第144話_戦の痕を見つめる零番街

 敵国ゼッタロニカから奇跡の子らが帰還して以来、国は妙なざわつきが続いていた。一部の情報統制はあるものの、奇跡の子らが進軍に参加したことや、彼女らの活躍については広く報じられたせいだ。

 ただ、その一方で。渦中のイルムガルドとその伴侶であるアシュリーの日常はひたすらに穏やかなものだった。何せイルムガルド本人が、何も無かったような顔でのんびりと過ごしているのだから。

「アシュリー、アシュリー」

 他の者には聞かせることの無いやや甘えた声でイルムガルドが呼ぶ。昼食の片付けと夕飯の下拵えの為に台所に立っていたアシュリーは、手に持つ通信端末を持ち変えた。

「お母さん、ごめんなさい、また掛け直すわ。ううん、すぐに」

 彼女の言葉にイルムガルドは目を丸めていたけれど、アシュリーはそのまま通話を切ってしまう。それを知ったイルムガルドは忙しなく目を瞬き、眉を下げた。

「ごめん、電話中だって気付かなくて。サラ?」

「ええ。でも大丈夫、ただの世間話よ」

 だから大したことじゃないとアシュリーは告げるものの、イルムガルドは申し訳なさそうな顔をしたままだ。そんな彼女は、見ればいつものジャケットを羽織っていた。WILLウィルの定期健診は午前中に済んでいるはずなのだけど。

「出掛けるの?」

「うん、図書館に行ってくる」

 どうやらそれを告げる為に、先程、アシュリーに声を掛けたらしい。そういえばイルムガルドが少し前にまとめて借りてきていた本も、そろそろ読み終えそうだった。返却ついでにまた新しい本が読みたいのだろう。何処か楽しげに玄関へと歩く彼女を見送る為にアシュリーも後ろに続く。

「ハンカチは持った?」

「ふふ、大丈夫だよ」

 アシュリーの問いに、イルムガルドは可笑しそうに目尻を下げて頷き、ポケットに入っているハンカチを見せていた。それにアシュリーが微笑んで「いってらっしゃい」と告げれば、「行ってきます」とご機嫌な声で答えて、軽く口付けを交わしてから出て行く。出掛ける前にキスする習慣は、今も続いていた。

 遠征に行く時の彼女を見送る日は、どれだけ甘い口付けをもらっても、こんな風に穏やかには見送れない。トントンと軽い調子の足音が離れていくのを何だか愛おしく思いつつ、再び台所へと戻る。置き去りにしていた通信端末を手に取って、同じ相手へと掛け直した。

「ごめんね、イルから声を掛けられたから」

 つまりサラよりもイルムガルドを優先したということになるが、サラからは『それじゃあ仕方ないわね』と、妙に機嫌の良い笑い声が返ってくる。アシュリーが小さな子供のようにイルムガルドを甘やかしていることを知っているせいだ。ほんの一言だけでもそれが感じ取れて、居た堪れない空気を払拭するようにアシュリーは話題を戻した。

「さっきの話だけれど、私もほとんど新聞の知識よ。流石に軍事情報まで、私に漏れては来ないわね」

 敵国ゼッタロニカは、当初の予想通りこの国に対して白旗を上げた。

 そして同時に、ゼッタロニカの近隣、特に小国は次々に降伏の意志を見せているようで、ゼッタロニカと合わせて和平交渉に入ったと報じられている。

 カミラの点火により発生した大規模な爆発の音は、近隣の小国を震撼させた。遠くからも視認できてしまった爆炎、その規模だけが情報として伝わり、この国が当初狙った以上の恐怖を周辺各国へと与えたようだ。

 ただ、逆に反発を強めている国も多く、戦争が収束に向かうと見ている新聞記事は一つも無かった。激化すると見ている記事も散見される。

 おそらくサラはそのような不穏な記事を見て不安になったのだろう。機関から何か聞いているか、イルムガルドの状況はどうなのかと尋ねる電話を寄越した。多分、イルムガルドだけでなく、アシュリーの精神状態も心配してのことだ。

「イルはいつも通り、のほほんとしているわ。謹慎が明ける時期も知らされていないみたい」

 アシュリーも、イルムガルド用の携帯食糧の準備は当面不要だとWILLウィルから連絡を受けている。つまりそれについて再開の連絡が無い限りは、イルムガルドが遠征へと出る予定は全く無いということだ。

 お陰で、アシュリーはまだ心穏やかに過ごせていた。今だけのことだと分かっている。奇跡の子らを敵国内へと送り込み、多大な戦果を挙げた実績は、確かにこの国に残ってしまったのだ。これきりだとは到底思えないし、WILLウィルも、これきりにするとは決して言わなかった。戦争が激化すれば、再度、敵地へと赴く可能性は上がるに違いない。

