第158話_水が決壊した訓練室

「――あれ? ヴェナもう居ない……」

 レベッカが最初の訓練を終えて制御室へ戻ると、ヴェナが居なくなっていた。しかし、そんな彼女の呟きを拾った者すら、誰も居ない。

 先程、出迎えてくれた職員の一人に「休憩していてくれ」と早口で告げられ、それ以降は誰も彼女の傍に来ていない。職員らはやけにバタバタしている。何かあったのだろうかと、改めてレベッカは首を傾けた。

 ヴェナについては情報収集が済んで、もう立ち去ったのかもしれない。けれどレベッカを心配して駆け付けた彼女にしては、らしくない行動だと少し不思議に思う。ただ、この部屋は通信がやや不安定だ。今は端末にも何も連絡はないが、後からメッセージの一つでも届くのだろうと考え直して、とりあえずレベッカは考えることを止めた。

 忙しなく動き回っている職員らのことも気になるが、呼び止めることも躊躇われる。言われた通り、自分は大人しく休憩しているべきだろうと、レベッカはモカが差し入れてくれたコーヒーとクッキーを取り出した。退屈ではあるものの苦痛ではない。汗で身体が冷えぬように上着を羽織り、コーヒーでひと息を吐いた。

「お疲れ様、レベッカ」

「あ、ヴェナ――、……あれ?」

 五分ほどすると、訓練室の出入り口とは別の方向からヴェナが戻ってきた。声に応じて振り返ったところで、レベッカは目を瞬く。ヴェナが、見慣れない装いに変わっていたからだ。着替える為の不在だったらしい。

「どうしたの? 何かみんなもバタバタしてるし」

「きっと私の我儘のせいね」

「わがまま?」

 戸惑うレベッカの様子にくすくすと笑いながら、ヴェナは彼女の隣に並んで座った。

「次は私とレベッカの、『合同訓練』にしてほしいとお願いしたのよ」

「えっ」

 訓練着は、職員からの指定が無ければ服装は自由だった。レベッカも今日は普段のトレーニング着を着ている。だがそれでもヴェナの今の装いが訓練用などとは、露ほども思わなかった。少なくともレベッカが着ているような動きやすい服とは全く違う。

 先程までのスカートではなくスキニーパンツだから、普段のヴェナの装いに比べれば確かに動き易いのだろう。けれど走り回るつもりも汗をかくつもりも全く無いと言わんばかり。靴もシューズに変わっていたものの、何故かやや踵が上がっている。ヴェナ曰く、「普段からヒールばかり履いているせいで、平らな靴を履くと足が痛い」らしい。シューズしか履かないレベッカにはまるで分からない世界だった。

 ただ、レベッカが戸惑ったのは瞬き二つ分くらいで、服装については本人が良いなら良いかという程度で飲み込んでいた。

「今のアタシの状態だとちょっと不安だけど、……でも、なんか新鮮だね。ヴェナとは現場も一緒に出たこと無いからさ、ちょっとだけ嬉しいって言うか、楽しいかも」

「そうね。私も柄にもなく、少し浮かれているわ。偶にはこういうのも良いわよね」

 穏やかな空気で笑い合う二人とは対照的に。職員らは一様に不安そうで険しい表情をして、依然、バタバタと大急ぎで訓練準備を進めていた。

 しかしシミュレーションを流すだけのことが多い訓練室で、こうも準備に時間が掛かるとは、一体どのような訓練内容が予定されているのだろうか。新しい内容のシミュレーションか、または新しい仕組みでのデータ測定か。一瞬、気になった様子で職員らの動きに目を向けていたレベッカだったが、ヴェナから話し掛けられると、すぐにその思考も霧散した。

「終わったら、モカのところに行くんでしょう? あまり予定時間を延ばさないようにお願いしてあるから、そのせいで急がせてしまっているのよ」

「いや、モカとはいつでも会えるんだけど……」

 二人の時間を減らさせないようにヴェナが配慮させたと言うが。こんなにも職員らに負担を掛けてまで守ってもらうべき重要な用事があるわけではない。逆に心苦しさが増したような思いで、再び職員らの方を見る。なお、話すヴェナが笑っている為、これが本当か嘘かも定かでは無かった。

