第9話
十月二十四日木曜日
今年一番の重大事件以降、私は相変わらず、啓太と会話らしい会話をしていない。
唯一、交わした言葉と言えば、今朝、教室で会った時の「おはよう」という在り来たりの挨拶だけだった。
だから私は今、こうして学生食堂の一番隅の席で、一人トルコライスを食べている。
私の席から見て、食堂スペースの反対側にあたる隅の席では、啓太と玲香が談笑しながら弁当を食べていた。
本当は、破られた楽譜が遺書の偽装に使われたかもしれないという推測を、刑事さんたちに知らせるべきかどうか、啓太に相談したかった。あるいは、刑事さんたちに知らせる前に、破られた楽譜とそのタイトルについて、佐伯先生に確認したほうがいいのか。その点についても、意見を聞きたかった。
相談したい話は、山ほどあった。
でも、今は啓太の恋路を邪魔するわけにはいかない。だいたい私は、殺人事件などという物騒な話題を持ち出して、人の恋路を邪魔するほど野暮ではない。
とは言ってみたものの、今の二人から放たれている未知のオーラが、私に近寄る行為をためらわせているというのが、正直な話だった。
当然のように、高畑神社のお守りも、未だ渡せていない。
私は、仲睦まじい二人の光景を見ながら、決心する。
今日のレッスンで、佐伯先生に疑問をぶつけてみよう。
――私も子供じゃないんだから、一人で何とかしてみせる。
そう、私はできる子。啓太の力なんて、必要ない。
決意も新たに、私は熱々のコンソメスープを飲み干した。
舌に纏わり付く熱さに、思わず涙が出た。
食堂の向こうでは、啓太が幸せそうに笑っていた。
*
放課後のレッスンは、いつもとちょっと違う雰囲気になった。
私は、モヤモヤした気持ちを晴らすかのように、佐伯先生の前で一心不乱に、修羅のごとき形相で鍵盤を叩き続けた。
今日の「ラ・カンパネラ」は、恐らく「゛ラ・ガ゛ンバ゛ネ゛ラ」になっているに違いない。
佐伯先生は、そんな私の魂の演奏を、腕組みをしたまま目を瞑って聞いていた。
演奏を終え、肩で息をしている私を前に、笑みを浮かべる佐伯先生。
「今日の演奏は、やけに気合が入っているね」
笑顔を崩さず、しかし真面目な口調で続ける。
「冒頭の右手の跳躍の部分は、なかなかダイナミックにできている。県大会でも今日と同じぐらい思い切りよく弾けていたら、もう少しいい印象を残せたかもしれないね。ただ、この曲に限ったことではないけれど、曲というものは、演奏者が十人いれば、十通りの解釈ができる。楽譜を追って勢いよくダイナミックに弾きこなすだけでなく、ドラマティックに盛り上げるべきなのか、聞いている人の心に徐々に沁み込んでいくような抒情的な演奏をするべきなのか、自分なりの解釈をもっと深めていけば、さらにいい演奏に繋がっていくと思う」
先生は、いつものように優しい笑顔でアドバイスをくれた。私は、先生のアドバイスを胸に受け止め、心の中に仕舞い込む。
「じゃ、今日のレッスンはここまでだ。次のレッスンまでに、自分なりの解釈を見つけられるよう、努力してみよう」
レッスンを終えた佐伯先生は、資料を纏めて右手に抱えた。
「先生、ちょっと待ってください」
私は、部屋を出ようとする佐伯先生を呼び止めた。
今こそ昨日の夜、寝る時間を惜しみながら考えに考えた末の計画を、実行する時だ。
先生が振り向くのを確認して、私は鍵盤に左手を静かに置いた。
曲目は、「ダンテを読んで」。
もちろん、私みたいに平凡な生徒が簡単に弾きこなせる曲ではない。
演奏をはじめてはみたものの、ペダリングも無茶苦茶だし、音を追うのに必死で、テンポをコントロールする事もままならない。事あるごとに間違え、躓く。自分の実力不足に泣けてくる。
それでも、私は粘り強く指を動かし続け、序盤のほんの数分を何とか弾き終えた。
弾き終えて、先生の方を振り向いた。私が呼び止めたとき、部屋のドア近くに佇んでいた先生は、気が付くと私のすぐ横に立っていた。
「この曲、高畑先輩が今年のコンクールで弾かれてる曲ですよね」
痙攣しそうなほどの指の疲れに耐えながら、私は先生に尋ねた。