「とは言え、今から不安に思っても仕方がないから」

 不安に思うからこそ、アシュリーはそのように自分へと言い聞かせていた。アシュリーが不安な顔をしていたら、のほほんとしているばかりのイルムガルドにだって、いつか伝播してしまうかもしれない。もしもあのイルムガルドが不安に震えることがあったら。そんなのは絶対に嫌だとアシュリーは思う。

「ええ、じゃあまた。イルも会いたがっていたから、謹慎が明けたらまた行くわね」

 自宅から出ることは禁じられていないものの、ゼロ番街から出ることはしばらく禁止となっている。しかしイルムガルドがまんまとWILLウィルの目を掻い潜ってゼロ番街内だけで『報酬』としての煙草を持って帰っていることを思えば、どの程度の効果がある謹慎なのかと呆れたものだけれど、多少の『悪いこと』については、アシュリーに咎める気は無い。

「ああ、おやつの時間に帰ってくるのか聞くのを忘れていたわ」

 いつもは夕飯の下拵えを終えた頃におやつの用意をするのだけど、さて、今日はどうしようか。本に夢中になってしまうと時間を忘れがちなイルムガルドが気付くかどうかは分からないが、アシュリーは短いメッセージを送って、引き続き、夕飯の準備に取り掛かった。


 謹慎中であるにも拘らず何の憂いも無く自由に過ごすイルムガルドと違い、同程度の謹慎の処分を受けているテレシアは、タワーにある自室からほとんど出ることは無くなっていた。元より活発な子ではない為に外出は少なかったものの、今ほど意図的に籠ってはいなかった。今はどうやら、周りの者達と、顔を合わせることが気まずいようだ。

 ただ食事だけはどうしても食堂で取る必要があって、彼女が部屋の外へと出るのはその時だけ。多くの場合は時間をずらし、あまり人と顔を合わせることが無いようにと動いている。

 けれど、この日だけは。かなり遅めの昼食を終えたテレシアが自室へと戻ろうとしたところ、フラヴィに遭遇した。

「あ……」

 戸惑った声が思わず漏れて、それに反応したフラヴィが振り返る。

 此処は普段、フラヴィが自室へと戻る為には通らない廊下だ。どうして彼女がそんな場所に居たのかと疑問を感じたのは一瞬で、フラヴィが何処か気まずそうに視線を彷徨わせたことで、テレシアと会う為だったと察することが出来た。

「えっと、久しぶり。いや、おかえり、かな」

「……うん、ただいま」

 テレシアは口元に控え目な笑みを浮かべる。フラヴィに笑顔は無い。だけど強い目で見つめてくるようなことも無く、むしろ直接目を合わせてくる様子も見られない。フラヴィにしては、珍しく気弱に見える振る舞いだ。

「話、色々聞いてる。大変だったな」

 その声は優しかった。けれどテレシアは、「うん」とも「ううん」とも答えることが出来ない。大変なことをの人間である自覚があるからこそ、被害者であるような発言は出来ない。けれど、大変じゃなかったとも、とても言えない。短い沈黙の後で、フラヴィがようやく顔を上げて、テレシアを真っ直ぐに見つめた。

「カミラのこと、なんだけど」

 逆にテレシアは、視線から逃げるように足元を見つめる。戦場から戻って今日に至るまで、カミラについて職員から色々聞かれている。今更、彼女に関する質問が怖いわけじゃない。だけどテレシアは多分、フラヴィからそれを尋ねられるのは、怖かった。

「テレシアはずっと前から、このタワーに戻ってきた時にはもう、カミラの作戦を知っていたのか?」

「……うん」

 進軍と、施設の爆破作戦それ自体を知ったのは勿論、命令が出た時になる。ただ、カミラがいつかWILLウィルの命令に背くつもりであることを聞き、その時、テレシアに協力してほしいと願ったのは、もっとずっと前のことだ。勿論、フラヴィ達と出会うよりも。テレシアの告げた肯定に、フラヴィは何故か酷く傷付いた顔をした。

「何で、お前が……そんな、こと」

 泣き出しそうにも聞こえる悲痛な声が、テレシアの心臓を締め付ける。責めようとしたのか、何か違う訴えだったのか、意図を汲み取ることが難しい言葉だった。けれどテレシアはそれ以上、フラヴィの声を聞いていられなかった。

「ごめんなさい」

 正しい返事であったとは思えない。分かっていながらも、テレシアはそのまま逃げるようにして、その場を立ち去った。

 取り残された廊下で。

 遠くで扉が閉ざされた音を聞いて、フラヴィは溜息を一つ、足元に転がす。彼女には彼女の中に湧き上がった悔しさや悲しみを、言葉に出来なかった。それがどうしてなのかも、よく分かっていない。

