第132話_零番街に残した約束

 モカ達が不在の間は昼夜問わず水を操作し、病室の床を濡らしていたレベッカは、彼女らが帰ったという連絡が来てからは止めていた。「モカが置いた花と花瓶だから」と言ってそれを取り上げられないようにしている為、理由に使った本人に気付かれて持って行かれてしまうと困るせいだ。

 しかし完全に止めたのかと言えばそうではなく、誰も面会に来ることが無い消灯時間後に行っていた。睡眠時間を削ってしまうと傷の治りに悪いだろうから、気付かれれば医療班に小言を貰う可能性はあったが、昼寝をたっぷりしているのだから構わないだろうとレベッカは勝手な判断をしていた。

 そうして昨夜も眠ることなく空が白むような時間まで起きて水を操作していたので、レベッカは今のような、日が真上に来ている時間が最も眠い。病室の天井を見つめながら、小さく欠伸を一つ。誰か来るかもしれないが、診察の予定があるわけではないので二度寝でもしようと目を閉じたその時。ノックの音も無く、突然、扉が開かれた。スライド式の静かな扉にもかかわらず開いたことが分かるほどの勢いであった為、眠気でぼんやりしていたレベッカも流石に驚いて目を瞬く。

「うわーびっくりした。あ、モカ」

 訪問者を確認して、改めてレベッカは驚いた。モカがノックもせずに入ってくることなど今までに一度も無かった上、彼女に限ってそのような振る舞いは、怒り心頭の時であっても有り得ないことのように思えたからだ。いや、今までになく怒っているとすれば、分からない。何だか表情もいつもと様子が違うように見えて、少しレベッカは緊張する。

「あー、えっと、久しぶりだね。まだ怒ってるのかな、この間はさ、ちょっと嫌なこと言っ……どしたの?」

 災害支援からの帰還後も、二人はメッセージのやり取りだけで、まだ顔を合わせていなかった。中々会いに来ないことに、やはり最後に会った日に泣かせたことが原因だろうとレベッカは思っていた。実際、この二日間はそうだったのだろう。しかし、様子が違うモカは、よく見れば怒っているよりも何処か思い詰めた顔をしている。謝罪しようとしていた言葉を途中で止めて、レベッカは首を傾けた。

 難しい顔で視線を落とすモカは、病室に入り込んだばかりの入り口付近からまだ一歩も動いていない。妙な沈黙を落とした後、部屋の時計がかちりと動いた音に反応して、静かに息を吐き、幾らか弱い声を零した。

「今日、また遠征に行くことに、なったから」

 レベッカには、そう話すモカの緊張の正体が分からない。近付く様子の無い彼女へ、殊更いつも通りの声色でレベッカは応える。

「そうなんだ、なんか、立て続けだね。あ、そうだ、あんまり遠征が続くとフラヴィって風邪を引き易いからさ、モカ、代わりに気を付けて――」

「フラヴィと、ウーシン君は行かないわ」

「え?」

 意味が分からないと眉を顰めたレベッカに、モカは特別編成となった五名の子らの名前を伝える。瞬間、レベッカの眉間の皺がはっきりと濃くなり、モカの抱く緊張の端を捕らえた。

「……なんか物々しいメンバーじゃない? そんなに大変なの?」

 その問いは的を射ている。モカは少し言い淀む。その様子を見て、レベッカの胸には嫌な予感が湧き上がっていた。深呼吸をしたモカがようやく動き、レベッカのベッド脇に静かに腰を掛ける。

「敵国の深くに、侵入する作戦よ」

 その言葉に目を見開いたレベッカは、咄嗟に何も言うことが出来ない。敵国に入り込むような作戦はこの五年間で一度も無い。国境付近で戦うことはあっても、越境するような箇所で戦うのは軍であり、奇跡の子らはあくまでも『防衛の支援』としてしか働いていなかった。デイヴィッドがそれにこだわっていることは、奇跡の子ら全員がちゃんと理解している。だからこそ、この命令が下ることは彼女らにとって衝撃以外の何でもなかった。

