第156話_テーブルの上に重ねた二人分の温もり

 気合いを入れて口を開くも、申し訳ない気持ちが先に立ってしまったレベッカは、話し始める頃には少し視線を落としていた。

「モカに謝りたいことが、あって。その、謝りたい気持ちだけで来たから、上手くまとまってないかもしれないけど……」

「謝る? 何かしら……浮気をしたとかでないなら、私が怒ることはそんなに無いと思うのだけど」

「毎回『浮気』を例えに出すのやめてよ! しないから!」

 食い気味に言うと、モカが楽しそうに笑う。どうやら緊張していたレベッカの気持ちを解してくれたらしい。謝る側であるはずが、また気を遣われている。それともそんなにも今の自分は酷い顔をしていたのだろうかと、レベッカは額を押さえて溜息を一つ。確かに、少し、気持ちは解れてしまったかもしれない。

「あー、アタシが今、奇跡の力を上手く使えてない話、もう司令から聞いたんだよね?」

 視線を泳がせながら言った為、その瞬間のモカがどのような表情をしていたか、レベッカは知らない。モカはほんの少しの間を空けてから、柔らかな声で「ええ」とだけ応えた。

「……ずっと黙ってて、他の人から伝える形になって、本当にごめん」

「あら」

 頭を下げると同時に返ったモカの呑気な声に、拍子抜けしてしまったレベッカは下げたばかりの頭を上げ、思わずモカの顔を直視した。その表情から反応に戸惑っているのが分かったのか、モカは軽く首を振る。

「ああ、いえ。ごめんなさい、ちょっと拍子抜けしてしまって」

 それはレベッカの台詞なのだが、モカも事実、力が抜けたような顔で苦笑をしていた。彼女の中には何か、更に酷い想像でもあったのだろうか。それこそ浮気のような。いや、あれはモカの冗談のはずだが。

「レベッカの謝りたいことって、それだけ?」

「え、そ、それだけって……だって、前にモカが目のこと隠してて、アタシあの時、かなり愚図ったからさ。それなのに自分のことは黙ってて、だから……」

 先に告げた通り、あまりまとまっていなくて話は何度も前後したけれど。レベッカは懸命に、謝らなくてはと思った内容をモカに伝えた。隠すような真似をしてモカを傷付けてしまったと思っていることや、気を遣わせてしまって申し訳ないと思っていることも。

 しばらく黙って聞いていたモカは、両手で温めるように持っていたコーヒーカップを、静かに持ち直す。けれど見つめるばかりで飲もうとはしていなかった。考えを整理する間を繋ぐように、ただ手を少し動かしただけなのだろう。

「そうね。司令に聞いた時は私も、あなたから聞けていないことを少なからず気にしていたわ。昨日会いに来てくれた時にも、聞くべきかしらって迷って」

 あの時、レベッカが何も知らずに別の話を振らなければ、もしかしたら探りを入れる程度の問い掛けならしてしまったかもしれない。だから、レベッカが黙っていたことを『何とも思っていない』とか、『構わない』と容易く言えるような気持ちでは、少なくともなかった。

「だけどね。怒っているとか傷付いているとか、そういう気持ちではなくて……」

 モカはそこで言葉を切り、沈黙を落とす。彼女自身、レベッカから謝罪を受けて改めて、自分の気持ちを見つめ直しているようだ。そして小さく頷くと、片方の手をカップから離し、いつもより少し温まった手でレベッカの手を握った。

「レベッカがどんな気持ちでいるのか、心配だったわ」

 その言葉にレベッカは驚いた様子で目を丸め、顔を上げた。モカは、悲しそうに笑っていた。

「あなたは今、一人で抱え込んで、苦しんでいるのかしらって」

 そう話すモカの方が余程苦しそうな顔をしていて、レベッカも思わず眉を寄せる。レベッカの行いが不誠実かどうかなど関係なく、モカはただレベッカの苦しみや悲しみだけを、案じていたのだ。

「話すことで余計に辛くなるなら、何も言わなくていいの。苦しんでいるあなたに、負担を増やしたいなんて絶対に言わないわ」

 レベッカはゆっくりと視線を落とし、モカの手を握り返す。その力は、非力なモカが握るよりずっと弱くて、頼りないものだった。

「……モカって、アタシに甘いよね」

「ふふ、今更ね」

「そうだね、あー、そうだった」

 出会った頃から何も変わらない。今まで傍に居た五年間。モカが甘くなかった日など、レベッカには一つも思い出せない。小さく首を振って、レベッカはようやく肩の力を抜いて笑った。

