第10話

十月二十五日金曜日


 啓太に襲われてから、一日がたった。今朝、教室で一度声を掛けられたが、あらん限りの力を振り絞り、全力で、脱兎の如く走って逃げた。その後、不覚にも教室や廊下で何度かすれ違ったが、声を掛けられることはなかった。

 放課後、いつものように佐伯先生のレッスンがあった。

 昨日、私は佐伯先生から、思わぬ告白を聞いてしまった。

 だから正直、今日のレッスンは気が重かった。

 しかし、私のその思いは杞憂に終わった。今日のレッスンでは、最初から最後まで、昨日の告白に関する会話が交わされることはなかった。

 私の演奏を聞いた先生が、優しい笑顔を浮かべながら、その都度、的確なアドバイスをくれる。私はその言葉の一つ一つに頷きながら、再び鍵盤を叩く。

 佐伯先生は、昨日のできごとをすっかり忘れてしまっているのではないか。そう錯覚してしまいそうなほどに、いつも通りのレッスンだった。

 いつも通りのレッスンを、いつものように終えた私は、佐伯先生に頭を下げるとレッスン室を後にし、教室へと足を向けた。

 妙な緊張感から解放されて、私は歩きながら深呼吸をする。深呼吸をすると、通常モードに戻る気がした。

 と、龍崎先生の死に関する疑問が、これまたいつものように頭をもたげてきた。

 先生の死にこんなにも固執している自分が、今更ながら不思議だった。

 啓太の言う通り、私は少しおかしいのかもしれない。

 でも、たとえ啓太におかしなヤツと思われようとも、余計な詮索をやめるつもりは毛頭なかった。

 ――高畑先輩にも応援してもらってるんだから、頑張らなくちゃ。

 少しずつ、真相に近付いている。根拠はないけれど、そんな気がしていた。

 遺書の文面は、龍崎先生の未発表の曲から切り抜かれたものだと判明した。

 あとは殺害方法、そして犯人だ。

 普通に考えると、大の大人を首吊り自殺に見せかけて殺すなんて、不可能だ。

 しかし、もし犯人が食品ラップを使ったなら、その不可能が可能になるかもしれない。

 私は、無意識のうちに心の奥底に仕舞い込んでいたもう一つの可能性について、確認してみる決心をした。

 ――あの人に聞いて、確かめてみよう。

 私は教室の前まで行くと、踵を返す。

 第一校舎へと繋がる渡り廊下を進み、校舎に入ったら廊下を右に曲がる。その部屋は廊下の突き当り、右側にあった。

 私は、「警備員室」と書かれた札が掛かったドアの前で立ち止まる。

 今は午後七時前。夜間の警備は午後七時からだから、もう担当の警備員さんが来ているはずだ。

 そんな予想をしながらドアを軽くノックをすると、案の定、中から「はい」と返事があった。

 私は、「失礼します」と軽くお辞儀をしながら、中に入る。

 広さは、六畳ほどだろうか。

 部屋の中央奥には仮眠用の簡単なベッドが設えられている。

 入り口の右側には机があり、机の上の小さな本棚には、背に年月らしき数字が書かれたバインダーが並んでいる。恐らく、過去の日誌なのだろう。

 机の前には、椅子に座って日誌らしきノートを広げている警備員さんがいた。年齢はよくわからないが、多分六十代後半ぐらいだと思う。

 白いものが混じった髪の毛をきちんと七三に分け、目には老眼鏡らしき眼鏡を掛けている。とても温厚そうに見えたので、私はひとまずほっとした。

「お忙しいところ、すみません。ちょっと伺いたいお話があるんですが」

 私は、もう一度頭を下げた。

「いや、日誌で申し送り事項を確認していただけだから、構わないよ。それより、何の用だい?」

 警備員さんは優しく微笑んだ。笑った時、目尻に小さな皴が寄った。

「警備員さんのお仕事についてお聞きしたいんですが」

 私の言葉に、警備員さんは、今度は大きな声で笑った。

「何かと思えば、そんな話かい。お嬢さんは、将来警備員にでもなるつもりなのかな」

「いえ、そういうわけじゃないんですが……。警備員さんって、夜、校舎内を見回りますよね」

 警備員さんは一瞬、怪訝そうな表情をしたが、すぐに笑顔に戻る。

「ああ、そうだね。一応、三時間おき、二十一時と零時、三時、六時に全校舎の全フロアを回るよ」

「その時、教室やレッスン室、教員室の中も確認するんですか」

「うん、外から簡単にね。でも、中には入らないかな。部屋にもよるけど、レッスン室や教員室には鍵が掛かってるからね」

 普通なら、「いい天気ですね」とか「お仕事、大変ですね」などと世間話を挟みながら、自然な流れで少しずつ進めるべき会話なのだろう。

 でも、少しでも早く答を聞きたい今の私には、そんなセオリーを踏襲する余裕などないし、そもそも私は自分からそんな会話の流れをつくり出せるほど、人間としてできていない。

