第159話_面談室で揺れる天秤

 精密検査を終えたレベッカは別室に待機させられていた。此処にレベッカを案内した職員も早々に退室してしまって、十分間ほど一人きりでじっと座っている。

 真っ白な部屋、真っ白なテーブル。普段は何とも思わない見慣れた面談室が、今のレベッカには酷く居心地が悪く感じられた。背中を丸めてただ、何も無いテーブルを見つめ続ける。

 不意に、扉が開かれた。レベッカはびくりと身体を震わせたが、顔は上げられない。居心地の悪さと不安が膨れ上がり、身を固めた。

「――モカからコーヒーを渡されていなかったかしら」

「え?」

 しかし掛けられた言葉が予想外のもので、思わず、無防備に顔を上げた。右手にマグカップを、左手にノートサイズのタブレット端末を持ったヴェナが普段通りの表情で首を傾けている。

「私の分しか持ってこなかったわ。コーヒー淹れましょうか?」

「あ、いや、ううん。まだ、ある」

 足元に置いていた鞄からモカに淹れてもらったコーヒーボトルを取り出してそう言えば、ヴェナは軽く頷いてマグカップをテーブルに置き、扉を閉ざしていた。

「じゃあコーヒーを飲んで、お菓子があるならそれも食べて。そんな、取り調べを受ける罪人みたいな顔はしないでちょうだい。虐めているようだわ」

「でも、アタシが、部屋を……壊しちゃったから」

「壊れる部屋が悪いのよ。奇跡の子の為に用意した特別に頑丈な部屋だと銘打っておいて、負けているのだから世話ないわ。怪我人が出るような大惨事になる前に『まだまだ軟い』と教えてあげたのだから、レベッカに感謝すべきね」

 あまりの物言いに、レベッカから笑いが零れる。これ以上ないほどに気落ちしてしまっていたはずなのに。ヴェナはそんな自分を気遣って言葉を選んだのだろうということも、分かっていたけれど。

「誰もあなたを責めていなかったでしょう。この後もそんな話が出ることは無いわ。万が一言われたら私に言いなさい。全員凍らせるから」

「それ尚更ヴェナには言えないでしょ……」

 ヴェナは軽く眉を上げて肩を竦めたものの、レベッカの言葉を受けて自らの行動を控えるという考えは無さそうだった。レベッカがコーヒーとクッキーを口にするのをゆったりと見守った後で、ヴェナはタブレット端末を数回タップした。

「奇跡の力は、十一歳の時に初めて自覚したということだったかしら」

「うん。寝惚けて使ったのが最初」

「それからずっと自在に使っていたの?」

「いやいや、全然。使えたり使えなかったりしたから、近くの小川とかでしばらく練習した」

 水が沢山あって、零しても掃除しなくて済むような場所。そして周りも広くて、人に迷惑が掛からない場所。

「具体的にはどのように鍛錬を?」

「えっ、えー、どうって……」

 困惑しながらレベッカは記憶を辿る。加入時点で既に充分な操作を手に入れていた子は、奇跡の力に関する訓練を受けない。そのせいもあって、これまでの過程を詳細に聞き取られる機会が無かった。つまり、どのように操作を獲得したのかと説明したことが無いのだ。改めてこうして振り返るのは、レベッカにとって初めてのことになる。

「思い通りに動くまでひたすら繰り返してたような気がする。まだ子供だったし、そもそもアタシあんまり賢くないからさぁ、考えて練習とかはしてないよ」

「賢くないとは思っていないけれど……とにかく、感覚的な鍛錬だったのね」

 ヴェナの相槌にレベッカは軽く肩を竦める。一般的な職員から見てもレベッカは『賢くない』のだろうから、天才的な研究者であるヴェナから見れば特にそうだろう。しかし押し問答するほど自らをバカと訴えたいわけでもなく、複雑な気持ちの表現がこうなった。

 なお、ヴェナは特に意識せずに今の言葉を扱っていた。勉学の優劣ではなく、他者に対して適切に気遣いが出来る者を、ヴェナは賢くないとは思わないせいだ。何にせよ、どちらにとっても今それは掘り下げるべき本題ではない。

 数秒間、端末を弄りながら沈黙していたヴェナは、不意に顔を上げてレベッカを真っ直ぐに見つめた。

「私の研究の過程で得た奇跡の力のデータと、他の子達の『限り』のデータからの推察になるのだけど」

 あくまでも推察であって、これから告げることが答えであるとは限らない。答えになり得るかどうかを、今後ヴェナや職員らが詳しく調べていくものだ。そのように丁寧な前提を重ねてから、ヴェナは続きを述べた。

