第110話_食堂に響く笑い声
タワー内は何処も火気厳禁、そして禁煙ではあるが、当然、許されている場所もいくつか存在する。
まず個人の部屋。例えばタワー内に居住している奇跡の子らに宛がわれている部屋の中だ。あるいは、喫煙ルーム。ほとんどの階に数か所設けられており、喫煙者である職員はそこを利用している。
ただし治療室のある階には、喫煙ルームが一つも設置されていない。治療室は上層階と下層階にそれぞれ一つずつあり、イルムガルドが普段使うのは上層階の方で、此処の使用者はほとんどが奇跡の子だ。しかし、喫煙ルームが無いという点はどちらも同じだった。この階を利用する者の多くが、何か治療を必要とする状態である為、出来るだけ遠ざけているのだろう。不調な者は微かな臭いでも更に体調を崩すことがある。いつかそのような相談でも上がって、対応された結果だったのかもしれない。何にせよ、定期健診を終えたイルムガルドには、この日ばかりはそれが少し不便に感じられた。真っ直ぐ家に帰れば良いものを、無性に煙が恋しくなってしまった彼女は喫煙ルームを探して歩き、一つ下の階へと移動した。
この階を利用する者は少ない。更に一階下へ行けば奇跡の子らが普段使っている食堂だが、治療室との間にあるこの階に何があるのか、少なくともイルムガルドは知らない。にも拘らず、喫煙ルームに立ち入ると、そこには見知った顔の先客が一人居た。
「ん? お前はまだダメだろ、イルムガルド」
咥えていた煙草を口から離すと、カミラはそう言って目を瞬く。彼女の他には誰も居ない。イルムガルドは彼女の指摘を気にすること無くそのまま入り込み、代替品を一本咥えてから、カミラにその箱を差し出した。
「わたしも吸っていいやつ。お菓子。ボスに貰った」
イルムガルドが吸うお菓子は健康被害が無いけれど、火を扱うことには変わりない。その為、他の煙草と同様、喫煙ルームなどの限られた場所でしか吸うことは出来ないのだ。これをイルムガルドに与えたデイヴィッドは、まるで小さな子供に言い聞かせるように「みんなが驚くかもしれないから、所定の場所で吸ってくれ」とイルムガルドへ伝えていた。
しばらくはアシュリーがそうであったようにカミラはまじまじとパッケージを見つめ、難しい顔を浮かべていた。しかし、数秒後には大きな声で笑い始める。
「何だよこれは!
一年目から組織に属して、他の子らの状況にもよく目を配っているカミラが言うからには、この程度のおかしな開発も初めてのことではないのだろう。実際、フラヴィの為にハリセンやピコピコハンマーまで開発しているのだから。カミラは箱をイルムガルドに返すように差し出しながらも、少し身を屈めてイルムガルドと視線を合わせると、にやりと笑った。
「あたしにも一本くれよ、どんな味なんだ?」
「すごく甘いよ」
アシュリーには何の注意もせずに彼女の反応を楽しんでいたのに、カミラに対してはそれをしないらしい。端的にそう告げて一本を差し出すと、カミラは吸っていた自分の煙草を丁寧に消してからそれを受け取り、口に咥える。同時に、イルムガルドがカミラの目の前へと火を出した。
「おっと。図らずも前言ったことを果たしてくれたな」
何処か嬉しそうに言って、カミラはそれでお菓子に火を点ける。吸い込んで、彼女が再び大きな声で笑うまで一秒の間も無かった。
「本当にめちゃくちゃ甘いな! ははは! 意味が分からん!!」
お腹を抱えて笑っているカミラの隣で、イルムガルドはいつも通りぷかぷかと甘い煙を漂わせる。淡い反応を気にする様子無く、カミラは一口吸う度に楽しそうに笑っていた。
「あー、笑った笑った」
一回で降参したアシュリーと違ってカミラはたっぷり一本をちゃんと吸い切ってから、改めて自分の煙草に火を点ける。イルムガルドはもう一本、お菓子を咥え直していた。その様子にまたカミラは可笑しそうに目尻を下げている。
「はは、なるほど、お前、此処へ来る前は喫煙者だったんだな?」
カミラの言葉に、イルムガルドはちらりと視線を彼女に向けるだけで、特に何も言わない。しかしカミラはどうして
「不良娘だなぁ、全く。レベッカあたりは怒るだろうなぁ」
「あー、たばこ欲しいって言ったら、怒ってた」
「ははは! もう怒らせていたのか!」
