第160話_腕の中に収まりきらない
解放されて居住域の方へと歩くレベッカが気丈にいつも通りの顔を保っていられたのは、モカの部屋の前に立つまでだった。俯き加減で一つ息を吐き出し、呼び鈴のボタンに手を伸ばす。しかしそれを押すよりも早く、モカの部屋の扉が開いた。当然レベッカは驚いて目を丸めたが、モカも驚いた様子を見せていた。
「あれ、ごめん。何処か行くとこ?」
面談室から去る際に『今から行く』と連絡はしていたものの、移動中であった為、返事があったかどうかを確認できていなかった。レベッカが端末を取り出そうとポケットを探っていると、モカはその手に触れて動きを止めさせ、苦笑した。
「いいえ。そろそろかと思って」
迎えに出るつもりだったという意味だろうか。精々、エレベーターホールまでしか行けないだろうに何をそんなに心配して――と思ったところで、レベッカは少し眉を下げる。
「ヴェナから何か聞いた?」
「連絡は来ていたけれど、詳しいことは何も。見る?」
言いながらモカはレベッカを部屋の中に引き入れる。そして扉を閉ざしたところで、ヴェナのメッセージが表示されたままの端末をレベッカに手渡した。少し戸惑ったものの、何を言われているのかは気になってしまったらしく、レベッカはその画面に視線を落とす。
『想定より長くレベッカを拘束してしまってごめんなさい。それから、もし今日レベッカがあなたに会いたくないと言ってしまうようなら教えてちょうだい。多分私が虐めてしまったせいだから、手土産を持ってあなたに謝罪をしに行くわ』
「だからぁ……」
項垂れるレベッカを見て、モカがくすくすと笑う。これに対してモカも『
「今日ずっとこれで揶揄われたよ」
「困った方よね。私も最近は会う度にあなたのことで揶揄われているわ。でも本当に虐められて泣いている可能性もあるから、迎えに行こうかしらと思って」
「そんな可能性ないから……」
モカに勧められるまま、レベッカはテーブルに着いた。モカの方は楽しそうに笑いながらもそのまま座らず、部屋に備え付けられている小さなキッチンへと向かう。その背を見て、一拍後にハッとしてレベッカは声を掛けた。
「あ、アタシの分のコーヒーはいいよ、まだあるから」
差し入れてもらったボトルをレベッカが取り出せば、振り返ったモカが目を瞬く。
「淹れ直すわよ?」
「いいって。勿体ないしさ」
きっと淹れたての方が美味しいのだろうに。しかしモカには自分の淹れたコーヒーを残さず飲もうとしているレベッカも愛らしいのか、眉を下げて笑うと、そのままテーブルへと戻ってきた。自分の分を淹れ直すつもりはモカも無いらしい。既に置いてあったコーヒーに手を伸ばし、首を傾けることで長い髪を少し避けてからカップに口を付ける。レベッカは彼女がカップをテーブルに戻し、手がカップから離れるのをじっと見守っていた。
「ねえ、モカ」
「なに?」
レベッカに呼ばれて顔を上げた彼女は、さっきとは違って髪を気遣う様子がまるで無くて、肩から流れ落ちるのをレベッカの方が心配して目で追ってしまったほどだ。しかしレベッカの言葉を待って再び彼女が首を傾けたことを髪の揺れで気付き、視線を上げる。
目を見れば、レベッカの心は少し緩んだ。
「ちょっとだけ、手、繋いで」
テーブルの上に置いたままだった手を反し、手の平を上に向ける。モカは目を丸めた後で、何だか困った顔で笑った。
「少しじゃなくても良いのに」
照れ隠しにも聞こえたし、揶揄いのようでもあった。けれど何も聞かずに握り、訳を問い掛けてこようとしないのは、少なからずヴェナのメッセージを見てレベッカを心配しているせいなのだろう。その穏やかな気遣いにもまた、レベッカの心は緩んでいく。
重なった手は、レベッカのそれよりも少し温度が低い。柔らかくて白い、戦わない弱い手。大好きで、守りたいと常に願っている手だ。少し目を細めたら、視界が歪んだ。
「……レベッカ?」
戸惑ったようなモカの声に応じて視線を上げても、モカの顔はレベッカの目から、よく見えない。瞬きをしたら、雫が頬を伝った。レベッカは自分が泣いていることにようやく気付いた。自覚が皮切りになり、溢れるように感情が膨れ上がる。堪えようと思っても涙は止めどなく流れていく。レベッカは顔を顰めて俯いた。モカは小さく息を呑んで駆け寄ると、両腕でぎゅっと彼女を抱き締めた。
モカの腕の中、レベッカは幾度も喉を震わせていた。こんな風にレベッカが泣いたのは、レイモンドを見送った日以来のことだった。仲間を見送る度にレベッカは涙を流すけれど。子供のように身体を震わせて泣きじゃくったのはその一度だけ。あの悲しみに近いものが今レベッカの中にあるのだと思うだけで、モカも、心が引き裂かれてしまったかのように辛かった。
