第119話_司令室、空振りの言葉
司令室のソファに浅く腰掛け、モカはのんびりとコーヒーを味わう。司令室の奥、大きな机の傍に、職員らと話し込んでは何か指示を出し、そしてまた新しい職員に声を掛けられて話し込むということを繰り返している司令の背中が見える。彼女がこの部屋を訪れ、既に三十分が経過しようとしていた。
「……すまない、随分と、待たせてしまった」
「いいえ。私こそ、お忙しい時に申し訳ありません」
結局、四十分近くモカを放置した後で、司令は彼女の正面のソファへと腰を掛ける。
此処のところモカやその周りの奇跡の子らはタワーで穏やかに過ごしているけれど、そうなるまでに多忙を極めていたチーム、またはイルムガルドとアランのように一時的に休養を必要とする子を含んでいるチームが待機となっているだけだ。
「何かありましたか? いつもより、少しピリピリとしているように見えますが」
「……そうか? いや、心配を掛けてすまないな、問題ないよ」
「そうですか」
それが事実であるかどうかを、モカに探る気は無かった。以前に司令へも告げている通り、近しい者に害が及ばない限りモカは
「それで、話と言うのは何だ?」
「ええ、イルムガルドとテレシアの件です」
テレシアが先日イルムガルドへと訓練所の件を謝罪したことで、彼女らは和解をしている。元よりイルムガルドはテレシアに「怒っていない」と言っていたこと、そしてテレシアもイルムガルドに対する好意を持ち続けていたことを考えれば、以前の状態を『不和』と呼ぶべきかどうかは分からないが、二人の間にあったわだかまりの一部は解消していると見てもいいだろう。けれどその旨を簡潔に報告するモカの表情は、あまり穏やかでも、嬉しそうでもない。
「今のところ、イルムガルドの様子が変わったようには見受けられません。訓練所では、もう少し口数が多かった、とのことでしたよね」
テレシアと和解したのは既に数日前だ。和解直後、約束通りにモカの部屋でフラヴィ達と共にお茶会をしたが、口数や反応の乏しさに変化は無かった。デイヴィッドはその期間ではまだイルムガルドと直接会っていないものの、毎日会っているはずの治療室の職員らから、そのような変化の報告は上がっていなかった。
「数値の方はどうなのでしょう。勿論、大きな変化があればすぐに連絡はあるでしょうけれど」
「そうだな、一度、俺の方からも変化に注視するよう通達しておく」
現時点で、テレシアとの和解という『変化』を医療班は把握していない。数値上、少しの変化であれば見落とされて報告されていない可能性もある為、能動的な確認がある方が良い。そう告げるデイヴィッドに、モカは一つ頷く。彼女の表情は、ずっと硬いままだ。
「私は、……改善されないのではないかと、懸念しています」
晴れない表情はそのせいだ。幾らか期待をしていたのが正直なところだったのだろう。それでもイルムガルドの中で何か喜ばしい変化があったようには見えず、モカは落胆していた。彼女の言葉に、デイヴィッドは「ふむ」と小さく相槌してから腕を組み、眉間に深い皺を刻む。
「もう少し様子は見るとしても……改善が見られないとなると、やはり故郷の件もケアを考える必要があるか」
彼のその言葉に、モカは顔を上げてじっと司令を見つめる。視線に気付いて司令は首を傾けたが、モカはそのまま、視線を手元へと落とした。
「……お言葉ですが」
モカの声は弱かった。何か意見をするような前置きであるにも拘らず、デイヴィッドへ強く背くような色は少しも無い。
「改善が見られないからと言って、テレシアの件が『原因でなかった』という結論には、ならないと思います」
何処か思い詰めたような表情で告げるモカに、一瞬デイヴィッドは何か言いた気に口を開く。けれど更にモカが言葉を続ける気配を感じたのか、そのままそれを閉ざした。
「ひと度、心が傷付けば、原因を取り除いたとしても傷は塞がりません。突き刺さったままのナイフを抜いただけで癒えることは無く、傷付かなかったことにもならないんです」