「ああ、リストの『ダンテを読んで』。僕と高畑君で相談して決めた曲だ」
「ダンテ、お好きなんですか?」
先生は、ちょっと不思議そうな顔をした。私の質問が、予想以上に唐突だったせいかもしれない。
「ダンテがかい? ああ、好きだよ」
ちょっとの間を置いて、先生はいつもの笑顔を取り戻すと、譜面台の横に手を置く。
「ヨーロッパでは、昔から音楽と文学は、切り離せない存在として、お互いに影響を与え合ってきた。バロック時代の音楽は、そのベースが宗教音楽であり聖書とは切り離せない存在だし、シューマンやリヒャルト・ワーグナーに代表される十九世紀のロマン派は、音楽と文学の融合をさらに高い次元で見事に融合させてみせた」
今、先生は、一つ一つの言葉を選ぶように、最大の誠実さをもって私の疑問に答えてくれている。
「もう随分と昔の話だが、先生はこう見えて、ヨーロッパに留学していた時期もあったんだ。その時、ヨーロッパの音楽を学ぶなかで、多くの文学作品にも触れた。ダンテの『神曲』も、その一つだった。失意のどん底にいたダンテ自身が、地獄と煉獄、天国を巡ることで、人間性の復興を目指す。そんな『神曲』の内容は、さまざまなプレッシャーに押し潰されそうになっていた先生の心に、一筋の光を与えてくれた気がした。そういう意味では、ダンテ、いや『神曲』は、僕にとって命の恩人のような存在なのかもしれない」
私は、目の前にある鍵盤と、女性のそれのように細く繊細な先生の指を交互に見ながら、呟いた。
「汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」
佐伯先生は、驚いた表情で私を見た。
「龍崎先生が書かれた、未発表曲のタイトルです。県大会の日の朝、プログラムを探しに行った時、啓太……、鷹水君と入った龍崎先生の教員室で、楽譜を見掛けました。私、不思議な気持ちになったんです。以前、先生は高畑先輩の前で、ご自分がつくられた曲を弾いていらっしゃった時がありましたよね。私、教室の外でこっそり聞いてしまったんです。その時の曲と、龍崎先生の楽譜に書かれている曲は、そっくりでした。いや、二つの曲は、きっと同じ……」
先生は、私の言葉を遮るように言葉を発した。
「鷺沢君、君の言う通りだ」
ちょっと考えるような仕草を見せ、やがて何かを諦めたような表情で、ゆっくりと語りはじめる。
「確かに、君が言う二つの曲は同じ曲だ。私は三年前まで、とある中学校の非常勤講師に過ぎなかった。そんな時、龍崎先生に才能を認めてもらったんだ。先生の推薦で、この学校にも入る事ができた。ただ、その条件は、私が作曲した作品を、龍崎先生名義で発表するというものだった。私は龍崎先生という、私にとって雲の上の存在ともいえる人物に評価されて嬉しかった。だから、龍崎先生の影になろうと心に決めたんだ」
感情を押し殺したかのように、淡々と語る佐伯先生。
やはり、私の推測は当たっていた。
今更なのだが、私は佐伯先生の話を聞きながら、数年前に世間を騒がせた著名作曲家のゴーストライター事件を思い起こしていた。あのニュースを聞いた時は、まるでフィクションの世界を垣間見ているような心情だったが、まさかこんな身近に同じような人間関係が存在していようとは、夢にも思わなかった。
先生の告白を驚きをもって聞きながら、私は新しい謎を思い出した。
「もう一つ。なぜ、サブタイトルが『ブルネットのいざない』なんですか。私、ちょっと調べてみたんですが、ブルネットというのは、『神曲』に登場するブルネット・ラティーノを表しているんですよね。男色で地獄に落とされたという説もある人物です」
先生は、先程にも増して驚いた表情になった。
「そこまで気付いていたのか。驚いたな」
先生は一呼吸置くと、意を決したような口調で、驚くべき言葉を発した。
「実は、私はゲイなんだ」
余りにも唐突な一言だったので、私には最初、その言葉の意味が理解できなかった。
数秒の後、言葉の意味をようやく理解すると、今度は自分の耳を疑った。
――私の聞き間違い?
