、啓太は鼻を膨らませながら胸を張った。
羞恥心という感情を持ち合わせていないらしい啓太は、相変らず周囲の好奇の目を気にすることなく続ける。
「そんなことより今、俺がするべきなのは、お前の隣でお前が暴走しないか目を光らせる事だ」
これが、幼馴染、腐れ縁というものなのだろうか。それとも、阿吽の呼吸というヤツか。
どっちが阿でどっちが吽かはわからないが、啓太の存在は取り敢えず、私の心を軽くしてくれた。
いや、勇気をくれたと言ってもいいかもしれない。
私は、肩に掛けたバッグにそっと手を入れると、お守りを今一度、ぎゅっと握る。
さっき、このお守りは、止まっている電車を動かしてほしいという私の願いを叶えてくれた。そして、玲香と啓太は付き合っていない。
諸々の事情を鑑みるに、このお守りはきっと玲香と啓太のためではなく、私自身のために私に買われ、このバッグに入っていたのだ。
私は、啓太と並んで会場に向かいながら、啓太に尋ねた。
「ねえ啓太、高畑神社の御利益って知ってる?」
「高畑神社って、高畑先輩の実家のか。行った経験がないから、詳しくは知らないなあ。でも何でだ?」
「何でもない」
私はバッグに手を入れたまま、そっとお守りの労を労った。
――お役目、ご苦労様。
*
会場に入ったのは、ちょうど開演の時間だった。
私と啓太が数日ぶりに言葉を交わしている間に、先ほどまで会場の前にいた大勢の人々は、既に観客席に吸い込まれてしまったらしい。エントランスの人影は、まばらになっていた。
私たちは、受付の横をそっとすり抜け、何気ない顔で控室がある廊下へと向かう。
他の多くの学校の場合、予選がおこなわれた地域ごとに二~三人ずつで一つの控室を使うことが多いが、我が校は二人が出場しているため、一校で一室を使っている。
部屋の前に下がっている札を確認しながら廊下を進むと、「藤桜学園高校様」と書かれた札が下がっている部屋があった。
私は、コンコンと軽くノックし、ドアを開ける。啓太も続く。
控室の中には、佐伯先生が一人で佇んでいた。先生は、驚いた表情で私たちを見た。
「どうしたんだね」
私は、佐伯先生の優しい瞳に絡め捕られないように、強い気持ちで返事をする。
「先生に、ぜひお伝えしたいお話があったので来ました。言いにくいお話ではあるんですが……」
言い淀んでいると、啓太が背中を軽く小突いた。私は思わず背筋を伸ばす。
「龍崎先生の死に関する内容で、三つほどお話させてください」
先生はしばらく考えていたが「いいでしょう」と答えてくれた。
「ただし、今は佐倉君の演奏中で、次は高畑君の番だ。高畑君はもうすぐ戻ってくるから、短めにね」
「有り難うございます!」
私は、深々とお辞儀をしながら、覚悟を決めた。さあ、今からここが、私のステージになる。もう後戻りはできない。
私は、深呼吸をすると、静かに口を開いた。
「三つのお話のうち、まず一つめからお話したいと思います。龍崎先生の未発表曲、『汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ』についてです。あの曲は先生が作曲されたんですよね?」
私は話しながら、横目でちらりと先生の反応を確かめた。
「ああ、その通りだ。ただ、今はもう龍崎先生の作品だから、未練はないけどね」
先生は、全く動揺する素振りを見せない。それもそのはずだ。ここまでは、先日、レッスンの後で先生と話した内容なのだから。
私は、すかさず二の矢を放つ。
「あの曲のサブタイトルは、『ブルネットのいざない』でした。そして、男色で地獄に堕ちたブルネットは、先生ご自身。私、考えたんです。先生はなぜ、ご自身をわざわざ、ブルネットになぞらえたのか。そして、いったい誰をいざなっているのかって……。ひょっとしたら先生は、先生ご自身が龍崎先生を地獄にいざなうという意味を込めて、あの曲を書いたんじゃないですか」
