第115話_一触即発の休憩所

 休憩室のテーブルに着いているアランは、少し眉を寄せた後、気を取り直すように、やや冷めたコーヒーで喉を潤し、静かに息を吐く。

「何だか、俺の不在中に色々あったんだな」

 長く沈黙していた彼からようやく出てきたのはそんな言葉だった。モカはそれを聞き、ただ首を傾けて、同じようにコーヒーに口を付ける。

「君が誰かを引っ叩く瞬間なんてもう二度と見られないだろうね。立ち会えなかったことを一生悔いてしまいそうだよ」

「それについては忘れてほしいわね」

 今モカが彼に長々と語り聞かせていたのは、イルムガルドとモカの間に起こった衝突と、その裏にあった司令らの思惑。そして、結果的にモカの視力が大きく改善したという話だ。彼は当時、遠征中であった為にこの辺りのことを何も知らなかった。イルムガルドを保護して一時的に帰還した際には伝えようとしていたものの、モカが眠っている間にアランも再び遠征へと出てしまったことで共有する機会が今まで無かったのだ。辛うじて、モカがイルムガルドのチームに一時的に配属されていることや、それはフラヴィが現場指揮として教育を受ける為の一環である話は聞き及んでいたようだけれど。

 アランとはもう交際しているわけでもないし、チームメイトであるわけでもない。モカの目の状態がどうあれ彼には無関係だ。しかし、普段から気に掛けてくれていた彼に対して隠しておこうとは流石にモカも思えない。それで今回、改めて詳細を伝えた。

「しかし、そんなことをいつから狙っていたんだか。あの子は可愛いけれど、やっぱり怖いな」

 アランはそのように言いながらも、口元では笑っている。イルムガルドが何を考えているのか、何を狙っているのか。一切分からないと思うのに、それでもアランからは全くイルムガルドの『悪意』が見えない。だから、彼女に対する強い『警戒』には至らない。甘い解釈なのかもしれないが、怖いと感じていても彼にとってイルムガルドは愛らしい。モカは短い言葉からそんな意味を汲み取って、一緒に笑った。モカにも彼女はそうなのだろう。何にせよ、あの日イルムガルドが全てがモカの目の為だと分かってしまえば、そんな彼女に敵意を抱く気には、どうしてもなれなかった。

 一度そこで二人の会話は途切れ、手元のコーヒーを飲み終えたアランは、もう一杯何かを飲もうかと考えて休憩室の奥にある自販機へ視線をやった。しかしモカの声が彼の動きを引き止める。

「ねえ、アラン君」

「うん?」

「あなたに聞きたいことがあったの」

 アランは首を傾け、椅子に座り直す。モカはじっとアランを見つめ返してから、目尻を下げた。

「レベッカのことが好き?」

 問い掛けに、アランは驚いた様子を見せない。ただ静かに、眉を下げて微笑んだ。

「俺は全ての女性を愛しているよ」

 いつもの彼の軽口なのに、その声はいつもの剽軽ひょうきんなものとは違い、あまりに優しく、静かだった。そしてモカはその軽口には何も応えない。彼女は知っているからだ。問い掛けに対してアランはいつも軽口を返すが、その後に必ず、きちんと答えてくれる人なのだと。アランの視線がモカから外れて、空のカップの中へと落ちていく。

「……だけど俺は少し、君の心に寄り添いすぎたらしいな」

 その答えを受けて、モカも静かに視線を落とす。彼女のコーヒーはまだ底を付いていなくて、天井の光を反射してゆらりと揺れる。モカはゆったりと息を吸い込むと、小さく笑った。

「あげないから」

「そんなつもりあるもんか!」

 アランも、声を上げて笑った。そんなつもりなど、アランにあるわけがない。彼にとってモカが恩人であり、大切である事実が変わったわけではない。そうである限り、彼が望むのは二人が『二人で』幸せになってくれることなのだから。

「――モカ!」

 穏やかに笑い合っていた二人の間に、噂の彼女の声が乱入し、二人は同時に顔を上げた。間違いなくその人、レベッカが廊下の奥から足早に此方へと向かって来ている。明らかに、怒りの感情を纏った状態で。

