第107話_廊下で分岐した行き先

 正午を少し過ぎた頃、イルムガルドは日課の健診を終えて治療室を出る。ガラス張りの廊下から見える外の景色を一瞥し、小さな欠伸を上着の中に隠してから、のんびりとした足取りで廊下を進む。

「あ、イル。お疲れさまー」

 すると、休憩所からの声に呼び止められた。振り返れば、レベッカが笑顔で手を振っている。隣のモカも、穏やか笑みを浮かべてイルムガルドを見ていた。二人を確認して、イルムガルドは少しの間、静止する。

「あはは、戸惑ってるかなこれは。顔を見に来ただけだよ」

「レベッカはね、何度も倒れたあなたが心配なのよ」

 立ち上がった二人は同時にイルムガルドの傍へと歩み寄ったけれど、数歩手前で立ち止まったモカと違い、レベッカは更にイルムガルドの程近くに立つと、そのまま手を伸ばして彼女の頭を撫でた。イルムガルドは振り払うようなことなく、大人しくそれを受け入れている。

「体調は変わりない?」

「ん、もう平気」

 その回答にほっとした顔で笑いながら、レベッカはいつまでも頭を撫で続ける。モカは二人の様子に目を細めた。もしかしたらイルムガルドは、レベッカに頭を撫でられるのは好きなのだろうか。何度繰り返されても逃げようという様子が無い。モカに対しては冷たく「もういいでしょ、離れて」と言い放っていたことを思い返しながらそう考えるが、記憶を辿ればカミラにぐしゃぐしゃと乱暴に撫でられるのも大人しくしていた気がする。つまり避けられているのはモカだけ――と、その思考に至る寸前でモカは考えることを放棄した。

「あ、フラヴィ? フラヴィはまだお昼食べてるよ」

 イルムガルドは何も言っていなかったのに、レベッカが唐突にそう答える。もしかしたらイルムガルドの視線が休憩所内、つまりレベッカ達の背後を彷徨ったのかもしれない。

「今日もテレシアと一緒だったかなぁ。最近ね、ちょっと仲良しなんだよー」

 その言葉をレベッカが口にした瞬間、モカはやや焦った様子でレベッカに視線を向けた。しかし、レベッカの表情は普段と何も変わらない。

「ふうん」

 静かな相槌を返したイルムガルドもまた、いつもと違う様子は見られない。けれどモカは息を潜めて彼女の様子を窺う。『テレシア』の名前をイルムガルドの前で無遠慮に出してしまって良かったのだろうかと、考え込んでいたのだ。だが結局、そのことに対してイルムガルドがそれ以上の発言をすることは無く、彼女の視線は休憩所にある時計の方へと向けられた。

「今日は予定があるから、急ぐ」

「あ、そうなんだ。ごめんね呼び止めて。それじゃあ――」

 またね、と言おうとしたレベッカが、途中で言葉を止める。カツンと高いヒールの音が三人の間に入り込んだ。

「時間に正確な子なのね。大変よろしい」

 涼やかな美しい声と共に、微笑みながらゆっくりと三人へと歩み寄ってきたのはヴェナだ。目を丸めているレベッカの傍らで、何かを察したモカがイルムガルドを見下ろした。イルムガルドはそれに応えたものの、一瞬だけで、視線はすぐに無感動に逸らされる。

「どうしたの、ヴェナ。珍しいね。どっか悪いの?」

 まだ気付いていないレベッカは、治療室のあるフロアに来たヴェナを心配そうに見つめて首を傾けていた。ヴェナが笑って首を振れば、その動きに合わせて、しゃらりと彼女の耳飾りが音を鳴らす。

「いいえ、イルムガルドちゃんを迎えに来たの。この子にも、私の研究に協力してもらえる話になってね」

「え、そうなの? でもイル、今はまだ体調が……」

 レベッカは酷く不安な顔でイルムガルドに目をやる。こうしてタワーに通っているというだけでもまだ心配で、治療室前で待ち伏せしてしまうような心地なのに、そう容易く『新しい負荷』を受け入れられそうにない。ヴェナはレベッカの表情を見止めて、柔らかく眉を下げた。

