第108話_秘密が散らばるタワー内
朝日が昇り始める頃、タワーの中からは人影が無くなる。中で働く者のほとんどはタワー外にある自宅へ帰っており、奇跡の子らは割り当てられた部屋で寝ている。二十四時間ずっと動いているような施設もタワー内には多くあるものの、この時間帯には利用者が少ない為、配置されている職員も少ない。そうして必然的に、タワー内からは人の気配が激減する。
レベッカは一人、そんな静かなタワーの廊下を歩いていた。のんびりと歩き、少し進んでは立ち止まって、窓から見える朝日をぼんやりと眺める。おそらくはもうすっかり眠いのだろう。彼女にしては歩幅も随分と小さかった。
「……レベッカ?」
「え」
不意に背中へ掛けられた声に、レベッカは驚いた様子で振り返る。少し離れた廊下の向こうに、モカが立っていた。時間帯を考えてか、モカは酷く静かな足音で、レベッカへと歩み寄る。
「びっくりしたぁ、どうしたのモカ、こんな時間に」
「私もそれを問う為に声を掛けたのだけど」
レベッカの言葉にモカが苦笑を漏らす。二人の声はいつもより静かで控え目だ。すぐ近くにある子らの居住域の部屋にまで廊下の音が響くようなことは無いだろうけれど、廊下があまりに静かであるから、自然とそうなってしまうのだろう。
「そういえば前にも、こんな時間に歩いていたわね」
「あー、……そんなこともあったねぇ」
モカとアランの逢瀬を見てしまった時だ。逢瀬とは言え、あの時の二人は別れ話をしていたとのことだけれど、レベッカにとってはあまり良い思い出ではない。あの時に味わった苦い気持ちを、彼女はまだまだ忘れられそうにない。居心地悪そうにぐしぐしと前髪を弄った後、レベッカは再び窓の外を眺める。
「レベッカ」
「んー? ……っていうか、モカは何してたんだっけ。眠くないの?」
問い掛けるレベッカは一瞬だけしかモカへ視線を向けなかった。朝日はすっかりと姿を現し、首都はスラム街からタワーの足元である
「私は、資料室に行っていたの。気になることを調べていたらいつの間にかね。レベッカは?」
「アタシは別に何も。散歩」
短い返答に、モカは目を細める。レベッカの表情はいつも通りに柔らかく、口元にも笑みが浮かんでいる。しかし視線は遠くへ向けられたままでモカを見ようとしていない。
「レベッカ?」
「おわ、何」
ぶつかりそうなくらいに近付くと、モカはレベッカへ顔を寄せる。流石に驚いた様子でレベッカは振り返り、少し仰け反っていた。彼女の目が二つ瞬いたのを見守ってから、モカが首を少し傾ける。
「きちんと事情を聴かなきゃいけない気がするわ。浮気でもしてるの?」
「いやいやいや、するわけないでしょ」
「本当かしら」
当然のようにレベッカはモカの疑いを否定してくれる。モカも本気で『浮気』なんてことを疑っているわけではないだろう。しかし、それならちゃんと話してくれれば良いのに、レベッカはそれ以上の言葉を口にしようという様子が無い。睨み付けるようにじっと見つめてから、モカは一度レベッカから身体を離した。
「ちょっとこのまま部屋に来て。尋問しましょう」
「ワォ……」
そう宣言した通り、モカはそのままレベッカを自室へと連れ込んだ。歩く速度も頼りなくなるくらいには身体が眠りかけていたレベッカは、藪蛇に軽く項垂れていた。けれどいざモカの部屋に入り込んでしまうと、慣れた部屋が安堵を齎したのか、どうでも良くなってしまったらしい。先に入り込んだモカの身体を徐に抱き寄せる。
「ちょっと、何」
「何かこんな時間に部屋に呼ばれるって良いなぁ、特別な感じがするね」
「レベッカ、そういう話じゃないのだけど?」
苦言を呈するも、レベッカがお構いなしに頬に唇で触れてくるので、思わずモカは身体を固めた。三度ほど押し付けられた後で、モカのこめかみにぐりぐりとレベッカの額が押し付けられる。身を引こうにも完全に腰をホールドされてモカは身動きが取れなかった。
「レベッカったら」
「んー」
モカは呼び掛けながら俯いた。これでキスまでされようものならまた誤魔化されてしまうと、そう思ったせいだ。今のところ顎を掬い上げてくる気配は無いが、レベッカはモカの側頭部にぎゅっと頬を寄せると、彼女の身体に回していた腕を腰より少し上へと滑らせる。モカの身体は更に少し緊張し、その先を止めさせる意味も込めて、慌てて口を開いた。
「それで、何処に行っていたの?」
「人と会ったりはしてないよ」
「行き先は?」
「ナイショ」
即答だった。それを嫌がったのはレベッカの方ではなかったのか。沈黙したモカの心情を気付いていないわけがないのに、レベッカから溢れる気配はご機嫌なままで、相変わらずモカに頬ずりをしていた。