 そんな雑談をしながら過ごすこと十五分。

 準備が整ったと、少し疲れた顔をした職員に促されて、二人は奥の部屋へと入り込んだ。

 部屋の中は、奇跡の子ら――例えばウーシンやイルムガルドが力を用いて暴れても破壊されないよう、この国のあらゆる技術を詰め込み、非常に頑丈な作りとなっている。どんな小さな衝撃波も漏れぬようにと、扉には特殊なロックが掛けられた。

『――ではシミュレーションを開始する。いつも通り、敵軍に対して回避と反撃を試みてくれ。互いのフォローも忘れずに』

 告げられた指示はシンプルで、レベッカにとっては本当に『いつも通り』のものだ。強いて言うなら、少し離れて横に立っているヴェナと互いにフォローをし合う必要がある、という違いがあるだけ。ヴェナと共に戦ったことは一度も無い。戦い方も、少し噂を聞くくらいで、ちゃんとは知らない。咄嗟に上手く合わせられるかについては多少の不安があった。

 さておき、そんな風に迷っている間にシミュレーション開始のカウントダウンが始まっている。この部屋には『地下水』などあるわけがないので、部屋にはレベッカが利用できるようにと大きな水槽が四つ置かれていた。今のレベッカに上手く操作できるかは分からない。試してみて駄目なら、回避を優先して――。そんなことを考えたレベッカに、ヴェナが落ち着いた声を掛けてきた。

「大丈夫よ。私の氷があれば回避しなくても。反撃に注力して」

「あ、オッケー、なるほど」

 少し力を抜いて、レベッカが笑う。そういえば、ヴェナの氷は銃撃も砲撃も防ぐことが出来る。そして破壊されても新たに作り直せる。奇跡の子の中では屈指の防御力を誇る力なのだ。そんなヴェナを傍に付けることで、水の扱いに不安を抱えているレベッカに少しでも落ち着いて操作をさせようという合同訓練なのかもしれない。

 しかし、そのような気遣いに応えようと意気込んでも。落ち着いて行おうとしても。今回のレベッカは一つ前のシミュレーションよりも更に水の操作が悪かった。反撃しようと伸ばした水柱は途中で崩れ、曲がり、上手く当たらない。伸びるどころか水面が揺れる程度のことも多く。ひたすらヴェナの氷に守られるばかりだ。苛立ちが、募っていく。

「クソッ! また上がらない!」

「此方はまだまだ問題ないわ、ゆっくりやりましょう、レベッカ」

「……っ、ごめん」

 思わず焦って苛立ちの声を上げてしまい、ヴェナに宥められる。その度に情けなくなっていく。ヴェナは優しさで声を掛けているのだろうに、今のレベッカには悪循環でしかなかった。

『ヴェナ、先程の銃撃、もう少しで氷が破られるところだったよ』

 その時。職員から初めてヴェナへの指摘が入る。ヴェナは呑気に「あら」と応えていたが、軽く首を傾け、困った顔も見せていた。

「訓練にあまり入らないから、加減が分からないわね……」

『それなら、数値を出そう。ダメージが100を超えたら、氷が破られると思ってくれ』

 少しの会話の後、ヴェナが出した氷に、職員らが操作して試験的に数値を赤色で表示した。ヴェナが納得した様子で頷くと、シミュレーションが再開される。

『次は、敵が新型兵器を使うことを想定した編成だ。用心するように』

 続いたアナウンスに、レベッカが眉を寄せた。今の不安定な状態で、シミュレーションの難易度ばかりが上がっていく。簡単な敵すら真っ当に処理できず、今のところヴェナに守られて、反撃も最終的にはヴェナが行っている状態だ。これ以上、このシミュレーションを続ける意味はあるのだろうか。下らない考えが脳裏をぎった。

「レベッカ」

 深みに嵌りそうになった思考を、ヴェナの冷静な声が留める。

「あなたは生き残ることを考えて。今のあなたでも、生きて戦場から帰れるように。どうしても上手く行かないなら、その訓練だと思いましょう」

 レベッカは何も言わず、ただ、彼女の言葉に頷いた。これは訓練だ。死ぬことは無い。だが、戦場と同じだけ危機感を持って行うからこそ意味がある訓練だ。「生き残ることを考える」とはつまり、「死ぬかもしれない」という意識で、このシミュレーションに向き合うべきだということ。その真剣さは確かに、今の自分には足りていなかったかもしれないとレベッカは自覚して、集中する為に無言になった。

