第111話_疑問を転がす二人のベランダ

 イルムガルドは玄関前で二、三度、服の表面を手の平で叩く。ただタワーに行って少し軽食を取った程度で、酷く汚れていることなど無いだろうに、彼女は儀式のように此処で必ずそれをする。自らの服を見下ろし、確認を終えてからようやく鍵を使って玄関扉を開けた。すると、インターホンを押したわけでもないのに、アシュリーはもうすぐ傍まで歩いて来ていた。足音でも聞こえたのだろうか。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 今日のイルムガルドは予定より帰りが遅かった。カミラの誘いでレベッカ達と食堂で話していた為だ。勿論その旨はアシュリーに連絡をしてあるし、アシュリーがそれを不満に思う様子も無い。「楽しかった?」と聞かれて「んー」と生返事をするイルムガルドに、可笑しそうに笑っている。

「……煙草の臭いがするわね」

 彼女の上着を受け取ったアシュリーが目を瞬く。イルムガルドはいつも通りに手を洗いながら肩口に振り返った。

「多分、喫煙所に寄ったせい。わたしが吸ったのはお菓子だよ、カミラが吸ってた」

「ああ、彼女は喫煙者なのね」

 カミラもこの街では有名だ。しばらくタワーに帰らなかったことから此処一年間はほとんどモニターでも紹介されていないが、スタートナンバーであることもあって認知度は高い。当然、最年長であることもアシュリーは聞き及んでいる。納得したように何度か頷きながら、イルムガルドの上着に消臭剤を掛けていた。

「今日は誰と一緒だったの?」

「あー、いつもの三人と、カミラ」

「そう」

 端的な説明だけでも『三人』が誰なのか察したアシュリーは柔らかな笑みと相槌だけで受け止め、深く追求することはしない。イルムガルドはWILLウィルに対して基本冷たい態度を取っているが、付き合いは良い方だとアシュリーは思う。先約が無い限り、レベッカや他の子らに誘われれば凡そはそれに応じていた。彼女なりに他意はあるのかもしれないが。

「アシュリー、わたしベランダに居る」

「ええ」

 そう言うと、イルムガルドは煙草の代替品を咥えながらベランダへと出て行った。アシュリーはイルムガルドの上着の処理を終えてから、同じようにベランダに出る。お気に入りのベンチに座り、いつものようにイルムガルドは煙を漂わせていた。

「煙草の臭いに誘われちゃった? すっかり中毒ね」

 イルムガルドはその言葉に声を出さずに少しだけ肩を震わせて笑うが、返答は特に無い。何も問われてなどいないかのように、隣に座ったアシュリーの膝を枕にして、ごろんと寝そべった。最近はこういう甘え方も覚えたらしい。思わずアシュリーの口元が緩むが、漂わせる煙がアシュリーに当たらぬように自然と振舞う様子を見れば、イルムガルドにとっては初めてのことではないのだろう。アシュリーに対して最近するようになったというだけで、故郷では『仕事』の一環としてこのような触れ合いもあったに違いない。

 そんなことを面白くないと少なからず感じるものの、何処かほっとしたような顔で目を閉じているイルムガルドを見下ろせば、どうでもよくなってしまう。目にかかる前髪を勝手に掻き上げ、さらさらの黒髪に指を通しながらイルムガルドの頭を撫でる。アシュリーが一瞬前まで何を考えていたのか少しも知らないイルムガルドは、ただただ心地良さそうに微笑んでいた。

「はぁ」

 しかし、五分ほどするとイルムガルドが徐に溜息を零す。普段からアシュリーの前ではふわふわと笑みを浮かべていることの多い彼女だから、とても珍しい。表情は特に憂いを含んでいなかったけれど、アシュリーは慰めるように彼女の頭をぽんぽんと優しく叩く。

「お疲れ?」

「んー、ちょっと。あ、身体は元気だよ」

「心が疲れているの? それは逆に一大事じゃないかしら」

 そう言いながらもアシュリーは思わず笑ってしまう。体質や限りによってイルムガルドが疲れを表しているのは今までにも何度か見ているけれど、機関に対する精神的な不満は聞いたことが無かった。どんな状況に対してもイルムガルドは基本、『仕事』として割り切っている節があったからだ。しかし今のイルムガルドには何か憂いがあるらしい。彼女は口をへの字に曲げた後、また小さく息を吐く。

