第145話_氷の欠片が病室に落ちる
明るいリビングで、アシュリーは肌を晒していた。そのこと自体は結婚してから一度や二度ではないので珍しくないものの、今回に限って、陽を浴びているのは背中だった。柔らかな腹部に、かぷりと甘く噛み付く。噛まれた本人はくすぐったかったのか身を捩って小さく唸った。その反応に気を良くしたアシュリーがこっそりと笑う。次は、手の平でそこの柔らかさを確かめる。出会った頃よりもずっと健康的に肉を付けた身体。未だ細い部類には充分に入ってしまうけれど、死んでしまうのではと恐ろしく思うほど細かった身体ではなくなったことを何度も確かめるように、手と唇で触れた。
「ア、シュリー、もう、降参」
震える声がそう告げてくると、アシュリーはまた笑った。ふと見上げれば、ソファの端に置かれていたクッションを千切る勢いでぎゅっと捩じっている。刺激に耐える為に、当たる場所が他に無いらしい。
「触られるのは、そんなにつらい?」
「つ、らいっていうか。恥ずかしい、のと、わたしも、アシュリー、触りたい」
アシュリーの方から触りたいと願う時、イルムガルドは少々渋るもののいつも受け入れていた。しかし毎回、あまりに降参が早い。こんなに泣き出しそうな顔をさせるほどまだ何もしていないアシュリーは、いつもより少し意地悪に笑って、また彼女の肌に口付けを落とす。
「どうしようかしら」
普段であればすぐに許してくれるアシュリーがそんなことを言い出すものだから、イルムガルドの眉はこれ以上ないくらいに垂れ下がっていく。
「アシュリー、なにか、怒ってるの?」
「何かって、何を?」
「うーん……遠征、無茶した、こととか……あ、煙草のこと、とか?」
今イルムガルドが思い付く『悪いこと』はその二つであるらしい。愛らしさに、アシュリーの頬が思わず緩む。
「どちらも怒っていないわ。煙草はちゃんと約束を守ってくれているし、遠征だって事前に教えてくれていたから」
出動直前、この部屋を出る時にイルムガルドは、アシュリーに『内緒の話』として、カミラに加担すること、同時にヴェナに協力することを彼女に打ち明けていた。
ヴェナはカミラの性格及び能力の性質上、彼女が死を選ぶなら火の中だと、敵国進軍が明らかになるより前から予想していた。その上で、イルムガルドに願ったのは『カミラを追って氷を届けてほしい』ということだった。
イルムガルドは遠征に向かう前、アシュリーにそれを打ち明け、もしも火の中で自分が行方不明となった報告があっても心配しないでほしいと伝えていた。氷の発見前や解凍前にアシュリーへ報せが入ってしまって不要に心労を掛けないよう気遣っていたのだろう。
その為、諸々の報告を受けてイルムガルドの病室へと駆け付けたアシュリーは、周りが思うほどイルムガルドのことを心配していなかった。勿論、何か後遺症があるのではないかという不安はあったが、無事であることだけはほぼ確信していた。
つまりあの時、いつになく無表情になっていたアシュリーの胸中を騒がせていたのは、全く別のこと。
「一つだけ、イル、正直に答えてくれる?」
「うん」
真剣な表情で、アシュリーはイルムガルドを見下ろす。イルムガルドも珍しい彼女の表情を、目を瞬きながら見上げていた。
「イルって、ヴェナみたいな女性がタイプでしょう」
「えー。すごいね、アシュリー何で分かったの?」
「もう、やっぱりだわ!!」
イルムガルドからクッションを奪ったアシュリーは、それでイルムガルドを軽く叩いた。
「わたしが好きなのは、アシュリーだけだよ」
クッションに顔を埋めて拗ねるアシュリーを、いつも通りの甘い声と甘い言葉でイルムガルドが慰める。何とかしてクッションを取り払って顔を見ようとしているイルムガルドに、アシュリーはあまり長く抵抗できない。むつりと不機嫌を見せる顔に、ちょっと可笑しそうにイルムガルドが笑った。
