第140話_研究施設で溶けた氷
敵国進軍という大役を終えた奇跡の子らが、首都へと帰還した。
同時に、
「――つまりお前は、今回の件、全てを予想していたのか?」
子らを出迎えたデイヴィッドは、帰還した彼女らに掛ける労いの言葉もそこそこに、ヴェナを見据えてそう問い掛ける。彼女は司令の視線に応えず、何も無い宙にそれを留めたままで、「いいえ」と涼やかに答えた。
「私が予想していたのはただ一つ、『いつか』カミラは自棄を起こし、自らの命と引き換えにした作戦に身を投じるだろうということだけ。今回であることを確信していたわけではありません」
当然、特に今回が可能性は高いとヴェナも考えていた。けれど司令が言うほど「全て」を予想することは彼女でも到底出来ない。
「まして、カミラの能力が衰えていることは、全く知りませんでした」
ヴェナとカミラは、特別な関係を持っていても仲が良かったとはとても言えない。互いの間に多くの会話は無く、心の内を語ることなど、関係が変わってしまった三年前からは全く無かった。だからヴェナはカミラという人について「何も知らなかった」と言っても決して過言ではない。ただずっと近くで瞳を見つめ続けただけだ。濁っていく、純粋だった彼女の瞳を。
「どうして、俺に相談をしてくれなかった」
デイヴィッドの言葉に、ヴェナは少しの間、沈黙を落とした。ぴくりと震えた目蓋は、彼女が一瞬、視線を上げようとしたのだろうと察することが出来る。しかしやはり視線を落としたままで、彼を見つめ返すことは無かった。目蓋の動きを誤魔化すように、ゆっくりと瞬きを一つ。
「……カミラが憎しみに囚われていることは、司令や職員の多くは、認識していたはずです」
「それは」
指摘に対して、デイヴィッドは言葉を詰まらせた。明らかに、怯んでいた。ヴェナの声がまるで、責めるような色をしたからだ。事実、デイヴィッドは知っていた。何度もその片鱗をカミラは見せ、直接デイヴィッドへと訴えることもあった。職員らも同じだ。ヴェナと凡そ同じだけの期間、カミラの中で膨らんでいく憎しみを知っていて、誰一人、何も出来なかった。返す言葉を見付けられずに黙り込む彼らに、落胆したようにヴェナは静かに息を吐く。
「遠回しに語るのは止めましょう。……私はあなた方を信頼も、期待も、しておりませんでした」
「ヴェナ」
「どうぞ罰して下さい。反省は致しません。私も、目的を果たしましたので」
強くそう言い放つと、ヴェナは傍らの氷塊を見上げた。その中央で、カミラがイルムガルドを抱き締めている。一回りも二回りも小さな少女を、守るように抱く女性。その姿を見てヴェナは一度、視線を落とした。
この氷塊は、軍と
ヴェナは、ある特殊な薬品を混ぜて作り出した氷を媒介にした場合、巨大で強固な氷を生成することができた。イルムガルドが運んだ小さな氷がその媒介だった。
「……解凍します」
静かにヴェナがそう呟くと同時に、氷は液体を介すことなく気体へと変わっていく。その中を、ヴェナが臆することなく真っ直ぐに進んだ。そして細い両腕を伸ばし、倒れ込む二人分の影の内、小さい方だけを受け止めた。どしゃりと床に崩れ落ちた大きい方には、目もくれない。
カミラほどの高身長でないヴェナの腕にも、小柄なイルムガルドは綺麗に収まった。ただヴェナが支えるには重い身体だ。ヴェナは彼女を抱いたままでその場に座り込む。大切にその身体を抱き締め、ヴェナが囁いた声は、先程、司令らに向けていたよりもずっと感情を込めた温かなものだった。
「イルムガルドちゃん、ごめんなさいね、危険なことをお願いして。……本当にありがとう」
駆け寄った職員と医療班によって、イルムガルドとカミラは運ばれていく。少し体温は低いが確かに脈があり、二人は生存していることが確認された。ヴェナが言うには、数時間以内に目を覚まし、健康被害は無いということだ。
「彼女の奥様に直接、私から謝罪をすることは可能でしょうか」
これを問う時、ようやくヴェナは顔を上げてデイヴィッドを真っ直ぐに見つめる。しかし彼が何かを返すよりも先に、その隣に立っていたモカが口を開いた。
「私も立ち会わせてください」
何処か警戒を含む色の声が、自らに向けられているものと知りながらも、ヴェナは彼女に向かって柔らかく微笑む。
「そうね。むしろ、お願いするわ。失言があったら止めて頂戴」
優しい声も話し方も、何度、反芻してもよく知るヴェナのままであるのに。モカは今、ずっと見てきたカミラとヴェナの正体が分からないような心地になっていた。デイヴィッドはそんなモカを安心させようとでもするように、いつになく丸くなった彼女の背に手を当てる。そして、改めてヴェナへと向き直った。
「良いだろう。ただし、ご本人が面会を受け入れる場合だけだ」
「勿論です」
ただ、このような気遣いも、心配も、アシュリーという女性には一切の意味が無かった。彼女は簡単な事情説明を聞いた後、ヴェナとの面会を二つ返事で聞き入れた。病室のベッドに移されたイルムガルドの傍で、という条件しか、彼女は付けなかった。おそらくはデイヴィッドやモカがその場に付き添うかどうかなど、彼女の決断の一助にもならなかったことだろう。
そうしてイルムガルドの眠るベッドの横で、ヴェナから過不足なく今回の件が伝えられる間、アシュリーはイルムガルドの横顔だけを見つめて沈黙していた。アシュリーには特に表情が無く、どのような内容を語られる中でもそれが崩れない。いつも柔らかく穏やかに笑みを浮かべている彼女を思えば、幾らも冷たい印象を受けた。モカはその様子を注意深く見つめる。彼女のそれが痛みや怒りを堪えるものなのかもしれないと思うから、見付けようと思っていたのだ。だがヴェナが話し終えてしまうまで、アシュリーから感情の一端すら捉えることは出来なかった。
「私個人の願いで、危険な計画に彼女を巻き込んでしまったこと、心から、お詫び申し上げます」
最後にヴェナはそう言って、アシュリーに向かって深く頭を下げた。合わせてモカとデイヴィッド、職員らも共に頭を下げる。イルムガルドを守ることが出来なかったという点では、
「経緯は、分かりました。頭を上げて下さい」
それは彼女が口にするにはあまりに無感動な声だった。普段の彼女を良く知る者達の方が余程そのことに緊張し、口を噤んで背筋を伸ばす。アシュリーの瞳はヴェナだけを捉えていた。ヴェナは静かに頭を上げ、彼女からの視線を受け止める。そこに怒りは無かった。ただ、ほんの少し寂しそうに目を細めていた。
「私に謝罪をして頂くことはありません。この子が自分で、選んだことです」
最後まで、アシュリーの声がいつもの柔らかさを宿すことは無く、それでも結局、彼女からヴェナやカミラ、
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