「いやーでもさ、話すっていうかさ。本当、水が上手く動かせない、ってだけ。どうしたらいいのか全然分かんないよ。職員もみんなで頭を抱えてるし」

「原因が分からないと、対応のしようが無いものね」

 モカの言う通りだ。だから今、職員もレベッカも『原因』や『条件』を探そうと躍起になっている。今日の訓練内容と結果も併せて語り聞かせながら、レベッカはいつも持ち歩いている水の入ったボトルを取り出した。

「あー」

 徐にキャップを開け、テーブルに置くけれど。その水は置かれた衝撃に揺れているばかりで、一切動かない。レベッカが肩を竦める。

「めちゃくちゃ調子が悪いね。一滴も動かないや」

 モカは眉を顰めた。『今から動かそう』としているのかもしれないと思ったし、もしくは『動かすのに時間が掛かる』だけの可能性も考えていたけれど。此処まで全く能力が使えない場合もあるのだと、目の当たりにしてしまった。

「……カミラの気持ち、今は少し分かるよ。本当に怖い」

 そう呟くレベッカの声は微かに震えていて。モカは改めて彼女の手を握り締める。いつも温かいそれが、いつの間にか、少し冷えている。

「こんな力が無かったらずっと家族と居られたのにって思うこと、何度もあった。……でも今は、こんなにも怖い」

 皮肉な話だ。傷を負い、ベッドに横たわっていたレベッカは早く戦場に戻りたかった。命を失いかけたあの場所に、みんなと共にまた立ちたいと強く願っていた。おそらく今までで一番の強さで願ったのに。もう彼女の前には、その道筋がまるで見えていない。

 モカはもう片方の手もカップから離し、冷たくなってしまったレベッカの手を両手で包み込む。

「……もしも能力を失くしたとしても。おそらく私達は、一般人には戻れないわ」

「え?」

 驚いてレベッカが顔を上げた先、モカは少し、苦しそうに表情を歪めている。

「正式に政府から『奇跡の力が消えた』と発表されたとしても、国民が納得すると思う? 解放はおそらく、酷い反発が起こる」

 彼女が言わんとすることを理解し、レベッカも表情を歪めた。

 レベッカがWILLウィルに来なければならなくなった原因は、家族以外の周囲の人達だ。彼らはきっと政府が何と言おうとも、レベッカを同じ『人』としてはもう二度と受け入れてくれないだろう。当時のレベッカの痛みを慰めようとでもするように、モカが優しくその手を撫でる。

「万が一だけど、あなたが能力を失くしても。あなたはWILLウィルよ。……ごめんなさい、何の慰めにもなっていないわよね。でも私はずっとあなたの傍に居るから、それだけは忘れないで」

 彼女の言葉に、レベッカは少し表情を緩めた。

 今、本当に欲しい答えは誰にも分からない。戦場に戻る道は、専門の大人達が頭を抱えても分からないことだから、モカに分かるはずもない。

 だけど、もしレベッカが能力を失ってしまったとしても。モカは必ず、何も変わらずにレベッカの傍に居てくれるのだと教えてくれた。それがレベッカには嬉しかった。さっきよりもずっと強い力で、モカの手を握り返す。

「そーだなー。戦えなくなったら、あっちで働こうかな。託児施設」

 色んな事情で戦線を離脱することになった奇跡の子らも、戦闘要員ではないとしてもWILLウィルとして働くことが多い。それと同じく後方支援に回るのなら、レベッカはあの、まだ幼い奇跡の子らを集めた託児施設に行きたいようだ。

「あなたにピッタリね。でも困ったわ。子供達が怖くてなかなか会いに行けなさそうよ」

「ハハハ! そこはもうちょっと頑張ってよ~」

 元々モカは子供が苦手だ。今の発言から察するに、嫌いと言うよりは『怖い』らしい。レベッカの為ならばそんな苦手意識も押し殺して頑張ってくれるかと思いきや。通う足が遠のきそうだと言うのだからレベッカは大きな声で笑う。

 本当にそんな未来になったとしたら、間違いなくモカは足繁く通うのだろうに。

「はー、ありがと、モカ。なんかちょっと元気出た」

 一頻り笑って、まだ繋いだままの手を確かめるように撫でながら、レベッカはそう言った。

「見送るだけの立場にはなりたくないから、最後まで足掻くけどさ」

「ええ。私も出来る範囲で、何か解決策が無いか、考えてみるわ。足掻くなら一緒の方がいいでしょう?」

「はは」

 何処までも甘いモカの言葉に、またレベッカはへにゃりと力の抜けた笑みを浮かべる。

「あ、そういえば。モカが言い掛けてたことって、なに?」

 瞬間、モカの手がぴくりと震えた。同時にその表情が明らかに固まったのを、レベッカは見付けてしまう。

「どうしたの」

「いえ、そうね、ちょっと油断していて」

「油断?」

 急にモカがレベッカの手をもちもち揉み込むように弄り始める。痛いほどではないし、モカにそのように遊ばれても別段、嫌と思わないレベッカだが。思ったより容赦ないのでこのまま形が変わりそうだと、弄ばれる手を黙って見つめた。しかしそれは唐突に解放され、モカはすっかりとレベッカから手を離す。