そう思ってしまうほどに明るく、軽い口調。まるで、学生食堂でトルコライスを注文しているかのような軽さだった。
ぽかんとしている私の表情を見て、佐伯先生は今一度、同じ言葉を口にした。
「先生は、ゲイなんだよ」
私は、聞いてはいけない告白を聞いてしまったのではないかという思いに、激しく動揺した。
「僕を、軽蔑したかい?」
私の動揺を見透かしたように、先生は自嘲的に笑った。
私は、動揺を抑え込みながら、必死になって否定する。
「軽蔑なんてしません。たとえ先生がゲイであっても、先生に対する私の尊敬の念は一ミリも揺らぎはしません。ほかの生徒たちも、いえ、先生たちもみんな、同じだと思います。今の時代、そんなことで人の評価を変えるのは、間違ってます」
「鷺沢君の言うことは、確かに正論だ。だが、世の中には正論が通用しないことも、たくさんあるんだよ」
心なしか寂しそうに、何かを諦めたかのように先生が語る内容こそ、まさに正論だった。
私は、いかにも正論っぽく聞こえる薄っぺらい言葉を軽々しく口にしてしまったことを、激しく後悔した。
「すみません。そういうつもりじゃなかったんです」
慌てて謝ろうとする私に、先生は「いや、別にいいんだよ」と優しく笑い掛けた。
「でも……。何で私に、そんな大切な話をされるんですか」
「君には話してもいいかなと、ふと思ってね」
私は横目で、恐る恐る佐伯先生の顔を観察した。いつものように優しい笑顔だった。
「つまり、ブルネットとは、私自身のことなんだよ。周囲の多くの人たち、特に学校の先生たちには、秘密にしてきたんだがね。でも、もうそんな秘密を抱え込む必要はなくなった。先生は、全てから解放されたんだ」
「どういう意味ですか」
「私は明後日の地区大会を最後に、この学校を辞める決心をしたんだよ。もう、辞表も提出してある」
*
龍崎先生の曲が佐伯先生の曲だったという事実と、先生がゲイであるという事実。そして先生が学校を辞めるという事実。三つの事実によるショックを引き摺ったまま、私は教室に戻った。
もちろん、ゲイやレズだからと言って、差別するつもりは毛頭ない。そんなのは本人の自由だし、たとえ先生がゲイであったとしても、私の先生に対する尊敬の念は、一㎜たりとも揺るぎはしない。しかし、唐突な先生のカミングアウトは、強烈な破壊力をもって、私の心に正体不明のダメージを与えていた。
ダメージのあまり、遺書の正体を刑事さんに告げるという選択肢は、私の頭の中から、とうの昔に消え去っていた。
教室に戻った私は、荷物を纏めると、重い足取りで靴箱スペースに向かった。
靴箱は、私たちの教室がある第一校舎の一階、表玄関の隣にある。私の靴箱は、向かって二列目の棚の右側、奥から三列目の上から四段目だ。
靴箱から靴を取り出そうと、「鷺沢環」と書かれた靴箱の蓋を開ける。中には、見慣れた茶色いローファーが収まっていた。
と、靴の上に、何やら封筒のようなものが載っているのに気付いた。模様や柄の一切ない、白い定型封筒だ。
「何だろう」
一瞬、「ラブレター?」とも思ったが、冷静なもう一人の私が、即座に否定した。
仮に私が男子だとしても、私などにラブレターを送ろうなどとは、四月一日でもない限り思わないだろう。
しかし、四月一日は、悲しいかな、春休みの真っ最中と決まっている。
したがって、私は生まれてこの方、ラブレターなどもらった経験は一度として、一切、断じてない。
「果たし状? 招待状? それとも、人違い?」
想像しうる限りの可能性を呟きながら、右手で取り上げ、ゆっくりと封を開いてみる。
中には、二つ折りの便箋が一枚、入っていた。折り目に手を掛け、開く。
この件からは手を引け。でないと、痛い目を見るぞ。
便箋の上にサインペンで殴り書きされた、何ともストレートかつシンプルな文面の脅迫状だった。
私は、思わず溜め息を吐いた。
――きっと、誰かの悪戯に違いない。
