第157話_訓練室に氷が落とす期待と不安

 冷たい目で、ヴェナが壁の一点をただ見つめていた。職員はその横顔に声を掛ける様子無く、辛抱強く静かに彼女の反応を待つ。沈黙は三分にも満たないものではあったが、待つ側にはずっと長く感じられた。ようやく落とされた新しい音は、諦めを込める小さな溜息。

「分かったわ」

 言葉は明らかな肯定であったのに。ヴェナは改めて長い溜息を落とし、気乗りしない肯定であることを表している。

「では――」

「ただし」

 不満そうであれ了承を得たのだからと、職員が話を進めようとした瞬間。再びヴェナから待ったが掛かった。

「他の子はともかくとして。あの人……カミラの場合は、聞き取りを誰か別の人にやらせて」

 今回、職員が持ってきた話は、『奇跡の力の減退および消失に関する研究』を、ヴェナ主導で進めてほしいという打診だった。しかしその場合、どう転んでもヴェナはカミラと深く関わる必要が出てくる。彼女に回答を渋らせた原因は、やはりその一点だけだった。

「それは……勿論、人員は用意できますが、ヴェナさんの思い通りに進められるでしょうか?」

「質問事項は私が用意するわ。その上できちんと記録をして。音声と映像は勿論、脳波や心拍数もね」

 職員は何か言いたげな顔をしながらも、最終的には「分かりました」と了承を返す。同時にヴェナも、少しバツの悪い顔をしていた。

「どうにもならなければ直接行くけれど。……私とあの人は、基本ほとんど会話にならないのよ」

 彼女の言葉に、職員は口を開きかけたけれど。そのまま閉ざして余計な言葉を吐くまいとした。藪をつついて蛇を出すべきではないからだ。ヴェナに対して、カミラの話を持ち出すのは誰だって怖い。仲の良い奇跡の子らですら、躊躇しているのだから。


「――対象があの人でさえなければ、二つ返事で応じられた条件なのに」

 今後の研究計画について打ち合わせを終えた後、自室に戻ったヴェナはそう呟いて項垂れていた。

 最初の事例はカミラ。そして今はレベッカも能力が不安定になっている。二人の場合は状況も時期も大きく異なる為、原因が全く違う可能性もあるが、それでも今までに無かった変化が出ている以上、放置するわけにはいかない。WILLウィルは、奇跡の力とそれを扱う子供達で成り立っている組織なのだから。

 ヴェナもその奇跡の子の一人で他人事ではないし、気にならない事象だとは決して言えない。何より、可愛い妹分であるレベッカまでそのことで苦しんでいると言うのだから、手を貸すことに異論など全く無い。もしレベッカのことを別のタイミングで耳にしていたとすれば、自分にも調べさせてほしいと司令に懇願した可能性さえある。……それもやはり、カミラのことさえ、無ければだが。

 今までのことを思えば、ヴェナとカミラが対峙した状態で、スムーズに研究できるはずがない。前に進まないと分かり切っている研究を見切り発車させるなど愚の骨頂だ。せめて先に状況を整えるべきだ。整えられるかどうかはともかくとして。

 だが今回、引き受けるならばその代わり、ヴェナの研究職に関する謹慎を全て解くという条件を出してきた。

 ヴェナは今、謹慎中の身である。遠征は勿論のこと、研究施設への立ち入り、研究員との接触も凡そ禁じられていた。しかしこの研究を優先的に進めるなら、現在停止している全ての研究が再開できると言う話だった。

 実際、そんな条件をわざわざ持ち出さなくともヴェナはWILLウィルに所属している研究員である為、命じられれば応じる他ない。それでもこのような手段を取って来たということは。司令や職員らは、カミラが関わった時点でヴェナが前向きになれないことをよくよく理解しているのだ。

 今回の打診によってヴェナもそれを察してしまった。つまり『前向き』に研究に臨めと。おざなりにするのではなく、ヴェナの全身全霊でこの研究には挑んでほしいと。そういう取引なのだ。

