第114話_研究施設の隅でお裾分け
「――ええ、忙しいのにごめんなさいね、父さん」
通信端末に耳を押し当てながらそう話すヴェナの口元には自然と親しみを込めた笑みが浮かんでいた。しかし不意に視線を感じたヴェナが顔を上げれば、ドアに付けられた正方形のガラス越しに研究員と目が合う。丁度、今の言葉で通話は終わっている。通信端末を下ろしたヴェナが許可するように頷いたのを見て、研究員は会釈をしてから部屋に入ってきた。
「失礼します。すみません、お電話中に」
「良いのよ、終わったところだったから」
おそらくノックをしようとしたところで、窓越しにヴェナが通話中であることに気付いて躊躇っていたのだろう。研究員の後ろにはイルムガルドが控えており、入り口付近に立ち止まって廊下の奥を見ていた。一体何が気になるのやら。
「イルムガルドちゃん、今日もよろしくね」
名を呼ばれたのに応じてイルムガルドはヴェナに視線を向け、ゆっくりと一つ頷いた。ヴェナは通信端末を白衣のポケットに入れると、机の上にあるいくつかの資料とノートサイズの端末を手に、イルムガルドと研究員と共に別室へと移動する。
「昨日までと検査内容は少し違うけれど、目を使うのは同じだから」
「うん」
似たようなレイアウトを持つ部屋が多数並んでいる為、イルムガルドは研究員に案内されないと行くべき部屋は分からない。先日入ったことのある部屋を通り過ぎ、更に三つの部屋を挟んでから新しい部屋へと通される。ただし置かれた椅子や機器の配置の違いは、イルムガルドには分からなかった。
「じゃあ、準備をお願い」
ヴェナの指示に応じて研究員が動き始める。その内の一人が改めてイルムガルドを促し、彼女に似合わない大きな椅子へと座らせた。その椅子の正面には、別室へと入ったヴェナの姿がガラス越しに確認できる。慌ただしく周りで作業をしている研究員が話し掛けるまで、イルムガルドはそのヴェナの姿をじっと見つめていた。
「――ヴェナさん、フィリップが最近、早めに来ている件は聞きましたか?」
イルムガルドの視線に気付かぬまま作業準備を進めていたヴェナが、傍に居た研究員の言葉に振り返る。同じ頃、イルムガルドにはいつものように頭部を覆う装置が付けられており、彼女の視線は遮られた。
「なあにそれ、初耳だわ。あの遅刻常習犯が?」
「はい」
たっぷり疑いの念を込めて眉を顰めるヴェナに、研究員が笑いながら頷く。
フィリップとイルムガルドの二人は、どうやら開始時間が同じである日にはヴェナや研究員が与り知らぬところで示し合い、それぞれ少し早めに到着して、雑談してから指定場所に向かっているとのことだった。
「イルムガルド側から提案があったらしいです。フィリップ、そういう日は一分も遅れることなく来ていますよ」
別れ際はもう少し話したいと駄々を捏ねることもあるらしいが、イルムガルドが駄目だと言うと、誰に言われるよりも素直に従うとのことだ。
「本当に助かっていますよ」
子供を相手にしているのだから、奇跡の子らを研究するにあたって多少の苦労は元より覚悟していたのだろう。しかしそれにしてもフィリップは想像以上に苦労が多く、まず、時間通りに来ない。そしてすぐにさぼりたがる。酷い時には途中で逃げ出すという状態で、予定通りにデータが取れない日が多かった。暴れないだけマシと各々自身に言い聞かせながら辛抱強く相手をしていた状態だったが、今回のことでイルムガルドに心から感謝している研究員は少なくない。
「それで、可能な限り二人の開始を合わせようという話になっているんですが、どうでしょうか?」
「その方が円滑にデータを取れるなら、勿論、そうして頂戴」
「ありがとうございます」
ヴェナの回答に晴れやかな笑顔で応え、研究員は早速スケジュールを調整すべく足早に立ち去って行く。大きな苦労から解放されたように見えるその背を見送り、もっと自分からもフィリップには強く言うべきだったとヴェナは溜息を零した。
この日もいつも通り、適度に休憩を挟みながら幾つかの測定を終えたイルムガルドは、あと二つ残された測定の準備を待つ間に、長めの休息を許された。どう過ごすかをもう決めていた彼女は、アシュリーに持たされたおやつの箱を抱えてテーブルのある場所へと真っ直ぐ歩いて行く。
