第151話_すれ違いたくないタワーの廊下

 レベッカの経過は良好であり、日常生活においてはほぼ問題が無いと、チームメイトには知らせが来ていた。既に入院状態も解かれ、彼女は自室で生活している。ただ、戦線への復帰時期は未定のままだ。筋力の低下が著しい為、このままリハビリを続け、少なくとも一か月は療養することが決まっていた。

 しかしそれでも彼女らのチームは先んじて活動を再開していた。イルムガルドが謹慎を一部解かれ、復帰を認められた為だった。

「ウーシン、右翼を狙って!」

「任せろッ!!」

 フラヴィが気合を入れて飛ばした指示の、百倍とも言いたくなる声量で応えたウーシンが敵陣右翼を投岩で潰す。間もなくして敵兵らは撤退して行った。

 隣国ゼッタロニカが落ちたと言っても、敵国は数え切れぬほどにある。この国は今も絶えず攻撃され、イルムガルドらだけではない多くの奇跡の子らが、前線で戦っていた。けれどどの国も大規模な進軍は控えているように感じられる。今はまだ様子を見ているようだ。

 また、レベッカという前線の戦闘員が欠けてしまったことから、このチームは今までに比べれば小さな規模の作戦にばかり起用されていた。長くても二日程度で、早ければ数時間ほどで完了する。戦場であることには変わりないが、敵国進軍というストレスを受けた丁度いい復帰なのかもしれない。同じ立場とも言えるイルムガルドは、何に対しても思うところがあるようには見えないが。

『――お疲れ様、みんな。撤退命令が出たわ。警戒を怠らず、そのまま後退して』

 モカからの通信が入ったところで、岩壁の上で周囲を警戒し続けていたイルムガルドも降りてくる。そしてウーシンと共にフラヴィを守るようにしながら、駐屯地まで撤退。翌日にはもう全員揃って、タワーへと帰還した。

「おっかえり~」

 陽気な声でチームを出迎えたのは療養中のレベッカだ。その横にアシュリーも居た為、イルムガルドは彼女に目もくれずアシュリーの元へと行ってしまう。その様子に苦笑しながら、チームメイトらは口々に、レベッカにただいまと告げていた。

「みんな無事で良かったよ。お疲れ様」

「ありがと。レベッカは今日もリハビリなんだよな?」

「うん。そろそろ時間だからもう行かなきゃ。またねー」

 言葉を交わして早々、レベッカはそう言って立ち去って行く。ふら付くことも全く無く普通に歩いている後ろ姿は、回復の順調さをチームメイトらにも実感させた。

 それにしても、忙しないことだ。フラヴィ達もこれから司令室への報告と精密検査の為に長話が出来る状況ではなかったとは言え、チームメイトなのだから余裕があれば報告に参加しても問題は無い。リハビリが控えているならば仕方がないが、最近、レベッカと彼らはこのような短いやり取りがほとんどだった。

「あのさ、モカ姉」

「なに?」

 司令室に向かうエレベーターに乗り込んだところで、フラヴィはやや緊張した面持ちでモカを見上げる。任務に何か不安でもあったのだろうかと優しく微笑んで応えたモカは、それがまさか『自分への』心配であるとは露ほども考えていなかった。

「……最近、その、レベッカとちゃんと会えてる?」

 僅かでも静止し、落としてしまった沈黙はもう答えだ。静かになったエレベーターの中にはチームメイトであるウーシンとイルムガルド、そして今回同伴してくれた職員二名しか居なかったのは幸いだろうか。しかし彼女らの会話に気を遣うかのように誰もが口を噤んでいるのは居た堪れない。モカは気を取り直すように殊更にっこりと笑みを浮かべた。

「ちょっとすれ違いが多くて。どうして?」

 張り付けたような笑みにフラヴィは少したじろいだけれど。聡いこの子に対してその場しのぎで取り繕ったところで詮は無いと、きっとモカも本当は分かっていた。

「あー……あのさ、モカ姉の方が良く知ってるとは思うけど、レベッカは何かに夢中になると周りが見えなくなるからさ、気に病まないでね」

 純粋な心配と気遣いに、どうして虚勢を張ってしまうのだろう。モカは少し脱力したように笑った。

「心配させてごめんなさいね。ありがとう」

 エレベーター内の緊張が緩んだところで、司令室の階に到着する。フラヴィは職員に話し掛けられ、報告内容について会話をしながらモカより先を歩いた。何故か先頭を切って歩いているのはウーシンだが、向かうのはデイヴィッドと側近だけが居る司令室なので、誰が先頭で入っても別に構わないのだろう。