可笑しそうに笑うばかりで、カミラは強くイルムガルドを叱ろうという様子も無い。どうでもいいのか、寛容なのか、それとも、そのような役目は自分ではない誰かのものだと思っているのかは、分からないけれど。
「レベッカと言えば、さっき一緒に昼飯を取ろうと誘われてな。一服したら食堂に合流することになっていたんだ。お前もどうだ?」
特に目的があるわけではなく、雑談しながらランチするだけだと言うが、カミラはそのような時間も大切にしているらしい。しかし食事前に一服をしたくて喫煙ルームに行ったところ、食堂階は混んでいた為、上に逃げてきたとのことだった。つまり彼女が此処に居る理由も、あまりイルムガルドと変わらないようだ。
カミラの誘いに、イルムガルドは表情を変えないままで少し考えるように首を傾けた。
「……テレシアが、居ないなら」
その言葉に、カミラは少し悲しそうに眉を下げる。
「居ないだろうな。今日はヘッドホンの調整で、今頃から夕方まで不在だったはずだ。……イルムガルド、テレシアが許せないか?」
悲しさと、申し訳なさを同居させたような静かな声に対して、イルムガルドはゆっくりと、しかしはっきりと首を横に振った。
「別に。わたしが行くと、テレシアが逃げる。せっかく誰かと話してるのを、邪魔したくないだけ」
「そうか」
つい先程まで大きな声で笑っていた人とは思えぬほどの優しい声色で、カミラは静かに相槌を打ち、そしてイルムガルドの頭を撫でた。前回はイルムガルドの艶やかな髪を逆立てたそれは、今回はただ髪の流れに従って滑っていくだけ。その違いがくすぐったかったのか、イルムガルドは少しだけ首を傾けていた。
カミラが煙草を吸い終える頃、イルムガルドも二本目のお菓子を吸い終え、二人は揃って食堂に下りた。居たのはいつも通り、レベッカ、モカ、フラヴィの三名。そこへカミラだけではなくイルムガルドも合流したことに、レベッカは当然、嬉しそうに笑った。カミラはランチプレートを持ち、イルムガルドはカフェオレとドーナツを持って三人が待つテーブルに着いた。
「カミラはいつもAランチだよね~」
「飯を選ぶのが苦手なんだよ」
ランチはAからEまで必ず五種類が用意されており、日替わりのものだ。しかしカミラはそのたった五つの中からも選ぶのが嫌いだった。結果、特に好き嫌いの無い彼女はメニューを見ないままで必ずAを選んでいる。
「お前、昼飯は?」
「ここ来る前にもう食べた」
フラヴィの問いに淀みなく答えたイルムガルドのトレーに乗っているドーナツが一つや二つではないことに、フラヴィは相変わらず引いている。フラヴィからすればそれは『食後のデザート』の量ではない。しかし同じテーブルに着く誰もその衝撃を共有してくれそうになく、渋々フラヴィは違和感を飲み込んで、口を噤んだ。
「で、何だよ、レベッカ?」
「え?」
席について食事を始めると、カミラは徐にそう言った。レベッカは不思議そうに首を傾けているが、そんな様子を見てもカミラは今の問いをまるで当然であるような顔で笑う。
「お前は突拍子の無い子だが、考え無しでもない。突然あたしと飯を食いたいだなんて、どうせ何か、聞きたいことがあったんだろう」
「あー……」
ばつが悪い顔で視線を逸らし、項をごしごしと擦るレベッカを、モカとフラヴィは目を丸めて見つめている。レベッカに他意があったことを彼女らは聞いていなかったようだ。
「お前達との雑談は楽しいがな、憂いがあるなら揉んでないでさっさと言え」
「……敵わないよね~、カミラには」
力なく笑い、白状したレベッカの用件は、託児施設で会った電撃の子の件だった。あの子が施設に来たのは約二年半前だが、帯電があそこまで酷くなってしまったのはカミラがタワーを不在していた間のことだ。その状態を知った時のレベッカは、「レイが生きてたなら相談できたのに」と思った後で「制御に苦労したって言ってたカミラなら何か知ってるかな」と思った。しかしその頃は不在で、「帰って来たら相談しよう」と思ったままに一年近くが経ってしまった。だが先日の施設訪問で、あの子の問題が問題のままであることを確認して、改めて、カミラに相談したくなったらしい。
「職員は、色々聞いても『大丈夫だよ』って言うばっかりで、何も教えてくれなくてさ」
「ふーん。なるほどな」