「ねえアシュリー、交代して。大好きだって伝えたいよ」
イルムガルドはアシュリーを抱き寄せ、頬に口付けを落とす。金色の瞳は先程までの名残か少し濡れて、扇情的な色でアシュリーを見つめていた。多少なりと不満な気持ちで覆われていたアシュリーの心が、緩んでいく。どうしたって、アシュリーはイルムガルドのこんな甘さに弱かった。
「……本当、あなたは機嫌を取るのが上手ね」
「怒ってるの、ましになった?」
「そうねぇ」
勿体ぶるような相槌を挟んでから、アシュリーは手に持っていたクッションをソファの下へと落とし、イルムガルドの背に腕を回す。彼女の耳に擦り寄って口付けてから、内緒話をするように小さく囁いた。
「たっぷり甘くしてくれたら、忘れられるかもしれないわ」
アシュリーの言葉に、イルムガルドは嬉しそうに表情を綻ばせる。
「得意だよ」
十六歳が返してくる言葉では無いが、そんなちぐはぐなところも含めてやっぱり、アシュリーは彼女に弱い。いつもの形でソファへと沈められる頃にはもう、ささやかな嫉妬心など何処かに消えていた。
その頃ヴェナは、自分がそんな痴話喧嘩の原因になっていることなど当然何も知らず、タワーの廊下を歩いていた。
普段、首都に居る間はほとんどの時間を研究施設で過ごしていた彼女だけれど、現在は全ての研究を停止させられ、施設への立ち入りも禁じられている。出来ることと言えば研究に関する資料を読み、部屋で今後の研究計画などをまとめることくらいだ。つまり、彼女は大いに暇を持て余していた。
久しぶりに
「おー、ヴェナだ。久しぶり~」
「……ヴェナさん、こんにちは」
丁寧なノックと挨拶と共に入室すれば、レベッカのベッド脇には、モカが座っていた。何処か緊張した面持ちを見せているけれど、ヴェナはそれを知らぬふりをする。
「モカも居たのね。いえ、まあ、そうね、居るわよね」
「あの、揶揄うつもりならそれ以上は止めて下さい」
「ふふ」
モカの白い肌が少し赤く染まった愛らしさに、ヴェナは思わず笑う。敵国進軍前に、二人が付き合いを始めた件で少し揶揄って遊んだせいだろう。しかし、「可愛らしいからこそ揶揄いたくなるのよ」と言いそうになった言葉をヴェナは飲み込んでやった。そして持ってきたお菓子をレベッカへと手渡す。
「わーい、ありがとう、ヴェナが前に持ってきてくれたお菓子もすごく美味しかったから、嬉しいな」
「それは良かったわ」
明るい笑顔を見せるレベッカへ、ヴェナは目尻を下げて微笑む。モカはそんな彼女の表情を何処か観察するような目で見つめていた。
「あ、そうだ、モカ。さっきの話さ、ヴェナにも聞いてもらったら? アタシは大体、モカと同じ範囲のことしか分かんないからさ」
そんな視線を知った上でのことか、レベッカが徐にそんな提案をした。ヴェナがそれに反応してモカを振り返る時には、驚いた様子で目を見張った彼女はレベッカの方へと視線を向けていて、目は合わない。彼女が「だけど」と少し渋る様子を見守ってから、ヴェナは首を傾ける。
「何かしら、私で良ければ聞くわよ」
穏やかにそう告げるヴェナを見上げ、モカは少しの戸惑いを挟んでから、彼女に隣の椅子を勧めた。応じてヴェナが座ったところで、モカは神妙な面持ちで一つ頷く。
「イルムガルドの、ことなんですが」
以前、モカはレベッカに、イルムガルドについて言い掛けた言葉があった。あの時はイルムガルド本人がこの病室を訪れてしまった為に有耶無耶になってしまったものの、改めて先程、それをレベッカに話していたのだ。
「あの子、口数が少ないので分かりにくいですが、言葉や発音がやけに拙い気がしていて。もしかしたら、特殊な環境で育っていたのではないかと」
「……なるほどね」
その違和感をレベッカは『ちっちゃい子みたいな感じ』と言ったが、やはりどう考えてもおかしいとモカは思っていた。平均より少し小柄とは言え、