 そんな衝撃を受け止めているレベッカの心情を、同じだけ長くこの機関に属するモカは誰よりも理解した上で、淡々と今回の作戦概要を語った。

「……本当、とてもじゃないけれど、言えないわね」

 説明を終えて、まだレベッカから言葉が返らない中で、眉を下げてモカはそう言った。『死なない』『必ず帰る』と、どうしても言えない。特に、モカは戦うことが出来ない子だ。自らの力で抗う術が無いから、今回ほど危険な任務では、そんな言葉を告げられない。

 モカは普段、前線に出ること無く、チームメイトや自国軍に守られた安全圏でしか戦場に入らない。奇襲を受けるとしても、そんな防衛を突破してきた少数だ。一時的に凌げれば必ず自国軍が助けに来てくれる。だが、今回はそうではない。敵国内に安全な場所など一切無く、今まで此方が受けていた奇襲の『少数』と、同じ立場で敵国に入り込むことになる。

「だけどせめて、そうね。皆が無事であるように、自分の役割を果たしてくるわ」

 どうして自分が今回選ばれたのか、モカは当然、よく分かっている。モカの『透視』は確実な索敵を可能とし、圧倒的に有利な状況を作り出す。共に敵軍へと侵入する子らを守る為、今まで以上に、モカの能力が必要となる作戦だ。

「――モカ」

 俯いたままのモカをレベッカが呼ぶ。モカは少しの躊躇いの後で顔を上げた。視線が優しいレベッカの瞳とぶつかったら、レベッカが緩やかに目尻を下げた。

WILLウィルに入ったばっかりの時はさ、遠征が決まる度に、もう最後かもしれないって、ギリギリまで一緒に居たよね」

「……そうだったわね」

 その気持ちが無くなったわけではない。彼女らが遠征の度にお互いの顔を見に行くのはその延長だ。戦場に出ることを五年繰り返して慣れてきても、誰かを失う度、今度は自分かもしれない、相手かもしれないとどうしても不安が大きくなる。今でこそチームメイトとして共に遠征に出て、共に帰っているけれど、違うチームであった頃は、傍でお互いを守ることは一度も叶わなかった。当時の不安を、二人は思い出していた。

「大好きだよ。帰り、待ってるからね」

 いつもは力強いレベッカの手が、弱く、モカの手を握る。それを握り返したモカの手も、震えていて、ずっと弱かった。

「私も大好きよ。……精一杯、頑張ってくるわね」

 必ず帰るとは、言えないけれど。モカは感触を確かめるようにレベッカの手を何度も握り直して、その指先に触れるだけの口付けを落とした。


 同じ頃、イルムガルドは一度、自宅へと帰っていた。彼女の準備こそ自宅でなければならない。

「おかえりなさい」

 穏やかな声と笑みで出迎えたアシュリーは、緊急の『呼び出し』は出動に関わるものでないと思っていた。緊急出動の際には必ず、呼び出し時点でその旨が記載されているからだ。今回それは無く、司令室に来るようにとだけ記載された呼び出しであったから、不安は無かったのに。

「……イル?」

 玄関で靴を脱いだイルムガルドが、ぎこちない笑みを浮かべてアシュリーを引き寄せ、その場所で抱き締める。肩の方へと隠れてしまったイルムガルドの表情が分からなくて、じんと温まる自分の身体を感じながら、アシュリーは黙って彼女の言葉を待つ。イルムガルドも、告げる瞬間のアシュリーの表情を、直視できなかったのかもしれない。

「三時間後、遠征。……敵国に攻め込む、そのメンバーになった」

 腕の中でアシュリーは息を呑む。母、サラから聞いた話を思い返していた。あれ以来アシュリーも極力、新聞に目を通すようにしていて、民心が進軍を期待している空気は知っていた。それでも機関からはそのような話が一切上がらなかった為、もしもその日が来るとしても『もっと先』のことだと考えていたのに。