本来、このようなことに悩むのは託児施設に勤務する職員の仕事であり、レベッカが考え込み、他の誰かに相談を持ち掛けるほど抱え込むことではない。しかし「大丈夫」と繰り返す職員は多くを語らず、それはレベッカに心配掛けまいとしているのだろうが実際はこの通り逆効果。また、子が一年近く経った今も制御を手に入れた様子が無いこともあって彼女の不安は膨らんでいるのだろう。カミラは改めて、職員の説明不足に呆れた様子で溜息を吐いた。
「確かにあたしも制御には随分と苦労をしたんだが、あたしの頃と違って今は幾つも前例がある。ただ、その子にあった方法を見付けるだけだ。見付けてしまえば本当に呆気なく解決する。今は幼くて試せない手段があるだけだろう。職員の言う通り、そう心配することは無いんだよ」
「そう、なんだ……」
カミラが強く言い切ったことに、レベッカがほっと肩の力を抜く。フラヴィはその隣で、何処か不満そうに口を尖らせた。
「っていうかさ、僕だって制御の訓練は『前例』なんだけど? 僕にはそんな話、一回もしてないよねレベッカ」
「ありゃ、そうだっけ?」
わざとらしく笑って誤魔化しているが、フラヴィが制御訓練を受けていたことを、訓練所で彼女を出迎えたレベッカが知らないはずもない。きっとレベッカはまだ幼いフラヴィに心配事を伝えたくなかったのだろう。フラヴィはそんな気遣いも知った上で、彼女の判断が気に入らない様子だけれど。
「あたしはキーワード、フラヴィは媒体だったな。しかしフラヴィは『前例』と言うにはちょっと優秀すぎるかもなぁ」
レベッカに対して助け舟を出すようにしてカミラはそう話す。フラヴィは制御訓練を必要とした者の中でもかなりあっさりとそれを見付けてしまった前例であり、事実、カミラほどの苦労を知らない。彼女は腕に抱いているぬいぐるみと、『手を繋いでいる間だけ』、その能力を発動する。つまり普段のようにただ胸に抱いている時には誤作動を起こすようなことが無いようになっていた。
その制御を、フラヴィは訓練を始めてたった四時間で得た。一日以内で制御を得た者が他に無いことから言っても、異例という他ない。その話はカミラからの賛辞ではあるが、今求めた点から言うと思い通りの展開ではなかった。フラヴィは不満そうに口を尖らせて再びレベッカを睨むと、「ふん」とだけ言ってそっぽを向く。レベッカは「ごめんねー」と明るく言いながら苦笑いしていた。
「それより――」
不意に透き通るような美しい声が輪の中に入り込む。カツンと、ヒールが床を打つ音がカミラの真後ろで止まった。
「もしもその子が『キーワード』になるなら、あなたは早くその子に教えてあげなきゃいけないことがあるんじゃない?」
「あれ、ヴェナ」
突然現れたヴェナが、そう囁く。彼女も今から昼食なのだろうか。しかし空いているカミラの隣に座ろうという様子は無く、カミラが振り向くと同時に身を翻す。そして少し離れた別のテーブルへとトレーを置いていた。共に食事する気は無いらしい。その背を見つめ、カミラは首を傾けた。
「何だよ、教えてやらなきゃいけないことってのは?」
その問いに、椅子を引きながら肩口に振り返ったヴェナは、口角を引き上げて意地悪な笑みを見せた。
「若気の至りでトリガーの『言葉』を決めてしまうと、いくつになっても『イグナイト』なんて格好付けた言葉を恥ずかしげもなく扱うことになる、ってね」
「その話は止めてくれマイ・ドール」
カミラは瞬時に、苦虫を噛み潰したような顔を見せた。
「え、何? どういうこと?」
レベッカは詳細を聞きたがるような問いを掛けるものの、どうやら予想が出来ているらしい。口元には既に堪えきれない様子で笑みが浮かんでいる。一方ヴェナは満足したのか、すっかり皆に背を向けて座り、食事を始めていた。やれやれとカミラが一つ、大きな溜息を吐く。
「あたしは、十七歳だったんだ。お前達みたいに落ち着いた子供には分からんだろうがな、格好いいことに憧れがちな時期だ。少なくともあたしはそうだった。むしろ当時はピークだったように思う」
その語りに全てを察したモカは、もうすっかり俯いて口元を押さえ、肩を震わせる。フラヴィも唇を噛み締めて天井を見上げていた。
「そこへ、当時あたしをサポートしてくれていた
その職員の声色を真似たのか、少し声のトーン、口調を変えて話し出すカミラに、レベッカとフラヴィがぶはっと息を吐いて笑った。目の前に並ぶ料理は、この話題が終わるまでは危なくてもう口に含めそうにない。
