第141話_病室で告げるおかえり
精密検査や報告を終えた後、寄り道すること無く自室へと戻ったモカは、扉を閉じるなりその場にしゃがみ込んだ。肩が震え、喉が震えた。度の入っていないゴーグルなどもう室内では不必要であるにも拘らず、それを外すことなく中へと涙を零していた。
敵国進軍という不安と戦っていた時点で、既に彼女には大きな負荷が掛かっていた。カミラも指摘していたが、モカの透視には視野がある。全方向を絶えず見ることが出来ない。その為、自らの視界の外から脅威が迫るのではないか、再び誰かが奪われてしまうのではないかと、ずっと気を張っていたし、怯えていた。
その中で起こった、カミラの造反。そしてまたヴェナも、
起こった全てを、モカは受け止められなかった。混乱していた。この涙が何の涙なのかも、本人は分かっていない。感情の奔流だ。抱え込めなかった負荷を吐き出す為に、泣くことしか出来なかった。それ以外、吐き出せる先が分からない。カミラとヴェナほど強く信頼していた相手を失ったモカは、もはや誰を信じれば良いのかも分からない。唯一、疑いようなく信じられるレベッカも、今はまだ療養中の身だ。縋る気にはなれなかった。
しかしその時、モカの通信端末が鳴った。ゴーグルを外して簡単に涙を拭って、すぐに表示を確認する。解散から間も無かったこともあり、
すん、と小さくモカは鼻を鳴らす。ゆっくりと深呼吸を繰り返す間も、通知音は止む様子が無い。まるで、モカが取ることを確信しているような音だと思う。モカの口元には少しだけ笑みが浮かんだ。
「……はい」
『あー、モカ、おかえり』
何処か呑気にも聞こえるレベッカの声に、モカの身体から力が抜けた。
「ただいま。……病室で、通話なんてしても、いいのかしら」
モカもいつも通りの調子で話そうとしたはずなのに、上手く声が出なくて、途中に小さな咳払いを挟む。通信機の向こうのレベッカが、短く沈黙した。
『アハハ、駄目だねぇ。バレたら怒られるよ。だからさー』
通信機越しに声を聞いているだけで、モカの心が緩んでいく。次の言葉までにレベッカが刹那の空白を置いたのも、そうしてモカの心が最大まで緩むのを待とうとでもしたかのようだった。
『会いに来て、モカ』
その言葉にモカは、泣き出しそうになってしまう。じわりと目が熱くなり、唇を噛み締めた。少しの沈黙の間に何とか涙を飲み込んで、今度こそ声が詰まってしまわないようにと、静かに呼吸をする。
「今、会えるような顔をしていないわね」
モカらしい、遠回しな白状の言葉だった。それでも声では表したくなかったのに、言葉尻は揺れてしまった。向こうには見えないと分かるから、素直に項垂れて小さく息を吐く。するとレベッカからは、思わぬ言葉が返ってきた。
『そう? じゃあ仕方ないなー、アタシが会いに行こう』
「すぐに行くからじっとしてて。いい? 絶対に、動かないのよ」
全く冗談でも脅しでもなく、レベッカならば本気で病室を抜け出してくるだろうことがモカには分かってしまった。実行したとしても道中で間違いなく職員に見付かって捕まるだろうけれど、立ち上がって歩くだけでも今のレベッカの身体には悪いことしかない。止める為にモカは今、従うしかなかったのだ。
『ふふ、はーい。じゃあ待ってるね』
大きな声で笑い出したいのを堪えるような声を漏らしてから、レベッカはそのまま通信を切ってしまう。モカは先程よりずっと大きな溜息を零した。焼け石に水になるかもしれないが、とりあえず、顔を洗うことに決めた。
だが、あまり待たせてしまえば本当に病室から這い出てしまいそうだ。モカは手早く顔を洗うと、ゴーグルに付いてしまった涙を丁寧に拭って、早足で病室に向かう。あまり人と会いたくない顔だったのにと、俯き加減で進んでいく。幸い、ゴーグルは薄くとも色が付いているものである為、黙っていれば周りの誰もモカの様子がいつもと違うことになど、気付きはしなかった。
「しばらく待ったら本当に行くところだったよー」
「……冗談じゃないわ」
到着するなり、レベッカは案の定そう言って笑う。モカは呆れを含んだ溜息を吐いて、ベッド脇にある椅子に腰掛けた。
「あはは。でも、ほら、もう座れるようになったんだよ~」
そう話すレベッカは、ベッドの背凭れに身体を預ける形で座っている。モカが遠征に行く時はまだ身体は横にしていなければならなかった状態だった為、不在としていた間に着々と回復していたらしい。
「痛みは?」
「うーん、薬を入れてもらってるからよく分かんない。でも、減らしてくれてるらしいから、マシになってると思うよ」
「そう。良かった」
会話をする間もモカは、レベッカの顔色を窺おうと顔を上げては、視線が絡んで、それを落とすという行動を繰り返していた。レベッカが真っ直ぐに見つめてくるほど、今のモカはそれに応えられない。まだ目が乾いていて、目蓋も重たくて、上手く開けられないから、見られたくなかった。だけどそれを優しく受け入れてくれる彼女であれば、こんなにも強引に病室へと呼ばれはしなかったことだろう。
