第109話_ベッドの中、重ねる保留

「今日、一緒に寝よ」

 そうレベッカから誘われた時、頷くことが少しずつモカは容易くなってきた。勿論、このような関係になる前はもっと容易かったのだけど、以降は恋人としてベッドに入るという状況だけでなく、必ずレベッカが数え切れないくらいに口付けてくるせいで難易度が跳ね上がっていた。しかしそれも、少しずつ、慣れていく。

 向かい合う形でベッドに寝そべって、相変わらずレベッカからしつこいくらいのキスを与えられていたモカは、最初の頃よりずっと穏やかにそれを受け止めていた。身を固めているばかりではなく、少し応えることもある。だからだろう。彼女の平静を気付くからこそ、レベッカの中には少し先を求める気持ちが浮上する。腰に回されていた腕がぐっと強くモカを引き寄せ、頬に添えられていた手が、首を辿ってモカの胸へと降りていく。モカははっとしてその手を押さえた。

「だめ?」

 唇を離したレベッカは、何でもないことのようにそう囁くけれど、瞳は明らかに普段は見せない熱をはらんでいた。モカは息を呑んで、沈黙する。それでも何かを言わなければと、唇だけが微かに震えていた。

「触りたい、モカ」

「ま、待って、ごめんなさい、まだ」

 言葉にしてはっきりと求められると焦りが生まれ、咄嗟にそう答える。モカはずっと「まだ」を繰り返している。これを、レベッカはいつまで聞いてくれるのだろう。そんな不安がモカの中には確かに存在していた。しかし、それでもモカは踏ん切りが付かない。動かぬように押さえ付けている手を離せない。レベッカはモカから目を離さずにじっと瞳の奥を覗き込んでから、穏やかにゆっくりと瞬きをした。

「そっか。うん、分かった。もう変なとこ触らないから、手、放して」

 声は優しく、不満や憤りを少しも感じさせない。ほっとしたのも相まってモカは素直に掴んでいた手を解放する。宣言通り、その手は胸などを辿ることなくシーツの上に落ちた。

「よいしょ」

 そこへ移動させたのは上体を持ち上げる為でもあったらしい。手を付くと同時に少し起き上がったレベッカは、そのままモカに覆い被さるようにして体勢を変えた。ベッドが軋む音に緊張を深めたモカを見止めたのか、少し笑って、モカの額に触れるだけのキスを落とす。

「大丈夫、変なことはしないって。ただちょっと心配はしてるけど」

「心配?」

 会話が始まると、モカの緊張は少し落ち着く。しかし騒がしかった心臓がその瞬間にぴたりと落ち着くわけではない。いつもよりもまだ少し早い鼓動を感じながら、レベッカを見上げた。暗闇の中でも、視線が絡んで、レベッカの目尻が柔らかく下がるのが見える。

「アタシがこうして誘ってる内に受け入れないと、後の方がモカ大変じゃないかな、って」

「……どういう、意味」

「だってアタシが『モカの心の準備が出来るまで待つよ』って言ったらさぁ」

 レベッカは一度そこで言葉を止めた。しかし続きを聞かなくともモカは彼女の言わんとしていることを理解し、硬直する。

「進むとき、モカから誘ってくれることになるじゃん?」

「……それ、は」

 出来ない。モカの頭の中にはその一言だけがはっきりと浮かぶ。「準備が出来た」なんてどんな顔でどんな風に伝えるというのだろう。大体、何とか誘えたとしても、誘ってしまえばもう「待って」なんて言って留めることも叶わなくなる。そんな覚悟を持って、『先』を自らレベッカに求めるようなこと、モカは全く想像できなかった。