「あなたはよく、この時間に出歩いていたの?」
「時々ねー」
「いつも同じところに?」
「まあ、大体?」
回答から行先を導き出そうというつもりは、モカには無かった。不満である理由ははっきりしている。しかし不安である理由はなんだろう。本気で疑っているわけではないのに、自然と同じ言葉ばかりがモカの頭を過る。
「浮気じゃなくて?」
「はは、違うってば。人に会ってるわけじゃないから」
レベッカの身体がくつくつと揺れる。随分と楽しそうに笑ってくれているが、モカは同じようには笑えそうにない。ただ、レベッカが嘘を言っていないのは分かっている。問い詰める権利がモカにはあるだろう。元より隠し事を嫌うのはレベッカの方なのだから。それでも、モカはレベッカのそれを強引に探るような真似が出来ない。彼女は一生懸命、落としどころを探している。
「内緒の理由は?」
「えー、うーん、なんだろ。……ポリシー? みたいな」
「……そう」
未だぐりぐりと押し付けられているレベッカの横顔を、モカは少しだけ力を入れて押し返した。
「納得したわけじゃないけれど、まあいいわ」
そう言って、腕の中で大きく深呼吸をする。答えが得られそうにないことは大いに不満であるものの、暴く必要は無いととりあえず判断したのだ。レベッカからは、何かに困っている気配がしない。むしろ食い下がればきっと、聞きたがるモカに対して困ってしまうのだろう。惚れた弱みだろうか。やはりモカはこれ以上、強く出られそうになかった。
モカが顔を上げようとすれば、レベッカは気付いて腕を緩めてくれた。目が合うと、レベッカはいつもと何も変わらない笑顔でモカに微笑んでいて、瞳は優しいままで、それはモカを何処までも安堵させる。
「レベッカ、浮気じゃないなら」
「うん」
「ちょっと、……構ってくれる」
きょとんと目を丸めて見つめてくる視線が気恥ずかしく、モカは再び俯いてレベッカの肩に額を押し付ける。レベッカが、笑った気配がした。緩んでいた腕が再びモカの背中を締め付ける。
「はは、眠気がふっ飛んじゃったなぁ」
甘くなった声がそう囁いたと思ったらすぐに顎を掬い上げられて、レベッカに口付けられる。
ただ、二人の間には特に進展は無い。そのままそれぞれシャワーを浴びてベッドに入るも、いつも通りの優しいキスと他愛ない会話を交わし、いつになく遅い就寝をした。ただそれだけの時間、と言えなくもないが、今はこれが彼女らにとっては『恋人としての大切な時間』なのだろう。眠り就く頃にはもう、モカは不安な思いを残してはいなかった。
就寝が遅かった二人は、当然のように起床が遅かった。夕方と呼ぶ時間が近くなった頃にようやくランチを取るべく食堂へと向かう。その時間帯であれば食堂の人も随分と少なくなるものだが、二人が入ろうとしたところで、そこからはアランとイルムガルドが揃って出てきた。
「やあ二大美女じゃないか。お揃いで」
笑顔でそう挨拶をしてくるアランに、レベッカは小さく舌打ちをすると顔を背けている。モカは苦笑をしながら、アランへと向き直った。
「その呼び方はちょっとね。ところでそっちは、何だか珍しい組み合わせね。あ、お茶の約束を済ませていたのかしら?」
「ああ。テイクアウトにしたからね、此処で頂いていたんだ」
いくらタワーの食堂が他と比べて一段も二段も質のいいメニューを提供していようと、流石にそれで約束を済まそうとするアランではない。むしろ格好を付けることが好きな彼こそ、他の場所を好むだろう。最初はその予定でいたようだったが、あまりにイルムガルドが有名で人気が高く、一番街に下りただけで何度か囲まれてしまった為、テイクアウトにしたとのことだった。
「あらあら。大変だったわね」
「まあね。しかし護衛役も中々楽しかったよ? 滅多に出来ることじゃないからな。また一番街へ行きたい時は俺に声を掛けろよ、イルムガルド。いつでも守ってやるからな」
彼の言葉にイルムガルドは素直に頷いている。目の端でそれが見えたのか、レベッカが少し眉を寄せた。アランに対して懐いているのがどうしても気に入らないらしい。
「何処へ行ってきたの?」
「一番街でお気に入りのケーキ屋だよ。特に生クリームに拘っている店でね。俺のイチオシだからと選んだんだが、どうやらイルムガルドは生クリームが好物らしくってさ、流石は俺だな、勘が冴えてた!」
アランはそう言うとイルムガルドの頭を軽く撫で、「うまかったよな」と問い掛ける。イルムガルドはアランを見上げてから、うん、と一つ頷く。やはり仕草一つ一つが、他の奇跡の子に対するそれと比べてやけに従順で、普段の素っ気なさが表れない。