「アタシ、は」
「うん」
しゃくり上げながら言葉を紡ぐ声は痛々しい。どうかその痛みが少しでも和らいでくれますようにと願いながら、モカは背を撫でた。
「戻り、たかった。みんなと一緒に、戦い、たくて」
リハビリの場に居ることを許されなかったモカではあるが、職員らからの言葉でレベッカがどれだけ懸命に努力をしていたかは分かっているつもりだ。苦痛に表情を歪めることはあっても、弱音を吐いたことは一度も無かったと聞いている。
「だけどこんな形で、力が、欲しかったわけじゃない」
その言葉の意味がモカには分からなかった。レベッカの声には大きな悲しみの中に、苛立ちや怒りに近い感情が含まれていた。
「どうして、アタシは戦いたかったの? こんな……、か、を」
途中からは、涙に濡れて聞こえない。しかし今、呼吸すら儘ならないほどに泣いてしまっている子に説明を求めることもできない。モカはレベッカの背中を撫で続ける。愛しい人が苦しんでいるのを知りながら何も出来ない悔しさに、モカの目にもいつの間にか涙が滲んでいた。
レベッカが訓練室を立ち去ってから一時間と少しが経過した頃。
司令室では報告を受けたデイヴィッドがしばし天井を眺めていた。報告の為に訪れた職員らは、その様子を緊張の面持ちで見つめている。
「なるほど……」
衝撃を受け止め終えた――とまでは行かないだろうが、気を取り直した様子でそう呟くと、デイヴィッドが改めて彼らに向き直る。
「損壊は十八・十九番の間にある壁だけだな?」
「はい。最奥にある二十番にまでは到達しておらず、また、手前の一番から十七番にも影響はありません」
訓練室には二十個の個室が用意されており、番号が振られている。今回は十八番の部屋が利用されていた。
天井や床、そして外壁への損傷も全く見当たらず、被害はレベッカが明確に攻撃を向けた方向の壁のみであった。この辺りは、破壊の可能性、その被害の範囲をヴェナがある程度あのシミュレーション作成時に予想してくれていたことで収まった結果となる。しかし、もしもレベッカが無差別に破壊をしてしまうような形だったなら、彼女自身、そしてヴェナへの被害も免れなかっただろう。訓練室内の壁一つで済んだことは幸いと言う他ない。
「もしもその攻撃が、天井・床・外壁に向かっていたとするなら?」
「計測された数値を見る限り、一層目は間違いなく貫通したでしょう。ただ、上下階や外にまでは出なかったかと」
「……そうか。しかし、とんでもないことになったな」
デイヴィッドは深く息を吐き出し、今度は顔を両手で覆って俯いた。
奇跡の子らが力を使用できるようにと、訓練室は、この国で最高の技術と素材を結集させて作った頑丈な部屋だ。実際、イルムカルドの力ですら、びくともしていなかった。
しかし、奇跡の子らの前ではこれでも『まるで足りていない』と、突き付けられた形となる。
「ヴェナは修繕・改築について何か言っていたか?」
「二倍の強度は最低でも必要、と」
仕方のない指摘と頭では分かるが、デイヴィッドの表情は苦くなるばかりだ。
「また、彼女にとって建築は専門外としつつも、ゼッタロニカから回収した例の金属は補強に役立つ可能性があるとの提案もございました。専門家に現在、確認させております」
「なるほど」
バリスタの矢として利用されていた金属のことだ。あれはこの国にあるどの金属より硬かった。現在それを利用して新たな軍装備や、イルムカルドとウーシン用の武器も作らせている。建材としても利用できるのであれば、壁の厚さを二倍にするような対応をせずとも、今以上の強度で訓練室を整えてやれるかもしれない。ただ、素材が硬ければ良いというものでもない為、専門家からの回答があるまで楽観視は出来ない。
「設置の当初から、訓練室をタワー内に置くことは多くの批判がありましたね」
デイヴィッドの傍に控えていた側近の一人、グラシアが口を開く。彼女は日頃からデイヴィッドに対して当たりが強い為、同じく傍に控えていたジルダや他職員は少し緊張を強めた。
「そのせいもあり、訓練室が百パーセント破壊されたとしてもタワーそのものには影響がない形での設計となりました。今回の損壊は訓練室全体から見れば十パーセントにも満たないものですので、存続が危ぶまれることは無いでしょう。……ただ、当時ご批判下さった方々が明日の今頃には胸を張っているでしょうね」
「グラシア……」
