第152話_仔猫が笑うタワーのカフェ

 アランは全ての女性をこよなく愛しており、一人の例外も無い。

 ただ、再三レベッカをあおっていることからも分かる通り、その愛し方は一様ではなく、分かる形では愛さない、または声を掛けないという愛もあった。物は言いようかもしれないが、つまりアランには決して声を掛けることができない一人が存在する。愛していないわけではなく、触れないことが愛なのだ。

 正面から歩いてきた女性に、アランはびくりと身体を硬直させると、即座に近くの壁へと背を張り付けて静止した。この瞬間、彼は壁の一部となった。

 その動きの一部始終は目に入っていたのだろうに、は一瞥もくれずに彼の前を通り過ぎていく。アランはその間、呼吸すらも止めていた。

 その後ヴェナの姿が見えなくなって、彼女のヒールが鳴らす音がすっかりと聞こえなくなった時ようやく、アランは壁から離れて人間に戻ることが出来る。はぁー、と長く息を吐く彼に、偶々通り掛かってそれを見てしまった職員らが同情の視線を向けていた。

「――ふ」

「いやいや、笑い事じゃないぜ、イルムガルド!」

 先程あった悲しい出来事をアランはイルムガルドに語り聞かせた。するとイルムガルドは軽く口元を押さえ、小さな笑い声を漏らす。奇跡の子らからすれば大変に珍しい光景だが、アランにとってはこれくらいの笑顔を見るのはもはや珍しくなくなっていた為、自らの悲しみを伝える方に注力していた。

って、ちょっと不思議だったけど。そっか、言えなかったんだね」

 顔を上げてそう呟くイルムガルドにはもう笑みは残っていない。けれど目尻はいつもよりやや下がっており、可笑しく感じているのが窺える。

 ヴェナは明らかに美人だ。レベッカやモカに劣っているということは全く無いし、カミラが「お人形ドール」と言いたくなる気持ちも分かる――とは、流石に本人に言えたものでは無いものの、そう思う人間は多い。

 しかしアランは彼女を「WILLウィルの誇る美女」として数に含めて呼んでいない。少なくともイルムガルドはそれを聞いたことが無かった。アランを知るほどに、それを不思議なことと感じて当然だ。

 そんなイルムガルドの指摘に、アランは額がテーブルに付きそうなほど頭を下げて、項垂れた。

「最初は俺だって美女と言っていたんだ。命の危険を感じる、その瞬間まではね」

「ふふ」

 イルムガルドはどうしても笑ってしまうらしい。アシュリーに向けるほどはっきりとした笑みは無いものの、口元が微かに緩み、小さく声を漏らす。

 ヴェナは、基本的に男に対して一様に手厳しい。そして、アランのような軽薄な男には特に容赦が無かった。

 当初はアランも彼女に対していつもの軽口を扱い、モカやレベッカと並べて「三大美女!」と呼んでヴェナのことを大いに構っていた。しかし何処かのタイミングでヴェナの堪忍袋の緒が切れ、アランは下半身を全て氷漬けにされた。勿論、タワー内は騒然となった。その状態で放置されれば凍傷どころの話ではないし、容易に砕けるほどの大きさでもない。しかし怒り心頭だったヴェナはその氷を解除しようという様子は一切無く、そのまま立ち去ろうとさえしていた。

 職員が懸命にヴェナを宥めすかしてアランの代わりに深く謝罪をし、何とか氷を外させた。直後、アランは土下座した。二度と関わらない、話し掛けないという約束までさせられたのだ。以来、アランは一切、ヴェナに構っていない。むしろ職員や司令からも「もう止めておけ、ヴェナだけは」と強く言われている。

 ヴェナは、機嫌を取るのが本当に大変な子なのだ。怒らせた時の手の付けられなさは、激怒しているレベッカの比ではない。実はアランだけではなく、他にも男性職員や奇跡の子――もちろん、男の子――を凍らせて怒られ、謹慎処分も何度か受けている。だが、毎回全く、反省しない。