「口車に乗ってしまったあたしは、その『格好いい呪文』をトリガーにして炎を出すように、ようやくコントロールを手に入れた。間違いなく、言葉無しでは発火しないところまで持っていけたんだ。それまで制御不能だったからな、心から職員には感謝してるさ! 問題は呪文だよ!」
たっぷりとそこで沈黙を挟んでから、少し大袈裟にも思える仕草で額を押さえたカミラが、大きく息を吸う。
「『イグナイト』って何だよ!」
彼女の周りに居た一同が爆笑した。イルムガルドは相変わらずのほほんと無表情のままでドーナツを咥えているが、丁度そこに居合わせてしまった職員らも我慢ができなかったのか、肩を震わせて笑っていた。
当時の彼女にとって『格好いい呪文』だったそれは、その頃は迷わず、意気揚々と戦場で唱えていた。いつだってドヤ顔だった。思い返すほど、カミラには頭が痛い。しかし二十歳を迎えた辺りではもうすっかり『イグナイト』という言葉を口にすることが辛くなり、彼女は幾度となく職員に相談した。キーワードを今から変えることは出来ないだろうかと。だがそれはいつだってにべもなくNGを言い渡された。理由は単純明快だ。リスクが高い。そして、カミラは初年から多く戦果を齎し、活躍を見せた奇跡の子であって、そのような訓練期間を設けるほどの時間も無かった。
「分かるか? あたしは四十歳や五十歳になろうとも、この『イグナイト』を恥ずかしげもなく唱えながら戦場を歩く未来が確約されているんだ!」
「も、もうやめてカミラ……!」
笑い過ぎて呼吸が乱れてしまっているレベッカが、目尻に涙を溜め、呼吸を震わせながら懇願するが、カミラは眉間にきゅっと皺を寄せた。
「まだ終わりじゃないぞレベッカ。最後まで聞け。いいか、最近で一番辛かったのはな……」
神妙な面持ちで語り出されるだけで堪らない様子で、レベッカがテーブルに突っ伏して震えている。モカがその背を宥めるように撫でているが、モカの肩の震えも全く収まりそうではない。
「初めて私の能力を見たテレシアが純真無垢で悪意の欠片も無く、こちらを見つめて言ったんだ。『イグナイトってどういう意味ですか?』とな……」
そればかりはフラヴィも我慢がならなかったらしく、レベッカよりも大きな声で笑う。イルムガルドもちょっと顔を逸らしたので、彼女なりに可笑しく感じ、我慢したのかもしれない。
そうして一頻り、食堂の注目と笑いを独り占めにしたカミラは、再び大きく息を吐いてしみじみと天井を眺める。
「だからマイ・ドールの言う通りだ。その子にまた会う機会があったら伝えてくれ。大人になったら恥ずかしくなる言葉をトリガーにするのは、踏み止まるように」
そんな優しい忠告が、果たしてまだ笑い続けているレベッカに届いているのだろうか。何にせよ、不安を抱えていたレベッカには気分転換となる丁度いい笑い話だったかもしれない。途中から話題に入ったヴェナにどの程度その意識があったかはさておき、カミラには、自らが道化となる程度で可愛い妹分が笑うなら、それを良しと考える気持ちはあるのだろう。
ただ、実のところカミラが『イグナイト』をトリガーの言葉に選んだことには、『格好いい』以外にも理由はあった。トリガーとするのは、日常生活では絶対に使わない言葉でなければならかったのだ。今のカミラは発火の意志なく『イグナイト』と口にしても何も起こらないが、制御を得てすぐの頃は呟けば必ず発火してしまっていた。つまり何かの拍子で思わず口にしてしまうようなものでは大いに問題がある。そこから更に訓練を重ね、発火場所を選べるように調整し、発火の規模を調整し、最後に調整したのが、『意志を伴わなければ発火しないようにする』ことだった。
カミラは奇跡の子としての発見が最も早かったにも拘らずNo.9というナンバリングであるのは、そのような調整に少々手間取ったせいもあったのだろう。何にせよそのような事情を汲めば、『キーワード』によるコントロールを付ける場合、カミラのような悲劇を辿るのは致し方ないことのようにも思える。
他で制御が見付かるのが一番だと、カミラは未だ笑い転げている妹たちを眺めながら、遠くのまだまだ小さな奇跡の子に、想いを馳せた。
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