恐怖は感じなかった。とはいえ、決して気持ちよくはなかった。私は、何とも不愉快な気持ちを抱えながら、靴を履き替えると、自転車置き場へと続く道を歩いた。
置き場に着くと、真っ赤な愛車の籠に鞄を放り込んで、そのままサドルに跨る。ペダルを無心に漕いで、夕暮れの道を家へと急いだ。
午後五時を過ぎていた。
日の入りの時刻は、日に日に早くなっている。国道を家に向かって南下している間に、日はすっかり暮れてしまっていた。
学校から三十分弱ほど進むと、国道から逸れ、家に向かう坂を登らなければならない。
最初は緩やかだった傾斜が、間もなく急になる。
私は、サドルから腰を浮かせてペダルに体重を掛ける。立ち漕ぎをしながら、ヘッドライトを頼りに坂道をゆっくりと登った。
途中、家が途切れて街灯がない場所がある。半端なく暗い。
――家まで、あと二百m。
その時だった。
後ろから、いきなり何者かが私の腕を掴んだ。
「きゃっ!」
バランスを失った私は、自転車から落ちそうになりながらも、かろうじて右足を踏ん張って体重を支えた。
新月に近く、月の光は頼りない。しかも、ご丁寧なことに、月には雲が掛かっている。暗闇に限りなく近い灰色の景色を背に、一人の人間のシルエットがぼうっと浮かび上がった。
――何が起こったの? この人は誰?
靴箱の脅迫状が、頭をよぎった。
脅迫状を書いた人物と、今ここにいるシルエットの人物は、ひょっとしたら、同一人物なのではないか。
俄かに、強烈な恐怖に襲われた。
――私、殺される?
命の危険を感じた私は、私の腕を掴んでいる太い腕に、力一杯爪を立てる。
相手が怯んだ隙に腕を振りほどくと、自転車を放ったらかしたまま、必死の思いで駆け出した。
生きた心地がしなかった。
後ろも見ずに、とにかく駆け続けた。少しずつ、家が近付いてくる。
ようやく家の玄関に辿り着くと、ガチャガチャと乱暴に鍵を開けて、中に飛び込む。すぐに鍵を掛け、玄関の床にへたり込んだ。
幸い、家までは追ってきていないようだった。しかし、心臓の鼓動は、未だ収まる気配を見せない。
そのまま、しばらくの時が経つ。ドキドキが収まってやや冷静になると、家族の居場所について思いを巡らせた。
今日、母は仕事で遅くなるし、妹は塾だから、あと一時間は帰ってこない。
――あと一時間、私一人なの?
改めて湧き上がる恐怖に耐えられなくなった私は、気が付くとスマートフォンを取り出し、啓太に電話を掛けていた。手の震えが止まらない。
啓太は、すぐに出た。
「もしもし、啓太?」
私は興奮と恐怖のあまり、スマートフォンに向かって大声で話し掛けた。
「ああ、タマか。どうした」
いつもの啓太の声に安心したのか、不覚にも涙が零れた。
「靴箱に脅迫状が…。で、帰りに、黒い人が……。そのせいで、自転車が……」
あとは言葉にならない。
「おい、何の話だよ。落ち着け」
居たたまれなくなった私は、説明もそこそこに、電話の向こうの啓太に向かって叫んだ。
「今、家に誰もいないの。お願い、来て!」
先ほどにも増して、大きな声だった。
一瞬の間を置いて、電話の向こうの啓太が力強い声で答えた。
「わかった。待ってろ」
電話が切れた後、啓太はものの十分ほどで駆け付けてくれた。
「おい、タマ。大丈夫か!」
玄関をドンドンと叩きながら、大声で叫ぶ啓太。私は覗き穴を覗き、確かに啓太だと確認してから、鍵を開けた。
「いきなり、びっくしりたぞ。いったい、何がどうしたっていうんだ」
私は頭の中を整理し、今までのいきさつをできるだけわかりやすく説明した。脅迫状の事、帰りに謎の人物に襲われた事、無事に家に着いたものの、誰もいなくて怖くなった事など……。
一通り話を聞いた啓太は、右手で私の頭をポンと軽く叩いた。
「事情はわかった。取り敢えず、自転車を取りに行かなきゃな。一緒に行ってやるよ」
*
自転車は、見知らぬ人の家のブロック塀に立て掛けてあった。ちょうど、私が襲われた場所の前にある家だ。