私は今一度、居住まいを正し、先生の目を正面から見詰めながら尋ねた。
「佐伯先生、先生はゲイであることで、龍崎先生に脅されていたんですよね」
佐伯先生の顔色が、少し変わった。恐らく、図星だったのだろう。私は、申し訳ないと思いながらも続ける。
「先生は、脅迫に抗えないご自分を、自嘲的な意味も込めて男色家のブルネットになぞらえた。そして恐らく、龍崎先生を地獄にいざないたいという思いを込めて、あの曲を書いた」
先生は、私の話を否定するでも肯定するでもなく、にこりと笑った。ちょっと、悲しそうな顔に見えた。
「鷺沢君、ほぼ君の推測通りだ。ただ、一つ付け加えるならば、私はゲイであるだけでなく、HIV感染者でもあるんだよ」
一瞬、部屋の中の時間の流れが、止まった気がした。
またしても、聞いてはいけない話を聞いてしまった事に、私は激しく動揺した。啓太も、明らかに動揺している様子だった。
どのような言葉を発すればいいのかわからず、私は悪戯を見咎められた小学生のように、小さな声で「ごめんなさい」と謝罪した。
「君が謝る必要はない」
佐伯先生は、俯き加減の私の顔を覗き込むようにしながら、小さく笑った。
「私はゲイである事実よりも、むしろHIV感染者である事実で、龍崎先生から脅されていた。私は、自分がHIV感染者である事実だけは、絶対に学校関係者に知られてはならないと思っていた。なぜなら、私はHIV感染者たちに対する目に見えない差別を、今まで随分と目にしてきたからね」
佐伯先生は、私から目を逸らすと、悲しそうに宙を見つめ、静かに息を吐いた。
「私は怖かった。だから、龍崎先生の言いなりになるしかなかった。本当は龍崎先生の陰ではなく、佐伯という音楽家として生きていきたいと願いながらも、私にはその勇気がなかったんだ。鷺沢君、君は、私のことを弱い人間だと軽蔑しているのかな」
私は、強い口調で佐伯先生の言葉を否定した。
「そんな事はありません。先生にとって、この曲は龍崎先生に対する精いっぱいの抵抗だったんだと思います」
今、ここで佐伯先生の顔を見たら、これ以上は言葉を続けられなくなってしまいそうな気がした。
私は、佐伯先生の表情から敢えて顔を逸らし、先生の足元に視線を移しながら言葉を繋ぐ。
「そして、二つめの話。龍崎先生の死についてです。龍崎先生の死は一見、自殺のように見えますが、私には他殺であるように思えたんです。なぜなら、先生は秘密主義で有名で、ご自分がいる時も、常にご自分の教員室の鍵を閉めているほどでした。でも、私と啓太が県大会の朝、八時前にプログラムを探しに入った時には、教員室の鍵が開いていました。きっとこの時、教員室の中ではすでに何かが起こっていたんだと思います」
何か。それは、龍崎先生の殺害に関する一連の行動の一つに他ならない。
「なるほど。もしよかったら、聞かせてくれないかな、その何かについて」
「はい。私が鷹水君と龍崎先生の教員室に入った時、ピアノの上には遺書はありませんでした。でも。遺体発見時には遺書があった。私は当初、遺書が置かれたタイミングから、龍崎先生の殺害は、私と啓太……、鷹水君が教員室を後にした、八時以降におこなわれたと信じていました。でも、もしそうだとすると、死亡推定時刻の八時三十分までに首吊り自殺に見せかけて先生を殺すのは、不可能に近い。抵抗する龍崎先生の首に紐を掛けて、窒息死させなければならないわけですからね。そこで、殺害が八時以前におこなわれたと仮定してみました。すると、あるトリックを使えば、首吊り自殺に見せかけて殺すのが可能であるという事実に気付きました」
「どんなトリックなんだい」
佐伯先生は、相変わらずの優しい口調で、私を促す。
