第112話_研究施設の厄介事

 研究施設の前、その建物を見上げている影は、鬱々と溜息を零す。

「いつまでこんなとこ通うんだろ……」

 扉はすぐそこなのに、彼は入ろうとする様子無く現実逃避のように立ち止まっている。しかし彼の元へと強く冷たい風がびゅっと吹き付けると、フィリップは身体を縮めて震わせ、仕方なく建物の中へと急いだ。

 中に入り込めば当然、温かい。ほっとしつつも、寒さに促されて入ったと思えば、まるでこれもヴェナの仕業のような気がする。そんな考えに至ってしまうほどには、フィリップはヴェナの冷たさ――対応だけではなく物理的な意味で――を日々、味わっていた。

 だが、そのように憂鬱な気分は、玄関扉から十数歩進んだところで一変した。

「あれっ、イルムガルド!?」

 愛おしいその人の姿を、突き当たりの休憩所に見付けたからだ。イルムガルドは彼の声と、小走りに駆け寄ってくる足音に応じてのんびりと振り返る。フィリップは何度も目を瞬き、その姿が幻でも何でもないことを確かめて、満面の笑みを浮かべた。

「こんなところで、どうしたの?」

 彼の問いに、イルムガルドはゆっくり首を傾ける。

「わたしも、研究の手伝い。時間ちょっと早かったから、迎えを待ってる」

「え、じゃあもしかしてイルムガルドも、これからよく此処に来ることになるの?」

「うん」

 瞬間、ぱっと表情を明るくしたフィリップだったが、そこに近付いてきたヒールの音に肩を強張らせ、綺麗な顔を酷く歪ませて恐る恐る振り向いた。

「げえ」

 彼のそんな失礼極まりない反応に、視線を向けられたヴェナは笑みを浮かべるけれど、笑っているのは口元だけだ。目はすっと細められ、その視線にすら冷気を感じられる。

「ご挨拶ねぇ、フィリップ。あなた時間ぎりぎりじゃない?」

「う、うるさいな! ぎりぎりでも間に合ってるよ!」

「此処に居るならそろそろ遅刻でしょう。早めに行動するイルムガルドちゃんを見習ってほしいわね」

 呆れたようにそう言って溜息を吐くヴェナに対し、フィリップがぐっと言葉を詰まらせる。ヴェナはそんな彼の反応を冷たい目で一瞥して、イルムガルドへと向き直る。途端、目尻は柔らかく垂れた。

「待たせてごめんなさいね、早めに来てくれてありがとう。準備が出来たから、こっちに」

「ヴェナ、私は――」

「フィリップはいつもの部屋」

 彼の言葉の半ばでぴしゃりと言い放ったヴェナは、イルムガルドを促すようにその肩に優しく手を置く。イルムガルドもそれに従って素直に歩き始める。その背を驚愕の表情で見つめてから、フィリップが声を張った。

「イルムガルドと一緒じゃないの!?」

「そんな予定は今後も無いわね」

「えー!!」

 そのままフィリップは「一緒が良い」と大きな声で駄々を捏ね始める。ヴェナが小さく息を吐いて額を押さえるのと、イルムガルドが彼を振り返るのは同時だった。

「フィー、仕事だよ。ちゃんと言うこと聞いてね」

「ぐ、うぅ」

 途端、フィリップは唸り声を上げつつも口を噤んだ。短い言葉で彼を黙らせたイルムガルドに、ヴェナは驚いた様子で目を瞬く。話には聞いていたのだろうが、此処までイルムガルドに従順であるとは思っていなかったのかもしれない。フィリップは不満そうに下唇を噛みつつも、次に口を開いた時、もう反抗の言葉は無かった。

「き、休憩とかあったら喋ろうね!」

「うん」

 柔らかなイルムガルドの返答にフィリップは少し表情を緩め、大きく手を振って彼女達に背を向ける。大人しく、所定の場所に向かうようだ。再びヴェナは小さく息を吐いたけれど、先程とはまるで色の違うものだった。