 しばらく回答に迷ったのも、そのせいだった。

 応じるならばヴェナは否が応でもカミラと向き合わなければならない。先程のように対応を別の職員にさせるという措置などその場しのぎでしかなく、ヴェナの抱く懸念全てを解決することにはならない。

 映像や記録を見て、カミラの言動、一挙手一投足に対して、ヴェナは分析する必要がある。……その自信が、ヴェナには全く無かったのだ。

「何とか、しなければならないわね、本当に」

 自室の机に向かって頭を抱えるようにしながら、頼りない覚悟だけを胸の奥に秘めて。とにかく研究の準備を進めるべく、頭を振って立ち上がった。


「――それで、アタシのところが来やすかったんだ?」

 くすくすと笑ってそう返すレベッカに、ヴェナはやや気まずい思いで肩を竦めた。

「あなたの方が急務だって判断しただけよ」

 机上で進められる情報整理と研究計画はそこそこに、ヴェナは早速レベッカの元へと足を運んだ。

 これからいつもの訓練であるレベッカは準備中の職員らを横目に、のんびりとベンチに座って、丁寧に靴紐を結んでいる。簡単な言葉で経緯を説明した後にヴェナが「今日は私も同席するわね」と告げれば、レベッカは「うん」とだけ返していた。

 ヴェナが、研究対象について実情を自分の目で確認しなければ気が済まない人間であることは事実だった。カミラよりも気負わずに会えるのも図星だけれど、遠からずレベッカの様子は見に来ることになっただろう。そして何より、一刻を争うようにして訪れたのは、もっと大切な理由がある。少なくともヴェナにとっては、研究よりも。

「これは、あなた一人の不安じゃないわ。私達みんなの問題よ。……大丈夫だからね」

 肩に触れると、レベッカが顔を上げる。その表情にいつもとの違いは見付けられないけれど。少しも辛くないはずがないと思うほど、ヴェナの心は締め付けられた。その頬に触れ、慰めるように手の平で撫でる。

 ヴェナは、レベッカが苦しんでいることを今日まで何も知らなかった。それがとても悲しくて、早くレベッカの顔を見たくて仕方が無かったのだ。

 一瞬だけ眉を下げたレベッカは、力が抜けたような笑みを浮かべる。

「うん。ありがとう、ヴェナ」

 その時、訓練室の扉の開閉音が聞こえた。訓練室は奇跡の力を使用することを前提とされている為、制御室へと入ってくるだけの扉も妙に厳重に作られている。そのせいもあって開閉音は割と大袈裟な音がするのだ。二人にとっては聞き慣れた音ではあるが、つい同時に視線をそちらに向けた。すると入って来たばかりのモカと、目が合った。

 ヴェナは殊更に慌てた様子でレベッカの頬から手を離す。

「しまったわ。怒られてしまうかしら?」

 どうせ本気でそんな心配をしてもいないのだろうに、わざわざハンズアップをしてヴェナが一歩、レベッカから離れる。

「また揶揄うつもりですか……」

 モカは呆れた様子で呟いた。レベッカはただ二人のやり取りに楽しそうに笑っている。

「レベッカの訓練に、付き添いに来たの?」

「いえ、ただの差し入れです。私はすぐに出ていきます」

 そう言ってモカはコーヒーの入ったボトルと、クッキーの入った小さな紙袋をレベッカへと手渡した。「わーい、ありがとう!」と子供みたいに喜んで受け取る彼女に、二人が少し目尻を下げる。しかもコーヒーの方は早速、蓋を開けて飲み始めていた。

「ヴェナさんはどうして此処に?」

「能力の減退について、ヴェナが研究することになったんだってさ~」

 モカの問いにすぐ応えたのはレベッカだった。ヴェナが研究を行うことは特に秘密となっていない。ただ、カミラだけではなくレベッカにまで減退が起こっている件は、レベッカの要望で現在は情報開示が限定されている。ヴェナにもその通達は入っていた為、レベッカがこうして告げることで、『モカには告げていい』ということを示したのだ。ヴェナは意味されたことを汲み取って軽く頷き、改めてモカにも経緯を伝えた。