 その時、モカの隣に並ぶようにして、イルムガルドが移動してきた。いつもは誰と並ぶことも無く好きに歩いているのに珍しい。そう感じたモカが彼女に目をやった瞬間だった。

「だから抱いてもらっておけばよかったのに」

「イルムガルド」

 窘めるように低い声でその名を呼んだが。彼女はふんと鼻を鳴らすだけ。怯む様子も堪える様子も全く無い。

 言いたいことは数え切れぬほどにあったが、そうこうする間に司令室へと到着してしまう。先にその扉を潜ってしまったイルムガルドの背を見て、モカは諦めたように溜息を一つ。あの問題児に首輪を掛けられる唯一の人は、既にロビーで一度別れ、精密検査室の方へ行ってしまった。メールか何かで告げ口しておこうかしらと、モカは少しだけ考える。しかしアシュリーその人も今のモカの状況を揶揄からかわずに聞いてくれるかと言えば。……ぐるぐると悩んだ末、結局、モカは一人それを飲み込んでいた。

 事実、モカはあの日――リハビリが始まる前日に病室を追い出されてしまってから、まともにレベッカとは顔を合わせていない。先程のように軽い挨拶と短い会話はあっても、二人きりになれる時間は全く無かった。

 メールを送れば返ってくる。時折ああやって顔を見せてくれて、含みの無い明るい笑顔を見せてくれる。しかし違和感がいつも纏わり付き、会えない時間が長引くほどにモカは不安に苛まれた。

 レベッカが戦場で倒れるよりも前なら、タワーで過ごす限り毎日のように共に過ごし、夜に別れる前にはほぼ必ずキスをされていた。けれど入院期間を終えたレベッカが部屋に戻ってもそのような関係が戻ることは無く、もうずっと触れ合っていない。

 恋人としての触れ合いに対して常に逃げ腰でいたモカがそんなことを考えているなど、イルムガルドが知ればまた下らないことを言ってくるだろう。だがイルムガルドに言われたその『下らない』言葉すら、頭から離れなくなる程度にモカは参ってしまっており、そして毒されてもいた。

『今日は何時にリハビリが終わるの?』

 送ったメッセージにはいつだって返事がないまま、翌日になってから『ごめん寝てたー』とか『見落としてた』という返事がくる。空いている時間は、決して教えてくれない。暗に会いたいと伝えているつもりで、レベッカはそれに気付けないほど鈍くはない。なら意味するものは一つだけで、モカは途方に暮れていた。

 長い溜息と一緒に憂鬱が全て出て行ってくれればいいのに。自室で一人、テーブルに向かって突っ伏してそんなことを呟く。こんなに弱い人間だっただろうか。レベッカへの想いを全て飲み込んでいた頃はもっと気丈で居られたようにモカは思う。恋人という関係になった途端、小さなことに一喜一憂するようになった。だからと言って今更、モカが彼女を手放せるわけも、無いけれど。

 今日もまた、レベッカからは返事が無かった。とうに深夜と呼べる時間帯に入り、例えメッセージを読んでいたとしてももう返してくることは無いだろう。鳴らない通信端末をテーブルの上に滑らせて、再び項垂れるように冷たいテーブルに身を預ける。結局その夜、モカは眠らずに朝を迎えた。

 寝不足の目には、タワー最上階に差し込む朝日は少々堪える。そう思いながらも日が昇り始めて幾らもしない内に、モカは部屋を出て廊下を歩いていた。自室とエレベーターまでの距離は短くない。中間地点辺りには休憩室もあり、それをやや通り過ぎたところで一度、立ち止まった。

 意味も無くぼんやりとゼロ番街を見下ろしてモカが目を細めていれば、数分ほどした頃。ゴウンと遠くで音が鳴り、エレベーターの扉が開いた音がした。誰も居ない、静寂だけの廊下だから聞き取れた程度の、小さな音。緩やかにカーブしている廊下である為、モカの立つ位置からエレベーターホールは見えない。だが、五年間、隣に居た彼女の足音をモカは聞き間違えようもなかった。立ち止まったままで、その訪れを待った。