 私は一切のセオリーを敢えて無視しながら、質問を続ける。

「部屋に鍵が掛かっているか、確認はするんですか?」

「鍵かい。一応、鍵は確認するね。で、もし開いていたら、中に入って異常がないか確かめるな」

 夜中に一人で真っ暗な校舎の中を歩き回り、鍵が開いていたら中に入って確認する……。

 私は自分が警備員になった場合を想像して、身震いした。

 きっと、警備員になるには魔王退治に旅立つ勇者並みの勇気が必要だ。私のような小心者には、絶対に務まりそうにない。

 私は今更ながら、目の前にいる警備員さんの偉大さに、ささやかな感動さえ覚えた。

「じゃあ、例えば龍崎先生の教員室とかは、鍵が掛かっていたら、中の防音室に人がいてもわかりませんよね」

「龍崎先生……。ああ、先日亡くなられたあの先生か。そうだね、電気が点いていれば誰かがいるかもしれないと考えるけど、消えていたらわからないかもしれないね」

 警備員さんが、老眼鏡越しに私の顔を見つめた。

「最後の見回りは六時っていうお話でしたよね。それなら、例えば月曜の朝六時以降、誰かが龍崎先生の教員室に行ったり、教員室の鍵を開けっ放しにしたりしたら、気が付きますか?」

「六時過ぎだったら最後の見回りも終わってるし、野球部みたいに六時過ぎぐらいに朝練習がはじまる部もあるからね。多分、先生や生徒さんが部屋に出入りしても気が付かないし、とくに怪しんだりはしないかな」

 一生懸命、質問に答えてくれている警備員さん。しかし、その表情は、女子生徒から矢継ぎ早に繰り出される質問の数々に、ちょっと戸惑っているようにも見えた。

 ただ、私にはまだまだ聞きたい話がある。私は、遠慮と忖度という言葉を胸の奥に封印しながら、畳み掛ける。

「ところで、警備員さんたちは、土日の昼間も警備されてるんですよね」

「ああ、土日は昼間にも校内全体を見回ってるよ。体育系の部活があって生徒の学校への出入りは比較的自由だから、見るのは変わった事がないかぐらいだけどね」

「例えばなんですけど、第三校舎三階の端にある教員室、龍崎先生の教員室付近は、土日の昼間に人が行き来してたらわかりますか」

「あの辺りは、人の出入りが激しい体育系の部室からも離れているからねえ……。多分、行き来する人がいても、誰も気付かないんじゃないかな」

 警備員さんが、ちらりと腕時計を見た。恐らく、勤務時間のはじまりを気にしているのだろう。

 私は、警備員さんが気の毒に思えて、次の質問を最後にしようと心に決めた。

「最後に一つだけ、いいですか。今までのお話から考えると、夜はもちろん、土日の昼間、龍崎先生の教員室にある防音室で何かが起こったとしても、誰も気付かない可能性が高いって考えてもいいんですよね」

「そうだね、絶対とは言えないが、その可能性は高いかもしれない。防犯カメラが設置されているわけじゃないしね。でも、いったいなぜ、そんな質問を?」

 逆に、警備員さんに質問された。

「いえ、何でもないんです」

 聞いてばかりで質問に答えないのはフェアじゃない気がしたが、まさか「龍崎先生を殺した犯人を捜しています」とは言えない。

 私は「有り難うございます!」と今一度、深く頭を下げると、足早に警備員室を後にした。

「気を付けて帰るんだよ」

 後ろから、警備員さんの心配そうな声が聞こえた。

 そうだ。啓太に襲われないように、気を付けなきゃ。


         *


 その夜、私はベッドの上で、眠れない夜を過ごしていた。

 龍崎先生の殺害方法は、現場に残された食品ラップと警備員さんの話から、私の中で昨日の夜よりもさらに具体的な像を結びはじめていた。

 ――犯人は、睡眠薬を使った。恐らく、それは間違いない。

 ただ、龍崎先生を殺害した犯人が誰なのかについては、未だ確信がもてないでいた。

 まだ何か、私自身の記憶の中に、手掛かりがある気がする。

 私はゆっくりと目を瞑る。

 自分の目で見た事件当日の教員室の景色を、改めて思い浮かべた。

 防音室のドア付近に見えた、あの日の景色。

 プログラムを探すために啓太と龍崎先生の部屋に入った時、私は防音室のドア付近に何かを見たのではなかったか。

 でも、いったい何を見たのだろう。

 ――思い出せ、環。

 目を閉じたまま、心を努めて平穏に。夢と現実の間に身を委ねながら、脳の最深部にある記憶の欠片を丹念に拾い集め、繋ぎ合わせる。

 砂の城が波に洗われて崩れる様子を逆再生するように、あの時の情景が少しずつ形をつくりはじめていく。

 最初、ぼやけていたその情景は、やがてはっきりとした形となって、私の瞼の裏に現れた。

 防音室のドアのすぐ横に、何かが落ちている。

 ――ペンだ!

 それは、軸全体に牡丹色の小さな丸が無数に描かれたペンだった。

 ――そうだったんだ!

 その瞬間、私の中で、断片的な手掛かりの全てが一つに繋がった。

 私は、枕元にある目覚まし時計を見た。

 十月二十六日、土曜日。

 高畑先輩と、一年生の佐倉希美が出場する地区大会の当日だ。

 時間は午前二時十四分。地区大会まで、あと八時間ほど。

 引率である佐伯先生も、会場に行く。そして、佐伯先生は、この地区大会を最後に学校を去る。

 ――チャンスは、今日しかない。

 地区大会の会場という場所が、私がやろうとしていることにとって、ベストの場所かどうかはわからない。しかし、思い付いたらやらずにはいられないのが、よくも悪くも私の性格だ。善は急げ、なのだ。

 それに、今の私は、龍崎先生の身に何が起きたのか確かめようと、既に心を決めている。ここは、腹を括るしかない。

 私は、目覚まし時計を手に取ると、アラームを午前八時にセットした。

 その後、アラームをセットし損なっていないか、何度も何度もチェックした。

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