第116話_タワーのロビーで落ちた衝撃
脇に縫いぐるみを抱えながらもランチプレートを両手でしっかりと持ち、フラヴィは食堂内を歩いていた。しかし彼女はテーブルとは少し違う方向へと進むと、ほんの少しだけ自分より高い位置にある後頭部に声を掛ける。
「テレシア」
「あ、フラヴィちゃん、おはよう」
「おはよ。僕、あっちに居るから」
「う、うん」
共に食事することが当然であるようにフラヴィが言えば、テレシアは戸惑いながらも頷き、何処か嬉しそうに口元を緩めた。
このように二人はほとんど毎日、食堂で共にランチを取っている。未だに控えめなテレシアは自分から傍に行くことは躊躇っているけれど、今のようにフラヴィが暗に「来い」と示してやれば迷わずにやってくる。面倒見のいいフラヴィは彼女が慣れるまで声を掛けてやろうというつもりなのだろう。
ただ今日はいつもとは違い、フラヴィとテレシアの二人が並んでランチを取っているところへ、不意にフィリップが現れ、フラヴィの正面へ座った。
「おー。おはようフィリップ……ん? なんか疲れてる?」
「疲れてるわけじゃないけど」
そう言いながらもフィリップは何処か沈んだ表情で溜息を吐く。
ちなみに、呼ばれてもいないのに彼が二人と同じテーブルに着いたのはこれが初めてのことだ。そして普段ならばさっさと食事を済ませて退席する、もしくは強制的に退席させられているような彼なのだけど、今日に限ってはフォークを手に持つ様子も無く、飲み物を傾けて食事を眺めるばかり。しかし自ら何か話し出そうという様子も一向に示さず、見兼ねたフラヴィが話題を振った。
「そういえば、フィリップが協力してるヴェナの研究って一体何なの?」
以前、食堂で彼が立ち去ってしまった後、「今度聞こう」と思っていた内容だ。彼女の声に顔を上げたフィリップは一瞬きょとんとした後、先程までの憂いを含んだ表情を消して首を傾けた。
「さあ、私も良く知らない。ヴェナと研究員に言われるままに検査してるだけだし」
「どんな検査?」
「日によって違うけど、一番多いのは植物操作してる時の脳波測定かな」
彼の能力の特殊さを解明しようとしているという意味では、それは納得の出来るものだ。ただ、測定した結果や研究の進み具合などはフィリップに共有されているものではないらしく、彼もそれ以上のことは何も知らない様子だった。他には植物操作で出し得る力の強さや、精度の高さなどの測定もしているらしい。
「トレーニングも兼ねてる感じだなぁ」
「確かに。前よりちょっと動かしやすくなってるかも」
フラヴィの指摘に、フィリップが少し笑う。話す内に憂えていた気分も晴れてきたのか、もしくは気が紛れたのか、ようやくフォークを手にして彼も昼食を始めた。そして食べながらも器用に、フィリップは愚痴を混ぜつつ、日頃の研究の話を細かく二人に語り聞かせていく。
テレシアもフラヴィも研究施設に立ち入ったことが一度も無い為、彼の語る内容の全てが新鮮だった。そうしてフィリップが主体となって研究の内容や施設の様子を話していたはずなのに、三人の中で最初に食事を終えたのはいつも通り、フィリップだった。
「お前、食べるの早いよな」
「そう?」
本人には意識が無いらしい。けれど標準的な速度で食べられるはずのフラヴィと比べても圧倒的に早い。男女の差であるかもしれないけれど、他の理由を考えてしまう程度には、彼の食事は早かった。
「ヴェナに毎日急かされてるせい?」
「やめて。ヴェナのことは思い出させないで。休暇なんだから」
「あ、今日は休暇なのか。道理で……」
食べ始めがあまりにのんびりしていた為、「またヴェナに怒られるんじゃないか?」と、頭の片隅でフラヴィは気にしていた。しかし休暇であるならばフィリップも今日はのんびりしていて問題ないという意識があった為なのだろう。つまりフィリップは特に急いでなくとも、この食事速度であるようだ。
酷く感心していたフラヴィだけれど、本人の意識が無いのであればその理由や原因を追及しても仕方ない。フラヴィはまた違う話題を探した。
