第128話_訓練室に落ちた星屑

 イルムガルドらが無事に帰還したとWILLウィルからの一報を受けたアシュリーは、料理の準備をしていた。こういう時、必ずシチューはメニューに入るのだけど、流石にそろそろ飽きるだろうか。しかし定番としてしまった以上、突然に無くしてがっかりさせたくもない。結局、今日もシチューを用意していた。別のメニューに変えるかどうかは、また聞いてみればいいだろう。

 それから一時間程が過ぎると、精密検査の結果も連絡があった。大きな問題は見られないらしい。少しだけ体重は落ちているようだが、以前のような減り方ではない為、二、三日で戻ると思われる。ホッと息を吐きながら、アシュリーは違和感を抱いていた。イルムガルド本人からの連絡がまだ来ていない。普段はタワーへと戻ったらすぐに、通話もしくはメッセージで一報をくれているのに。

 懸念は現実のものとなり、検査結果の連絡後、三十分以上が経過しても本人からの連絡は無く、帰宅する気配も無いまま、次に通信端末を鳴らしたのはWILLウィルの職員だった。アシュリーが恐る恐るそれに応じると、申し訳なさそうに「至急、タワーへ来てほしい」と告げられた。

『イルムガルドが訓練室に入ってしまって、出てこないのです。可能でしたら、直接、声を掛けて頂けないでしょうか』

 本来ならば訓練室の使用は奇跡の子である限り自由だし、現在のイルムガルドには数値上の問題も無い。それでも、今回は戦場から帰還した直後だ。職員らもしばらくは黙って見守っていたものの、三十分を過ぎた辺りから心配になって声を掛けてみた。するとイルムガルドが全く応じなかった為、焦りを感じたとのことだった。彼女はこのまま倒れるまで続けてしまうかもしれないと懸念した。

 しかし総司令官デイヴィッドも今は他のチームの遠征準備中で、対応する余裕が無い。最終手段として、アシュリーへと連絡してきたようだ。アシュリーはすぐに了承してタワーに向かった。

 到着した彼女は訓練室へ案内される間に、今回の遠征でレベッカが負傷し、しばらく療養することになったという報告も受けた。職員はその件が今回のイルムガルドの無茶に繋がっているのかもしれないと思い、共有したのだろう。

「――イルムガルド、頼むから、もうそれくらいで終わりにしてくれないか」

 訓練室の奥では、職員が窓を覗き込みながら懸命にイルムガルドへと声を掛けている。数名が窓を覗いているようだが、その窓から人影は見えない。そう思っていたところ、数秒後に一瞬だけ姿を見せ、そしてまた消えていた。どうやら今回は走り回っているだけではなく、訓練用の剣を振るっているようだ。移動時は肉眼で姿を追えないが、着地して剣を振る時は姿が見える。そしてまた消えて、別の場所で剣を振る。それを彼女は繰り返していた。どれだけ職員が呼び掛けようと、止まる様子は無い。

 アシュリーを案内した職員が、マイクを持っていた彼の肩を叩き、彼女が到着したことを手振りで知らせる。アシュリーは迷惑を掛けて申し訳ない気持ちで頭を下げた。

「イル?」

 マイクの前を譲られてすぐに、アシュリーは彼女の名前を呼んだ。その瞬間、大きな着地音を響かせてイルムガルドが姿を現す。そして、動かなくなった。右手の剣は振り下ろすつもりで掲げていたのだろうけれど、それも、上を向いたままで静止している。

「帰りが遅くて迎えに来ちゃったわ。今日のイルは、随分と熱心なのね」

 の優しい声で、アシュリーは話し掛けた。イルムガルドはまだ反応を示さない。だが、動き出すことも無い。じっとしたままで、彼女はアシュリーの声を聞いていた。

「もう帰りましょう、頑張り過ぎたら、また倒れてしまうから。ごはんも冷めちゃうわよ。おなか減ったでしょう?」

 掲げている剣の先が、微かに震えていた。よく見れば少しだけ肩が上下している。彼女の身体は明らかに、疲労を感じ始めているのだ。職員らは固唾を飲んで見守っていた。

「イル」

 もう一度アシュリーが名前を呼ぶ。数秒後、ようやくイルムガルドが動いた。彼女は項垂れるように俯くと、ゆっくりと剣を下ろし、そのまま足元へとそれを落とした。疲れから取り零したのか、自らの意志で落としたのかも分からないくらい、あまりに力無い動作だった。