啓太は、自転車に歩み寄るとしゃがみ込んだ。ペダルを逆回しにしたり、タイヤのゴムを押したりして、自転車の状態を一通りチェックする。
「どう? 壊れたりしてない?」
私は、啓太の肩越しに、ペダルを持つ手元を覗き込んだ。
「ああ、大丈夫みたいだ」
ほっとした私は、啓太に尋ねた。
「刑事さんに、連絡したほうがいいのかな?」
「連絡したとして、何て言うんだ?」
「暴漢に襲われましたって」
手を止め、しばらく考えていた啓太は、振り向きながら答えた。
「ちょっと、様子を見たほうがいいかもしれないな。怪我をしてるわけじゃないし、ひょっとしたら、向こうの単なる人違いだったのかもしれない」
薄っぺらい言葉の百倍は説得力をもっていそうな、凄く真剣な表情だった。
「そっか……。うん、そうするよ」
啓太の表情に説得された私は、頷いた。
私たちは、回収した自転車を押しながら、家に向かう道を二人並んで歩いた。正確には、自転車を押していたのは、啓太だった。
数週間前まで、夜になると草むらで異性を求めて鳴き声を競っていた虫たちは、もういない。恐らくすでに天寿を全うしたのだろう。
静かな夜の道だった。
途中、自動車が一台、低いエンジン音を響かせながら、私たち二人を追い抜いて行った。追い抜いて行くと、再び静寂が訪れた。
歩きながら、私は口を開く。
「今日、レッスンの時に佐伯先生と話したんだ。そしたら、佐伯先生がうちの学校に来て以降の龍崎先生の作品は……」
「佐伯先生がつくったって言うんだろ」
啓太が、私の言葉を遮るように、結論を口にした。
「どうしてそれを?」
驚いて啓太の顔を見上げる私の視線を無視するように、真っ直ぐ前を見ながら、啓太は続けた。
「今日のタマと佐伯先生の話、聞いてた」
「マジ? 盗み聞きするなんて、酷い!」
瞬間的に、怒りが込み上げてきた。私は思い切り振り上げた右足を、啓太のお尻に向けて力いっぱい振り下ろした。が、啓太はひらりと身をかわした。
私の右足は空を切った。バランスを失ってよろめいた私の右手を、啓太の左腕が支えた。
「もう、やめようよ。犯人捜しなんてさ。おかしいよ、お前」
私は、啓太の言葉に耳を疑った。
今の今まで、啓太は本意ではないながらも、私と一緒に犯人を捜してくれていると信じていた。それなのに、啓太ときたら……。
啓太の左腕を、反射的に振りほどく。
「俺も最初は、半分面白がって、お前の探偵ごっこに付き合ってた。でも、そこまでして犯人捜しなんて、俺たちがする仕事じゃない。先生は自殺だった。それでいいじゃないか」
「自殺の動機がないって、知ってるでしょ。それに、遺書だって偽物だったじゃん」
私は、怒りに任せて言い返す。
「鍵は、たまたま掛け忘れたんだよ。あの時、きっと龍崎先生は普通の精神状態じゃなかったんだ。遺書だって、龍崎先生自身が切り取ったのかもしれない」
通り過ぎる自動車のヘッドライトが、私たちを照らし出した。まばゆい光が照らし出す啓太の逞しい右腕。
新しいひっかき傷があった。
丁度、私が暴漢の腕を引っ掻いたのと同じ場所だった。
私は啓太の横から飛び退き、後ずさりしながら叫んだ。
「啓太、私を襲ったの、アンタだったの?」
啓太は一瞬驚き、すぐに申し訳なさそうな表情になった。
「ああ、そうだ」
雲の間から、針金のような三日月が顔を出し、啓太の顔を頼りなく照らした。照らされた啓太の顔は、悲しそうな、寂しそうな表情をしていた。
「悪かったよ。でも、別に襲おうとしたわけじゃない。話をしようとしただけなんだ。そしたら、タマがあんまり暴れるもんだから、つい……」
ここで、もうひとつの恐ろしい想像が、私の頭の中に閃いた。
「脅迫状も、アンタなの?」
啓太は黙ったまま、弱々しく頷いた。
――最低の男だ、コイツは。
「それについても、本当に悪かったと思ってる、でも……」
「アンタなんか大っ嫌い。最低っ!」
私は、啓太の言葉の続きを聞かずに、振り返ると全速力で走り出した。