「モカ、ゴーグル外して」
徐に訴えられた言葉に、いよいよ、ほんの一瞬すら、顔を上げられなくなる。
「……どうして」
「顔が見たい」
「見えているわ」
「やだ」
小さな子供のような駄々を捏ねるレベッカの声は笑っている。他の誰にも聞かせない、モカにだけ向けてくるこの振る舞いに弱いのだと、とうにバレているのかもしれない。また一つ息を吐いて、モカは大人しくゴーグルを外した。
レベッカの手がモカの前髪に触れるから、少し顔を上げる。それでも視線がまだ、上げられない。指先が、今も赤いままであろう目尻に触れた。その温もりだけでモカは泣いてしまいそうだ。抑え込むように、ゆっくりとした瞬きをした。
「なんか、辛いことあったんだね。でも、……無事に、帰ってきて、ほんとに良かった。おかえり」
途中から、レベッカの声が酷く震えた。いつも通りの笑みを浮かべたままで、彼女の目からぽたぽたと涙が伝い落ちて行く。堪えていたのに。モカはその涙に釣られてまた、泣いてしまった。
「……ただいま」
既に通信越しに、交わした言葉だった。けれど直に交わすそれはまるで違うもののようで、モカの身体中に温もりが染み渡っていく。一度溢れてしまったものは中々収まることが無く、堪らずモカはベッドに顔を埋めた。レベッカの手が後頭部をゆっくりと撫でる。流石にもう、顔を上げろなんて無情な言葉は降ってこなかった。
いつになく無防備を晒してしまったモカも、涙が落ち着いた頃には調子を取り戻した。そしてこんな姿を見せてしまった後でも、彼女は取り繕う意志を無くさない。
「ごめんなさい、汚してしまって」
「ちょっと濡れただけじゃん。アタシの能力で水取ってあげよっか?」
「もっと居た堪れなくなるから止めて。ハンカチを置いておくわ……」
涙を拭く為に使用したハンカチの、濡れていない部分を押し付けて水気を取る。その様子がレベッカには随分と面白いらしく、眉を下げてくつくつと笑っていた。あまり笑うと身体に響くと言っても、「そんなこと言われても」と更に笑ってしまうので、これ以上は刺激を重ねないようにとモカは口を噤んだ。
双方が落ち着いたところで、今回の遠征で起こった全てのことを、モカはレベッカへと打ち明けた。当然これらは外部に漏らしていい内容ではない為、話していいのはチームメイトや家族のみとされていた。そしてそのどちらに対しても、話す場合には口止めをするように強く言われている。レベッカは勿論それに同意した。
「イルムガルドのことが、もう、分からなくなってしまったわ」
彼女の行動は、結果だけを見れば悪ではなかったとモカも思っている。けれど、一体何を考えていて、何の為に動いているのかがまるで見えない。今までは、態度が悪いだけであって常に
額を押さえて俯くモカを、レベッカは心配そうに見つめる。疑問に対する答えを、彼女が持つはずはない。同じ不安や疑念を一切感じないわけでもない。ただ今は、目の前でモカが痛んでいることが、レベッカにとっては最も悲しかった。
「カミラさんと、ヴェナさんだって、私はずっと、仲間だと……」
二人の行動に対して『裏切られた』と言うのは、モカは違うと感じていた。彼女らは、決してモカを傷付けようとはしなかった。最後まで優しく、モカがよく知るいつもの二人を見せながら、知らなかった二人を見せた。その怖さを、モカは何と形容すべきか分からない。自分が見ていたもの全て、偽りだったのではないか。そんな考えが、「そんなはずはない」という感情と共に湧き上がってきて、モカの心を削っていく。
全てを吐き出しても、不安が消えることはない。疑問が解消されないのだから、当然だ。自分の抱える不安を無闇にレベッカにまで押し付けるべきでは無かったかもしれないと、今更少し、モカが後悔し始めた時だった。
「……多分、二人は『お姉ちゃん』なんだよ」
徐にレベッカがそう言ったのに応じ、モカは顔を上げる。だけどレベッカはモカを見ておらず、正面の壁を見つめて目を細めている。その横顔もまた、彼女が時折見せる『お姉ちゃん』のそれであるように見えた。
「お姉ちゃんってさ、言えないんだよ、弟や妹に、『辛い』とか『助けて』って」
視線がモカの方へ戻り、目尻を下げてレベッカが微笑む。彼女の持つ緑色の瞳が色を深めた。
「でもそれは、お姉ちゃんでいる二人が全部嘘なのとは違うと思う。ちゃんと本当だったと思うよ」
そう言って、レベッカはモカの手を優しく握った。いつの間にか固く握り締めてしまっていたそれから、モカはゆっくりと力を抜いてレベッカの手を握り返す。
「また二人と話そう。きっと大丈夫。イルとだってさ、これからまた沢山、話をしようよ」
だってまだ、生きているのだから。
続きを口にはしなかったけれど、レベッカが言おうとした言葉はちゃんとモカに伝わっていた。両手でレベッカの手を包み込み、モカは確かに頷いた。
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