最後は少し震えていた。やや感情的になったのは、イルムガルドに対して以前よりも強く心を寄せているからか、それとも、この言葉がモカ自身にも当てはまると思うからなのか。デイヴィッドは何度か頷き、静かに「そうだな」と相槌を打つ。声に多くの優しさが含まれていることは確かに感じられたけれど、本当の意味では伝わっていないように、モカは感じていた。
しかしこれ以上、二人が議論を交わすことは無かった。見解の相違を明らかにすること自体がモカには急務と思えなかったこと、そして忙しい状態である彼の時間を取ることが心苦しかったせいだ。しかし、違和感を飲み込んだことを、この先、モカは酷く後悔することになる。
司令室を後にし、自室に向かってモカは一人、廊下を歩く。考え事をしていた為、自室の前にレベッカが立っていることに気付くのが少し遅れた。ふと顔を上げて、目を瞬く。だがレベッカも、熱心に通信端末を弄っていて、モカの方に気付く様子が無かった。もしかしたら今しがた呼び鈴を押し、応答がないからモカへと連絡をしようとしているのだろうか。
「レベッカ?」
「ぉわっ。……あー、おかえり、丁度良かった。今メッセージしようとしてた。何処行ってたの?」
予想通りだった。驚いたはずみで端末を落としそうになり、少し恥ずかしそうに笑う顔が愛らしい。
「司令と話をしていたの。まだまだフラヴィの育成は進めなきゃいけないから」
「そっか」
全て嘘というわけでもない。実際、司令室を出る直前の短い時間ではあったが、その話もしていた。主題がイルムガルドであったことを、伝えていないだけだ。当然レベッカは、疑う様子を見せずに頷く。
「それでレベッカはどうしたのかしら。コーヒー飲む?」
「はは、それも良いんだけど、今から
「特に無いけれど、私も一緒に行こうかしら」
ちなみにフラヴィは今日、出掛けているらしい。テレシアとでも遊んでいるのだろうか。レベッカ達と一緒に過ごす時間は多いが、存外フラヴィは同世代の子達とも付き合いが良く、こうして別行動を取っていることもままある。勿論フラヴィには他意があるが、モカが知ることはこれからも無いのかもしれない。
結局スーパーマーケットには二人で一緒に向かうことになり、揃って
馴染みの店内に入り込んですぐ、入口から二列ほど商品棚を通り過ぎた所で、ふとレベッカが足を止める。真後ろを歩いていたモカはぶつかりそうになって、軽くその背に触れた。
「アシュリーだ」
レベッカの視線を追うよりも早く、彼女がそう言った。覗き込めば、モカからはまだ死角であった棚の向こう側にアシュリーが立っており、声に応じて彼女も振り返る。
「こんにちは、アシュリーさん」
「一人なの?」
「ええ、一人。ふふ、あなた達はいつも一緒で可愛いわね」
他の客の邪魔にならぬように端に寄りながら声を掛ければ、挨拶直後にそんなことを言われ、レベッカが頬を染めた。
「え、い、いやまあ、何て言うか、こっち来てずっと一緒だからさ、それが当たり前って言うか」
隣でモカも一瞬だけ照れ臭さそうに俯く。表情を押し隠すことには慣れているようで、すぐにいつもの穏やかな笑みを湛えて顔を上げていたけれど。何にせよ、恋人になる前であればレベッカはきっとこんな質問に照れることなど無かったのだろうに、そんな変化を、くすぐったく感じてしまったのかもしれない。二人の反応に、アシュリーは増々楽しそうに笑った。
「――失礼します、アビグラット様」
「あ、はい」
突然、三人に歩み寄った店員が声を掛けてきて、躊躇なく返事をしたアシュリーが、一度二人を振り返る。
「ごめんなさい、ちょっと待ってね」
「うん?」
そのまま店員と共に傍を離れたアシュリーは、ものの一分程度で戻ってきた。籠の中に幾つか商品が増えている。何か用意してもらっていたものを、受け取って来たようだ。
「今思うと、二人を待たせる必要は全く無かったわね……」
足早に戻ったアシュリーは、苦笑しながらそう言って肩を竦める。レベッカ達とは偶然会っただけで、何か大事な話をしていたわけでもなければ、連れだって買い物をしていたわけでもない。離れる際に別れを告げてしまえば良かったものを、深く考えずに二人を留めてしまった。そう言う彼女に、レベッカとモカの二人が笑う。