 互いが何か言葉を発する前に、アシュリーの通信端末が音を響かせる。メッセージとは違った長い通知音が、二人に身体を離すことを求めていた。

「多分、わたしのご飯のことだね」

「……そうね」

 身体を離して通信に出れば、予想通りの内容が、WILLウィルの職員から依頼された。遠征期間は未定である為、今まで通りの食糧を持たせた上で、もし追加で依頼があれば送れるように定期的に準備しておいてほしい、とのことだった。

「いつも慌ただしくてごめんね」

「あなたが謝ることじゃないわ。何故か謝礼まで貰ってしまっているしね……全然、構わないのに」

 毎回アシュリーに対して色々と手間を掛けている件について、WILLウィルからは正式に謝礼が出ていた。ほぼ給与にも近い扱いだろう。遠征がある度、またはイルムガルドの食事に関する実験に協力する度に、イルムガルドの給与に上乗せされている。少々アシュリーには申し訳ない気持ちが芽生えるが、他の奇跡の子の家族と比べ、アシュリーの負担が大きいのは明らかだ。本人以外は誰もその措置に疑問を抱いていない。

「アシュリー、必ず帰るよ。大丈夫」

 いつの間にか小さく震えていたアシュリーの手を、イルムガルドが優しく握る。そして奇跡の子である限り断言の難しい言葉を、彼女は口にした。アシュリーはすぐに言葉にならなくて、ゆっくりと深呼吸をしてから何度も頷く。

「……心配は掛けると思う。でも、約束するよ」

 そう言ったイルムガルドは不意に自身の口元に人差し指を当てた。珍しい動作に、アシュリーは首を傾ける。イルムガルドの目尻が少しだけ下がり、彼女は一つ、内緒の話をアシュリーに囁いた。


 解散を告げられた後、真っ直ぐタワーの居住域へと向かったのはカミラとヴェナの二人。ヴェナからすれば二人で一緒に歩きたくなどなかったかもしれないが、居住域は同じフロアであり、かつ二人の部屋は近い。準備の為に自室に戻るという共通の目的を持ってしまったのだから、必然的にそうなってしまう。しかし終始、二人は無言だった。

 ただ、彼女らが部屋に至る少し手前で、部屋から出てエレベーターホールへと急ぎ足で向かっているテレシアと遭遇した。

「今から、説明か?」

「はい」

 彼女はカミラの提案によって急遽、参加することになった為、これから説明を受けるべく呼び出されているのだろう。足を止めてテレシアに向き直ったカミラを見たヴェナは、テレシアの肩に優しく触れて微笑みを向けてから、先に自室へ向かって立ち去っていく。その背を見送って、改めてカミラは小柄なテレシアを見下ろした。

「巻き込んですまない」

 二人の気配だけがある廊下で、カミラはそう言った。優しい声だった。

「お前のことは、あたしが必ず守る。だから、……あたし達を助けてほしいんだ」

 長い腕を伸ばし、テレシアの小さな身体をカミラは柔らかく抱き締める。真摯なその声を身体に馴染ませてから、テレシアも、カミラの身体へと両腕を回した。

「カミラさんが望んでくれるなら、私は従うだけです」

 返事には既に、テレシアの強い決意が含まれているようだ。いつも何かに怯え、びくびくしている彼女の声であるとは思えない。しかしカミラには驚く様子が無く、ただ一言「ありがとう」と返して改めてその背を撫でた。

「ああ、そうだ、テレシア」

 呼び出されている彼女を長く留めぬようにと身体を離したのに、何かを思い出した様子でカミラはテレシアを引き止める。

「はい」

「また、長引く可能性がある。会いたい誰かが居るなら、今の内に挨拶しておいた方がいい」

 テレシアはその言葉に頷き、立ち去るカミラの背を見つめる。一瞬、テレシアの脳裏にはフラヴィとフィリップの顔が浮かんだ。引っ込み思案な彼女にとってタワーで唯一、共に食事をするなど、仕事以外で関わってくれる子達だ。フィリップは単にフラヴィに引っ張られているだけではあるけれど。

 だが軽く頭を振ったテレシアは、結局、職員から説明を受けた後、出発の時間に至るまで。誰に会いに行くこともしなかった。

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