 普段の様子からは想像もできないことだが、WILLウィルから謹慎処分を言い渡された回数が最も多い奇跡の子はヴェナだった。フィリップに対して「手が付けられない」「困った子」などとヴェナが言うのを聞く度、「どの口が……」と思う職員も少なくないのだが、それも、彼女の前では口に出来ない。言うのが男性でなければまず問題にならないのだけど、目の前で人が凍らされているのを見ている女性らにも、中々、言い出せるものではなかった。

「こうして俺が愚痴ったのは内緒だぜ? 命が危ない。勿論、俺のね」

 神妙に語る彼にイルムガルドはやはり可笑しそうに口元を緩めながら、言わないと約束していた。

「あんなに可愛いひとなのに、知らないの勿体ないね」

「ハァ、『可愛い』か……俺もそれが言いたかったぜ」

 女性から見たヴェナの印象と男性から見たそれは天と地ほどに差がある。女性から話を聞く程にアランは落ち込むらしい。

「俺も、もう少し距離の詰め方を変えれば、何とかなったと思うかい?」

「無理だと思う」

「そうか……」

 アランがアランである限り、どのアプローチでもいつかはヴェナに徹底拒絶をされただろう。それが早かったか遅かったか、言葉で済んだか氷が出たかの差だ。ちなみに凍らされるまでにアランは数え切れぬほど言葉では拒絶をされていた為、やはり氷は必要な措置だったのだ。少なくとも、ヴェナにとっては。

「しかし君はそんなにあの人に執心してもいいのかい? 奥様が泣くだろう」

「この前、クッションで叩かれた」

「おお。思ったより過激に怒らせているね」

 目を丸めるアランにイルムガルドは少し笑って「かわいいよ」と言う。アランは肩を竦めて「ごちそうさま」と言った。

「好きなのはアシュリーだけだから大丈夫。ヴィェンツェスラヴァは――」

「あら? イルムガルド……と、アラン君も」

 言葉の途中で、不意にモカが通り掛かる。二人は同時に顔を上げた。

「やあモカ。一人でこんなところにどうしたんだい?」

「お茶菓子を買いに来ただけよ」

 此処はタワー内に数多くあるカフェの一つの為、奇跡の子の居住区や食堂ほど、顔見知りとの遭遇率は高くない。だがこのカフェはタワー内では一番美味しいスイーツとコーヒーを揃えている為、手軽にタワー内でそれらを用意しようとすれば自然と選ばれる。事実、モカは特別な場合を除いて、お茶菓子は此処で買っていた。

 イルムガルドは挨拶をする様子も無いが、いつもの無表情の中にも少し好奇心に近い色を瞳に乗せて、じっとモカを見つめていた。その視線にモカが気付いて彼女を見下ろすと、それは逸らされ、イルムガルドはアランに向き直る。

「アランを泣かせた二人目だ。あれ、どっちが先?」

「やめてくれ……」

「三人目はレベッカ」

「君はどうしてそんなことまで知ってるんだ!?」

 推定一人目は先程話したヴェナ。モカが二人目、という話までは知られている認識だったが、まさかレベッカに対する想いまで筒抜けているとは思わない。驚愕の顔をするアランに、イルムガルドは口元を押さえて少し笑い声を漏らした。そして少し目尻を下げ、意地悪に笑う。

「わからないと思う方がおかしいよ、アランは、あからさまだよ」

「……君から見れば、そうなのか……全く、怖い子だ」

「一体、何の話……」

 モカは困惑している。だがそれは会話内容が分からないせいというよりは、イルムガルドが僅かながらもアランと話しながら笑っている為だろう。ただ、いつかアランからその事実だけは聞き及んでいる。これか、という思いもあり、疑問と戸惑いを上手く表に出せずにいた。

