第147話_明日から会えない病室

 レベッカは順調に回復している、と担当医からも聞かされているモカは、本人の顔色が良いことも毎日確認して、日に日に安堵を強めていた。早く治ればそれだけ早く彼女が復帰してしまうということでもあるけれど、長引いてしまえばそれはそれで、無理をして「復帰する」と言い出しかねない彼女を知っている為、早いに越したことはないとモカは思う。何より、愛する彼女が病室のベッドに横たわる姿は見ていて嬉しいものではない。

 今日は午前に精密検査が入っていると聞いていた為、モカは午後に訪れた。だが到着直後、もっと早くに来れば良かったと後悔する羽目になる。

 普段通りに見舞いに訪れ、ノックに返る声を聞いて開いた扉の先、何故かまだ立ち上がれるはずのないレベッカが、ベッドから数歩離れた棚に手を掛けて立っている。

「――な、何をしているの!?」

「あはは、モカいいところに来たー。意外と歩けない。助けてぇ」

「この、バカ!」

 誰にも無断で、一人で歩くことを試みたようだ。見ればレベッカの足元には椅子が倒れている。それを支えにするつもりがちょっとした拍子で倒れてしまい、支えを失くして戻ることも叶わず、半端なところで二進も三進も行かなくなっていたらしい。呼び出しボタンも遠く、通信端末もベッドの上ときた。

 自分の補助でベッドまで歩かせることも不安だったモカは一度レベッカをその椅子に座らせ、すぐに医療班を呼び出した。駆け付けた医療班と職員に、当然、レベッカはこっ酷く叱られる。

「いやー、明日からリハビリだって聞いてさ、今どれくらい動けるのか気になっちゃって」

「それも全部、医療班の立会いの下、リハビリ中に確認することでしょう」

「ハハハ」

 全く持って笑い事ではない。つい一分前まで職員らに怒られていたと言うのに、レベッカの中には反省の色がまるで見えない。しかし身をもって動けない状態を確認したことで、再チャレンジする気は無いようだ。もうしないことについては、きちんと約束していた。

「けれど……もうリハビリに入れるなら、経過はかなり良かったのね」

「うん、午前の検査でそう言われた。念の為にコルセットで固定しながら、ゆっくり動き始めようってさ」

「そう言われた直後に、コルセットも無く歩こうとしたの……?」

「ふふ」

 本人は楽しそうに笑っているが、やはり笑い事ではない。レベッカにとっては『念の為』と言われているので実際はコルセット無しでも立てるのだろうという考えだったようだ。本当に止めてほしいとモカは項垂れる。

「悪化したら、それだけ入院が長引くのよ。本当に気を付けて」

「はーい」

 医療班や職員が先程、何度も繰り返した言葉だとは分かっていても、言わずにはいられない。深刻に捉えてくれていない間延びした返事だったものの、一先ずは頷いてくれたのを確認して、モカは椅子から立ち上がった。いつもならば訪れて最初にするのが、花瓶の世話だ。棚に置かれた花瓶を手に取り、部屋の端にある洗面台へと持って行く。

 閉じ込められているレベッカの気分が少しでも晴れるようにと、明るい暖色系の花で統一させていたが、これだけ元気一杯ならばいっそ寒色系にした方が良かったのかもしれないなどとも考える。水を換えて、悪くなっている部分が無いかを確認し、花瓶に生け直す。この花は昨日持ってきたばかりだから、しばらくは大丈夫だろう。振り返れば、レベッカがにこにこと笑みを浮かべてモカを見ていた。何が楽しいのやら、レベッカはいつも楽しそうにモカが花瓶の世話をしている背中を見ている。

「なに?」

「ううん、なにも~」

 病室に入った直後の騒動が不穏だっただけで、それ以外は穏やかないつもの空気だった。レベッカもいつも通りのレベッカで、モカには彼女の中に何の違和感も抱いていなかったのに。

 二時間ほど雑談をして、「また明日」と言って立ち去ろうとした時だった。

「あー、モカ」

 呼び止めたレベッカを振り返り、首を傾ける。ずっと普段通りの顔を貫いていたレベッカが、この時だけ、少し申し訳なさそうに眉を下げた。

「明日から、もう来ないで」

 何を言われたのか、モカは直ぐに理解ができなかった。


 同じ頃、イルムガルドは自宅のソファで寛いでいた。そして不意に通知音を鳴らした通信端末を億劫そうに引き寄せて開くと、珍しく口元に笑みを浮かべる。丁度、彼女へと紅茶を運んでやっていたアシュリーは偶然、その表情の変化を見付けていた。丁寧にテーブルへとカップを並べた後、アシュリーが隣へ腰掛けても。まだイルムガルドは端末を見つめている。彼女が口元に宿す笑みは、普段、アシュリーへと向けてくれる優しいそれではない。

「イル?」

 声を掛ければ、端末からすんなりと視線を外し、アシュリーの方を向いてくれる。その瞬間、彼女が求めた『イル』の優しい顔に戻っていた。安堵の思いと共に、イルムガルドの頬へと口付けた。

「なに、アシュリー。ここでえっちする?」

「どうしてそうなるのかしら」

「お誘いかと思った」

 返ってきた呑気な言葉に、アシュリーは脱力した。あまりにもいつも通りの『お盛ん』なイルムガルドで、先程の表情がまるで幻だったかのようだ。アシュリーの心情など知らぬ顔で、楽しそうに腰を引き寄せている。