「そういえば最近、イルムガルドも研究施設に行ってるんだって?」
瞬間、フィリップは何故か固まった。それはほんの短い間であり、ごく小さな反応だ。違和感にフラヴィはランチプレートから目を離して顔を上げるが、その時にはもうフィリップは彼女の問いに頷いていた。
「……うん。知ってたんだ」
「レベッカとモカが聞いたらしくてね」
又聞きの情報でしかない為、詳しいことはフラヴィも知らない。二人がイルムガルドの様子を見に行ったらヴェナに連れて行かれた、ヴェナの研究を手伝うらしい、身体に負荷が掛からないようにはヴェナが気を付けてくれるらしいと、聞いたのはその程度の話だ。それを二人にも伝えてみれば、テレシアはほっとした表情を見せていた。一方フィリップは事前に同じような内容を聞いていたのだろうか。肯定するように頷いている。
「あいつとは研究施設内で顔合わせてんの?」
「検査してる時は会えないけど、始まる前にいつも十五分くらい話してくれてる」
「へー」
聞けば内容は他愛ない話ばかりだし、どうやら話しているのはフィリップばかり。それでもイルムガルドが毎回それに付き合ってやっているということが、フラヴィからはどうにも信じ難い。フラヴィにとってイルムガルドという人はそんなに面倒見が良くも、付き合いが良くも見えないのだ。とは言え、もう託児施設で小さな子供達に優しく応じている様は見てしまっているので、形容できない複雑な気持ちがただ胸に湧き上がる。
「……それでさ」
妙な気分を飲み込もうとしてフラヴィが少し黙っていたところで、徐にフィリップは声を静かにして、神妙な顔をした。フラヴィが首を傾けるけれど、彼の視線は珍しくテレシアの方へと向く。テレシアは視線に気付いて軽く肩を強張らせた。
一度きちんと話をして以来、フィリップがテレシアに噛み付くことは無くなった。しかし彼から話し掛けることは無いし、テレシアも挨拶以外はフィリップに話し掛けることは無い。二人は今も、フラヴィが居るから一緒に居るだけ、という状態だった。だから視線を受けたテレシアの緊張も頷ける。ただ、噛み付きもしない内から止めるつもりはフラヴィには無く、成り行きを静かに見守っていた。
フィリップがテレシアを見つめたのは三秒か四秒ほど。ゆっくりと吸い込んだ息を、彼は結局そのまま吐き出した。同時に、彼の視線はテーブルの何も無い場所へと落ちて行く。吐き出してしまった後で呟いた声は、やけに小さかった。
「イルムガルドが、……テレシアのこと怒ってないって、言ってた」
その呟きにテレシアが目を見開く。フィリップは視線を落としたまま、彼女らの反応を見ようともせずに言葉を続ける。
「怖いのは仕方ないって。だから避けられることも、何とも思ってないって」
フィリップの声は悲しいようで、寂しいようで、不満なような色をしていた。フラヴィは沈黙の落ちた二人を視線だけで見比べて、眉を上げる。
「え、何、お前テレシアの為にわざわざ聞いてやったの? 優しいとこあるじゃん」
「別に! テレシアの為なんかじゃないよ!」
答える彼の頬が少し染まっている。だが、それを見て思わず笑ってしまったフラヴィの口元をフィリップが見付けることは無かった。気恥ずかしさのせいか、彼はすっかり彼女らから視線を逸らしていた。真っ赤な顔を更に上気させて、彼は囃し立てるように早口で理由を述べる。だが、その内容は図らずも一層、フラヴィの笑いを誘ってしまった。
「私はイルムガルドの笑った顔を見たことが無いから! 少しでも喜んでほしくて、だから、私にも何か出来ることがあるならと思って……ちょっと何で笑うの!?」
言葉半ばから笑い出したフラヴィに、フィリップが怪訝に眉を寄せる。意味が分からないと思いつつも自分の言動が原因で彼女が笑っているのだということだけは分かるせいか、その頬がじわじわと染まっていく。テレシアは戸惑いながら瞬きを繰り返し、二人の顔を見比べていた。
「い、いや、ごめん、お前は優しいなと思っただけだよ」
「そんなに笑っておいて!?」