「ヴェナさんに携わって頂けるなら、こんなに心強いことはありません」

「対カミラの不安要素が大きいけれど……期待に応えられるように、頑張るわ」

 その返答に、二人も苦笑を漏らす。

 二人は以前、ヴェナのカミラに対する想いの端を聞いている。過去の彼女は、少なからずカミラを想っていた。しかし今のヴェナは本当にカミラが「居るだけで腹が立つ」らしいので、結局のところは普段、周りが見ている通りでもあるのだ。どう考えてもすんなり事が運ぶとは思えなかった。

 短い会話を終えると、言葉通りモカは早々はやばやと退室して行った。訓練を見られるのが好きではないとレベッカが言っていた為、配慮したのだろう。「終わったら会いに来てね」とだけは去り際に告げていたが。

「良い奥様ね」

「ヴェナって結構、揶揄うの好きだよねぇ……」

 隙あらば二人の仲を突いてくる。曰く「二人の仲が良いと嬉しいのよ」と、そういう理由らしいが。事あるごとに揶揄われる二人からすれば堪ったものではない。

 それから十数分後。訓練準備の完了の報告を受けて、レベッカは測定の為に奥の部屋へと入って行った。

「今までのデータは、すぐに送ってもらえるのかしら」

「ああ、準備中だよ。あと五分もすれば……ふふ、あっちで頑張っているところだ」

 ヴェナが声を掛けた職員が視線を向けた先に、必死に端末を操作している二名の職員の背中が見えた。今までのデータを漏れなく伝えつつ、雑多にならないように整えて、ヴェナに報告する準備をしているらしい。この研究にヴェナが加わると確定したのは今日、ほんの数時間前だ。やや無茶な願いであったことを理解し、ヴェナは申し訳ない気持ちで「ありがとう」と苦笑した。

「ヴェナさん!」

 そこへ扉の開閉音と同時に。突然、モカの声が入り込む。

「あら? どうしたの、モカ」

 とうに立ち去ったはずだったが。ヴェナと職員が驚いて振り返ると、モカは少し肩で息をしていた。立ち去った後、何かを思い出して走って戻ってきたらしい。

「以前。レベッカは極端な能力上昇があったんです。今回の件に関係ないかもしれませんが、ふと思い出して……怪我をする、一つ前の任務です」

「……ああ、そうだ、あった! あの時も、データ上は何の違いも見られなくて」

 職員もモカの言葉に大きく目を開いて、ハッとしていた。二人の様子を見比べた後、ヴェナは努めて落ち着いた声を返す。

「そんなに顕著な違いだったの?」

「はい。現場で目の当たりにした私達も驚いて、一瞬、固まってしまったくらいで……」

 説明途中で、モカの言葉が尻すぼみになる。モカは自分の所感を今すぐ伝えるべきか、先入観の無い状態でデータを見てもらうべきか判断できずに躊躇っていたのだ。ヴェナはすぐにその心情を察し、優しい目で微笑んだ。

「大丈夫よ、あなたの『感想』を聞かせて」

「……はい」

 情報は情報として、感想は感想としてヴェナ側で処理するから大丈夫ということらしい。モカはやや安堵した様子で、レベッカの能力が向上した時のことを話した。

 その間に、職員らは当時のデータと、更に以前のデータも引っ張り出していた。周りから「あのデータなら既に確認しましたよ」「特に異常は無かったはずです」「今回だって『異常』は見付かっていないだろう。それが異常なんだ」と、状況を綺麗に説明するような会話が飛び交う。

 モカからの『感想』と、職員らが口にしている意見全てを耳に入れた上で、ヴェナは少し考えるように視線を落とした。しかし次の瞬間には柔らかな笑みをモカに向ける。

「ありがとう、モカ。あなたのお陰で、ピースの無い状態で研究を始めずに済んだわ。また何か気付いたことがあったら、どんなに些細なことでも構わないから教えて」

「はい」

 モカは話が終わると一瞬だけレベッカの居る部屋の方へと視線を向けたが、迷わず立ち去っていた。

 彼女の気配が無くなると、すぐにヴェナは難しい顔に戻る。その傍に、先程の職員が戻ってきた。モカが指摘した事象について改めて精査すべく、データを集める指示を終えたとのことだ。