「ええ、分かっているわ。だから迎えに来たのよ、何かあったらすぐに気付けるようにと思ってね。帰りも職員が自宅までお送りするから、そんな顔をしないで、レベッカ」

 当然、ヴェナはこの研究協力に対して、イルムガルド本人、家族、総司令デイヴィッド、そして医療班の全てから同意を得ている。追加でレベッカから許しを得る必要などまるで無い。それでも彼女の不安を少しでも解消してやろうと説明をするヴェナは、レベッカ個人の心に寄り添おうとするだけ、彼女に対する親愛があるのだ。研究内容の詳細を語ることはまだ出来ないのだと前置きしながらも、しばらくは簡単な検査だけであることを丁寧に語った。

「うん、そっか。分かった。イルのこと宜しくね、ヴェナ」

 やや不安な様子を残しながらもそう言ったレベッカに頷くと、ヴェナはイルムガルドを連れて立ち去っていく。

 二人の背を見送る間、じっと立ち止まったままでレベッカはそこから動かない。モカは何も言わないでそれに付き合ってやった。

「……イル、大丈夫かなぁ」

「私達以上に、研究者であるヴェナさんはきっと慎重だわ。お任せしましょう」

「ん、そうだよね」

 ヴェナの研究は個人の興味や好奇心ではなく、WILLウィルの活動の一部として国から認められているものだ。奇跡の子らを、ましてイルムガルドほど国民からの人気が高い子を無為に危険に晒すようなこと、出来るはずがない。モカの言うことが分かったのか、心配ばかりしている自分のことを少し恥ずかしく感じた様子でレベッカが笑う。

「それにしてもイルムガルドに、テレシアの名前を聞かせて良かったのかしら」

 むしろモカが心配していたのは身体よりも彼女の精神に関わる部分だ。イルムガルドが抱える危うい体質の切っ掛けとなったのがテレシアとの不和ではないかと考えているモカにとっては、どうしてもテレシアの話題はイルムガルドにとって繊細なことであるように思う。レベッカはまだイルムガルドの体質を『生まれ付き』と思っている為、そこまで神経質に考えていないのかもしれないが、テレシアとイルムガルドの間にあったことについては彼女も知っている。つまり、テレシアの件で少なからずイルムガルドが傷付いているだろうとは思っているはずなのに、すんなりと話題に上げたことを、モカは少々驚いていた。

「んー、ちょっと迷ったけど、大丈夫だと思う、っていうか、少しは伝えてた方が良いのかなと思ってさ」

 こう話すレベッカは、何も考えずに口に出したわけではなかったらしい。モカは黙って彼女の言葉に耳を傾ける。レベッカは、人の心についてはモカより遥かに敏感だった。

「イルって多分、テレシアに気を遣ってるんだよね。慰労会でイルがやけにふらふら歩き回ってたの、今思うとテレシア避けてたのかなーって」

「……なるほど」

 モカも慰労会での光景を思い返す。確かにモカが知る限り、大広間で、イルムガルドとテレシアは常に離れた位置に居たように思う。

「でもそれ、イルが会いたくなくて逃げてるんじゃなくて、テレシアが怖がってるのを可哀想って思ってる気がしてさ」

 正直のところ、モカはそれを分からないと思った。レベッカがそう捉えたのであれば、そうなのだろうと思う一方で、モカにはその心情を理解できない。テレシアに事情があったことは、モカも理解している。イルムガルドも分かっているのだろう。だとしても一体どこに、イルムガルドが傷付かなければならない理由があったのだろうか。あまりに理不尽なことだ。それでもその傷を齎した張本人を守る為にイルムガルドが動いているのだとするならば、それはどんなに深い愛情なのだろう。何度考えても、モカはやはり分からないと思った。けれどレベッカは、何かを理解した様子で続きを述べる。

「だからもしかしたら、テレシアが誰かと仲良くしてて、ちょっとはこのタワーに馴染んでるよって話をしてあげたら、少し安心するのかもなって」

「そう……。どう、受け止めたかしらね」

「ハハ、それは流石に分かんなかったな。でもちょっとだけ目尻が緩んだの見た? 傷付いた顔じゃなかったから、まあいいか~って思っちゃった。単純かなぁ」

 その言葉にモカは目を丸める。イルムガルドの目がそのように動いたところは見付けていない。頭を撫でたくて近くに立ったのかと思っていたが、そのような些細な反応も見付けようと思ってのことだったのだろうか。偶々である可能性もあるが、モカからすれば、レベッカも充分に底の見えない人だ。