「ま、モカが一生こういう関係のままで居たいって言うなら、そっちで良いのかもしんないけどね。どうなの?」

「ど、どう、って」

 いつかは進みたいという気持ちがモカの中にもあるのかをレベッカは問い掛けている。モカは再び言葉に詰まった。考えたことも無かったのだ。モカは、レベッカとこのような関係を持つこと自体、今まで考えもしていなかった。恋人という関係になった時も、名前だけかもしれないと思っていた。レベッカがモカに対してそのような興味を抱くことそれ自体に対し、今も信じられない気持ちがモカにはある。これだけ求められても尚、分からないのだ。関係を推し進めようしていたレベッカの行動の原因が『焦り』だと感じた時は納得できた。けれどその焦りを含まず、穏やかに距離を詰めようとする理由は、じゃあ、何なのだろう。

 いつまで経っても何も言うことが出来ず、しばらく沈黙が落ちた後、レベッカは再びモカへと優しく微笑んだ。

「今度にしよっか、この話も」

「……ごめんなさい」

 こういう話になると、モカはいつもまともに答えられない。湧き上がる罪悪感にモカは眉を顰めていた。レベッカは穏やかに笑ってくれているけれど、本心はどうなのだろうかと思ってしまう。しかしレベッカはそんなことも分かっていると言うかのように、モカが寄せた眉間の皺を指先で優しく撫でた。

「いいよ、じゃあキスだけしよー」

 そう言ってレベッカが更に距離を詰めた。それはもはや二人とって慣れ始めたいつもの触れ合いであるのに、つい先程いつもと違う触れ合いを求められたせいか、モカは咄嗟に顔を背ける。唇を狙っていたはずのレベッカが動きを止めた。

「こっち向いてよ」

「も、もう充分、したと思うのだけど」

「アタシは足りてない」

 不満そうにしている気配は感じているものの、モカは顔を上げられない。慣れたと思った触れ合いすら、ほんの少し空気を変えられてしまえばこうなってしまうのに、『先』なんてやっぱりモカにはとんでもないと思うのだ。

「ふーん……」

 動かないモカに、レベッカが零した声はいつもと少し色が違う。しかし危機感を覚えるよりも、レベッカが動く方が早かった。

「じゃあ今日は耳にしようかな」

「ちょっ、と!?」

 顔を背けた代わりにレベッカの方を向いている耳の先をぱくりと咥えられて、モカは慌ててレベッカを両手で押し返した。モカはそれなりに力を入れたつもりかもしれないが、非力な細腕で押し返してくることが覆い被さる体勢を取っているレベッカには何ら障害ではない。だからその抵抗で耳から口を離したのは、モカの心情に応じる彼女の意志だ。しかし耳からは離れても、身体を離そうとはしなかった。

「耳が嫌なら、こっち向いて。どっちか頂戴。嫌は聞かない。本気で押さえ付けるよ」

「待って、やっぱり、さっきの怒っているの?」

 いつになく低い声で、求めることはあまりに強引だ。優しい言葉も表情もモカを気遣っていただけで、もしかしたらレベッカの中には強い不満が隠されていたのだろうか。元より罪悪感を抱いていたモカはそのように感じ、身体を強張らせる。だが途端にレベッカの纏う空気が和らいだ。怯えさせたと気付いたからだろう。声色は優しくなり、指先は控え目に、モカを窺うように頬に触れる。

「ううん、ごめん。欲しいから、ちょうだいって言ってる。我慢できないから、我儘言ってる」

 正直すぎる言い分は、第三者であれば聞き入れるに値しないと思うだろう。しかし、レベッカがこのように我儘を押し付けてくるのはモカにだけだ。そんなことがモカにはあまりにも愛おしく、堪らなく弱かった。モカは視線だけで、レベッカを見上げる。

「……キスは、い、いつもの、よね」

「うん」

 答えるレベッカの声が笑っている。了承が返ることをもう分かっているのだろう。ゆっくりと大きな呼吸を挟み、モカはレベッカの方へと顔と身体を向けた。眉と目尻を下げて、レベッカが嬉しそうに微笑む。

「ありがと。モカ、好きだよ」

 そう言うと、返す言葉を迷う暇も与えることなく深くモカへと覆い被さり、レベッカは求めたままにキスをした。

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