第106話_二人きりの部屋は色違い

 治療室から真っ直ぐに帰宅したイルムガルドは、昼食を取った後はそのままダイニングテーブルに腰掛けて教科書を開いている。教科書は、アシュリーの妹、ルイサから譲り受けたものだ。暇さえあれば、イルムガルドはそれを開いて熱心に勉強していた。

「今日は、おうちに居てくれるのかしら」

 最近のイルムガルドは、治療室帰りに訓練室に行っては倒れて運ばれてきたり、アランの見舞いに出て深夜まで帰らなかったり、落ち着いたと思ったらレベッカ達とお茶をするからと言って夕方に戻るなど、不在が続いていた。WILLウィルの託児施設に出向いた件は共に行動しているのだけど、自宅に居なかったという点では変わらない。何にせよ、アシュリーはただ揶揄うつもりでこう言っていた。本当に憂えているかと言えば勿論それは否で、普通の家庭と比べれば一緒に居る時間は長いのだから、文句などあるわけもない。イルムガルドもそれを理解しているからか、顔を上げてアシュリーを見つめる目は穏やかなままだ。

「うん、わたしもアシュリーと一緒に居たいから」

「そういうところは本当、相変わらずなんだから」

 いつも通りのやり取りに笑い合って、アシュリーは彼女の隣に腰掛けた。既に二人分の紅茶とお茶請けが、テーブルの上に並んでいる。

「もう結構、進んだわね」

「うん。でもアシュリー、この分数の割り算は何処で使うの?」

「それは辛い質問ねぇ。うーん」

 妹からも似たような質問を受けて苦しんだ経験のあるアシュリーは、経験済みであるだけに言うほど苦しい気持ちではなく、笑っていた。アシュリー自身も小さな頃は親へと問い掛け、困らせたものだ。彼女の疑問を『そういうもの』だと言って逃げることは簡単だったけれど、今は仕事や家事に追われているわけではない穏やかな時間の中だから、アシュリーは彼女の問いに真剣に向き合ってやることにした。

「ホールケーキが三分の二残っていて、私とイルで二対五くらいに分けるとすると、三分の二を七分の二で……いえ、これじゃ掛け算になるわねぇ」

「今のもう一回言って、アシュリー」

 ノートを捲って新しいページを開いたイルムガルドは、目をきらきらさせてそう言う。アシュリーは笑いながらもう一度繰り返した。熱心に言葉をノートに書き込んでいる様子も愛らしい。

「本当だ、掛け算だね。答えは二十一分の四……アシュリーもっと食べて良いよ」

「あら、分からないわよ、私が五かも」

「えー」

 問題として取り出した例え話でしかないけれど、実際に残ったケーキを二対五で分けるならやはり、アシュリーが五を選ぶことは無いだろう。何だか無性に可笑しくて、アシュリーはずっと笑っている。一方でイルムガルドは、アシュリーが五である場合の再計算に忙しい。

「そうしたら、二十一分の十。ほとんど半分だね」

「ほんのちょっとイルが多めね」

「それ最初の三分の一はわたしが食べたってことだよね。半分にしようよ」

 苦笑しているイルムガルドだったけれど、やはりこの問題が現実になったとしたら、イルムガルド優先の分け方をするのだろうと思う。適当な数字を選んで問題にしてみたが、現実に当てはめて考えると何処か滑稽で可笑しい。二人でくすくすと笑う。

「あ、割り算、分かったわ。イル、この部屋の壁紙の五分の二を張り替えるのに、八分の三リットルの糊を使ったとするでしょう」

「うん」

 改めて『割り算』の為の問題を述べるアシュリーの言葉を、イルムガルドは忠実に書き取っている。

「全面を張り替えるには、糊は合計何リットルが必要かしら?」

 イルムガルドはしっかりと書き終えたけれど、ぎゅっと眉を顰めて難しい顔で文章を見つめる。

「えぇ……これが割り算になるの?」

「ふふ。そうよ、だって三分の一の張り替えに二分の一リットルだったら、三倍するでしょう?」

 アシュリーの言葉に、イルムガルドは天井を見上げて考えてから、はっとした顔をする。

「本当だ」

 納得すると同時にまた目をきらきらさせて、イルムガルドはノートに向かう。彼女が計算式を書いて、正解の数字を導き出したところで、アシュリーが横から赤いペンで花丸を付けてやった。イルムガルドは目尻を少し赤く染めて、嬉しそうに笑う。