勿論これはフラヴィの笑った理由の全てではない。フィリップが真剣であることも分かっている。けれど、彼女はそれを笑わずにはいられなかった。イルムガルドは、ちゃんと笑うのだから。
長く肩を震わせて笑ったフラヴィは、自分のせいでフィリップが不機嫌になってしまったことを知りながら、謝るどころかまるで彼を揶揄うようにニヤリと笑みを深める。
「そういえばさぁ、明日、来るらしいよ」
「え、何が……」
聞き返しつつも答えを聞くのが怖いという様子で、フィリップの言葉が尻すぼみになる。彼が怯えて緊張する様子をたっぷりと堪能して、長く間を空けてから続きを口にした。
「イルムガルドの奥さん」
「え!?」
驚きの声を上げたのはフィリップだけでなく、テレシアもだった。ただ彼女の声が小さくて、フィリップの声に飲まれてしまっただけだ。テレシアも彼と同じほどに驚愕と動揺を浮かべていること感じていても、フラヴィは意地悪な笑みを隠そうとはしない
「――見に行ってみる?」
試すような彼女の言葉に、二人は長く沈黙を落とした。しかし最後には妙に深刻な表情で揃って頷き、やはり、フラヴィは肩を震わせて笑ってしまった。
翌日、三人は居住域のフロアで待ち合わせてから、タワーの玄関ロビーへと向かうべくエレベーターに乗り込む。
「ほ、本当に来るんだよね、私も、行っていいの?」
「騒がなければね」
フィリップの声は既に緊張で少し震えている。テレシアは口を引き締め、何も言わずに二人について来ていた。そして三人がロビーに到着した頃、既にレベッカとモカがそこに待機していて、三人の姿を見るや否や、くすりと笑う。
「本当に来たんだねーフィリップ。覚悟は出来てるー?」
「な、なん、何で私ばっかり聞くの」
「ふふ、皆あなたが心配なのよ」
「だから何で!?」
二人もどうやらフィリップで楽しむ為に此処へと来ているらしい。彼の反応を何処までも可笑しそうに眺めている。
「イルムガルドはまだ?」
「うん。まだちょっと早いからね」
レベッカはそう言うと少し身を引いて場所を譲るようにしながら、タワーの玄関ロビーの奥を手で示した。その視線の先で待機している職員二名はおそらく、正規の理由でイルムガルドらを待っている者達だろう。
正規の理由。今日、アシュリーが此処へと訪れることになったのは、イルムガルドが以前に食堂でしていた実験に関することだ。彼女お手製のデザートがあれば他の食事でもイルムガルドの吸収率が上がるかどうかというあの実験に、少し望ましい成果が出たことから、新しい実験を行うことになったらしい。その詳細の説明を受ける為、アシュリーはイルムガルドと共にタワーへ訪れることになっていた。
当然、実験の混み入った話はこんなところで済まされるものではないし、食堂のように、多くの無関係な者が集う場所も使用しない。つまり、彼女らが訪れる理由となっている実験に何の関係も無いフラヴィ達がイルムガルドの伴侶を確実に見ることが出来るのは、彼女らが入り込んでくる玄関ロビーだけ。その機会を、フラヴィはフィリップ達に与えることにした。
「おい、フィリップ、僕の後ろに隠れても仕方ないだろ、お前の方がでかいんだから」
何故かフラヴィの真後ろでいつになく怯えた顔をしている彼を振り返り、呆れたように溜息を零すけれど、彼はもうそんな反応すら目に入らないらしい。レベッカとモカも彼の様子を可笑しそうに見つめている。続けてレベッカは一瞬だけ、更に奥に立っているテレシアを気にするように視線を向けたものの、特に何の声を掛けることなく視線を逸らした。――そして数分後、イルムガルドが現れる。
「あ、来たねぇ」
訪れを告げたレベッカの声は酷くのんびりとしていたのに、フィリップとテレシアの緊張は最高潮となった。勿論そのイルムガルドの隣には、予定通りにアシュリーが付き添っている。二人はタワーに入り込むと同時に繋いでいた手を離したようだったが、二人を凝視していたフィリップとテレシアは見落とさなかった。二人の身体が同時に強張る気配を、フラヴィは感じながらも何も言わない。