「ん?」

「いえ、ごめんなさい。コーヒーが冷めてしまうわね」

「え、ああ、いや」

 何事も無かったような澄まし顔でモカはコーヒーを傾けているが、そういう流れだっただろうか。首を傾けつつ、一応、レベッカもコーヒーを飲む。折角淹れてくれたのだから、冷ましてしまうのは勿体ない。ホッと一息を吐いてから、モカもこの一息が欲しかったのかもしれないとレベッカは少し思った。

「昨夜、来てくれた時にね」

 先程の動揺は何処へやら。いつも以上に優しい声でモカが話し始める。応じて顔を上げたレベッカと目が合うと、モカは困ったように笑った。

「トレーニング後だって言うから、久しぶりに長く居てくれるんじゃないかって思っていたの」

「あー……」

 昨夜がいつもと変わらない滞在時間であったことはレベッカも自覚している。むしろ長居すればモカが「泊まるつもりかも」と緊張してしまいそうで、レベッカとしては気遣ったつもりだった。

 けれど少し前、避けるような真似をして心配を掛けたばかりだ。過ごす時間を敢えて短くすることは、また彼女を不安にさせる行為だったかもしれない。しかも昨日の時点でモカは、レベッカが『隠し事』をしていることを既に知っていたのだから。

 心苦しさに思わず眉を寄せれば、モカは逆に目尻を下げて優しく微笑んで、首を横に振った。

「責めるつもりではないのよ、ただ、そんなことも言えなかった自分が、ちょっとね、後から情けなくなって」

 照れ臭そうに笑い、首を傾けているモカは、普段の大人びている様子と比べると何処か少女のようで愛らしい。

「今は仕方ないすれ違いも多いけれど。……少し、その、寂しく思っているわ」

 一般的に見れば控え目すぎる意思表示。けれどモカが言うにしてはいつもよりずっと素直な、そのままの言葉だ。レベッカは俯く為の理由付けをするように額を軽く手で擦る。

「モカってそういうこと言うっけ……」

 恋人に寂しいと言われてこの返しは悪かったかもしれないと思ったものの。気恥ずかしさに思わず零れてしまった。レベッカのその心情などモカにはよく分かっているらしく、気を悪くする様子無く、くすくすと笑う。

「あら意外?」

「アタシが忙しい時に隙間を縫って会いに行ったら『寂しかったの?』とか言われた覚えしかない」

 レベッカが思い起こす限り、会えなくて寂しいなどと言われたことなんて無くて、一生懸命に会いに行くレベッカを見て楽しそうに目尻を下げる彼女しか、ずっと知らなかった。

「あなたの方からいつも来てくれていたもの」

 その言葉に、レベッカは口を噤む。

 モカを避けるようなことも、一緒に居る時間を減らそうとすることも、今回が初めてだった。今までに無かった行動をして振り回しているのはレベッカの方で、それに応じたモカがいつもと違う言動をすることに、文句を言える立場でも無い。ううん、と小さく唸って、また額を擦った。

「ごめん」

「だから。負担になりたいわけじゃないの。そんな顔をしないで」

 明るく笑ったモカは、テーブルの上で硬くなっているレベッカの手を、ぽんぽんと慰めるみたいに優しく叩く。

「レベッカが聞かれたくないなら何も聞かないから。あまり怖がらないで会いに来て。コーヒーならいつでも淹れてあげる」

「……うん」

 子供は苦手なくせに、レベッカに優しい声を掛ける時のモカは小さな子供を相手にするようだ。それがなんだか可笑しくて、レベッカは口元を緩める。

「明日も日中に訓練でさ」

 レベッカが徐に話すから、モカは一瞬きょとんとした顔を見せつつも「ええ」と柔らかな相槌をした。

「だから今日も夜には行かないし」

 これから続くだろう言葉を察したモカが、期待や喜びを滲ませつつもまだ何も言わず、「ええ」と返す。レベッカは少しの照れ臭さに一度、口を引き締めた。

「今日は一緒に晩ご飯食べて、一緒に寝よっか」

 言い終えると同時に、モカがくすりと笑った。繰り返し「ええ」と返してくる短い音が明らかな喜びを含み。更には続けて小さく「うれしい」とまで言われてしまう。レベッカは今度こそ照れ臭さに勝てずにテーブルへ突っ伏した。モカは楽しそうに、いつまでも笑っていた。

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