「でも本当にイルって、表情が変わらないよねぇ。変わってもほんのちょーっとだし」

「託児施設ではあんなに頬を緩めていたのにね」

 あの日まで二人の中では『アシュリーにだけ笑う子』という認識だったが、託児施設でのイルムガルドはまるで別人のように、子供達へと穏やかな笑みを浮かべていた。

「うーん、……託児施設だって、居るのはアタシらと同じ奇跡の子、なんだよねぇ」

 その指摘にモカは眉を寄せる。つまりイルムガルドの素っ気ない対応は、『奇跡の子だから』という線引きではないのかもしれない、ということだ。

「フラヴィより小さいから? うーん」

 腕を組んで首を捻っているレベッカの横で、モカも記憶を手繰り寄せる。アシュリーからの情報によればイルムガルドは『自分より小さい子が好き』らしい。しかしフラヴィのことを可愛いと思っていることは肯定しても、フラヴィに対する態度は一貫して冷たい。一方、託児施設の子達に対して、そのような態度は一切無かった。一人の例外なく、イルムガルドは子供達に優しかった。

「もしくは、あの子達はまだWILLウィルではないから?」

「あー……」

 モカの挙げた予想に、レベッカが眉を寄せる。もしもその線引きであったなら、イルムガルドはこの組織そのものに対して、何か思うところがある、ということになってしまう。それは、彼女を今後扱う側としては酷く危うい状態だ。モカは小さく首を振った。

「いえ。ごめんなさい。少しずつだけれど、私達とも仲良くしてくれていると思うから、考え過ぎね」

「ん、アタシも気にし過ぎたかも」

 これ以上考え込んでも仕方が無いと結論を付け、二人はこの話を切り上げた。

「ところでさー、モカ。今日ひま?」

 イルムガルドの件について話が終わることは理解していたが、普段あまり問われることのないそれに、モカは一拍置いた。先程少し俯いた拍子に前へと流れた長い髪を後ろに戻して、首を傾ける。

「ええ、特に予定は無いわね。今日は健診も入っていないし。どうかした?」

 凡そ答えは予想通りであったのだろうに、レベッカはモカを見つめながら妙な間を取る。そして彼女にしてはやけに落ち着かない様子で、視線を彼方此方に向けた。

「今日、フラヴィ構ってくれないって言ってたし、二人きり、久しぶりだしさ」

 モカは沈黙した。急に今、二人であることを意識してしまったのだろう。今更珍しいことでも、緊張すべきことでもないはずなのに。しかもレベッカがそこで一度黙ってしまうから、モカまでどうすればいいのかを見失って、足元や廊下へと忙しなく視線を動かす。モカを直視していないレベッカは彼女の様子を気付いていないのか、目を向けないままで手を伸ばして、慣れた位置にあるモカの華奢な手を握った。

「デート行こうよ。そういうの、してなかったなーと思って」

「……改めて言われると照れ臭いものね」

 崩れそうになる表情を隠したくて、モカは俯いて前髪を弄る。ただレベッカも照れて視線を明後日の方向へと向けているので、顔を見られる心配は無さそうだ。当然、モカには誘いを断る理由など全く無い。迷わず了承を述べると、「久しぶりにシアターとか行く? 今、何か面白いのしてたかな」「この前、新しい洋服見たいって言ってなかったっけ?」「お腹空いたらさ、前にモカが言ってた、シフォンケーキのお店行こうよ」と、いくつも案を出してくれるレベッカに、モカからは思わず笑みが零れた。

「あなたと出掛けられるなら何処でも嬉しいわ。じゃあ、上着を持ったら、早速行きましょうか」

 今日は外の気温が低い。タワー内を歩く為にコートまでは必要ないものの、外に今の格好で出るのは心許ない。同意を示したレベッカと共に、手を繋いだままで、二人は廊下を並んで歩いて行った。


 一方、先に治療室のフロアを立ち去ったイルムガルドとヴェナは、ゆっくりとした歩調で移動しながら、タワーに隣接している研究施設へと向かっていた。

「体調は本当にもう大丈夫なのかしら」

「んー、倒れたりはしない」

「そう。それは良かった」

 ヴェナは彼女の回答に微笑むと、手元でデータを確認している。そして小さく「うん」と言って、改めてイルムガルド振り返った。

「医療班が持っているデータに関しては今のところ全て共有してもらっているから、此方で同じような検査をさせるつもりは無いわ」

 イルムガルドは説明に簡単に頷く。これは手間や時間の問題だけでなく、当然、イルムガルドの身体の負担にも関係する。そして特に、研究施設の『制限』に関わることだった。

「だから此方は今までに無い変わった検査になると思うけれど、検査前に全部きちんと説明するから、心配しないで。そもそも、あなたに心身の負荷を掛けると、研究者とは言えお咎めを受けるものなの」