アシュリーを連れ、待機している職員の元に歩み寄ったイルムガルドは、一度アシュリーを気遣うように振り返る。そして幾つかの言葉を交わし合ってから、アシュリーに向けて破顔した。二人がどんな言葉を交わしたのかなど聞こえる距離ではなかった。けれど、彼女の声が楽しそうに弾み、優しくて甘い色をしていることだけは届く距離だった。
想像以上に見せ付けてくれたイルムガルドの表情に苦笑しつつ、フラヴィ、レベッカ、モカは横目で硬直している彼を窺う。一秒間の静止の後で、フィリップは膝から崩れ落ち、ぼろぼろと涙を零した。
「あはは! 泣いたー!」
後から思い返せば大変に残酷なことだが、その彼の姿を見たレベッカとフラヴィは、つい大きな声で笑ってしまった。イルムガルドとアシュリーがその声を振り返って、ようやく彼らの存在に気付く。
「何でまた皆が……」
イルムガルドは呆れたように眉を垂らしている。アシュリーはそんなイルムガルドの横顔と、やや離れた場所に居る奇跡の子らを見比べた。
「何だか、泣いてるみたいよ?」
「そんなこと言われても……」
彼女の言い分は尤もだ。イルムガルドが何か悪さをしたわけではないのだから。しかしアシュリーはのんびりと首を傾け、騒ぎの中央で震えている小さな身体へと目を向ける。
「でも女の子が泣いているのに、知らんぷりはダメでしょう?」
「フィーは男の子だよ」
「ああ、そういえばそう言ってたわね」
イルムガルドが首都へ来る少し前に発表されていたフィリップの情報を思い返しているのか、アシュリーは軽く視線を上に向けて納得するように二つ頷く。だが納得したのは何に対してだったのかと疑問に思うほど、彼女は先程と同じ調子で言葉を続けた。
「あんなに可愛いんだから、同じようなものじゃない?」
「……薄々気付いてたけど、アシュリーって雑だよね」
「そう?」
アシュリーは不思議そうに首を傾けている。そのような自覚は彼女には無いらしい。イルムガルドは眉を下げて少し笑うと、小さく肩を竦め、ゆったりとした歩調でフィリップ達の方へと歩み寄っていく。
「フィー、なに泣いてるの」
降ってきた声にフィリップは驚いた様子で肩を震わせるが、涙は止まるどころか更に勢いを増し、泣いてぐしゃぐしゃになった顔をイルムガルドへと向けた。
「だ、って、イ、イルム、ガルドっ、わた、私には」
酷く泣いてしまっているフィリップの言葉は途切れ途切れな上、支離滅裂でまるで要領を得ない。イルムガルドは彼の傍にしゃがむと、訳の分からない訴えに怒ることも不快な顔をすることもせずに、その言葉を黙って聞いてやる。
アシュリーも少し遅れて彼らの方へと歩み寄るが、レベッカが先んじて彼女の方へと駆け寄った。モカも少し笑ってそれに倣えば、二人が求めたことにアシュリーは気付いたのだろう。穏やかに挨拶を交わすとそのまま足を止め、それ以上、イルムガルド達に近付こうとしない。
結局、泣きじゃくるフィリップが言いたいことは、昨日フラヴィにも伝えていた通り、自分が一度もイルムガルドの笑みを見たことがない、ということだった。イルムガルドが笑っていたという事実は、彼にとって間違いなく嬉しいことだ。他の誰かに向けている笑みであっても、それはきっと本心だろう。それでも悔しい気持ちが多分にあるし、喪失感に近いものを彼は今、抱いている。何より、今も自分達の傍ではイルムガルドが笑ってくれていないということが、自分達では彼女の心に届かないという証明に思えてならない。そんな感情がない交ぜになり、フィリップは多くの涙を零していた。
そんな心を、当然、フィリップは上手く言葉には出来ていない。『よくよく考えればそういうことを訴えている気がする』という程度の伝え方だ。首を傾けたまま、彼の言葉を静かに聞いていたイルムガルドは、慰めるようにフィリップの背を撫でる。それはいつか訓練所で泣いたフィリップを慰めたのと、同じ優しさだった。面倒見がよくも見えるそんなイルムガルドの行動を、誰もが微笑ましく見ていた。しかし次の彼女の発言には一様に目を見開く。