「……奇跡の力には通常利用とは全く別に、力を増幅させる……いわゆるブーストになるトリガーと、逆にブレーキをかけて減退させてしまうトリガーの両方が存在している可能性があるわ。そしてそのトリガーはどちらも、『感情』なのではないかと思っているの」

「感情?」

 ヴェナの言葉を繰り返してから、レベッカは眉を寄せて首を傾ける。

「だけど精神鑑定では何の異常も無いって……」

「ええ。きっと『異常』なものではないから、見付からないの」

 大きな怪我を負って以来、レベッカが繰り返し受けていた精神鑑定は、ストレスの度合いなどの『異常値』を見付けようとするもの。しかしヴェナの言う『感情』は、人が生きている中で当たり前に持つ範囲のものであって、『異常値』である必要が無いかもしれない。ブレーキとなる感情も、もしかしたらストレスに分類されない感情、例えば喜びなどがそれに該当する可能性も考えていると言う。

「現状、奇跡の子らに共通で見付かっている要素はほとんど無いから……この説が正しいとしても全ての子に当てはまるかは定かではないし、少なくともトリガーとなる『感情』はそれぞれ異なるでしょうね」

「つまりアタシにとってのブーストが、他の、例えばヴェナにはブレーキになる感情だったり?」

「ええ、その通り。いい例えね。その理解でいいわ」

 笑顔で褒められたのだが、子供を褒めるような言い方でややレベッカは気恥ずかしくなって、口をへの字にした。

 そして『通常利用とは別』と敢えて補足されている通り、ブーストとなる感情がゼロであっても奇跡の力を利用することは出来るのだと思われる。よって、今後もその感情と無縁なままでも奇跡の子として何ら支障は無い。ブレーキとなる感情が強く踏まれ、著しい減退さえなければ。――というのが、ヴェナの仮説の概要だと言う。

「この仮説が正しい前提で、今から一つ、あなたに質問をするわ。まずは聞くだけ。答えるのは、私が指示するまで待ってちょうだい」

「えぇ?」

 唐突な指示にレベッカは首を傾けるが、質問が何であるかを把握しなければレベッカからも質問が出来ない。困惑は消えないが、レベッカはただ「うん」と返した。

「以前、怪我をする前の任務でレベッカは、極端な威力上昇を見せたと聞いているわ。水操作の飛距離と精度を、一目で分かるほど伸ばしたと。その時の自分と、さっき、壁を破壊した時の自分の中に――共通する『感情』はある?」

 丁寧に伝えられた質問を、しばし沈黙したままでレベッカは噛み砕き。求められた――いや、質問を『聞くだけ』と伝えたヴェナはまだ求めていなかったのかもしれないが、質問の答えを探る為にレベッカは二つの記憶を辿った。

 数秒後。レベッカはひくりと喉を鳴らした。ヴェナは一度、ゆっくりと瞬きをした。

「その感情が何であるかを、答える必要は無いわ、レベッカ」

 彼女の声に、レベッカは息を潜めるようにして口に手を当てる。そして小さく頷いた。レベッカは震えていた。

「私が聞きたいのは、心当たりがあるか、無いか。それだけ」

 短い言葉で答えられるはずの問いだ。しかしレベッカは何の声も発さないまま、俯いている。呼吸が震えて、彼女が酷くいるのは明らかだ。

「大丈夫よ、レベッカ。此処には私とあなたしか居ない。外部の監視が入れられない部屋を指定したから、他の誰もあなたを見ていないし、私が報告することも無い。悲しくても、恐ろしくても、無理に我慢しなくていいの」

 優しい声に応じたかは分からない。しかしレベッカは頷きながら大きく息を吐き出し、両手で顔を覆った。唸るような声が微かに聞こえたが、それが何を訴えたものかは、よく分からなかった。

「……心当たりが、あるのね」

 繰り返された問いは、レベッカに声を求めない。彼女が頷いたら、それだけで分かることだったからだ。レベッカの頭が上下に揺れたのを見て、彼女が見ていないことを知りながらもヴェナは一つ頷く。

「それはあなたにとって、好ましい感情ではないと受け取ってもいいかしら」

 質問が二つ目になってしまったが、レベッカの反応が遅かったのはそんなことに戸惑ったせいではないのだろう。歯を食いしばるような気配と、喉を震わせたような音が聞こえた後、レベッカは再び頷いた。