「そういえば会えた?」

 結局、何の話かと問うモカにイルムガルドは答える様子無く、逆に新しく問いを向けてくる。これに関しては、対象を告げられなくともすぐにピンと来てしまった為、モカは眉を寄せた。

「元々、会えなかったわけじゃないわ」

「何の話だ?」

 全く同じ問いをモカが口にした際には相手にしてくれなかったのに。一瞬過ぎった不満に答えが遅れたら、先にイルムガルドが口を開いた。

「モカがレベッカに病室を追い出されて――」

「イルムガルド」

 一層、顔を顰めてモカはその続きを止めさせた。

「語弊があるから止めて頂戴。追い出されていないわよ」

「そうなの。じゃあ何て言われたの」

 無垢にも聞こえる問いにすぐさま答えようと口を開くが、言葉が出る寸前、この問いに対する答えは明らかに先の言い分を否定するものであることに気付いてしまい、急速に勢いが落ちた。零れたモカの声は、弱々しかった。

「……もう来ないで、って」

 瞬間、アランが弾けるようにして大きな声で笑った。

「君らしくない苦しい言い訳だな。それでどう『追い出されていない』と言うつもりだったんだ?」

 傍から聞いている他人事であれば、モカも彼と同じ指摘をしたことだろう。イルムガルドはこんな流れになることも理解の上で今の質問をしたのだと知って、モカは額を押さえて溜息を零した。アランはまだ肩を震わせている。

「でもスッキリした顔してるからどうせ何か上手くいった。早かった。つまらない」

「あなたね」

「ハハハ!」

 アランは快活に笑い飛ばしてくれるが、まるで笑い事ではない。

 モカが病室を追い出されることを、この意地悪な仔猫が予想していたとアシュリーは言っていた。あの時のアシュリーは酷く心配そうな顔を見せてくれていたが、その予想を語る時のイルムガルドは、きっと楽しそうにしていたのだろうと今の言葉で充分に分かる。「予想していた」という言葉だけで止めてくれたアシュリーは優しかったのだろう。けれど、結局はこうして直接受け止めているので詮が無い。

「それで? 今日のお茶菓子はレベッカの為かな」

「……アラン君まで、揶揄うつもり?」

「まさか!」

 慌てて首を振っているアランだけど、顔が笑っているだけでもう今のモカには不満だった。しかし彼の予想通り、此処に来たのはレベッカに出すお茶菓子を買う目的だ。渋々、モカは頷いた。

「二人が幸せなら何よりじゃないか。なぁ?」

 仲裁のつもりか、フォローのつもりか。優しい声でアランはそう言ってイルムガルドに発言を促す。すると、水を向けられたイルムガルドは肩を竦めていた。仔猫がするにはあまりにシニカルな仕草だった。

「まあ、こっちに影響くるほど、こじれるよりは」

 実際に何度か家に駆け込まれているのだから、切実である。イルムガルドのところに来るのは多くがレベッカであるものの、モカが家を訪れる際にイルムガルドが不在であった前回は稀なケースであり、何かあれば結局、イルムガルドへの影響は免れない。

 しかしそれならもう少しこじれないよう気遣ってくれればいいのに。彼女はこうして楽しそうに煽るばかりだ。どういうつもりなのかモカにはまるで分からない。深い溜息を一つ零した。

「何だかちょっとずつ印象が変わるわ。レベッカはこの子を仔猫みたいで可愛いといつも言うけれど……どうかしらね」

「可愛い印象はちっとも変わらないよ?」

「アラン君はそうでしょうけれど」

 自分の話題が目の前で繰り広げられることをどう思っているのか。じっと二人を見つめるイルムガルドの表情は変わらない。しかし、何故か徐に通信端末を取り出して――。

「二人がなんか夫婦みたいに仲良く会話してるってレベッカに送ろ」

「待て待て待て、俺がまた怪我をするだろう」

 アランとモカに両側から勢いよく肩を引かれたイルムガルドは、仕方なさそうに端末を手放す。本気で送るつもりだったのか、端末はメッセージ作成画面になっていた。本当に悪い冗談である。