「ありがとう、イルムガルドちゃん、助かったわ。あの子は言うことを聞くまで少し時間が掛かるから。最後には聞いてくれるのだけどね」

 結局は聞いてくれるのだから最初から聞いてほしい、というのが職員や研究員一同の気持ちだが、性格上の問題なのか気位の高さなのか、フィリップは必ず最初に否定して抵抗する。散々と駄々を捏ねて、用意されていたスケジュールをたっぷりと遅延させてから、ようやく従う。訓練所の頃に比べて大人しくなったとは言え、我儘な気質そのものが変異したわけではない。ヴェナは他の者に比べれは早くフィリップを黙らせている方なのだけど、多少なりと苦労は感じているようだ

 イルムガルドはどの程度そんな彼女の気持ちを汲んでいるのかは分からない。ただ一瞬だけ彼女を見上げて目を合わせ、軽く頷いた。そして改めてヴェナに連れられて、別のフロアへと移動する。

「しばらく同じ検査ばかりになるから退屈だと思うけれど、少し我慢して付き合ってね」

「別に、平気。仕事だから」

 端的に返すイルムガルドに一瞬、ヴェナは黙る。イルムガルドの声は小さく、感情を乗せない。言葉も短く、優しさを宿さない。不機嫌とも取れる態度であるだけに、瞬間的に真意を受け止め損ねるのだ。

「そう。良い子で助かるわね」

 一拍後に飲み込んだヴェナは、腕を伸ばしてイルムガルドの頭を軽く撫でる。イルムガルドは抵抗を示さず、ゆっくりと一度瞬きをした。

 到着したフロアの一室で、研究員らに促されるまま、イルムガルドは一人用の椅子に座らされる。ウーシンが座っても余裕がありそうな大きな椅子だけに、イルムガルドを一層小さく見せる。そしてその周りには機械が何台も設置され、足元には、出処が判別できない程に多くのコードが張り巡らされていた。イルムガルドが身体を落ち着けたのを見計らって、職員の一人が彼女の頭部にヘルメットのような形状の機械を付ける。鼻から上を全て覆い、完全にイルムガルドの目が隠れてしまうようなものだ。準備を終えたのを確認して、ヴェナがそっとイルムガルドの肩に手を置いた。

「じゃあ前回と同じ手順で。分からない時は手を上げて頂戴ね」

「うん」

 指示を終え、ヴェナは傍を離れて行く。イルムガルドの傍には二人の研究員だけが残された。そのまま隣の部屋へと移動したヴェナが、ガラス越しにイルムガルドの様子を見つめながら、測定中のデータや、今までに確認済みのデータをモニターに表示させた。

「本当に、桁違いの数値ですね」

 ヴェナの傍に控えていた一人の研究員が、ぽそりと零す。ヴェナはモニターから目を離さないまま、緩く頭を縦に揺らした。彼女らが居る別室の扉はしっかりと閉ざされており、イルムガルドの部屋の方に声が届くことは無い。