「分かったわ。私からの聞き取りは以上よ。……辛いことだったわね。本当にごめんなさい」

 レベッカは声を発さないまま、首を振っていた。ヴェナが謝ることではないと伝えているようだ。自らが苦しんでいる中でもこうして他者を気遣う優しさに、ヴェナは目尻を緩めて微笑む。けれど、それが何処までも悲しい。

 ヴェナは最初から、この仮説を立てた当初から、予想していた。おそらくレベッカのトリガーは、レベッカ『らしくない』感情の中にあるのだろうと。先程のようなシミュレーションの計画を立てたのはその予想を証明する為の一つの手段だったのだから。

 数分間、レベッカはそのまま俯いていた。ヴェナはのんびりとコーヒーを傾けながら、端末を触っている。

「ごめん、アタシが……」

「なに?」

 不意に話し出したレベッカの声は酷く掠れていた。本人もそれに驚いたのか、途中で止めて小さな咳払いをしている。

「引き留めてると思って。ごめん、ちょっと、待って」

「ああ、気にしないでいいのよ、後ろに予定があるわけではないし……それよりレベッカは、モカのところに行く予定があるのよね。結局、私のせいで待たせてしまっているわ。謝罪はコーヒー豆で何とかなるかしら……」

「はは、だから時間の約束は無いって」

 下を向いたままではあったし、少し疲れた様子の声ではあったものの、その時レベッカは確かに笑った。本人もそのお陰で少し気持ちが持ち直せたのか、先程よりもまだ落ち着いた様子で深呼吸をしていた。

「今回の件はあくまでも仮説だから、確定ではないわ。それを明確にしていく為にも、次回以降はあなたが今思い当たった『感情』を意識して利用してもらいたい。そして今回確認したのはブーストになる感情の方だから、ブレーキの方も分かるなら解明したいわね」

 レベッカの様子がやや落ち着いたのを見計らって、今後のことを淡々とヴェナは説明する。まだヴェナからは頭頂部しか見えないままではあるが、レベッカが緊張した気配はない。ヴェナは慎重にその様子を見守り、これ以上レベッカの精神を追い詰めないようにと気を配っていた。すると数秒間の沈黙の後、「ヴェナ」とレベッカが弱く彼女を呼んだ。

「……どうして、心当たりがあるかどうかしか、聞かないの? どういう感情か、いつかは言わなきゃいけないんじゃないの」

「いいえ、その必要は無いわ。おそらくね」

 即座にヴェナは否定した。レベッカにとってその回答は予想外だったのか、緩く顔を上げてヴェナを窺った。

「先程も伝えたけれど、この仮説が全ての子に該当するとしても、トリガーとなる感情はそれぞれ異なると思っているの。だから必須なのは本人の『自覚』よ」

 そもそも上手く言語化できない複雑な感情である場合もあるだろうし、子供に無理に説明させても大人には伝わらないか、間違った形で理解してしまう可能性が多分にある。そこまで考えれば、子供が内に抱える『感情』を敢えて言葉で説明させることにあまり重要な意味は無い、場合によっては悪い方向に転がる可能性すらある、というのがヴェナの考えだ。

「自覚するだけでは上手くコントロールできないなら、自らの意志で、できる範囲で打ち明けてくれれば協力する。そのような体制で充分だと思っているわ。……何度も言うけれど仮説だから、状況が変わることはあるかもしれないけれどね」

 だから先程も「必要は無い」と明言しておきながら、「おそらく」と付け足している。仮説が間違っており、今のヴェナの中にある考えが幾つも覆るようであれば、また話は変わってくるのだろう。

「それでも、感情が全ての子で一律である可能性は凡そゼロよ。今、他の子のデータも手元にあるけれど。私が予想しているこの子達のトリガーは、どれも違う感情でしょうから。あなたのものもね」

「……そっか」

 レベッカは目を細めて、視線を落とす。その表情をヴェナは静かに見守った。

 他の誰とも共有できないことが苦しいのだろうか。それとも、自分のトリガーとなった『感情』がどうして『これだったのか』という疑問と悲しみだろうか。レベッカが言葉にしてくれなければ流石に読み取れるものではなく、ヴェナは不躾な視線を外して、端末を見つめた。

「少し落ち着いた? 何か他に質問はあるかしら」

「……ん、みっともないところ見せて、ごめん。質問は、……今は無いかな」

「そう。また何かあればいつでも言って。メッセージでもいいわ」

「うん」

 甘やかすようなヴェナの声に、レベッカはくすぐったそうに笑って頷く。まだまだ顔色は良くなく、表情は頼りない。けれど本当にもう、落ち着いてはいるようだ。ヴェナも少しホッとした顔になった。