――もう自転車なんてどうなったっていい。啓太だって……。
怒りを通り越し、悔し涙が溢れてきた。私は、涙を拭くのも忘れて、家までの道をただひたすら走り続けた。
*
私はその日の夜を、ベッドの上で泣きながら過ごした。
夜の八時過ぎ、部屋の外から妹が「晩ご飯、できたよ」と声を掛けてきたが、「いらない」と断った。
――啓太はバカだ。そして、啓太を信じていた私は、もっとバカだ。
涙が後から後から溢れてきて、枕を濡らした。
結局、夜中の二時までに、ティッシュペーパーを二箱ほど使い切った。
それにしても、啓太はどうして今更、自殺だなんて言いはじめたんだろう。それとも、私がちょっとおかしいのだろうか。
私はただ、龍崎先生の死について、真実が知りたいだけ。死の真相が曖昧なまま、闇の中に葬られてしまうなんて、いくら何でも亡くなった龍崎先生が可哀想過ぎる。
啓太から見せてもらった、遺体発見直後の写真が脳裏に浮かぶ。そこには、無残に変わり果てた龍崎先生の姿があった。
他人によって理不尽に命を奪われるなんて、さぞ悔しかったに違いない。
そう考えると、特に好きではなかった先生とはいえ、不憫に思えて、また涙が出てきた。
ふと、写真の中でピアノの足元にあった、プラスチックの欠片のような物体が思い出された。
――あれは、一体何だろう。
最近も、似たような質感のものを見た気がする。それも、身近な場所で。
家の中だったろうか。
――あの物体の、正体を知りたい。
私は、心の中に突如として湧き上がってきた本能的な欲望に、今の今まで悲しみと悔しさで涙に暮れていた事実も忘れた。スマートフォンを右手に持つと、静まり返った深夜の家の中を徘徊する決心をして、部屋を出る。
音を立てないように階段を降り、玄関へと進む。ドアの手前にある土間には、母と私、そして妹の靴が奇麗に揃えられていた。右手にある靴箱の手前にある傘入れには、モノトーンの水玉の傘が一本と、透明なビニール傘が二本。下駄箱の上には、地球を象ったガラス製の丸い置物が置かれている。
それ以外には、特に何もない。
続いて、洗面所のドアを開ける。棚の上には数個のトイレットペーパーが置かれ、ペーパーホルダーの横には透明なビーズが無数に入った消臭剤が甘い香りを放っている。他には、これといった備品は見当たらない。
――どこかで、確かに見たような気がするのに……。
私は、真っ暗な部屋の中で目を瞑り、記憶の糸を手繰り寄せようと試みる。しかし、頭の片隅に申し訳程度に残っているだけの淡い記憶は、それ以上の手掛かりを私に与えてはくれなかった。
洗面所、風呂、居間……。私は、スマートフォンの心もとない光を頼りに、家の中のおもだった空間を見て回る。しかし、今にも消え入りそうな私の微かな記憶の火を、再び明るく灯してくれそうな手掛かりは見つからなかった。
――残るは、台所か……。
私は、半ば諦めながら、今から台所へと移動する。
それほど広くはないが、一応、対面キッチンになっている。手前のスペースにステンレス製のシンクがあり、シンクの奥には食器洗浄機が設置されている。作業スペースを挟んで左側には上下に引き出し式の食器収納キャビネットが据え付けられ、上下のキャビネットの間のスペースには、炊飯器と電子レンジが並んでいる。
見慣れた、いつも通りの台所だった。
不審な点など、あろうはずもなかった。
諦めて部屋へ戻ろうと、私はスマートフォンの光を居間に向かって動かした。
その時だった。私の視線の片隅で、何かがキラリと光った。
私は、光を放つ物体の方向に、ゆっくりと視線を戻す。
左側のキャビネットの上に置かれた、炊飯器と電子レンジの間。写真の中の光とよく似た光を放つ物体が、そこにあった。
いや、全く同じ種類の光だ。
写真の中で禍々しい光を放っていた物体。それは……。
――食品ラップだ!
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