「まあよく分かんないけど」
「えっ嘘でしょ。鈍感にも限度があるだろ」
堪らずフラヴィがそう零すけれど、イルムガルドはそれすらもよく分からないと示すように首を傾けた。
「ほら泣き止んで。ハンカチ持ってないの?」
遂にはそれを追及することすら放棄し、手を引いてフィリップを立ち上がらせた。今日はイルムガルドもハンカチを持っていないのだろうか。自分のポケットを探ることもせずにフィリップへと問い掛けている。フィリップは泣きじゃくりながらもイルムガルドには従順で、素直に促されるまま立ち上がり、ハンカチを持っていると返事をした。
「じゃあ涙拭いて。折角きれいな顔なのに、勿体ない」
「こいつ……」
淡々と無表情に告げる割には言葉が気障ったらしい。以前カミラにも「美人」と告げていたように、彼女は時折このような発言をする。フラヴィは思わず表情を歪めたが、フィリップはイルムガルドの告げるこんな簡単な言葉一つで泣き止んで、頻りに目を瞬いた。少し上気した目尻を見る限り、喜んでいるのだろう。フラヴィからすればもはや不憫だった。
「伝わってないのは良いのかよ」
ただ一人、状況に疑問を呟き続けるフラヴィに、誰も答えない。少し離れた位置からその様子を見守っていたレベッカとモカ、そしてアシュリーも苦笑を零している。
「イルって、鋭いのか鈍いのか、どっちなの?」
小さな声で耳打ちするように、レベッカがアシュリーへと問い掛けると、何処か申し訳なさそうな顔でアシュリーが眉を下げる。
「うーん、自分宛ての好意には酷く鈍いわねぇ、あ、レベッカもそうかしらね」
「えっ」
「ふふ」
まさかアシュリーからそんなことを言われると思っていなかったのか、目を瞬いて固まるレベッカの隣で、モカが堪らず笑い声を漏らした。そんな二人に柔らかく微笑むと、アシュリーは一度振り返ってから、イルムガルドの方へと向き直る。
「イル、そろそろ」
声に応じてイルムガルドはアシュリーの方を向いて一つ頷く。彼女に向ける瞳の色はやはり他へと向けるものとは全く違って感情が宿り、口元には柔らかな笑みが浮かんだ。間近でそれを見てしまったフィリップは、痛みと喜びを強く感じ、息が詰まって言葉も無い。
この時のアシュリーは、努めて、フィリップの方を見ていなかった。イルムガルドと違って正常に人の好意と心を汲み取る彼女は、彼のイルムガルドへの想いを正しく認識した上で、おそらく変に目が合ってしまわないように配慮していたのだろう。
しかし、イルムガルドが戻り、彼女の手を引いて職員らの所へ戻ろうと促した瞬間。アシュリーは何故か徐にフラヴィの後方へと視線をやった。視線を受けた者――テレシアが、大きく目を丸める。けれどアシュリーは小さく首を傾けただけで、そのままイルムガルドに手を引かれて、彼女らの傍を離れて行った。その行動を見つめながら、フラヴィが首を傾ける。視線が確かにテレシアを捉えたことは、彼女の立ち位置からよく分かってしまったのだ。
「テレシア?」
「へっ、あ、な、何?」
掛けられた声に、大袈裟なほどテレシアが飛び上がる。彼女の驚きも戸惑いもフラヴィの比ではなく、どうやらまだ固まっている最中であったらしい。その反応にフラヴィは、テレシアも視線を感じていたことを確信した。
「今どうしてあの人に見られたの?」
「い、いや、わた、私もよく、分からない……」
「睨んだりした?」
「まさか、そ、そんなことしないよ!」
首を振る勢いが強すぎて、テレシアの能力を抑えるヘッドフォンが飛んでいきそうだ。テレシアも同じように思ったのか、慌ててヘッドフォンに両手を添えている。
「ふーん? 偶々かな」
よく分からないながらもそう結論付けたフラヴィは、テレシアから視線を外し、改めて離れた場所に居るイルムガルド達を見る。その一歩後ろに立つテレシアは、胸の前で両手をぎゅっと握り締めていた。
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