口調の優しさは、動揺を表に出すまいとしているためなのか、あるいは本当に動揺などしていないのか。私は、できるだけ考えないように努めた。
「龍崎先生が亡くなられたのは、十月七日月曜日の早朝でした。でも、その準備は、前日、あるいは二日前に既にはじめられていたのかもしれません。まず、前日、あるいは二日前の昼間、教員室で龍崎先生に睡眠薬が入った飲み物を飲ませます。先生が意識を失ったところで、身動きが取れないように食品ラップで上半身、そして足首をグルグル巻きにします」
「食品ラップ?」
「普通に手を縛ったりすると、亡くなられた後に痕跡が残るので、警察はすぐに殺人だと気付きます。でも、食品ラップは体を締め上げるわけではありませんから、痕跡が残らないようにしながら自由を奪えます。遺体を発見した直後の現場の様子が撮影された写真に、食品ラップの切れ端っぽいものが写り込んでいました。だから私は、食品ラップが使われたのではないかと思ったんです」
「ほう」
佐伯先生は、他人事のように感心した。
「次に、食品ラップで身動きが取れなくなった龍崎先生を、壁際で低い椅子のようなものの上に座らせ、首に紐を掛けます。椅子のようなものは箱でも、あるいは積み重ねた本でもいいんですが、高さは恐らく十五㎝ぐらいでしょう。あとは、龍崎先生が目を覚まし、薬が抜けるのを待つだけ」
「何日も前にそんな行為をすれば、誰かに発見されるんじゃないのかな」
「その可能性もゼロとはいえません。でも、土日の日中は体育系をはじめとする一部の部活がありますから、生徒の学校への出入りは比較的自由ですし、第三校舎三階の端にある教員室は体育系の部室から離れているので、人が来ることはまずありません。おまけに、犯行がおこなわれたのは防音室ですから、どんなに叫んでも、声が外に漏れることはありません。しかも、龍崎先生は独身でいらっしゃいましたから、週末に自宅に帰らなくても、誰にも怪しまれません」
「仮に、夜の間に警備員が来ても、防音室の中なら見つかる可能性は低いね」
佐伯先生が、私の仮説を補足した。
「はい。恐らく、犯人は昼間にそれだけの準備をしておき、夜になる前に鍵を掛けて教員室を後にしたのでしょう。犯人が再び教員室を訪れたのは、恐らく薬が完全に抜け切ったと思われる月曜の朝。そこで犯人は、龍崎先生のお尻の下に敷かれていた椅子を外します。龍崎先生が亡くなられた後、体に巻かれた食品ラップを手早く外せば、首吊り自殺に見せかけた殺人は完成します」
私は目を閉じた。
きっと龍崎先生は、想像を絶する恐怖と絶望を感じながら、亡くなられていったに違いない。龍崎先生の無念さを思うと、胸が痛い。
「鷺沢君、君は一人でそこまで考えたのかい?」
目を開けると、佐伯先生が驚いた様子で私をじっと見ていた。
「はい。私が考えました」
嘘をつく道理もない。私は正直に答えた。
「いや、たいしたものだね」
佐伯先生は、感心したような、呆れたような表情を見せた。
私は、予想していなかった佐伯先生の褒め言葉に、思わず身を固くした。
*
不意に、控室のドアが開いた。
私たちは、一斉にドアの方向に顔を向けた。
――先輩。
高畑先輩だった。私は、驚きのあまり、思わず両手で口元を押さえた。
「高畑君、今の話、聞いていたのかね」
佐伯先生が、高畑先輩を凝視しながら、動揺を隠しきれない様子で尋ねた。
「はい、最初から聞いていました」
高畑先輩は、表情を崩す事なく答えると、静かに歩を進める。そのまま、部屋の隅に置かれていたパイプ椅子にゆっくりと腰かけた。
高畑先輩に話を聞かれているというのは、想定外だった。
私は一瞬、どうしていいかわからず、啓太の顔を見た。
先程まで、私と佐伯先生の様子を見詰めていた啓太は、今は部屋の隅で腕を組み、やや俯き加減のまま微動だにしない。
続いて、高畑先輩を見る。先輩は、私の目を見ると、いたって冷静な表情で言った。