「ええ。音速移動をしているからには並外れた動体視力があるとは思っていたけれど、予想以上だわ」

 今、彼女らはイルムガルドの動体視力を測定していた。身体的な負担はまだ医療班に止められている為、座った状態で出来るこのような測定が集中して行われている。

「ところで、医療班からのデータ検証は?」

 不意にヴェナが真後ろを振り返って別の研究員へと声を掛ける。壁に向かうような形で端末やモニターを操作していた女性の研究員が、声に応じてヴェナを振り返った。

「終わっています。全てのデータに一貫性がありますから、やはり異常値ではありません」

 彼女の回答に「そう」とだけ答えたヴェナは、静かで長い深呼吸を挟む。そして再びガラス越しのイルムガルドの姿と、彼女のデータへと視線を戻した。

「どれもこれも、予想の範囲を大きく上回るわ。『史上最強』と呼ばれるのは伊達じゃないのね」

 この言葉から汲み取るに、それはWILLウィルとしては喜ばしくも『優れた』数値であるのだろう。しかしヴェナの表情はひたすらに険しく、憂いを大いに含んでいる。

「どの数値も『脅威』と言わざるを得ない……必死にを付けたがるわけよ」

「首輪、ですか?」

 研究員はそれぞれ資料や端末を手に仕事を進めながらも、ヴェナの言葉を拾って首を傾けていた。

「ええ。あの子がもしも私達に牙をむいたとして、それを止める手段が今、WILLウィルには無いわ」

 イルムガルドは従順だ。時折困った行動をしたり、フラヴィ達から「反抗的」と思われるような態度を見せたりするものの、基本的にはいつも命令に従っている。他の奇跡の子らと比べれば、かなり大人しい部類に入る。ただ、リスクの高さは他の子らの比ではなかった。

「奥様も、その一つでしょうね」

 短い沈黙の後、まるで独り言のように小さな声でヴェナが呟く。だが、同じ部屋に居た研究員は皆、一瞬だけ手を止めた。振り返らない者も居たが、全員が何かしら反応を見せた。ヴェナが言わんとしていることに気付いたのだ。

「司令は随分と前のめりに協力して、イルムガルドの結婚を後押ししたと聞いているわ。奥様がゼロ番街に居る以上、あの子は強く出られない――と、考えたのかもしれないわね」

「それは……」

 幾らか青ざめた顔色で、最も近くで作業をしていた研究員が何か言いたげにする。ヴェナは視線だけでその研究員に目をやってから、肩を竦めた。

「非道と思う? ええ、そうね。そうかもしれない。けれど、そんな手を取らなければならない程、私達はあの子に対してあまりに無力で不利なのよ」

 とは言え、何もアシュリーを強引に人質に取るという話ではないだろう。そのようなことをすれば更にイルムガルドの神経を逆撫でしてしまいかねないからだ。機嫌を取りながら、最終手段としてアシュリーを手元に置いておく。これはあくまでもヴェナの解釈であり、デイヴィッドが何処まで考えてやっているのかは定かではない。

 話しながらも、研究員がまとめてくれたデータに一通り目を通し終えたヴェナは、改めて難しい顔でゆっくりと頭を振る。

「全く、WILLウィルの方でお手上げだからと言って、私に押し付けないでほしいわね。何か手はあるかしら。もう、今から頭が痛いわ」

 ヴェナはWILLウィルから、イルムガルドを拘束する、または無効化する方法を考えてほしいと依頼されていた。元々ヴェナがイルムガルドに研究協力を依頼したのは別の内容だったが、その研究を許可する条件としてこの課題を渡されたのだ。当初は「何とでもなるだろう」と考えていたヴェナだったけれど、データを確認したところ、想像の何十倍も難しい課題であることを知った。

 明確に「結果を出せ」とまでは言われていないものの、何の成果も案も出せない場合、今後の研究援助などの対応が悪くなる可能性は大いにある。現時点で、ヴェナはかなり追い詰められていた。

「とりあえず、私のデータと、フィリップのデータも転送してくれる?」

「分かりました」

 傍に居た職員は大きく頷くと、転送作業をしているのか、目の前の端末を素早く操作し始める。ヴェナは少しだけ顔を上げ、ガラスの向こうに見えるイルムガルドの姿を眺めて目を細めた。

「忙しい時に、厄介事を抱えてしまったわ。とりあえず今は、……慎重に

 小さく口元だけでそう呟いて、ヴェナは再び端末に並ぶデータを見据えた。

 一方、ヴェナの視界から外れたイルムガルドは、指先でとんとんと椅子の肘置きを突いている。それがこの検査に対するストレスの表れなのか、他の何かであるのか。傍で彼女の様子を見守っていた研究員は、何度かその動きを気にするように彼女の指先へと視線を落としていた。

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