第129話_病室で空へ向けた言葉

 タワーに帰還して以来、モカは毎日、レベッカの病室へと通っていた。そしてベッド脇に置いた花瓶を、丁寧に世話していた。病室に花が無いことをレベッカが気にするような性格でないことは誰よりも知っているのだろうに、花瓶と共に持ち込んだ花を自らの手で世話し続けている。誰の目からも、『毎日通う』口実の一つであることは明らかだった。

 そんなものを用意しなくとも、モカがこうして彼女の病室に通うことを、一体誰が疑問に思い、咎めるというのだろうか。何処か可笑しく感じながら、レベッカも、他の誰もそれを指摘せずに見守っている。

 一方、フラヴィはモカに気を遣っているのか他の理由なのか、数日に一度のペースで短く顔を出すだけだ。ウーシンは帰還直後に病室に入って以来は、一度も来ていない。ただ、医療班を経由して見舞いの品は何度か届いていた。これも性分なのだろう。そしてイルムガルドは影も形も無く。その代わりのように一度だけアシュリーが見舞いに来ていた。流石にアシュリーが一人きりでタワー内の病室に訪れはしないだろうから、あの時、近くにイルムガルドは居たのだろう。けれど「イルは?」と聞くレベッカに、アシュリーはただ申し訳なさそうに笑って肩を竦めるだけだった。

「ねえ、モカ」

「なに?」

 このまま一か月は病室で絶対安静となっているレベッカは、鎮痛剤のせいかやや眠そうな顔をしながら、傍に居るモカへと声を掛ける。

「退屈だから鉄アレイ持ってきて~」

「……持ってくると思ったの? 医療班に言い付けてベッドに拘束させるわよ」

「え、ひど」

 このまま寝たきりでは身体が鈍ると愚図っている彼女の様子に、モカは深く溜息を吐いた。寝返りどころか身じろぎ一つで痛む身体なのに、トレーニングをしたがる神経が、モカには全く分からない。

 やれやれと溜息を吐きながらモカがベッド脇に移動すると、口を尖らせていたレベッカが穏やかな笑みを向ける。病室のベッドに横たわる彼女を見下ろすモカは、無事であることを何度確認しても、心の内に不安を残していた。当人はこうして何の憂いも見せずに笑ってくれているというのに、もやのように掛かる言い知れぬ不安が、いつまでも消えていかない。

 無防備なレベッカの頬に手を滑らせれば、レベッカは小さく首を傾け、モカを見つめて穏やかに目尻を下げる。そのままモカは少し身体を屈め、頬へと触れるだけのキスを落とした。レベッカは意外そうに目を丸めると、数回瞬いた後で、ふにゃりと頬を緩める。

「え~、何でこっちじゃないの?」

 そう言ってレベッカの指先が、唇を指した。不安を抱く自分とは違って妙に呑気なレベッカの反応に、モカは脱力する。

「思ったより元気そうね」

 呆れたようにそう零し、屈めていた身体を起こして離れようとしたら、レベッカが左腕を伸ばしてモカの腕を捕まえた。モカはざわりと身体が冷たくなる。もしもバランスを崩して倒れ込もうものなら傷に響くどころの話ではないし、かといって逃れようと抵抗しても、その刺激は今のレベッカの身体には負担になる。半端な状態で、モカは留まった。

「ちょっと、レベッカ、動いたら」

「ねー、お願い」

「ばか、此処は病室なのよ」

 正直モカはそれどころでも無かった。今すぐ腕を離し、とにかく安静に、安全にしてほしいのだ。しかし不満そうに口を尖らせたレベッカは、こともあろうか自ら身体を起こそうと動き始めた。モカが息を呑む。同時に、結局それは叶わずにレベッカが眉を顰めた。

「痛っ、た」

「レベッカ!!」

 やや身体を捻っているレベッカを少しでも支えようと焦って身を寄せると、一瞬前まで表情を歪めていたレベッカの口元が緩む。そして左腕をするりとモカの後頭部へと回した彼女は望んだ形でモカの唇を奪った。

 唇が離れ、鼻先が触れるような距離で、察したモカが眉を寄せる。

「あなたね、私がどれだけ心配してると思って……」

「アハハ、ごめんごめん」

 何処までが演技であったのかは分からない。痛んだのは事実だったかもしれない。だが、改めてベッドに寝そべったレベッカは特に表情を歪めてはいなかった。むしろ機嫌が良いようにすら見える。口では謝罪しているが、反省している様子も無い。