「元々、君に渡す報告にもそのデータは含まれる予定だったようだが、重要視していなかったのは事実だ。すまない。生死に関わる大怪我と、低下だと、無意識に関連付けてしまった」

「仕方のないことだわ。レベッカの戦線離脱は、誰にとっても衝撃だったから」

 そしてその直後から奇跡の力に不安定さが見つかったのだから、誰でもそれを原因と思うだろう。怪我の反動か、入院によるストレスか、それとも敗戦が精神的な負担になったのか、と。……だが、もしも。そのどれも関わりがなくて、レベッカの変化はそれよりも『以前から』起こっていたのだとするなら。

 ヴェナはまだ、レベッカの今までの任務と能力の向上や低下について触りの部分しか聞いていない。結論を下すのは勿論、仮説を立てるのも尚早なことだと理解している。しかし、嫌な予感が胸の奥に纏わりついた。

「……司令と直接、話がしたいわ。通話は通りそうかしら?」

「分かった、すぐに確認する」

 職員が離れている間に、先程「あと五分」と言っていた報告データがヴェナの持つ端末へと転送された。眉を顰めながら、ヴェナは黙々とその報告内容に目を通す。

「ヴェナ、応じてくれるそうだ。今すぐで構わないか?」

「ええ、お願い」

 訓練室内はあまり通信が安定しない場所であり、メッセージ程度なら隙を見て送受信可能であるものの、通話は厳しい。その為、専用の通信機が設置されている。職員に促され、ヴェナはそちらに移動した。既に司令とは繋がっているらしく、受話装置を手渡される。

「単刀直入になりますが。今すぐ、身体機能に支障が出る系統の『限り』を持つ子達のデータを下さい。どのような状況でそれが現れているか、可能な限り詳細なものを」

 奇跡の力とその内容についてはほとんどの場合、国民を含め広く公表される。だが『限り』については全く別であり、本人が秘匿を望めば、それを知ることが出来る者はWILLウィル内部でもごく僅かな人員に限られてくる。その為、この情報をヴェナが得るには必ず総司令デイヴィッドからの承認が必要となるのだ。職員らを介して申請するより、司令への直談判が最も早いと考えた上で、この通話だった。

 デイヴィッドからは、カミラとレベッカの事象は『限り』の一部なのかと問い掛けがあったのだろう。ヴェナは短く「まだ分かりません」と返した。

「あくまでも可能性の一つです。……ただ、私の直感では、関わりがありそうです」

 直感など、研究者には本来あまり重要視されるものではない。ただ、ヴェナの言う『直感』は、第六感などでは全くなかった。

 数多の仮説とそれに付随する情報、そしてヴェナが今までに携わってきた研究、読んできた論文、彼女の中にある全ての情報と経験の中から『可能性が高いと思われるもの』を瞬時に感じ取っている状況を、『直感』と呼んでいるに過ぎない。

 そこまでをデイヴィッドが正しく汲み取ったかは分からない。しかし情報提供については了承を告げたようだ。ヴェナが小さく息を吐き出し、「ありがとうございます」と告げている。

「ええ、勿論です。他言いたしません。……え?」

 だが直後、ヴェナは酷く驚いた顔を見せ、訓練室の出入り口の方へと顔を向けた。

 先程、退室して行ったモカ。視力が下がると言う『限り』を持っていた彼女は奇跡の子の中で唯一、その明確な『改善方法』が見付かっている奇跡の子だ。

 モカが秘匿を願っていた為、ヴェナは彼女に限りがあったことも、それが改善された経緯も全く知らなかった。

 痛みや疲れが生じるような子は単純に力の使用を止めれば時間と共に治まるが、そのようなケース以外に『改善』と結び付いたような子はモカ以外に今まで一人も居ない。つまり『限り』がこの研究に関わってくるのであれば、モカも重要な事例の一人となる。

 そのことだけ、まずデイヴィッドは手短に告げたのだろう。通話はその後すぐに終了し、ヴェナの端末には新たに、『限り』に関わる全ての情報が転送された。

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