「ああ、そうだ、イルムガルド、休憩の前に」
しかしその手前で、一人の研究員が彼女を呼び止めた。箱を抱えたままで振り返るイルムガルドに、研究員は柔らかく微笑みながらテーブルの椅子を引き、座ることを促してやる。
「フィリップのこと、いつもありがとう、助かっているよ」
そう言われてもイルムガルドには何の話であるのか分からない。首を傾ける彼女に、研究員が先程ヴェナに告げた内容を説明した。今後はイルムガルドとフィリップの開始時間を揃えるような対応を取るという連絡も含めてだ。けれど研究員の言葉をじっと聞いていたイルムガルドは、改めて、首を傾けた。
「そんなに困らせてたの。本人は『ちゃんと言うこと聞いてる』って言ってたけど」
「あ~……いや、聞いてはくれているよ、検査中はね」
つまり、『限定的に』ということだ。イルムガルドはやや呆れた様子で小さく息を吐く。
「開始前に雑談するくらいなら、別にいいよ」
「ありがとう」
礼を言って立ち去る彼の背を一瞥してから、イルムガルドは改めておやつの箱を開ける。色んなデコレーションを施されたドーナツが入っている。どれから手を付けるかを悩み、イルムガルドは少しの間、その中身をただじっと見つめていた。
そんな彼女の姿は、別室で引き続き準備と作業に追われているヴェナの視界に入っていた。一つを選んで頬張る彼女を何処か微笑ましい目で見てから、手元へと視線を戻す。
「そうね、このデータなら……プランは四番で行きましょう」
「分かりました、では早速準備に取り掛かります」
「お願いね」
先程取り終えたばかりのデータを見てから、残り二つの測定内容を決めたらしい。ヴェナの指示に従い、研究員らが方々へと動く。
No.11、ヴィェンツェスラヴァはラストネームを持たず、首都の出身者ではない。しかし受けていた教育は首都出身者よりもずっと高度なものだった。彼女の父が、この国でも特に有名な研究者である為だ。
彼女の父は、首都から少し離れた場所にある研究施設の代表を務めており、彼の研究はこの国に広く認められている。特に他の研究施設と違う点は、あらゆる分野の研究を一か所の施設で行っていることから、各分野からの情報を得やすい点だろう。そのような環境で育ったヴェナは当たり前のように幼い頃から父の研究を手伝い、高度な教育を受け、そしてあらゆる分野に精通した。
将来的に彼女は父をも上回るほど優秀な研究者となるだろうと思われていた。しかし、ヴェナは奇跡の力を発現させた。『させてしまった』と、彼女の頭脳と才能を知る者の多くがそう思った。それほどに、ヴェナに対する期待は、研究者の中では高かったのだ。その為、彼女を
結果、彼女に関しては一つの特例が出た。彼女は奇跡の子であると同時に
だから今の彼女は、任が二つある。よって本来の奇跡の子として与えられる給金とは別に、彼女自身の研究にも多額の支援金が出ていた。その上、彼女の父の研究施設に対する支援も今まで以上の好待遇になっている。そこまでを用意されてしまえば、ヴェナ自身も、彼女の父も、断ることは無かった。
そんなヴェナがこの研究施設内で持つ権力と発言権は圧倒的だ。そしてそれに反発する者はほとんど居ない。それだけ彼女は、研究と言う面でも
モニターを食い入るように見つめ、複数のデータを照らし合わせていたヴェナは、ふと視界の端に入り込んだ陰に、そこから視線を外した。
「イルムガルドちゃん?」
つい先程までガラス越しに見える位置でドーナツを頬張っていたはずなのに、いつの間にか、開け放たれた扉から顔を覗かせ、イルムガルドがヴェナを窺っていた。普段はヴェナや研究員が何をしているかなど、まるで興味を示すことのない子であるのに、珍しいことだ。ヴェナは「いらっしゃい」と手招きして、隣の椅子を引いた。イルムガルドは何も言わずに応じて、ヴェナの隣にちょこんと座る。その腕には先程のおやつの箱が大事に抱えられていた。
「どうしたの? 退屈になってしまったかしら」
仕事の手を止めて、隣に座るイルムガルドにヴェナが問い掛ける。イルムガルドは数秒の間ヴェナを見つめ返して、小さく首を傾けた。