「こうして文章にすると楽しいね」

 ノートを眺め満足そうに呟くと、休憩をするようにイルムガルドは紅茶と茶請けに手を伸ばした。

「それは良かった。お勉強、楽しい?」

「うん、知らないこと沢山あって楽しいよ」

 答える声がはっきりと弾んでいて、心からそう思っているのだと分かる。勉強が大好きであるというのは稀な子にも思えるが、「分からない」「だけど誰にも聞けない」という恐怖や不安にずっと耐えてきた彼女だからこそ、このように感じるのであって、もしもイルムガルドが当たり前に教育を受けていたとしたら、同じように感じたとは思えない。この結果が良いか悪いかはともかくとして、イルムガルドが得られずに生きていたものの一部を今、補ってやれていることを、ただ、アシュリーは嬉しいと思った。

 計算の問題に飽きてしまったのか、他の教科書をぱらぱらと開いているイルムガルドが、科学のところでふと手を止める。

「こういう実験とか、楽しそうでいいなぁ」

「ああ、そうねぇ。そればかりは、教科書じゃ物足りないわよね」

 科学の教科書の中には、実験を行うことを前提に記載されている部分が多くあり、理論だけでなく、実験手順と結果が記載されている。いくつかの写真もあるにはあるが、全て自分の手で行って、それを目で確認するのとは、所感は全く違うものだろう。

「そういえば、実験自体は出来ないけれど、映像なら見られるかもしれないわ」

 ふと記憶を辿って呟いたアシュリーの言葉にイルムガルドが興味を示した為、図書館で幾つか、児童向けの科学実験の動画が閲覧可能であったはずだと伝える。以前一緒に、シーソーの理論について調べた時、近くにあったので覚えていたのだ。

「私も久しぶりに見てみたいから、今から行ってみる?」

 すぐに見たいだろうという思いでそう提案したのだけれど、イルムガルドは首を傾け、少しだけ考えるように沈黙した。

「んー、ううん、明日にしよ」

 首を振った彼女をアシュリーが意外な気持ちで見つめ返すと、イルムガルドはその幼さに似合わない色を瞳に浮かべた。

「今日はアシュリーと二人で、部屋に居たいから」

 その言葉に一瞬、目を丸めてから、アシュリーはふっと笑う。「相変わらずね」と続けたくなる内容だったけれど、本日二度目になってしまうので、アシュリーはそれを飲み込む。代わりに、隣の小さな肩に寄り添うように身体を傾けた。

「じゃあ、今のイルは、私だけが見られるイルなのね」

「うん」

 甘ったるい声と、優しい体温を感じながら、それなら今日は買い物に行くのも止めてしまおうとアシュリーは思う。夕食は、ありあわせのもので作ってしまえばいい。再び違う教科書に目を落とすイルムガルドの傍らで、アシュリーは冷蔵庫の中身にぼんやりと思考を巡らせ、二人きりの時間を堪能することにした。


 同じ頃、昼間にも拘らず、電気を落としてしまえば夜のように暗い部屋の中で、ヴェナは呼吸を整えていた。

 それを乱した張本人であるカミラは、機嫌良さそうにいつまでもヴェナの肩や頬に触れ、その肌の感触を楽しんでいる。ヴェナは何も言わなかったけれど、表情は明らかにそれを煩わしそうにしていた。

「……煙草」

「ん?」

「本数、増えたのね」

 まだ少し吐息の混じる声でそう呟くヴェナの視線が、テーブルの上にある灰皿に向いているのを見止めて、カミラが「ああ」と頷く。

「そうだな、少しな」

 回答を得る頃、ようやく感覚が落ち着いたのか、ヴェナはカミラの手を払って気怠そうに身体を起こす。そして落ちていたカーディガンを手に取って違和感なく羽織っているが、その服はカミラのものだ。許可を取る様子のない無遠慮な振舞いに、カミラは何処か楽しそうに笑う。

「私は煙草の臭いが嫌いなの。吸った後は部屋に呼ばないで」

「そうか、悪い。気を付ける」

 不機嫌な様子で零した言葉に対してカミラが軽く応じるのを、ヴェナは目を細めて振り返る。本当かどうかを疑っているのだろう。ただ、それ以上を追求しようとはしなかった。自分の服をかき集め、再び断りなく、ヴェナはバスルームへと歩いて行く。扉が閉まってから十秒後、シャワーの音が静かに部屋に響いた。