 ヴェナはレベッカの横顔を一瞥したが、カウントダウンがゼロを伝えたのを聞いて、前を向く。

 序盤は順調だった。

 やはりレベッカの水は上手く動かなかったものの、焦りや苛立ちは鳴りを潜め、回避行動に支障はない。水を動かすことに注力し過ぎていたレベッカの視野がやや広がったのだろう。

 しかし中盤に差し掛かった辺りで新型兵器が入ると、状況が変わった。

『ヴェナ、間もなく突破されるよ!』

「くっ、う、視界が……!」

 彼女の生み出す氷は、電撃兵器をも防いだ。しかし強烈すぎる光がヴェナの視界を奪ってしまう。しかも氷塊が光を乱反射してしまい、周囲がまるで見えない。一部の氷を解除するも、それを行うタイミングがあまりに悪かった。氷を解除した直後は少しの間、白い靄が漂うのだ。全てが悪い方向に転がって、彼女らの視界を遮る。

「――伏せて、ヴェナ!!」

 レベッカの声に応じ、ヴェナは咄嗟に膝を折ってその場にしゃがんだ。彼女を守っていた氷の上部は、既にダメージが100以上を表示していた。氷を破ったのは、かつてレベッカを戦線離脱に追い込んだあの銀色の矢。

 体勢を崩したヴェナがレベッカに向かって手を伸ばすと、レベッカはすぐに応じて彼女の手を取ってその身を引き寄せた。

「ごめんなさい、ありがとう」

「大丈夫。目は?」

「……まだ、見えないわ」

 光にやられてしまった視界が整わないらしい。既に数度、電撃兵器と戦っているレベッカは上手く視線を外していたが、ヴェナは氷との相性が悪い上、初めて対応するので失敗してしまったようだ。一先ずはレベッカが誘導する形で回避を続けるも、ヴェナが残した氷もあと僅か。新型バリスタの矢については、ヴェナの氷でも何度も受けることは出来ない。

 レベッカはあの日の戦場を思い返しながら、何とか生き延びる方法を思案していた。

 一旦少し退いて、ヴェナに新たに氷を作ってもらうのがいいのではないか。二重の壁にしていれば時間が稼げるかもしれない。少なくともヴェナの視界が整うまでの時間が必要だ。そう思って、レベッカが僅かに足を下げた時だった。

「えっ」

 床に付いた足が滑った。

 つるりとした感触。ヴェナの氷か、それともレベッカがまき散らした水か。

 何だったのかは分からなかった。だが確かにレベッカは足を滑らせて転倒した。当然その程度でレベッカが負傷することは無い。しっかりと受け身を取りながら反転して、すぐにヴェナの状況を確認しようと顔を上げた。

「ヴェ――」

 名を呼ぶのも間に合わなかった。顔を上げたと同時に、ヴェナが矢に被弾した。

 シミュレーションだ。これは訓練室であり、本当に矢が被弾することは無いし、その衝撃を受けることも無い。だが、ヴェナの氷とその冷気によって部屋全体に薄っすらと靄が掛かっており、それらがシミュレーションをあまりに生々しく映し出していた。衝撃音が鳴り、ヴェナが倒れ込む。被弾の衝撃は再現されていないのだから、彼女が倒れ込んだのは別の要因だったのだろう。レベッカが転倒したから、支えを失くして倒れたのかもしれない。もしくはレベッカが転倒寸前にヴェナにもぶつかっていたのかもしれない。

 冷静に考えればそんなことも分かるのに。

 この時、レベッカは混乱していた。頭が真っ白になった。ヴェナが貫かれて倒れたその光景は、レベッカにとってはもう現実のものだった。

 レベッカの視線が、前方の敵を見据える。

 次の瞬間、部屋全体が震えるような轟音が鳴り響いた。全ての衝撃を吸収できるだけの頑丈な訓練室が、確かに、揺れたのだ。

『――……レベッカ』

 数秒後。静かになった部屋の中に、職員がアナウンスを入れる。

『聞こえるかい、レベッカ。訓練は終了だよ』

 レベッカは両膝を床に付いた半端な形で、前を呆然と見ていた。

「あ、あぁ、訓練……」

 震える声で、レベッカが応える。視線がふらふらと辺りを漂って、ようやく、これが現実でないことを理解した様子だった。

「私が分かるわね、レベッカ」

「ヴェナ……」

 既に傍にはヴェナが寄り添うようにしゃがんでいた。レベッカに触れる手は温かく、彼女は、何処も傷付いてなどいない。貫かれてなどいない。何度も視線がヴェナの身体を確認している。

