第113話_廊下に残る氷晶の記憶

 ふう、と強く息を吐けば、煙が目の前を漂い、やや視界の中の文字がぼやける。そんなことは分かっているのだろうに、カミラは構うこと無く再びたっぷりと煙を吸い込むと、同じように吐き出した。

 手に持っていた新聞の一つを横に避け、また別の新聞を開く。この首都には幾つかの新聞が発行されている。書いている会社が違うのだから内容も少しずつ違う。だがいずれも毎日のように、進軍賛成の意見が掲載され続けていた。カミラは似た内容にもかかわらずそれを一つずつ確認していく。

 新型兵器はアランが大量に破壊したことで鳴りを潜めている。しかし、消え去ったわけではない。新型兵器が確認された戦場では奇跡の子らは下げられており、戦況は悪くなることが多い。どれも一時的で、此方の国の戦闘機が向かえば大事なく処理できているが、いつまでそんな後手後手が続くのだろうか。

 新型兵器の存在自体は、アランがそれを制圧した際にようやく国民にも公表され、退けたこと広く発表された。今尚その脅威に子らが晒されていることは、全く伝えられていない。一般人が戦場へ立ち入ることはできず、また、政府機関や軍が固く箝口令を敷いていることで、情報が外へ漏れることは無い。流石に訃報まで隠すことが出来ない為、奇跡の子らに犠牲が出れば発表はあるが、つまりは犠牲や怪我人さえ出なければ子らの『悪い』状況はほとんど押し隠されていた。

 そんな状態でも、此処まで政府に対する鬱憤が溜まるのだから、実情を詳らかに公表した場合どうなるのかは火を見るよりも明らかだ。――そしてそれが何の利にもならないと分かっているから、おかしいと思えども誰も指摘を口にすらしない。カミラのように、眉を顰め、呆れたように息を吐くのが精々だ。

 一通り目を通し終えたカミラは、新聞をテーブルの端に避けて今度は通信端末を取り出した。少しの間それを眺めた後、幾つか操作をして、テーブルの上へと戻す。軍にも情報源があると言っていた彼女だ。その相手と連絡でも取り合っているのかもしれない。

「……進みは悪くないが、こっちの事情を考えるとぎりぎりになるかもな」

 愚痴を言うようにそう呟くと、カミラは短くなった煙草をまた少し吸い込み、灰皿に押し付けて消した。

 そして続けて新しい煙草を求めて手を伸ばすが――彼女が煙草の箱に触れる直前、端末から着信音が鳴り響く。手を伸ばす方向を変えて端末を取り、表示を見たカミラは一瞬目を丸めて、ボタンを押した。

「マイ・ドール、珍しいな、どうした?」

 一人きりでぼやいていた時とは打って変わって優しく、機嫌の良い声だ。しかしヴェナからは小さく溜息を吐くような音と沈黙が返った。いつものことながら、『マイ・ドール』という呼び名に文句を言おうとして、飲み込んだのだろう。

『今、部屋に居る?』

 通話越しでも彼女の声の美しさは変わらない。カミラは彼女から見えないと知りながらものんびりと頷く。

「ああ、今は部屋だ。あ、っと。煙草を吸ってしまったが」

『別に良いわ。今から行くから』

「ん? ああ」

 言い終えると同時にヴェナは通話を切った。カミラは通信端末の表示が通話終了を示しているのを見つめてから、素早く立ち上がる。慌てて部屋の換気扇を強めてみたが、腕を組んで、苦笑いした。

「……まあ、間に合わんな」

 喫煙中ずっと換気扇は回していたので煙が残っているということはないけれど、臭いまで消すことは到底できない。小言を貰うことを覚悟しながら、とりあえず彼女が来るまではと、カミラは換気扇をそのまま回し続けた。

 ヴェナが部屋を訪れたのはその三分後のこと。当然、そのような短い時間で煙草の臭いが消えることは無く、カミラは苦笑いをそのままに彼女を出迎える。

「お前が進んであたしを訪ねてくれるなんて久しぶりじゃないか? あいにく煙草の臭いが残ってしまってるだろうが」

 扉を開け、眉を下げてそう言うカミラを、ヴェナはちらりと視線を上げて目を合わせただけで、すぐにそれを逸らした。

「別に良いと言ったでしょう、入るつもりは無いの。これを渡しに来ただけ」

「ん?」

 そう言ってヴェナは徐にカミラへと紙袋を押し付ける。中を確認すれば、上等な箱に入れられているウイスキーボトルだった。

「この間、一杯貰ったから。お返しよ」

「一杯ぽっちで一瓶返すやつがあるか。飲んで行かないのか?」

 どう考えても普段カミラが飲むような安酒ではない。こんなものをカミラに渡したところで、その価値を正しく理解も出来やしないと、誰よりもヴェナが知っているはずなのに。しかしカミラの問いにヴェナは軽く首を振るだけだ。