「モカの所には、出来れば会いに行きなさい。……コーヒー豆をあげるだけじゃ済まなくなるかもしれない私の為にもね」

「だから大丈夫だってば。……うん、会いに行くよ」

 リハビリですらモカを遠ざけたレベッカのことだから、今回のことでも精神的に不安定な状態をモカに見せたくないと避けてしまう可能性があると考えたヴェナだったけれど。迷い無く頷いている様子を見て、それについても何かしら二人の間で話をしたのだと察し、先程とは少し違う安堵に目尻を下げた。

 また少しコーヒーを飲んでクッキーを摘まんだ後。レベッカは立ち去って行った。真っ直ぐにモカへと会いに行くのかどうかは、ヴェナ達の知るところではない。けれど「会いに行く」とは言っていたので、神経質に追う必要は無いだろう。ただ、精神的に不安定であることは間違いない為、見られる範囲で注視しておくべきだという考えだけは担当職員らの間で共有されていた。

「……脳波などの測定は、先にカミラの方にやらせましょうか。今のレベッカはあまり安定した状態ではないし、あれでいてとても繊細な子だから」

「カミラなら多少のストレスは良いだろうという大いに私情を含んだ人選だが……必要なことには違いない。準備をしておくよ」

 ヴェナは面談室から職員らが待機していた別室に移動すると、今後の研究についての調整を進める。

 なお、トリガーが『感情』と言っても実際は感情そのものが影響しているわけではないとヴェナは考えている。感情に伴って起こる体内の変化が影響しているのだ。

 活性化する脳の部位に関係があるか、はたまた、モカやイルムカルドの件でも話に上がっていた分泌されるホルモンの種類やバランスに関係があるか。いずれにせよリアルタイムに起こる変化を見る必要があり、測定にはそれなりの設備も必要で、子に負担を掛けないように努力はできてもゼロには出来ない。それならば完治していると言っても大怪我をした後で精神も不安定なレベッカよりは、無傷で戦場から戻って精神がレベッカほど繊細ではない――という所感はヴェナによるものだが――カミラにまず白羽の矢が立つことになった。

 何にせよ、今は何も確かなことが分からない。確かにする為に、これからの検証が必要だ。

「他の子達にも該当する可能性があるんだよな? 『限り』を含め、特に今は問題を持っていない子も」

「あくまでも可能性だけど、そうね。ただ、能力に変化が表れている子でなければ自覚させる手段が無いわ。今は、明確に『限り』を持つ子の面談と聞き取りをお願い」

「なるほど確かにそうだな。では調整可能な子から順次計画して……此方で質問事項をまとめておくから、ヴェナが最後にチェックしてくれるかい?」

「ええ」

 対象となる子らを洗い出し、テキパキと段取りを進めてくれる職員らを横目に、ヴェナはずっと端末へ視線を落としている。今も彼女の頭の中ではあらゆるデータが飛び交い、検証方法の案や、それによって想定される結果のパターンを幾つも思い描いているのだろう。

「しかし本当に、ヴェナが来てくれて良かったよ。まだ何も解決したわけではないが、光が見えた」

 職員らはあらゆる手段を講じてレベッカの検査や奇跡の力の検証を行っていたものの、何一つとして思ったような成果が出ていなかった。ところがヴェナは最初の計画で、レベッカに明確な変化を出させている。ヴェナいわく、数多くあった仮説の一つが偶々最初に当たっただけと言うが、ずっと頭を抱えていた職員らには今の彼女が救世主にしか見えない。

 しかしヴェナは端末を見つめたままでつまらなさそうに目を細め、その賛辞を素直に喜んでいる様子は全く無かった。

「少しでも力になれるのは嬉しいけれど。……答えは必ずしも一つではなく、わ。私のこの仮説だけで、奇跡の力や『限り』が全て説明できるわけでもないから」

 全てが説明できないからと言って、仮説が間違っているという証明にはならない。同時に、仮説が確かであったとしても、全てが解明できるようにはならないだろう。面談および検証を進めなければ断言できないことだが、今回のこれは、絡まる紐の内の一本でしかない、というのがヴェナの見解だった。

「その通りだね。気を抜かず、一つずつ、解きほぐしていかなければ」

 他の職員らも大きく頷いて背筋を正した。ヴェナはその光景にも目を向けることなく、端末ばかりを見つめていた。

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