「私の事なら、お気になさらないで。お話を続けてください」
高畑先輩に勇気をもらった私は、話を続ける。
「最後に、三つめの話。それは、誰が龍崎先生を殺したのか、という話です。先生が、もし八時以降に殺されたとすると、八時以降にアリバイがある人は、全て容疑者リストから外れます。私も啓太も、高畑先輩も、そしてもちろん、佐伯先生も。でも、殺害が八時以前におこなわれたとしたら、八時以前にアリバイがない人は、全員が容疑者リストに載ることになります。私は、八時以前にアリバイがない容疑者リストを頭の中で思い浮かべた結果、犯人を突き止めることができました。龍崎先生を殺害した犯人、それはあなたですね、高畑先輩」
佐伯先生の顔が強張った。
「おい、もうやめろよ」
横に立っていた啓太が、私の肩に手を伸ばそうとした。私は体をかわしながら啓太を振り向くと、啓太の大きな目を真っ直ぐに見詰める。
「啓太、お願いだから、今は何も言わないで私の話を聞いて」
啓太は、私の言葉に一瞬、躊躇いの表情を見せ、手を引っ込めた。私は、再び高畑先輩に視線を戻す。
高畑先輩は、全く表情を変えていなかった。
「どうして、私が犯人だと思われますの?」
高畑先輩は、落ち着き払って言い放った。高畑先輩の落ち着きぶりに、逆に私のほうが動揺しそうになった。
私は、高畑先輩の雰囲気に飲まれないように、種明かしに集中する。
「先輩が犯人と思われる理由の一つめ。それは、紐の結び方です。龍崎先生の首に巻かれた紐の結び目は、叶結びでした。叶結びは、おもに神社などで用いられる飾り結びの一種で、かなり特殊な結び方です。高畑先輩は、実家が神社でいらっしゃいますよね。ならば、叶結びに慣れ親しんでいるはず。私はそう考えました。そしてもう一つは、ペンです」
「ペン?」
高畑先輩が、不思議そうに呟いた。
「犯行当日の朝、私と啓太、鷹水君が龍崎先生の教員室に入った時、私は防音室のドアの横にピンク色の水玉模様のペンが落ちているのをちらっと見ました。あれは、高畑先輩、あなたのペンですよね」
私は、去年の春、高畑先輩にサインをもらった時のできごとを思い浮かべた。
「覚えていらっしゃいますか。去年の春、入学したての私が先輩にサインをお願いした時、先輩はピンク色の水玉模様のペンでサインをしてくださいました。その時、先輩はペンについて、実家の神社で売られているオリジナルのペンだとおっしゃいました。とても可愛いペンだったので、今も覚えています。現場に落ちていたのは、まさにそのペンでした。つまり、私と鷹水君が龍崎先生の教員室に入る前、先輩も部屋に入っていたんですよね」
高畑先輩は、顔色一つ変えずに、私の話を黙って聞いていた。
「そして、一連の犯行の中で、不覚にもペンを落としてしまった……」
高畑先輩の表情を肯定の印と受け止めた私は、一度皆から視線を外し、頭の中を必死に整理する。ええと、次は遺書の話だ。
「でも、ここでひとつ、疑問が残ります。その疑問とは、遺書です。地区大会の日の朝、私と鷹水君が龍崎先生の教員室に入った時、防音室のピアノの上に、遺書は置かれていませんでした。でも、遺体発見時には、遺書があった。しかし、その遺書は龍崎先生の未発表の曲のタイトルを切り抜いたものでした。曲のタイトルを切り抜いて遺書を偽造した人物。それはあなたですよね、佐伯先生」
私は、今度は佐伯先生に視線を移した。
佐伯先生は、黙ったまま、唇を噛んでいた。高畑先輩が戻ってくる前、私がトリックについて説明していた時とは打って変わって、明らかに動揺していた。
「あの朝、私たちを探していた先生は、私たちが龍崎先生の教員室を出たのと入れ違いで教員室に入り、偶然にも龍崎先生の遺体を発見した。先生は、すぐに高畑先輩の犯行だと理解した。理由はひもの結び方か、ペンの存在か、あるいは高畑先輩の殺意に近い気持ちに以前から気付いていたのか。それは私にはわかりません。いずれにしても、高畑先輩を庇うため、龍崎先生の死をより自殺っぽく見せようと考えた先生は、龍崎先生の未発表曲の中から、遺書めいた一文を抜き出し、ピアノの上に置く決心をした」