「今日は気分じゃないから結構よ。それじゃ」

 本当にこれだけの用だったらしい。ヴェナはカミラからの返答も待たずに踵を返し、立ち去って行く。タワーに用意されているヴェナの部屋はカミラの二つ隣にあるが、その扉を通り過ぎ、そのまま長い廊下を歩いて背中が小さくなっていく。この後は研究施設へと向かうのかもしれない。柔らかくカーブを描く廊下の奥へ彼女の姿が見えなくなるのを見守ってから、カミラは再び手元の袋へと目を落とした。

「……優しいんだか、冷たいんだか」

 誰も居ない廊下で笑いながらそう呟き、カミラは部屋に戻って扉を閉じる。可愛がっているヴェナからの貰い物だ。今回ばかりは「分からないから」と言って放置せず、すぐに封を開けることだろう。

 一方、彼女の元を立ち去ったヴェナはエレベーターホールに至ると、軽く廊下を振り返る。当然、扉が閉ざされた音を彼女は聞いていたし、カミラの姿が無いことは分かっている。ただ、初めてカミラと出会ったのはこの廊下だったことを、彼女は思い出していた。


「――ヴィエンツェスラヴァ」

 当時十五歳だったヴェナは、唐突に背中に掛けられた知らぬ声に振り返る。そこには随分と背の高い、年若い女性が立っていた。一目でヴェナは、それが誰であるのかを理解した。

「ヴィエンツェスラヴァって言うんだろう? 格好いい名前だな。あたしはNo.9のカミラだ、よろしくなNo.11、歓迎するよ」

 にこやかに笑い、歩み寄ってくるNo.9のカミラ。当時十七歳の彼女だが、成長期をほとんど終えた彼女の身長は、ヴェナの知るどの女性よりも高かった。まだ成長期であったヴェナは首を逸らして彼女を見上げる形になる。しかし、穏やかで優しい赤茶色の瞳は、カミラを威圧的に見せなかった。

「……どうも」

 お世辞にも愛想が良いとは思えない返答をしてしまうものの、カミラは彼女の声に何故か嬉しそうに目を細めて笑う。

「容姿も綺麗だが、お前は声も綺麗なんだな。あたしが触ると汚してしまいそうだが、……まあ手袋越しだ、勘弁してくれ」

 そう言いながらカミラが黒い手袋に覆われた右手を差し出した。握手を求められていると知り、ヴェナは控え目にその手を握り返す。高い身長と比例して、その手も大きかった。

 カミラはそのまま、彼女自身の能力の説明、そして火傷を隠す為に手袋をしていることをヴェナに説明した。勿論、同情を買おうというつもりなどではなく、手袋をしたままである無礼について、事情を説明しただけなのだろう。

 ヴェナはこの時、タワーに配属されて一週間が経過していた。カミラは彼女が来た時には戦場へ送られていた為に不在で、戻ってきたのが前日の深夜のことだそうだ。いつのタイミングでヴェナのことを聞き、こうして挨拶に現れたのかは知らないが、同世代の女性が屈託ない笑みで話し掛けてきたことに、幾らかほっとしたことをヴェナはよく覚えている。

 既にスタートナンバーの半数が戦場で亡くなったと知れ渡っている状態で配属された最初の奇跡の子がヴェナだ。不安や緊張が無かったと言えば嘘になるだろう。今でこそ、どのような事態にも冷静に対応できるヴェナではあるが、流石にタワーに配属された十五歳の頃からそうであったわけではない。彼女なりに、心細い思いを抱いていた。

「その名前は長いでしょう、ヴェナで良いわ」

 ただ、気の強さは生来のものだ。緊張のあまりやや強い言葉になったことに少なからずヴェナ自身ひやりとしていたが、カミラはそれを少しも気にした様子は無かった。いっそ気付かなかったのではと思うほどに、あっさりとしていた。

「愛称か。じゃあ遠慮なく。ヴェナ、食堂じゃなくて外でランチはどうだ? 遠征のお陰で懐の温かいあたしが奢ってやるからさ」

 ヴェナはその言葉に首を傾けた。ランチのくだりではなく、「遠征のお陰で」という言葉に対してだ。詳しく聞けば、遠征に出れば普段の給金と別に追加報酬が出るらしい。前日まで遠征だった彼女は、今しがたその追加報酬を得てきたばかりであるとのことだが、それは彼女が命を懸けて戦った末に貰ったものではないのか。まだ戦場を知らないヴェナは遠慮を感じるが、カミラは「仲間に使うんだよ」と笑っていた。


 エレベーターが到着した音に、ヴェナは二度瞬きをしてから、扉が開くに応じて中へと入り込む。そしてその扉が閉じるのに合わせ、思い出に蓋をするように彼女は静かに目を閉じた。

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