「いや、全くその通りだ。あの時は心底煩わしく思っていたが、彼らの意見が正しかったのだと思い知った」
案の定の言葉選びにジルダは注意をしようとしたものの。デイヴィッドがそれを止める。実際、グラシアの言葉は正しいことが多い。だが今、項垂れている司令と他の職員らを前にわざわざ傷口に塩を塗る真似をしなくてもいいだろうとジルダは溜息を零す。
「今後そのヴェナの言う仮説に基づいて研究を進めるとして。レベッカに引き続き力を利用させて問題ないのか? 場所を新たに用意するような要望が無いように見えるが」
手元の資料を確認しつつ、デイヴィッドが尋ねる。職員から渡されたのは本日の実験と検査に関する詳細な報告のみで、組織に何かを求めるような内容が見当たらない。しかし流石に繰り返し壁を破壊されては訓練室が無くなってしまうし、子や職員の身の安全にも係わってくる。首を傾けるデイヴィッドに対し、職員は迷わず頷いた。
「彼女に限って言えば問題ないと思います」
「どういう意味だ?」
「レベッカの能力は『水の操作』ですので、操作対象となる水の量を制限した上であれば、今回ほどの被害は起こしようがないのです。次回以降は、50から100cc程度の水で変化を確認する予定となっています」
今回の実験では『戦闘』のシミュレーションを行っていた為、彼女が戦う際に利用するのと同等以上の水が用意されていた。壁の破壊時にはその内の七割が利用されていたという測定になっている。当然、水の量は100ccどころの話ではない。
同じ出力で100ccを壁にぶつけても、傷は付くだろうが、貫通までは出来ないという計算結果だそうだ。
「……最初からそれを……、いや。出来ないか。計画を見る限り、精神ショックをレベッカに与えなければならなかったわけだからな」
「ヴェナさんは我々以上の危機感で指示をして下さっておりましたし、そのお陰もあって怪我人を出さずに済んでおりますので……」
恐る恐る説明を付け足す職員に対し、理解を示すように、デイヴィッドは何度か頷く。それでも、予想が付いていたのであれば壁は壊さないでほしかったのだが。何にせよ起こってしまったことは仕方がない。報告を見る限り、『起こり得る』とは思っていても、ヴェナの中でも想定を上回る結果ではあったようだ。
「今までレベッカが扱ってきた水圧の、約二百倍か……」
あまりの出力差に、デイヴィッドは何度もその数値を見比べた。しかし、報告書の至る所にその二百倍の数値は記載されており、打ち間違いでも何でもない。報告の職員も、その値で間違いないと述べた。
「これだけ出力を上げてしまって、身体に負荷は掛からなかったのか?」
「精密検査の結果を見る限り、大きな影響を受けていません。ですが、『無尽蔵』と結論を付けるにはまだ至りません。この辺りはヴェナさんも慎重な確認が必要と仰っていたので、今後はレベッカも日々、精密検査を受けさせたいと考えております」
職員の言葉にデイヴィッドは思わず前のめりになってしまっていた姿勢を戻し、椅子の背に身体を預ける。
「あの子の心身が何よりも大切だ。充分に注意してくれ」
「承知いたしました」
今後の訓練室の稼働については、損壊した十八・十九番は勿論のこと、隣接する十七と二十番も、工事の影響を受ける可能性がある為に閉鎖。一から十六番の部屋については通常通り使用可とすることで決定した。勿論、出力が不安定な子に関しては事前に使用計画を入念にチェックすることを前提として。
改築については専門家の意見と上層部からの許可などが必要となってくる為、当分の間は対応が出来ないだろう。
「とにかく、今回の件は分かった。もう下がって良い。これからも逐一の報告を頼む」
訓練室の損壊についてお咎めを受けることもやや覚悟していただろう職員らは、少しホッとした表情で頭を下げ、デイヴィッドの指示に了承を告げた上で立ち去っていく。
その背が扉の向こうに消えるのを見守った後で、デイヴィッドは再び天井を見上げた。
「子供が想像を超えてくるのは、喜ばしいと言いたいところなんだがな……うちの子らは、規模がな……」
憂いを帯びたその声は真剣そのものなのに。側近の内二人が堪えきれず、噴き出すように笑う。
しかし言っている場合ではない。デイヴィッドはさっと立ち上がった。一刻も早く、今回の訓練室内で起こってしまった『事故』について各所へ謝罪と説明に行かなければならない。これも子らを守る総司令官として、逃れられない義務なのだから。
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