「もう動かないでよ」

「はぁい」

 再び捕まえられることの無いように警戒しつつ、モカがゆっくりと身体を起こす。ベッドから離れた後、安堵とも呆れとも取れるような溜息を零すモカを見つめ、レベッカが少し眉を下げた。

「ホントにごめんって。この部屋、寂しくてさー」

 そんな風に言われてしまうと、モカは怒るに怒れない。それすらも分かっているのだとしたらずるい人だと思うけれど、いつも誰かと一緒に居るレベッカを思えば、自らの足では誰にも会いに行けないこの状態を『寂しい』と言うのはおかしなこととは思わなかった。モカは何も言わずにもう一度、彼女の頬を撫でる。

「強くならなきゃなぁ」

 不意に、ぽつりと、吐露のようにレベッカが呟く。その目はもうモカを見つめておらず、天井を通して何処か遠くを見つめるような目をしていた。

「置いて行かないって言ったのに、結局イルを、一人で戦わせちゃった」

「……あれは、私の判断よ」

 最終的に、イルムガルドを一人で戦わせることを決断したのはモカだ。モカが許可したから、ウーシンもそれを了承して撤退した。もしもモカが許さないと言えば、ウーシンや職員らも違う対応をした可能性はある。イルムガルドを一人残す以外に、レベッカを助ける方法が他にあったかどうかは、ともかくとして。

「モカを責めてるんじゃないよ。イルも自分で言ったんでしょ? 何よりアタシが倒れなかったら、そんなことにならなかった。アタシを守るには、それしか無かったんだ」

 最後に過ぎった思考を読み取ったようにそう告げてくるレベッカに、モカは咄嗟に言葉を返せない。そして、レベッカが吐き出した息が少し震えたのを聞き取れば、掛ける言葉を完全に見失った。

「アタシも皆を守りたいよ、……本当に、悔しい」

 帰還してから、これが最初に垣間見せたレベッカの本音だった。歪む表情を隠すように左手で顔を覆う。ぐっと奥歯を噛みしめているのを見れば、身体に響くのではないかと心配になる。宥めるように、モカはレベッカの左腕をそっと撫でた。

「フラヴィを守ったのは、間違いなくあなたなのよ」

 こんな言葉で慰めても、レベッカが納得しないのは分かっている。レベッカは『皆』を守りたいのだ。一人を守って、もう一人を置き去りにしたことを、良しと考える人ではない。だけどレベッカがフラヴィを守り、イルムガルドがレベッカを守ったから、結果的には全員が生きて帰ってきた。

 モカが心配している気配を感じたのか、左手を顔から外したレベッカは、少し不器用な形ではあったが笑みを見せた。その頬を、何度も何度も、確かめるようにモカが撫でる。目を細め、黙って受け入れていたレベッカは、しばらくすると楽しそうに笑った。

「そんなに何回も確かめなくても、生きてるよ?」

「……冗談にならないわ」

 今回は本当に全く洒落にならない。失ってしまうかもしれないと心から恐怖して、一度は戦場で折れてしまったモカには言わないでほしい言葉だった。勿論、フラヴィにも。

 なのにレベッカは、残酷な言葉をそれだけで、終わらせてくれなかった。

「だけど『死なないよ』とは言えないね、アタシらは」

 思わずモカは立ち上がり、何も言わずに背を向ける。

「分かっているわ、そんなこと」

 硬い声でそう返すモカの背を見つめるレベッカの顔にも、笑みは無い。彼女もきっと、冗句を言ったわけではないのだろう。微かに震えるモカの肩を、ただ見つめていた。

「だから、……聞きたくないわ」

 彼女の声は、はっきりと震え、泣いていた。そしてモカはそれ以上何も言わずに、振り返ることも無く病室を出て行った。

「……あーあ、泣かせちゃった」

 一人きりの病室で、レベッカは自嘲的な笑みを浮かべて呟く。

「言えるわけないのにさ。それでも、『死なない』、『ずっと一緒に居る』って、つい、言いたくなるよ。……ねぇ。

 戦場で失った『彼』の姿を思い出す。もう部屋には彼女を見つめる目は何も無いのに、それでも歪む表情を隠すようにして、レベッカは再び左手で顔を覆った。

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