「あなたがしたいなら」

 抵抗する理由も特にない。強いて言うなら、淹れたばかりの紅茶が冷めてしまうことくらいだろう。イルムガルドの方へと身体を寄せれば、イルムガルドはアシュリーを腕に抱いたままでソファに寝そべる。こういう場合、いつもアシュリーは重たくないかが気になるのだけど、アシュリーを乗せている本人が自らの上に乗る柔らかな感触を嬉しそうに受け止めているので、言葉を飲み込む。

 腰に添えられた手が、アシュリーの着る緩いニットワンピースを手繰り寄せ、次第に露わになっていく足を、もう片方の手が上機嫌に辿っていく。アシュリーはイルムガルドに口付けながら頬を撫で、いつも通り穏やかなイルムガルドであることを何度も確かめた。

「さっきは」

「うん?」

 イルムガルドの求めに応じてすっかり体温が上がってしまった頃、アシュリーは上下を入れ替えられて、ソファに組み敷かれていた。いつの間にかイルムガルドの通信端末がソファの下へと投げられている。あれは政府から支給されている連絡用端末なのだが、そんなに雑な扱いで良いのだろうか。小さく笑いながら、呼吸を整える為に一つ息を吐く。

「どうしてをしていたのかしら。次は何の、悪巧み?」

 先程、端末を見つめていたイルムガルドは笑みを浮かべていたが、そう言いたくなるような顔をしていた。アシュリーを見下ろすイルムガルドは、そんなことを言われたにも拘らず、にこにこと楽しそうに笑みを浮かべて首を傾ける。

「えー、悪巧みなんてしないよ。したことない」

 どの口が言うのだろう。アシュリーは呆れながらも思わず笑ってしまった。改めて、端末を見つめていた時のことだと指摘すれば、イルムガルドは少し体勢を変え、アシュリーを圧し潰さない程度に身体を重ねた。

「レベッカが、明日からリハビリに入るってボスからお知らせが来た」

「そう。順調に回復しているってことかしら」

「多分ね」

 その通知内容と、イルムガルドが『悪い顔』をしたという事実が上手く紐付かなかったアシュリーが少し目を細めて思考を始めたところで、イルムガルドはアシュリーからやや顔を逸らし、肩を揺らした。彼女が笑っているのだと理解できたのは、くつくつと笑い声が漏れてからだ。微かに覗く横顔が、先程の『悪い顔』に戻っている。

「ふ、ふふっ、もうすぐモカ、部屋から追い出されるだろうな」

「え?」

「いや、もう、追い出されたかな?」

 アシュリーの肩口に顔を埋めていつまでも肩を震わせて笑うイルムガルド。その姿に驚き戸惑ったのは数秒だけで、すぐにアシュリーは、一連の彼女の表情について少し納得が出来たような気がした。

「あなた、モカに意地悪じゃない?」

 普段から少々、当たりが強い気がしていた。モカとだけは「二人きりにならないで」と言うし、彼女の視力の件では悪役を買って出て協力したと言う一方で、その後のやり取りも聞けば聞くほどに、対応が冷たく、かなり邪険にしている。もう悪役である必要が無いにも拘らず、だ。

 一頻り笑って満足した様子のイルムガルドが顔を上げるけれど、口元にはまだ意地悪そうな笑みの名残があった。

「嫌いだからね」

「そうなの?」

 イルムガルドが誰かを『嫌い』だと言い放ったことが今までに一度でもあっただろうか。アシュリーは記憶を辿ってみるも、イルムガルドはそもそも、誰か対して「好き」や「嫌い」を口にしない。アシュリーに「好き」と告げてきたのもプロポーズの際が初めてで、二回目以降は結婚後しばらくしてから、ようやくだった。奇跡の子らについてはアシュリーが問い掛けた時に「嫌いじゃない」と曖昧にだけ回答しており、今のような強い言葉を誰かに向けることはあまりにも稀だ。

「不幸になってほしいとまでは思わないけど。痛い目みてると、すごく楽しい」

 歌うようにそうイルムガルドは言う。確かにその思考は意地悪そのものであり、『嫌い』という言葉を疑う余地は無いのだろう。――口にしているのが、イルムガルドでなければ。

「……それって本当に嫌いなの?」

「嫌いだよ」

 本人は間違いないと言わんばかりだけれど。「そう」と返しつつもアシュリーは内心、首を傾ける。レベッカのアランに対する態度もそうだが、たった一人だけに向ける稀な態度や感情というのは、傍から見ればやはり『特別』と分類したくもなってしまうものだ。

 イルムガルドはそんな意地悪を言って楽しんでいる一方で。本当にモカが泣いてしまうことがあればきっとすぐに、手を差し伸べるのだろうに。

「まあいいわ。それよりすっかり、紅茶は冷めてしまったけれど……淹れ直す?」

 これ以上を問い掛けてもイルムガルド自身が『嫌い』と認識しているなら無駄なのだろう。話題を変えてテーブルへと視線を向けたが、それにイルムガルドが頷くことは無く、改めてまた、アシュリーの上に覆い被さってきた。

「もうちょっと後でいい」

 イルムガルドの柔らかな黒髪が首筋をくすぐって、すぐに彼女の体温が肌の上を滑り始める。思わず身を捩るアシュリーを見つめて、目尻を下げたイルムガルドの表情は、つい先程まで浮べていた『悪い顔』の欠片すら、もう残していなかった。

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