「ひとつ食べる?」
ヴェナが目を丸める。イルムガルドが示したのは、彼女が抱える箱の中のドーナツだった。ふっと笑って、ヴェナは首を振った。
「いいえ、私はいいわ。ありがとう。奥様が作ってくれたものでしょう? イルムガルドちゃんが全部食べていいのよ」
「んー」
返事に小さく頷くと、イルムガルドはそのままヴェナの隣でドーナツを食べ始める。それをヴェナが咎めることは無い。特に飲食は禁止していないし、ヴェナもモニターの脇にコーヒーと茶請けを置いているのだから咎めようも無かった。
「インスタントで良ければコーヒーがあるけれど、飲む?」
提案にイルムガルドが頷いた為、ヴェナは一度彼女の傍を離れ、部屋の奥でインスタントのコーヒーを用意する。アシュリーの作ったものをイルムガルドが誰かに差し出そうとしたのはこれが初めてのことだ。フラヴィにすら渡さないと言い張っていた件についてはヴェナも聞き及んでいた為、珍しい行動であることは理解していた。コーヒーを持って戻りながら、黙々とドーナツを食べる横顔に、目を細める。
「普段は一人で食べているのに、今日はどうかしたのかしら」
ヴェナからコーヒーを受け取ったイルムガルドは慎重にそれをテーブルに置いてから、ヴェナを見上げる。表情にも瞳にも感情らしい色は何も見付けられないのに、ヴェナはその視線にほんの少しも居心地の悪さを感じなかった。むしろ感情の気配が無いせいだろうか。理由を探すように黙って見つめ返すヴェナに、二つの瞬きの後、イルムガルドが口を開く。
「今日なんか、元気ない」
隙を縫うように伝えられた言葉に、またヴェナは目を丸めた。彼女には、そのような自覚はまるで無かったことも理由の一つかもしれない。しかし、三つ数え終えるまでに、ヴェナはその戸惑いを静かに胸の奥へと閉じ込める。
「そう。そうかもしれないわ。少し疲れているのかも。心配してくれてありがとう」
イルムガルドは答えるヴェナをじっと見つめてから、また頷く。納得したのかどうかはよく分からないが、傍を離れていこうという素振りは無い。引き続き此処でおやつを取るらしく、イルムガルドはヴェナに渡されたコーヒーを一口飲んでから、残りのドーナツへと手を伸ばす。その様子を眺め、ヴェナは仕事の方ではなく、イルムガルドへと手を伸ばし、その髪を軽く撫でた。
「あなた、仔猫みたいで可愛いわね」
「……レベッカも時々それ言う」
少しの反応の遅さは、ドーナツを咀嚼する為の間であったのか、彼女なりの戸惑いや驚きだったのか。それでもイルムガルドの反応は乏しく、ヴェナが彼女の黒髪を指先で弄んでみても表情を変えず大人しい。本当の猫ならばもう少し、こんな戯れを嫌う顔をするかもしれないと思い、ヴェナは口元だけで淡く笑う。
「あー、そういえば」
「なあに?」
ふと何かに気付いたようにイルムガルドがドーナツを置いて俯いたので、ヴェナは髪から手を離した。スナップボタンで留められている上着の前をぱちぱちと丁寧に外し、その中を覗き込む。内ポケットから何か――例えば通信端末などを取り出すのかとぼんやり眺めていると、イルムガルドはそのまま身体をくるりとヴェナの方に向けた。
「今日のシャツ、ねこだ」
「ふふっ」
開けたジャケットの中から覗いたのはやや味のある表情をした猫のイラストだった。無防備にそのイラストと目を合わせてしまったヴェナは、堪え切れずに口を押えて笑った。
「良く似合っているわよ、可愛いわね」
「んー、アシュリーが、こういうの好きみたい」
「そう」
ヴェナはイルムガルドの伴侶の名前までは把握していなかったが、『アシュリー』と呼ぶイルムガルドの声が柔らかくて、おそらくそうなのだろうと思い、敢えて問い返すことはしない。
「それを着たあなたのことが、きっと、とても好きなのね」
改めて手を伸ばし、ヴェナはイルムガルドの頭を撫でて、頬を撫でた。その表情は優しい微笑みであったのに、イルムガルドが見上げたヴェナの瞳は何処か寂しい色を含んでいるようだった。
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