 一人になってしまったベッドの上でカミラは寝返りを打って目を閉じたものの、一分後にはもう身体を起こして、脱ぎ散らかした服を身に着ける。ベッドも整えてしまえばもう、二人の間に何があったかを示すものは無くなりそうだ。しかしカミラにそれを整えようとする様子は無い。むしろベッドから落ちそうになっていたシーツを雑に跳ね上げて、名残りをそのままにした。

 シャワーを終えてきちんと服を身に着けたヴェナは、その乱れたままのベッドを一瞥したが、何も見えなかったかのように視線を逸らす。それを不快と受け止めることすらカミラの思惑に沿うようで、気に入らないのかもしれない。カミラは、テーブルの方に居た。

「一杯どうだ?」

 そう言いながらカミラはボトルを傾け、氷の入ったグラスにウイスキーを注いでいる。既に飲み始めていたらしく、彼女の持つグラスの氷はすっかり角を丸めていた。

「……一杯だけね」

「ああ」

 改めてヴェナの為に用意されたグラスには、四角いままの氷が三つ入っている。カミラはそこへウイスキーと少しの水を足して、水割りを作ってやった。ヴェナはそれに何も言わない。差し出されたそれを無言のままで受け取ると、氷を軽く回すようにグラスを揺らしてから、ゆっくりと口を付ける。直後、少し意外そうに眉を上げた。

「悪くないわね」

「そりゃあ良かった。あたしが持ってる中では一番まともな酒だからな」

 普段のカミラは安酒ばかりを飲む。当然、彼女も奇跡の子なのだから、お金に困っているわけではない。家族には今までの迷惑料も兼ねて幾らか仕送りをしているものの、自らが楽しむ為の酒を買えないほど貧窮していなかった。ただカミラは、味に頓着しない。高い酒を飲んだところで、以前デイヴィッドにも告げていた通り、それが良いものであると全く判断できない。ならば安酒で問題ないだろう、むしろ高いものは自分には勿体ないというのが、彼女の考えだった。

「いつもの酒屋でな、あたしがあまりに安酒ばかりを買うもんだから、店主が『偶には良いものを飲め』ってこれを勧めてくれたんだ」

「そう。あなたには本当に勿体無いことね」

「はは、全く、あたしもそう思うよ。だからせめてお前が居る時にな。付き合ってくれて助かったよ、この酒にもようやく価値が出るってもんだ」

 ヴェナもカミラと同意見であったらしい。そもそもヴェナは昔から、味に対するカミラの鈍さと無関心を知っているのだから、無理もないことだろう。

 だからヴェナは、自分の舌を通しても『悪くない』と思える質のお酒が、この部屋にあるなど予想していなかった。つまり、このテーブルに着いたヴェナは、安酒に付き合わされるつもりだったのだ。そしてその肴がカミラの語る呑気な世間話であろうことも予想していた。後者は想像通りのものであり、ヴェナはいつもと何も変わらずに冷たい相槌だけを返すものの、行為の後は会話少なく立ち去ることが多い彼女にしては、そんな状況に留まるのは、随分と珍しいことだ。その変化にカミラが気付かないはずがなかった。

「今日はいつも以上に優しいな、何か良いことがあったか?」

「普段も優しくしているみたいな言い方をしないで」

 ヴェナの様子を『珍しい』と捉えた理由は分かるが、問い方が幾らも悪い。普段から徹底してカミラに強く当たっているヴェナの心情を、わざとらしく逆撫でしていた。案の定、眉を顰めて睨み付けるヴェナの様子に、カミラは満足そうな笑みを浮かべている。呆れたように息を吐いたヴェナは、少しの沈黙を挟み、問いに答えた。

「そうね、良いことは、あったわね」

 肯定だけをして、ヴェナはその内容を語る気が無かった。しかしカミラはそんなことを気にすることもなく、「そうか」と言う。声はあまりに甘かった。

「良かったな」

 付け足すようにそう囁くカミラの表情は何処か嬉しそうにも見える。それがどのような『良いこと』であったのかを、カミラには少しも推し量れはしないだろうに、ヴェナにとって『良いこと』であるなら無条件に嬉しいとでも言いたげな反応だ。ヴェナは一瞬だけ視線をカミラへ向けて、すぐに手元のグラスへと落とした。その時に思わず零れてしまった溜息が、口元に寄せていたグラスの内側を微かに曇らせる。ヴェナはそんな変化すらも煩わしいとでも言うように、いつになく慌てた手付きでグラスを回して曇りを消した。新しく水割りを作り直していたカミラは、彼女のそんな様子を見付けることは無かった。

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