「奥様との馴れ初めも教えてくれたんだが、まあ何だ、愛妻家であるのは深く理解したよ。イルムガルドの奥様へは不用意な発言を絶対に控えようと思ったね」
「賢明だわ」
「誰に対してもそうしてろよ」
不機嫌なレベッカの声が入り込むと、アランは軽く肩を竦めてから、食堂の奥へと視線を向けた。
「おっと、そろそろ時間かな。イルムガルド、これから装備調整なんだよな」
「うん」
「あまり拘束しては俺が司令からお咎めを受けてしまう。行っておいで。今日はありがとう」
そう言って笑うと、アランはイルムガルドを解放した。エレベーターホールへと歩く背中に向かってアランが「またな~」と言って手を振れば、振り返ったイルムガルドがちゃんとアランに向かってばいばいと手を振り返す。妙に幼い仕草が愛らしい。アランも思わず表情を綻ばせた。当然、モカとレベッカは一瞬目を見張った。
「本当に、関わるほど可愛く感じる、不思議な子だよなぁ」
「イルはダメだよ」
食い気味にレベッカが低い声で告げる。他の子ならば良いのかと問われてもレベッカは決してイエスと言わないのだろうけれど、それはさておき、この件についてはアランも当然、異論など無かった。
「分かっているさ。奥様に対しては勿論、イルムガルドにも手を出す気は無いよ」
そう言って、アランが降参するように両手を上げる。それだけで話が終われば良かったのに、アランがわざわざ身体をレベッカの方へと向けた時、モカは苦笑を零した。レベッカも察したのだろう、視線だけをアランに向ける。目が合うと同時に彼はわざとらしく口角を引き上げた。
「だが友達という意味では、俺の方がレベッカよりずっとイルムガルドとは仲良しだな!」
事実であるかもしれないだけに癇に障ったのだろう。レベッカは表情で不快感を露わにした。アランと言う人は、とにかく何かをレベッカと奪い合わないと気が済まないのかもしれない。モカは隣の彼女を宥めようとするかのように、優しくその肩を撫でた。
「アラン君、だからあまりレベッカを煽らないでったら」
「おっとモカ。君も興味は無いか? あの子、俺にも少しだけ笑ってくれるんだ」
「……え?」
これをいつもの戯れだと考えていたモカは、瞬時に変えられた空気に戸惑い、呆けてしまった。アランは彼女達の戸惑いを知りながらも言葉を止めてやろうという様子が無い。
「初めて二人きりで話した時にも一度笑ってくれていてね。奥様以外には笑わないんだと聞いていたから、俺も驚いた」
「……イルが、お前に笑うわけが」
「無いと思うだろ。俺だって思ったさ。だから見間違いだったかもしれないと、今日までは思っていたんだ」
イルムガルドは最初に見せたきり、アランと会話をする機会があっても同じように笑みを浮かべはしなかった。他の子らに対するのと同じく無表情の対応を見ていたアランは、その内に、勘違いだったかもしれないと考え直すようになったのだ。しかし。モカは思わせ振りなアランの言い回しに、難しい顔をして彼を見つめ返す。
「つまり今日も、あの子が笑ったと言うの?」
「ああ。しかもあの子は会話の中で何度も口元を緩めて応えてくれた。奥様の話題ではない時でもね」
モカとレベッカは沈黙した。信じられない。彼女らの心の中にはその言葉しかない。だが、アランを快く思っていないレベッカですら、彼がこのような嘘を吐く人間ではないことだけは分かっているのだろう。彼を嘘吐きだと罵るような様子が無い。ただただ、二人はアランを見つめて呆然としていた。
「これは情報共有さ。あの子は可愛い。だが、要所に見える線引きは何だろうな?」
いつの間にかアランは声を小さく落としている。この情報を、まるで「内緒だ」と言うかのように。
「俺は単純な男だからね、『俺だけに特別な顔を見せてくれる』と軽々に喜ぶ気持ちもあるにはある。だけど、疑問が消えないよ」
ちなみに彼だけではなくアシュリーも居るのだが、『奇跡の子』という枠に収めて言うのであれば、今のところ彼ただ一人であることは間違いない。
「ま、そんなミステリアスなところも彼女の魅力かな?」
無駄に上手なウインクを零してそう付け足すと、驚愕にまだ言葉の無い二人を置き去りにして、爽やかな笑顔でアランは立ち去って行った。
取り残された二人はまだ食堂の扉を潜ること無く、彼の背を見送りながら沈黙を落とす。すっかり彼の気配が無くなって、食堂からの音にようやく意識が向いたところで、モカは溜息と共に口を開いた。
「
「その例外がアランってことが何よりもむかつくんだよなぁ……」
難しく考え込みそうになった思考が悔しげに呟いたレベッカによって止まり、モカは思わず小さく声を上げて笑った。
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