龍崎先生の未発表曲の楽譜は、元はと言えば佐伯先生がつくった曲を、龍崎先生が書き写したに過ぎない。そんな曲の中から、佐伯先生が遺書めいた言葉を探し出すのに、それほど時間は掛からなかったはずだ。
「佐伯先生。先生は、龍崎先生の楽譜の中から『一切の望みを棄てよ』の一文を、すぐに見つけられたはずです。先生は、楽譜からその一文を破り取り、周囲をハサミか何かで奇麗に切り揃えてから、ピアノの上に置いた。そして、何事もなかったかのように、バスに戻り、大会に出発した。そうなんですよね?」
佐伯先生は、口をへの字に曲げたまま、目を閉じていた。
「あの朝、君たちにプログラムを取りに行ってもらった後、思い出したんだ。前の週の金曜日、龍崎先生がプログラムを見たがっていたので、私たちの教員室にではなく龍崎先生の教員室にプログラムを届けてもらった事をね。そこで、教員室を覗いた後、念のため龍崎先生の教員室に行ってみた。教員室の鍵は、鷺沢君が言うように開いていた。そこで、部屋に足を踏み入れた私は、見てしまったんだ」
「龍崎先生のご遺体を、ですね」
佐伯先生は、返事をしなかった。まるで、これ以上思い出す行為を拒否しているかのようだった。
「実を言うと、申し訳ないんですが、最初、私は佐伯先生を疑っていました。でも、先生は事件当日の朝七時以降、ずっと鷹水君と一緒でした。死亡推定時刻の七時から八時三十分までの間で、先生のアリバイがないのは、私と鷹水君を探しに行った、ほんの数分の間だけです。その数分で全ての犯行をおこなうのは、ほぼ不可能です。そう考えたとき、犯人はペンの本来の持ち主である、高畑先輩以外にあり得ない。そういう結論に辿り着いたんです」
佐伯先生も高畑先輩も、そして啓太も、私の告白を無言のままで聞いている。
「それにしても高畑先輩は、現場に多くの遺留品を残してしまいました。きっと、物凄く焦ってらしたんですよね。私が同じ状況でも、先輩と同じように、いえ、それ以上に焦ってしまったと思います」
「それはどうかしら。あなたなら、意外に冷静にできるかも知れませんよ」
高畑先輩は、明らかなお世辞を口にした。こんな場所で不謹慎な気もするが、憧れの先輩からもらうお世辞は、ちょっと嬉しかった。
「でも、なぜ私が龍崎先生を殺さなければならなかったのかしら」
お世辞に続いて、高畑先輩が刃物のように鋭い疑問を口にした。
「高畑先輩。あなたは、佐伯先生がご自分のオリジナル曲を弾かれるのを、時々お聞きになっていらっしゃいましたよね。申し訳ないんですが、私、先輩が佐伯先生の演奏をお聞きになっている場面を、見てしまった経験があるんです。恐らく先輩は、龍崎先生が佐伯先生の曲を自分の作品として発表し、名声を得ている事実を知っていたのではないですか。それで、佐伯先生を助けるために……」
そこまで一気に喋った私は、はっとした。
「ひょっとして、佐伯先生がHIV感染者であるという事実も……」
私が最後の一言を発することを拒否するように、高畑先輩が口を開いた。
「概ね、あなたのおっしゃる通りよ。中学校時代までは、ピアノが好きなだけの平凡な生徒に過ぎなかった私は、高校で先生に出会って生まれ変わったの。自分でも信じられないほどに上達し、難しい曲が思い通りに弾けるようになった。それも全て、佐伯先生のご指導のおかげ。私にとって、佐伯先生は先生以上の存在。恩人、いえ、神に近い存在と言っていいかもしれない」
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