この手が温もりを抱くとき
葉月
第1話
初めて触れた時、氷で出来た人形が口をきいているのだと思った。
それほど冷たいものであったし、また、顔の作りも作り物のようだった。
いつまで握っているのと指摘されるまで、握手した手を離せずにいたのを今でも思い出す。初対面の事だ。十年以上前になる。
大学のサークルで出会ったその女は、やがて恋人になった。いつも澄ました顔で気取っていた彼女は僕にとって高値の花で、ご購入の際には緊張して言葉が喉でつかえたものだ。
「私で良ければ」
それが理沙の返事だった。嬉しくて興奮状態に陥った僕はサークル仲間に報告のメールをばら撒いて、あとで理沙に怒られてしまった。彼女は交際を内密のものにしておきたかったらしい。理由は「恥ずかしいから」との事だ。
かくして理沙という恋人を得た僕は、それまで隠していた彼女の内面を次々と見付けては驚いた。氷の奥に保存してあった秘密の数々は、いつもの彼女からは想像も出来ないものだらけだった。
例えば、可愛らしい人形が部屋に十七体も生息している事。泣き虫で、安いドラマに感動して涙する事。子供好きで、冷たい手で触れた赤ん坊に大泣されてしょげる事。
そして、緊張すると急に手が熱くなる事。
初めてのデートで勇気を出して握り締めたら、そこにあるはずの冷たさがなかった。あの氷は何処に、と前とは逆の驚きを味わった。恥ずかしがり屋だと知ったのもその時だ。
僕に気心を許してくれた証として、今ではまた氷を宿した手に戻っている。
そして今の彼女は僕の恋人ではなくなった。別れてしまったのではない。妻になったのだ。
プロポーズの言葉を噛んでしまった格好の悪い僕に、理沙はまたしても「私で良ければ」と頷いてくれた。条件は「プロポーズの台詞は誰にも言ってはいけない」だ。理由はやはり「恥ずかしいから」で、僕としても隠しておきたいワンシーンではあった。
僕の両親に紹介をする時、理沙の手は真夏の太陽のように熱かった。
落ち着いて、落ち着いて、と二人で緊張した結果、母さんは理沙を気に入ってくれたし、父さんは「俺もあと二十歳若ければなあ」と僕を羨み、母さんに睨まれた。
それが二年前の冬の事である。
「おかえりなさい」
理沙はすっかり元気を失った声で僕を迎える。リビングへ戻ると、ソファーにその身を沈めてだるそうにしていた。
彼女はここのところずっと調子が悪い。
「病院へは行ったのかい?」
「今日の昼過ぎに行ったわ」
理沙はゆっくりと身体を起こすと、僕の元までやってきて手を握り締めた。
熱い……理沙が緊張している。
「まさか悪い病気でも見付かったのか?」
「いいえ、違うの。でも、大変な事なの」
「な、何があったんだい!」
「落ち着いて聞いて」
理沙が強い目で見つめてくるので、僕は生唾を飲んだ。
覚悟を決めた理沙は、深呼吸の後でそれを言う。
「子供が出来たの」
パニックで頭が真っ白になりかけていた僕は、その言葉で落ち着きを取り戻した。しかしそれは一瞬の事で、再び頭は混乱する。せっかちな料理人がかき回している鍋のように、ぐるぐると中身が暴れ回った。
「それは『大変な事』じゃなくて『大切な事』だよ!」
きちんと動かない脳みそが命じた発言がそれだ。理沙も「確かにそうね」と頷いている。
お腹の中の子供が「落ち着いて、落ち着いて」と呆れているような気がした。そこで初めて自分が父親になった事を実感する。
「とにかく落ち着こう何ヶ月だいああ父さんと母さんに電話してええと育児休暇はどっちが取ろうか……」
「取りあえず、落ち着いてね」
告白前に理沙がしたように、今度は僕が深呼吸を繰り返した。
息を吐いた瞬間、酸素と一緒に深い喜びが僕の中に取り込まれる。僕は思わず理沙を抱き締めていた。
「嬉しいよ! ありがとう、本当に素敵な事だ!」
「女の子ですって。来年の春に産まれる予定なの」
「ああ……今日はなんて素晴らしい日だろうか!」
理沙を抱き上げてくるくる回る。彼女に「お腹の子にさわるでしょう!」と怒られてしまった。
僕は大分冷えてきた理沙の手を握りながら、次の春に産まれてくる彼女に似た可愛い娘の名前を考える。
産まれて来た僕らの宝物を
この手が温もりを抱くとき 葉月 @hazukuni
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