「レベッカ、大丈夫か、立てるかな」

 いつの間にか数名の職員も、室内に入り込んで、レベッカの様子を窺っていた。

「あの、……ごめんなさい、アタシ、あの……」

「謝ることはないよ。怖がらせてしまったね。二人共、怪我は無いか?」

 憔悴した様子でレベッカは謝罪を口にするが、職員には怒っている様子も、取り乱している様子も無い。ヴェナとレベッカが無傷だと宣言すれば、安心した様子で微笑んでいた。しかしレベッカの心はまだ落ち着かない。改めて顔を上げて前を向いた。

 レベッカの視線の先。丈夫な壁。イルムガルドがぶつかってもびくともしないはずの訓練室の壁が、いくつも崩れ、数か所は隣の部屋まで貫通していた。壊したのは、レベッカの水だった。

「隣は空けてあった。何の問題も起こっていないんだよ、レベッカ。さあおいで。少し休憩しよう」

「うん……」

 レベッカが立ち上がる頃にはもうヴェナの氷も全て解除され、視界を曖昧にしていた靄も消えていた。

 先に部屋を出たのはレベッカで、彼女は更に別室へと連れられて行く。早めに精密検査も受けさせた方が良いだろう。本人には怪我の自覚が無くとも、まだ気付いていないだけの可能性もあるのだから。

 その背を見守りながら立ち止まり、壊れた壁の方を見やっていたヴェナの傍に、職員の一人が立った。

「ヴェナ、これは全て君の予想通りだったのか?」

 眉を下げて問い掛けてくる職員に、ヴェナは溜息を零してから、軽く首を振った。

「……レベッカの能力は『水の操作』だから、考え得る結果ではあったわ。だけど流石に、『万が一』として準備させただけだった」

 隣の部屋を空け、且つ、制御室に留める人員も最低限として他全ては避難させるようにと、ヴェナは事前に提案していた。この部屋が壊されることはあり得ないと職員らは声を揃えたが、それでも強く要望して調整させたのだ。

 この結果を見れば、ヴェナがまるで全てを見通していたようにしか見えない。だが今の彼女の様子を見る限りは、彼女にも驚きが無いわけではないらしい。

「今回の出力の二倍まで耐えうる強度での改築を、強くお勧めします」

 この国の技術を結集し、絶対の自信でもって運用されていた訓練室へ告げるにはあまりに無情な言葉だが。職員は苦笑しながらも、頷いた。

「それくらいは今後、必要になりそうだね。これ以上の出力を見せる子が現れる可能性も出てしまった」

 事実、壁は壊されたのだ。万が一にも壊れることは無いと胸を張る為には、確かに二倍程度は『最低でも』必要なのだろう。壊した当のレベッカも今後、出力を上げてくることは充分に考えられるのだから。

「次はどうする?」

 制御室に戻ったヴェナに、職員は後を追いながら問う。今回、ヴェナがの段取りでシミュレーションを行い、レベッカの変化を見た。それ故に、ヴェナの指示の下で研究を進めることへの期待が高まっている。傍で控えていた全員が、彼女の言葉を待った。

「まずは面談ね。レベッカの検査が終わったら、落ち着いてあの子と話せる場を用意して頂戴」

「ああ、分かった。……あと君も一応、検査しようか?」

「……そうね。今更少し、右腰が痛い気がするわ」

「だと思ったよ」

 ヴェナは奇跡の子らの中でも最強クラスの戦闘力を持っている。戦場でも歩くことばかりで走ることは少なく。立っているだけで全てを終わらせるような圧倒的な力だ。その代償と言うべきか、本人の性格か。ヴェナはあまり身体を作っていない。受け身は、レベッカほど上手に取れなかったようだ。

 ただ、最後の転倒は『わざと』だった為、大きな怪我をするほどではなかった。おそらくは軽い打撲だろう。呆れたように少し笑った職員に、ヴェナはばつが悪そうに微かに眉を寄せた。

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