「構いませんよ、私達も急いでいませんから」
「折角会ったんだから、もうちょっとくらい雑談したいしー」
優しい二人の返しに、アシュリーは礼を述べながらもまだ少し申し訳なさそうに首を傾けていた。
「ところで今の、あー、アビグラット? って、ラストネーム?」
「ああ、ええ、そうよ。まだ少し慣れないけれど」
「グラヴィタじゃなかったんだね」
「……それは出来ればもう忘れてほしいのだけど」
そう言うとアシュリーは見る見る内に頬を染めてしまう。色の白い彼女が染まる様は中々見事だった。二人は思わずそんな様子を黙って見つめてしまってから、ふと気付いてモカが「ああ」と声を漏らす。
「旧字のアナグラムなんですね」
瞬間、アシュリーは珍しいくらい大きく目を見開いて顔を上げ、モカをまじまじと見つめた。そして、一拍置いてから、諦めたように項垂れる。
「モカは賢いわねぇ」
指摘通り、アビグラットは、彼らの祖先が昔使っていた旧い綴りでの『グラヴィタ』を並び替えた音なのだ。イルムガルドにグラヴィタを諦めさせる名案が出せなかったアシュリーは、結局それを受け入れた。しかし、そのままの音は彼女にとって耐え難い程に恥ずかしい。そうして何とか捻り出したのが、並び替えるという提案だ。イルムガルドにとっては新しい試みであったこともあり、幸いすんなりと聞き入れられ、楽しそうに並び替えていた姿はアシュリーの記憶にまだ新しい。
さておき、元の文字から並び替えて読める音にするというのは大したことではないが、アナグラムであると知らずに頭の中だけで即座に単語を元に戻してしまう、しかも旧字の形で、という芸当を成し遂げたモカには、アシュリーも舌を巻いてしまった。元の音と繋がりがある可能性を加味していたとしても、誰にでも出来ることではない。モカ以外にそのような指摘をした者が無かった為、今のところアシュリーはこのラストネームを恥ずかしがらずに名乗ることが出来ていた。……今後もモカ達さえ、この指摘を控えてくれれば、の話だけれど。
「だからもう、お願いだから、元の単語は忘れてね」
「ふふ、分かりました」
「アシュリーでもそんなに恥ずかしがったりするんだね~」
意趣返しのようにレベッカが楽しそうに笑うけれど、性根の優しい彼女だ。それ以上を揶揄うことはなく、「もう言わないよ」と約束していた。
「でもやっぱり嬉しいものなのね、ラストネームを共有するって」
下町生まれの彼女はかつて夢にすら見なかったことだけど、いざ持ってみれば、本当に幸せなものだとアシュリーは語った。
「指輪も嬉しかったけれど、それとはまた違う気持ちがあるわ」
IDカードを見る度に、そして何処かの店でラストネームを名乗る度に、未だに慣れない喜びが身体に広がって、口元を緩めてしまわないようにするのが大変だと言うアシュリーを、レベッカとモカが微笑ましそうに見つめる。
「ところで二人は、結婚しないの?」
しかし唐突な問いに、レベッカとモカが同時に表情を固めた。そしてモカはすぐに反応することをせず、レベッカの反応を待った。そのせいだろうか。レベッカは隣のモカを一瞥して、やや不満そうに唇を尖らせる。
「アタシは嬉しいけど、モカはどうだろ」
「そういう言い方をしないで」
まるでレベッカだけが望んでいることのように言われたことが、モカは面白くない。思わず硬くなってしまったモカの声に、アシュリーは目を丸めた。
「あらあら、喧嘩しないのよ」
小さな子供の間に入るかのような言葉に、ついレベッカは口を一文字に引き締め、モカもばつが悪い顔をした。そして所在無さげに視線を彷徨わせた後、落ちてしまった沈黙を破ろうと、慌ててレベッカが口を開く。
「いや、あー、えっと何て言うか、そういうのは、まあ、追々ね」
「ふふ、まだちょっと早かったのね、ごめんなさい」
少し弾んだアシュリーの声が、二人には妙に気恥ずかしい。
アシュリーはその後、柔らかな雑談で空気を変えてくれたけれど、彼女に去られてしまった後、二人はいつもの調子で会話をすることがしばらく出来なかった。
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