「イルムガルド、扉を開けるよ? 奥様に中へ入ってもら――」

「いい」

 別のマイクを用いて声を掛ける職員の言葉に、イルムガルドが初めて応じた。それは職員の言葉を遮って、強く、訓練室内に響く。だがその後に続けられた声は、聞き取りにくい程に小さかった。

「……自分で、出る」

 イルムガルドは一度落とした剣を自ら拾い上げ、鞘へと丁寧に納める。そして言葉通りに、扉に向かって歩いた。職員はそれに応じ、鍵を解除して扉を開く。そこから立ち止まる様子も無くあっさりと扉を潜ったイルムガルドに、職員らは一斉に安堵の息を吐く。アシュリーは柔らかな微笑みを浮かべながら、イルムガルドの前に立った。

「いっぱい汗をかいちゃったわね」

 額やこめかみからポタポタと汗を落とすイルムガルドを見兼ねてハンカチを差し出せば、イルムガルドは少し躊躇い、避けるように身体を逸らした。

「汚れるよ」

「それでいいの、洗えばいいんだから。そうでしょ?」

 イルムガルドの言葉にアシュリーは笑い、そして改めて、ハンカチで彼女の汗を拭いてやった。

「ねえ、イル。手も服も、ハンカチも。汚れたら洗えばいいのよ」

 当たり前のことだ。アシュリーはそう思っているし、イルムガルドも分かっているだろう。しかしそれでも今のイルムガルドにとっては、幾らかの意味を持つ。少し不器用な笑みを口元に浮かべたイルムガルドは、「うん」と少し掠れた声で応じた。そしてそのまま俯いてしまう。前髪が垂れ、汗が伝い落ちて行く。

「……イル、泣いてるの?」

 彼女の顔は、前髪に隠れてよく見えない。アシュリーよりも背丈の低いイルムガルドの表情を確認するには、少し屈まなければならないが、アシュリーはそのように不躾ぶしつけなことをせず、ただ声を掛けて彼女の動きを待った。イルムガルドの口元には緩い笑みが浮かんだままだけれど、「泣いてないよ」と小さく答えた彼女の声は掠れていて、顔を上げた時に見えた目は、少しだけ赤かった。

「シャワー、浴びてくる」

「ええ、待ってるわね」

 訓練室の端にあるシャワールームへと彼女が姿を消すと、アシュリーは改めて、訓練室の職員らに謝罪をした。しかしそれを受けた職員らはむしろ、謝るのは此方の方だと委縮する。どうやら出勤中の子らは『ご家族から預かっている』という意識であるらしく、彼女の無謀を止めることが出来なかった管理不足について、彼らは悔いているらしい。過保護とも思える対応と考え方に、改めて驚いてアシュリーは閉口した。

 ものの十数分でシャワーを終えて出てきたイルムガルドを連れ、アシュリーは帰宅するべくタワーから出てゼロ番街を歩く。隣を歩いているイルムガルドの足取りはしっかりとしていて、消耗をしている気配は無いけれど、黙り込んでいる様子はやはり、元気が無いように見えた。

「無茶をしたから、明日はしっかり検査してもらわなくちゃ。気分は悪くない?」

「うん」

 問い掛けには、穏やかに答えている。けれど、少し黙って歩きながら様子を見ていても、イルムガルドは自ら口を開こうとはしない。通り掛かった公園から子供達の元気な声が聞こえてきて、それにイルムガルドが僅かに眉を寄せた。アシュリーは知らないふりで、イルムガルドの手を取り、緩く握る。

「大体、はイルがするって言うから大人しく待っていたのに、残業なんて酷いんじゃないかしら?」

 その言葉に、何処かイルムガルドは無防備な表情で目を瞬いた。そしてそれが遠征前に「わたしが触るから」等と言って戯れた件であると気付き、薄っすらと笑う。

「ごめん」

 微かながらも和らいだ表情を見て、アシュリーは安堵に口元を緩めた。繋いでいた手の指先を絡め、並んで歩く距離をぐっと縮める。

「だから帰ったらご飯を沢山食べて、ちょっとお昼寝して。夜は元気になっていてね」

 道行く人達には聞こえないようにそう囁くと、イルムガルドは眉を下げながらも楽しそうに笑って、「そうする」と言った。

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