 奇跡の子に関する研究は、他の人と比べて多くの制限があった。WILLウィルに属し、正式に『奇跡の子』として認められた子を傷付けることは法律上、特に重罪となっている。そのことからも分かるように、一般人と子らの扱いは同じではない。まず子らは、採血すら、医療行為でなければ法律上は行えない。採った一部を医療班から分けてもらうようなことも許されていない。よってそのようなデータは医療班が『医療行為』の範疇で取っているものを共有してもらう他ないのだ。

「今日は身体を動かさない検査をするわ。身体を動かす類のものは、医療班からの許可が下りてから」

 そう説明をしながら、二人はタワーを出る。外の気温はやはり低く、風も強い。イルムガルドは手に持っていた上着を羽織ったけれど、ヴェナは薄い白衣を羽織った姿のままだ。上着を持っている様子も無く、白衣の下は薄手のニットと膝丈のスカートのみ。イルムガルドが少し気にするように彼女を見上げた。

「どうかした?」

「……寒くないの」

「ああ。そうね、能力の関係かしら。少し寒さに強いのよ、私」

 ヴェナには、身体が冷気を放つという『限り』がある。彼女の場合は完全に制御が出来ている為、意識的に制御を緩めない限りは、もうそのようなことにはならない。しかし元々そういう体質であることもあってか、彼女の身体は自身が放つ冷気に耐え得る性質を持っていた。音速のイルムガルドが、強靭な肉体を持つのとおそらくは同じことだ。

「ふうん。カミラは、暑くても平気だったりするのかな」

「……さあ。聞いたことは無いわね」

 この時ヴェナは一瞬、返す言葉に迷った。普段の彼女を思えば少し珍しい反応だったが、彼女とまだ付き合いの浅いイルムガルドには分からない。迷った理由は偏に、この少女がヴェナとカミラの関係を知っていることだ。少なくとも身体の関係があることには気付かれてしまっている。他の者であったなら「私の前でカミラの話をしないで」と言うのが最も楽だった。しかし、この少女にはそういうわけにはいかなかった。

「そういえば、『見返り』は何か思い付いた?」

 結果、ヴェナは話題を変えることにした。イルムガルドは彼女の困惑を見付けなかったのか、それとも見付けた上で彼女の心情を察して応じたのかは分からないが、カミラの話題を戻すことは無かった。

「お酒とたばこが一番欲しいけど、数値に出るんだよね」

 研究施設に向かう道中、周りには他に人の気配が無いことを確認して、イルムガルドは無茶を口にする。ヴェナはレベッカのように叱ろうとする様子などまるで無く、可笑しそうに笑っていた。

「そうね、違法なものは、私もちょっと困ってしまうわね」

 難しい顔でイルムガルドが首を捻る。此処へ来て間もない頃、『足りないもの』を問われた時もイルムガルドはこうして回答を困った。

 結局イルムガルドが答えを出すより先に二人は研究施設の玄関に辿り着く。ヴェナは入り口の傍にある機械にIDカードをかざし、扉を開錠している。此処はタワーよりも更に厳密に出入りを制限される場所だ。IDの認証が終わっても、何か入力が必要らしい。持っていた物を左に持ち替え、右手でパネルを操作しているヴェナを眺めていたイルムガルドは、彼女が扉を開けると同時に「あー」と呑気な声を出した。

「それがいい」

 彼女が指を差したのは、ヴェナの手元。イルムガルドの視線と指先を追うように、ヴェナは自分の手にあるものを見下ろした。

「新しいおもちゃ」

 そう言って示されていたのは、ノートサイズの端末だ。連絡手段として奇跡の子ら全員に支給されている通信端末とは大きさも形状も全く違う。ヴェナはふっと顔を綻ばせた。この端末を示すにしては、イルムガルドの言葉があまりに愛らしかったからだろう。

「良いわよ。あなた好みのカスタマイズまで、私が責任を持って整えましょう」

「んー、これは何ができるの?」

「ふふ、じゃあその説明からね」

 イルムガルドは頷きながら、ヴェナに促されるまま研究施設へと入り込む。ヴェナにはレベッカ達ほどの背丈は無いが、イルムガルドよりはやや高い。少し身体を屈め、イルムガルドの肩を柔らかく引いた。

「見返りとして渡すのは、もう少し後になるでしょうから、ゆっくりね」

「うん」

 まるで歌うように機嫌よく、ヴェナはイルムガルドの耳元だけに届く声で、その言葉を囁いた。

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