「ただでさえ怪我をしているレベッカを刺激しないよう、俺はずっと気を遣っていたんだぞ?」

「しばらく見かけないと思ったら……」

 最近、アランはずっとタワー内に待機していたはずなのに、全く姿を見なかった。彼は部屋に籠るタイプではないし、賑やかな性格もしているので目立ちやすい。モカはレベッカの退院まで彼女の病室で過ごすことが多かった為、そのせいかと思っていたけれど。アランとしては、動けない状態のレベッカを気遣い、モカに会わないように気を付けていたらしい。

「献身的だね、アラン」

 のんびりとそう感想を零すイルムガルドを、モカは二度見した。淡く口元が笑っていたせいだ。どうしても、アランの前で口を開かせると違う人のように思える。

「女性に尽くすのは俺の使命だからね」

 応えるアランは通常運転だったが。

「そういえばアランは、レベッカのお見舞いは行かなかったの」

 ふと気になった様子で、イルムガルドがそう尋ねる。モカもその疑問は持っていたせいか、アランを窺うように視線を向けた。二人分の視線を集めた彼は苦笑しつつ、今更ながらモカに椅子を勧める。このまま話し続けるなら、通路近くの席とは言え、立っているのは邪魔だろう。モカも少し笑ってから、腰を掛けた。

「俺が行くと絶対に怒るだろ。モカが必ず居るだろうし、邪魔をしに来たと思われそうだ。モカ不在の時なんてもっと怖い。それで身体に障ったら完全に俺の責任だ」

 行かなかったというよりは、行けなかったようだ。

 確かに、アランを前にしたレベッカは冷静さを失いやすい。無理に起きようとしたり、変に声を荒らげたりしようものなら、怪我をしたばかりの頃であれば確実に身体に障っていただろう。

「まあでも、見舞いを無記名では届けたよ。職員に頼んだ」

「ああ、アラン君だったのね」

 モカが言うには、無記名で二度、レベッカにお見舞いの品が届いていたらしい。内容を言えば、アランは軽く頷きながらどちらも自分が届けたものだと言った。

「でもそれ多分、アラン君だと気付いているわよ」

「え」

 その言葉に、珍しく、アランが呆けた顔になる。折角の気遣いが無駄になっているかもしれないのは可哀相だが、モカは少し記憶を辿りながら、続きを告げた。

「私が『誰から?』と聞いたら『分かんない、書いてなかった』と言っていたの。その時、少し、何とも言えない複雑そうな顔をしていたから」

 当初はモカも特に気にしていなかったものの、答えを知った今思えば、レベッカが相手を確認しようとしないことは違和感だった。届けた職員などに聞いてしまえば分かることだろうし、それでも分からなければ「書いてなかった」よりも「教えてもらえなかった」と言いそうだ。

「……まあ、レベッカに大事が無いなら、いいさ」

 やや項垂れながら小さくそう言ったアランに、モカはくすくすと笑う。いつかまた二人がタワーで遭遇する際には、ともすればレベッカの方から、この件について彼は問われるのかもしれない。さてその時は、どのような回答を用意するのだろう。あまり喧嘩にならないように、その場に居られればいいのだけど、とモカは思う。

「そんなに献身的なのにアランはどうして常に報われないんだろう」

「イルムガルド、追い打ちはやめてくれ……」

 徐に仔猫に爪を立てられ、アランが更に項垂れる。

 モカは笑いそうになって、直後に口元を引き締めた。無下にした――という表現が正しいかはともかく、その一人であるモカには笑いにくい話である。モカに対して普段から少し意地悪なイルムガルドはそんなことも承知の上で、今、モカも同席の時に言ったのかもしれない。じろりと不満を込めて視線を送るも、仔猫は何食わぬ顔でココアを傾けていた。

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