「まず、言わなくても分かっているでしょうけれど、人のプライバシーにはあまり立ち入らない方が良いわよ?」
「あの……はい、そう、ですよね」
モカが軽く項垂れて額を押さえる仕草を見て、ヴェナは少し笑う。
奇跡の子らは、多かれ少なかれ何か事情を抱えていることが多い。モカが苗字を捨ててこの機関へと属したということも、全員がそれを知るわけではないし、彼女自身も不躾に、踏み込まれたいことではなかった。そう考えれば当然イルムガルドも、モカの予想通りであったとして、それを周りに暴かれたいなどとは思っていないだろう。しかしヴェナはその理解がありながら、注意をそこまでに留め、モカの疑問には応えてやった。何処か思い詰めた様子である彼女の気持ちの方も、考えるべきと判断したのだろう。
「私も研究過程で関わる間、少し気になってはいたわ。あの子ね、知識の偏りも酷いのよ。正当な教育はおそらく受けていないと思うわよ」
「正当な教育……」
「学校に行ってないってこと?」
「ええ。少なくとも正規の学校には行っていないでしょうね」
ヴェナの言う『正規』は、政府の管理下にある学校だ。どれだけ貧しい村であっても国内のほとんどの集落には一つ以上、政府が管理下に置いている学校がある。実際、イルムガルドの故郷にも学校自体は存在している。その為、この国では一切の教育を受けていない子供というのはかなり稀な存在だった。それ以外となれば、個人の開く寺子屋だろうか。
「読み書きに問題が無いところを見る限り、そのような場所に居た可能性は考えられるけれど。だとすると会話の拙さが妙だわ。まるで何処かに閉じ込められて、人との関わりを絶たれた状態で、読み書きだけを教えられたかのようにね」
ヴェナの語る残酷な状況に、モカとレベッカが小さく息を呑む。二人の反応を見て、ヴェナは安心させようとしたのか緩く微笑んで「ただの想像よ」と付け足した。
「ただ、踏み込むのは此処までにした方が良いわよ。少なくともイルムガルドを直接探る真似は止めなさい」
先程よりもずっと厳しい声でヴェナは言った。これは『プライバシーに立ち入ることは良くないから』という綺麗な理由ではない。モカとレベッカの二人を心配する言葉だ。
「あの子は確かに幼く見える。だけど私から見てもかなり利口な子よ。探れば必ず見付かるわ。気を付けることね」
若くから研究の分野で頭角を現した天才に此処まで言わせる子だ。モカには他の誰に言われるよりも強い危機感が湧き上がる。出会って間もない頃にはイルムガルドに対して『正直な子供』との印象を持っていたモカだったが、今考えれば、まるで軽率な判断だった。
「……私は、あの子と接するほどに正体が分からなくなるようで、怖いんです。……ヴェナさんやカミラさんのことだって、ずっと傍で見てきて、知っていると思っていたのに」
思わず零してしまったモカは、直後「すみません」と小さく詫びた。ヴェナは首を振る。
「謝るのは私の方だわ。そんな風にあなたまで、傷付けてしまっていたのね」
暇つぶしでしかなかった見舞いだったけれど、此処に来て良かったとヴェナは思う。そうでなければ、この先もモカの傷には気付けずにいたかもしれないのだから。
「姉のような顔をしていたかったのよ、私も、きっとあの人も。どうしても弱い部分を見せられなくて、だから、誰にも言えなかった」
それはレベッカが語った『お姉ちゃんだった』という予想に近かった。その言葉を思い出し、モカの中に安堵のような感情が広がる。偽りではなかったのだ。傍でいつも優しく微笑んでくれた二人は、嘘ではなかったのだと、確かめて、泣き出しそうになって、モカは俯いた。
「結局ヴェナは今回、何がしたかったの?」
「……難しい質問ね。簡単に言えば、『カミラの邪魔』だけれど」
「邪魔?」