 力無く廊下を歩き、フラヴィが向かったのはレベッカの病室。

 深く考えずに扉をノックして、返事も待たずに無遠慮に開く。少し驚いた様子で目を丸めているモカと最初に目が合って、それから、ベッドの背凭れを起こして座っているレベッカ。最後に、その彼女が力無くベッドに垂らしている左手を、モカの手が優しく握っているのを見付けて、フラヴィはハッとした。

「ごめん、邪魔した」

 言うと同時に勢いよく扉を閉ざす。

 出直そうと踵を返したところで、室内では何かガタガタと慌ただしい音が響いて、フラヴィが閉ざした時以上の勢いで扉が開いた。顔を出したのは、何処か焦った様子のモカだった。

「き、気を遣わないで、お願いだから、フラヴィ」

 彼女の後ろで、レベッカは堪らない様子で身体を震わせて笑っている。あんなに笑って、傷には響かないのだろうか。

「普段通りに接して頂戴。逆に困ってしまうわ」

「まあ、二人がそう言うなら、僕はいいけど……」

 しかし先程の状況は本当に邪魔をしなかったのだろうか。病室に招き入れられながら、軽く首を傾ける。だが今更やっぱりいいと出て行っても、逆にモカを困らせてしまうだろう。ベッド脇にもう一つ出してくれた椅子に、大人しく腰掛けた。

「それでどうしたの、フラヴィ。なんかしょんぼりしてるね」

 レベッカの言葉に、モカも軽くフラヴィの顔色を窺うように見つめてくる。その視線には応えられるのに、言葉はやっぱり、上手く出てきてくれない。

「あー、……何て言うか」

 言葉を選ぶほどに、沈黙が続く。沈黙が続くほどに焦って、言葉が出てこない。ぎゅっと眉を寄せたところで、モカの手が、フラヴィの肩を撫でた。

「まとまっていなくても良いわ、大丈夫よ」

 彼女の声があまりに優しくて。フラヴィはいつになく弱く、眉を下げた。

「テレシアって、ずっと、カミラの作戦を知ってたんだって。僕が出会った頃にはもう、今回のこと」

 小さな手、小さな指先を複雑に膝の上で絡ませながら、フラヴィはぽつぽつと言葉を紡ぐ。二人はそんな彼女の様子を心配そうに、見守った。

「僕らと、どんな気持ちで喋ってたんだろ。自分が、もしかしたら非難される側になるかもしれなくて、罪に問われるかもしれなくて、……そんなこと、僕、何にも知らなくて」

 知らずにいたのは当たり前のことだ。カミラやテレシアはそれを周りに知られることの無いように進めていたのだから。そんなことを、フラヴィが理解していないはずがない。

「……僕、は?」

 彼女を苦しめているのは、知らなかったせいではない。テレシアにとって自分が、『外側』だったことだ。手が、身体が、微かに震えていた。必死に、外に出て行きそうになる感情を抑え込んでいる。まだ幼くて小さな身体で、懸命に。それを見守るモカやレベッカの方が余程、痛みに耐えるように眉を強く寄せていた。

「仲間じゃ、なかったのかな。テレシアの本当の仲間って、カミラだけで、僕らは」

「フラヴィ」

 モカはその小さな身体を引き寄せて、腕の中に閉じ込めた。同じ痛みを、モカも知っていた。カミラやヴェナを遠く感じた時に似た喪失感と寂しさを覚えたから、今の彼女の気持ちが、よく分かってしまう。フラヴィは身体を震わせ、その腕に甘えながらも、涙は流さなかった。

「……ごめん、変なこと言って」

 遠慮するように身を離すフラヴィに、モカは少し眉を下げて微笑みながら腕を緩める。けれどまだ肩には腕を回したまま、静かに撫で続けた。そんなことで心の痛みには届かないだろう。分かっていても、痛みに耐える小さな身体に、何かせずにはいられなかった。

 手を伸ばすことも叶わないレベッカは、ずっと静かにそんな二人を見つめていた。

「テレシアは、フラヴィを『仲間じゃない』とは言ってないんでしょ?」

「そうだけど……」

 不意に口を開いたレベッカの声は、明るかった。

 つい先程まで眉を顰めていたのを無かったことにするみたいに、フラヴィへ穏やかな笑みを向けている。

「もしも、仲間じゃなかったって言うなら、別にそれでもいいじゃん。これから仲間になればいいよ。だってあの子は生きてるし、これからもWILLウィルなんだから」

 カミラ達の心が分からないと嘆いたモカにも、ほとんど同じ言葉でレベッカは励ましていた。

「生きてる限り、みんなそうだよ。大丈夫。まだ、大丈夫だよ」

 強く言い切るレベッカを見上げて、フラヴィの瞳は大きく揺れた。潤んでしまうことを飲み込もうとしたか、それとも、素直になれなかっただけか。慌てて俯いたフラヴィは少し口を尖らせると、「お前はいつも前向きだよな」と悪態を吐く。

 それは彼女の心が、この病室に訪れた時よりも僅かながらも上を向いた証拠だった。

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