 レベッカは廊下に立つモカを見付けると目を丸めて足を止め、それから、苦笑を零す。

「おはよう。はやいね」

「……レベッカこそ」

 ゆっくりと歩み寄るモカに対し、レベッカは一度立ち止まった場所から一歩も動かない。口元に笑みはあるのに、視線はさり気なく逸らされてしまっていた。

「あー、どっか行くの?」

「レベッカに……」

「アタシ?」

「ええ、あなたに、また会えるかと思って、この時間なら」

 普通に過ごしていても、レベッカとは全く会えなかった。食堂でも廊下でも一切擦れ違うことは無くて、影も形も無い。同じフロアで生活しているはずなのにその状態なのであれば、生活サイクルが全く違うのではないか、それならもしかしたらまた、レベッカは早朝に活動しているのではないかとモカは考えた。少なくとも早朝から、先程通り過ぎた休憩室でいつまでも待っていればいつかは会える。無謀とも思えるモカらしくない計画を、眠れなかった頭で考えてしまっていた。

「用事だった? メッセージくれたら良かったのに」

「特に、用事は無いわ。だから、偶然で会いたかったの。……これを『偶然』と言うのかは分からないけれどね」

 ふっと疲れたように笑ったモカに、レベッカは少し戸惑った顔を見せる。顔を上げれば『いつも通り』に笑うだろうレベッカを直視せず、モカはちらりと、窓に映るレベッカを見た。何日振りとも数えられないくらい久しぶりの二人きりの時間に。今、彼女が同じ気持ちでないことは、明らかだった。

「……レベッカは、私に会いたくなかった?」

「え、そんなことないよ、ただ」

 即座に否定したレベッカだったが、続きは途切れる。視線を少し落とし、一生懸命に、言葉を選んでいる様子を見せた。

「時間がズレてるからさ、モカ、寝てると思って」

「今は、起きているわ」

「うん」

 一歩、レベッカにまた近付き、モカはその顔をじっと見つめた。やや怯むように目を瞬いて背筋を伸ばした後、レベッカが、降参するみたいに眉を下げて笑う。ようやく見付けた、無防備な彼女の笑顔だった。

「……久しぶりに、モカのコーヒー飲みたいかも」

 その言葉にモカは頬を緩めて頷くと、レベッカを自分の部屋へと連れて行った。

 入院中には水筒に入れたコーヒーを差し入れとして持って行っていたものの、淹れたてのコーヒーをレベッカに振る舞うのは本当に久しぶりとなる。レベッカは一口飲むと何処かホッとしたような顔で、「おいしい」と呟いた。

「最近、何をしているの? こんな時間にリハビリは無いでしょう?」

 テーブルを挟んだ正面に腰掛け、同じくコーヒーを傾けながら改めてモカが問う。けれどレベッカは困った顔で笑うだけで、何も答えない。内心、モカは落胆していた。

「あなた、意外と隠しごとが多いわよね」

「えー、いやいや、そんなことないよ」

「前も内緒って言っていたわ」

「だからさ、あー、全部、内容が一緒って言うかさ」

 曖昧な言葉を幾らか続けた後で、レベッカは眉を下げて息を吐き、項垂れるようにして一度頭を下げた。

「訓練室とか、トレーニングルームに行ってるだけだよ」

 彼女が挙げた二つの行き先は似たような名前だが、訓練室とは『奇跡の力の訓練室』の略称であり、その名の通り奇跡の力の扱いを練習する場所だ。そしてトレーニングルームは逆に奇跡の力の利用は原則禁止で、身体を鍛える為の器具が置かれている場所だった。よってトレーニングルームの方は奇跡の子だけでなく、職員らも使用可能となっている。

「……本当に?」

 訝しげに問うモカは、レベッカを疑いたいわけではないのだろうけれど。そんな当たり障りのない、前線で戦う奇跡の子なら誰もが行きそうな目的地をわざわざことが不思議に思えたのだ。言葉にしなくてもそのモカの疑念を知っているかのように、レベッカは少し笑った。

「アタシは人が居ると気が散るから、誰も居ない時間にしか、いつも行かないんだよ。言うと誰か来そうだから、黙ってただけ」

 レベッカは対象を問わず、人気が高い。一般人からだけではなく、奇跡の子らからも特に好かれていた。その為、「どうせトレーニングに行くならレベッカが居る時間に一緒に」と思う子が居ても不思議ではない。しかしレベッカは例えそれがモカやフラヴィであっても、集中力を欠く理由になってしまうと思って、ずっと隠していた。トレーニング以外の時間であれば誰にいつ話し掛けられても構わないけれど、トレーニング中だけはどうしても嫌なのだと言う。少し視線があるだけでも、邪魔に感じてしまうほどに神経が立ってしまうらしい。

「だからまあ、誰にも言わないでくれると嬉しいな」

「ええ、言わないわ。ごめんなさい、不躾なことを聞いて」

「ううん」

 事情を聞いてしまえば、聞き出してしまったことを申し訳なくも思うモカだったけれど。やはり教えてもらえない状態ではどれだけレベッカに「心配することじゃない」と言ってもらっても安心は出来なかっただろう。どう反省しても次も同じように問い質してしまいそうな自分に辟易してモカが沈黙すれば、それをどう捉えたのか、彼女の顔を軽く窺った後、レベッカが視線を落とした。