「故郷では、お姉さん達の痴話げんかって別に、またやってるー、って感じだったけど」

WILLウィルはまた違う?」

「うーん、子供だからかなぁ、はらはらする」

 思わずアシュリーは声を上げて笑った。奇跡の子らがこの発言を聞いたらきっと、心底驚くだろう。イルムガルドにとっては、奇跡の子らは『子供』なのだ。彼女自身と比べてのことではなく、彼女が今までの人生で関わってきた故郷の『お姉さん達』と比べればずっと若いせいだろう。

「みんなには言っちゃだめよ、それ」

「ん、言わないよ」

 言われた時の反応を見たいという好奇心はアシュリーにもあるが、イルムガルドの生きてきた環境は普通の『子供』に理解しがたい部分がおそらく多い。彼女の考え方を、「仕方ない」と思ってくれるかどうかは分からない。隠さなければならないとまでは言わないものの、喜んで反感を買う必要も無い。折角、レベッカ達には可愛がってもらっているのだから、そのまま可愛がっていてもらいたいのが本心だった。

 のんびりと吸い終えた煙草の代替品を、イルムガルドはそのままベランダに転がす。アシュリーは一度その吸い殻に視線を向けたが、放置してもそう長くなく消えるだろうと思い、気にせずにイルムガルドに視線を戻す。このベランダをいつも綺麗に保っているのは掃除が大好きなイルムガルドであって、吸い殻が落とされた程度でアシュリーはそれをとやかく言うつもりは無かった。むしろイルムガルドからすれば汚すことで『ベランダ掃除』の理由を得るのかもしれない。

「ねえ、アシュリー」

 そんなことを考えていれば、不意に名を呼ばれる。目を開けたイルムガルドがアシュリーをぼんやり見上げていた。

「なあに?」

 穏やかに微笑んでアシュリーは応える。イルムガルドが次の言葉を口にするまでに少し沈黙したのは、言葉を選んだのか、他の迷いであるのかはアシュリーには読みとれなかった。

「好きな人に好きって言うのは、そんなに難しいの?」

 疑問は、誰の事情に関わるものだろう。それもやはり、アシュリーには分からなかったが、彼女はそれを問うことはしない。

「そういうことも、あるでしょうね」

 誰か一個人のことをイルムガルドが疑問に思うなら、事情を知らないアシュリーには答えようが無い。もしもそうではなく、もっと広い意味で問い掛けているなら、それこそ、アシュリーには難しくて答えられないものだ。

「イルは私に好きって言ってくれるのは、簡単だった?」

 アシュリーの問いに、イルムガルドは思い返すように視線を彷徨わせてから、またアシュリーを見上げる

「言っちゃいけないのかなって考えるのは、うーん、少し難しかった」

「そう。だからね、皆も、きっとそういうことなのよ」

 当時、アシュリーと関係を持ってもイルムガルドはアシュリーに対し、「好き」を告げなかった。いつからそのような気持ちを持っていてくれたのかをアシュリーは把握していない。だが初めて告げてくれた時、今まで告げられなかったのは、告げるべき場面を彼女が知らず、そしてアシュリーも「好き」と言葉にしなかった為、言っていいのか分からなくて躊躇っていたのだと打ち明けた。稀有な境遇を生きたイルムガルドと、皆の事情は同じではないだろう。しかし、自分の事情と相手の事情、そして気持ちを考え、迷う心は同じなのではないかとアシュリーは思う。

「……賢くても、分からなくなるんだね」

 イルムガルドからすれば、正当な教育を受けている皆は、自分よりずっと『賢い』人達だ。だから自分のようなものが分からなくなるようなことを、同じように分からなくはならないと思っていたのかもしれない。

「人の気持ちは、どれだけ勉強しても分からないから」

「そっかぁ」

 難しいことなのだと改めて感じたのか、イルムガルドは少しだけ眉を顰めて、また口をへの字にしている。可愛らしくて、アシュリーも再び口元が緩んだ。今度は梳くのではなく乱すようにして髪をもしゃもしゃと撫でてみると、イルムガルドがくすぐったそうに笑った。

「勉強といえば、そうだ」

「ん?」

「わからないところあった」

 つい先程まで眠そうに瞬いていた目が、ぱっちりと開き、少しきらきらしているように見える。『分からなくても教えてくれる誰か』の存在としてアシュリーが居ることは、イルムガルドにとっての幸せの一端になっているだろうか。何処か楽しそうなイルムガルドの表情がその答えであるようで、アシュリーは幸せをたっぷりと宿して微笑み返した。

「じゃあ、また一緒に考えましょうか」

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