ヴェナが一つ頷く。彼女はただ、カミラが一人で救われた気になって死んでいくのが気に入らなくて、その邪魔をしたかった。だから確実に助ける方法を模索して氷の結晶を作り出し、誰よりもカミラの傍へ運べる可能性が高いイルムガルドに、協力を依頼した。
「それから、……今回の目的と言うには少しずれるけれど。ちゃんと、私の名前を呼ばせたかった。死なれてしまえば、叶わないことでしょう」
マイ・ドール呼ばれる度に眉を寄せるヴェナのことは、二人も良く知っている。ちゃんと名前を呼びなさいと言われても、カミラが一度も呼ぼうとしなかったことも。二人からカミラへ、どうしてそんなあだ名を付けたのか問い掛けたこともあるが、カミラには躱されてしまっていて何も知らない。
傍から見れば、些細な望みにも思えるだろう。だけど二人はそれを指摘しなかった。カミラとヴェナの間には、きっと、当人らにしか分からない問題があって、その一つがきっと、その呼び名だったのだろうと思ったから。
「こっちに戻ってから、拘置施設で名前を呼んでもらったわ。……だけど気分は少しも、晴れなかった」
「……ヴェナ」
「結局、私もあの人と同じなのね。目的を果たしたって、もう、救われはしないの」
どうして名前を呼んでほしかったのか、ヴェナはもう思い出すことも出来ない。呼んでもらえば、何が変わると思っていたのだろう。何も変わりはしなかった。生まれたのは、これでも自分は救われないのだという空虚な心だけ。
「ヴェナはカミラのことが、その……好きなの?」
これを問うレベッカの声はやや緊張していた。
普段であれば禁句に近い。ヴェナは怒らせれば怖いのだ。昔、やけに喧嘩ばかりをする二人を職員が揶揄ったら、ヴェナは絶対零度の目で職員を見つめ、例えではなく本当に床の一部が凍り付いたことで周りは震え上がった。彼女を軽率に揶揄うべきではない。特に、カミラに関わるような部分では。あの日以来、このタワー内ではそれが共通の認識だった。
しかし今日のヴェナは、レベッカの言葉に憤る様子も、不快にする様子もなく、ただ少し考えるように視線を余所に向けて短く沈黙した。
「……当時は、そうだったかもしれないわね。だけど今はよく分からないわ。そこに居るだけで腹が立つし」
「ふふ」
並ぶだけで喧嘩を始める二人を思い出したのか、思わずレベッカは笑う。釣られてモカも、ヴェナも口元を緩めた。
「私は、あの頃に戻りたかったのかしら。バカなことよね、今更、戻れるはずもなかったのに」
ヴェナが告げる『あの頃』がいつのことなのか、レベッカとモカには分からなかった。けれどそう呟いたヴェナが何処か傷付いたような顔をしていて、それが悲しくて、二人は眉を下げる。気付いたヴェナが、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい、話し過ぎてしまったわ。……格好を付けたいと言っておいてこれなのだから、みっともないわね。これ以上の醜態を晒す前に、今日は退散するわ」
「ううん、話してくれてありがとう、ヴェナ」
「私も変なことを言ってしまって、すみません」
二人の返事に、少しくすぐったそうにヴェナは笑い、モカの頭を軽く撫でてから退室して行った。
「……五年も一緒だったのにさ。見えてなかったこと、結構あるんだね」
「そうね」
彼女の気配が遠のいた後で、二人は静かにそう呟く。
今も、カミラとヴェナの間にある確執が何だったのかを二人は知らないし、おそらくそれは二人が知るべきことではないのだろう。ただ、二人がヴェナと関わっていく中、彼女のことがよく分からないと思えば、やはりこうして直接話すべきだったのだ。少なくともモカは、それを実感していた。
ヴェナが、よく知るヴェナのままであったことに心底安堵したモカの表情を見つめ、レベッカも何処かほっとした心地で、目を細めた。
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