「……ごめんね」

 彼女から零れてきた謝罪に、モカは目を瞬き、そして首を傾けた。今の流れでレベッカが謝らなければならない理由がすぐに分からなかった。けれど彼女の謝罪は、行き先を隠していたことではなかった。

「心配かけてるかもなって思ってたんだけど、何て言うか、あんま上手く行ってなくてさ」

「トレーニングが?」

 聞き返すモカに、レベッカは頷く。何処かバツが悪そうだった。極端にプライドの高い子ではないものの、それでもそんな状況を喜んで告げられる性質でもないらしい。そういえばイルムガルドによる威圧でも一人、平気な顔を装っていたこともあった。彼女は彼女なりに、常に『自分らしい』顔を保つ努力をしていたのだ。そしてそれが限りなく『自然体』に見えるようにも。

「それでなんか、……結構、イライラしてたから。顔合わせないように、と思って」

 レベッカなりに葛藤や考え、モカを思い遣る気持ちがあっての対応だったと知って、モカは安堵する。同時に、そんな鬱憤も自分にならぶつけてほしかったのに、とも思っていた。当然レベッカは、それを良しと思う性格ではない。求める方法が分からずに、モカは口を噤んで、俯いた。

「だけど、実際こうしてモカの顔を見るとさ、ちょっと安心しちゃった。当たっちゃうと思ってたんだけどな」

「……そう?」

「うん」

 甘ったるい声で応えてレベッカが笑う。それを例えようもなく嬉しいと感じてしまえば、こんな言葉もレベッカの『気遣い』かもしれない――。そう思ってしまうモカの不安も。視線が絡むと同時にレベッカが無防備に目尻を下げてくれるのを見れば、霧散していく。モカはやはり、こうして会わなければ安心できなかったから、どうしても今日の選択を後悔できない。

「あのさー、モカ」

「なに?」

 普段通りのレベッカの、少し甘くて柔らかい声。それがモカを油断させていた。

「ちょっと甘えていい?」

 即座にモカの心臓が跳ねる。コーヒーカップを偶々ソーサーに戻していて幸いだ。動揺をレベッカに悟られぬようにと静かに飲み込み、平静を装う。

「珍しいことを言うのね。勿論いいけれど、どうやって甘やかしてあげたらいいの?」

 ドキドキと高鳴っている心臓に気付かれたくないという思いと共に、こんな動揺もずっとご無沙汰だったことで懐かしい気にもなっていたが、一秒後の返答にそんな余裕も消え去った。

「一緒に寝よ」

 ぴくりと震えたモカの手をレベッカは見付けていたのだろうか。少し眉を下げると、ふっと可笑しそうに息を漏らして笑った。

「シャワーは浴びる?」

「ううん。浴びてきた」

 トレーニング後に汗は流して来たらしい。それもそうよねと、いまいち頭の回っていない自分を情けなくモカは思う。こういう時、必ず彼女は余裕を失くしてしまう。そしてモカも夜の内に入浴している為、心の準備の為に稼げる時間は幾ばくも無く、二人は寝間着に着替えてそのままベッドに入った。

「身体は、痛くないの?」

「もう大丈夫だよ」

 そう言われてもリハビリが始まる前までの彼女しかモカは知らない為、身体を寄せたり触れたりすることは少し怖かった。しかしレベッカはそんなことお構いなしに、モカに両腕を回してぐりぐりと擦り寄ってくる。ベッドの中でそんな風にされてしまえばどうしても心臓が騒ぎ、緊張でモカの思考は真っ白になっていく。キスはするのだろうか。その先をまた求めてくるだろうか。以前なら無理だったが、今ならもしかしたら――。恥ずかしい方向へモカの思考が流れる一方で、いやにレベッカの触れ方に色気が無いと言うか、大型犬が懐いているような雰囲気があると思った。

 その感覚は幸か不幸か的中し、モカが緊張している隙に、レベッカはあっさりと眠りに就いた。

「そう、よね、トレーニングしていたのだから、疲れているわよね……」

 腕の中で漏れる規則正しい寝息を聞き、モカは一人複雑な思いを抱きながら、項垂れるしかない。ただ、一晩中起きていたモカも疲れていた為、実際はこれで良かったのだろう。モカは羞恥を誤魔化すように小さく首を振って、レベッカを抱き直して目を閉じた。

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