「あら。思ったより早かったわね」

「……今日は不在なんじゃなかったのかい?」

 アランが苦笑いを零す。こうして二人きりで会うにあたって、レベッカが来てしまうと話が出来ないと言い出したのはモカであり、そのモカが、「今日レベッカは出掛けていて居ないから」と誘ってきたはずだったのだ。それを指摘するようなアランの問いに、モカはただ機嫌良さそうな顔で「これくらいの時間までね」と笑う。アランは軽く項垂れた。

「お前ッ! いちいちアタシが居ない隙を狙って――」

 そのまま殴り掛かるのかと思うほどの勢いで歩み寄ったレベッカに対して、アランは笑いながら両手を上げて降参のポーズを取る。ぎりぎりまで笑って眺めていたモカは、彼女がアランに掴み掛かるすんでのところでようやく口を挟んだ。

「待って、レベッカ」

 モカが求めた言葉通りに、彼女はぴたりと動きを止める。アランの苦笑いが深まった。本気で頭に血が上っている時でない限りはレベッカが彼女のただ一言で止まることも、モカには分かっているのだ。アランから見るモカの表情は何処か満足そうで、彼にはもう笑うことしか出来ない。

「私が誘って話をしていたのよ、アラン君からじゃないわ」

「なっ、そ、そ……そうなの」

 まるで落ち込むようにしゅんと力を抜いたレベッカだったが、手を引っ込めると同時に、アランだけは不満そうにひと睨みしている。傍から見ればアランはただただ巻き込まれた可哀相な男なのだけれど、大切に想う二人に対し、アランがそれに憤るようなことは当然なかった。

 残っていた少しのコーヒーを飲み干して、モカはのんびりと椅子から立ち上がる。

「ちょうどコーヒーも底を突いたところだし、そろそろ行くわね」

「ああ。君の良い暇つぶしになれたのなら光栄だ。いつでも誘ってくれ」

「ええ、ありがとう。また」

 嬉しそうに微笑むと、モカはいつになく強引にレベッカの手を引き、そのまま歩き出す。突然に手を引かれてしまったレベッカは二人を何度か見比べつつも、モカを引き止めようとする様子無くそれに従って共に歩き去っていく。二人の気配が遠のくまでを見守って、改めて、アランが肩を竦めた。

「やれやれ。そりゃないよモカ。これならお役御免の方が断然マシだぜ?」

 小さくそう呟くと、誰からも見えていないと知りながら、アランは両手を上げて再び降参のポーズを取った。

 一方、アランの元を立ち去ったモカとレベッカは、並び合って歩くわけではなく、モカがずっとレベッカを引く形で前を歩いていた。

「モカ、ねえ、モカってば」

「なあに?」

 レベッカの手を取ったままで機嫌良く――背中だけしか見えないもののどうしてかそうであると分かる彼女の名を呼ぶのは、今ので四度目だ。何故そんなにも繰り返したかと言えば、呼んでもモカが「はいはい」とか「うん」とか答えるだけで、一度も振り向こうとしなかったから。いっそ強引にでも足を止め、腕を引き、振り向かせようかと悩みながら呼んだこの四度目で、ようやくモカが歩調を緩めて振り返る。

「アランと、何の話してたの?」

「うーん、そうね、近況報告よ。私の目が良くなったことも、まだ話せていなかったから」

 彼にもずっと心配を掛けていたから言うべきだと思ったのだとモカが告げれば、それに対して異を唱える気にはならないのか、「ふうん」とだけレベッカは零す。だが、それでレベッカの胸の内から不満が消えていくわけではない。小さく唸ると、幾らか迷った後で、レベッカは改めてモカを真っ直ぐに見つめた。

「アタシはモカに、あんまりアランと二人に、ならないでほしいんだけど」

 言葉は強くてはっきりとしているのに、確かな迷いと不安がそこに混じる。思っても、伝えるべきじゃないかもしれない。そんな気持ちがレベッカの中にはあるのだろう。もしもモカが、アランを特別に思っていて、アランと二人になりたい時もあるのだと言われてしまえば、レベッカにはどうすることも出来ない。複雑な胸中を抱えながらも素直に気持ちをぶつけてくれるレベッカに、やはり、何処までもモカは嬉しそうに微笑んだ。

「分かった、気を付けるわね」

 まるで歌うように喜びを含めて、モカはあっさりとそう言った。

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