第101話_星屑を拾う訓練室

 モカの部屋にコーヒー豆の香りが漂うと、フラヴィはその香りにややリラックスした表情を覗かせる。彼女は飲み物の中で特にカフェオレを好むが、これはモカとレベッカの影響が強い。最初は二人がいつもコーヒーを飲むのに釣られて口にしただけだった。しかしそのままではフラヴィにはどうしても飲み辛く、「香りは好きなのに」と眉を下げるフラヴィを見兼ねたモカが、飲みやすいように甘いカフェオレを淹れてやったのが始まりだ。以来、それがフラヴィの一番好きな飲み物となっている。

「シナモン?」

 淹れられたカフェオレを一口飲んだフラヴィがいつもと違う香りに反応すると、モカは嬉しそうに目尻を下げた。

「よく分かったわね、ほんの少し香りを変えてみたの。どうかしら」

「すごく美味しい」

「良かった」

 フラヴィが嬉しそうにカップを傾ければ、またモカも表情を綻ばせる。ところがその隣でレベッカはのんびりと笑顔のままで首を傾けた。

「味違う? 全然分かんなかった。あー、言われてみれば、シナモンの匂いするねぇ」

「レベッカなんかにはモカ姉のコーヒーが勿体ないよ。一番飲んでるくせに……」

「ふふ」

 項垂れているフラヴィを見てもレベッカの笑みは崩れることが無い。レベッカは日頃から「モカのコーヒーが一番おいしい」と言う割に、些細な変化はまるで気付かない。本当に分かっているのだろうかとフラヴィは疑っていた。しかし眉を寄せるフラヴィとは対照的に、モカは穏やかに笑っている。どれだけ味を工夫しようとも気付かないレベッカの様子など、もうすっかり慣れてしまったのだろう。

「美味しいって言ってくれるだけでいいのよ」

「モカ姉はレベッカに甘いんだよ。……まあ、モカ姉がいいならいいけどさ」

 結局、フラヴィが眉を寄せ、憤るのはモカを想ってのことだ。分かっているから、モカはフラヴィの言葉に表情を柔らかく崩している。頓珍漢な反応を繰り返していたレベッカは、その時だけは何処か満足そうに笑った。

「それにしても、次の遠征、どうなるんだろうね」

 しばらくはモカの淹れたカフェオレと、レベッカが用意してきたお茶菓子に頬を緩めていたフラヴィだったが、ふとそう呟くと難しい顔を深めて溜息を一つ。現場指揮を任されている身であるだけに、前回の撤退は彼女にとって、今後を不安に感じさせる大きな要因となってしまったのだろう。また同じ状況に陥った時に、同じ結果とならないように回避する為の作戦も、手段も、今は何も揃っていないのだから。

「新型兵器についての対応は、職員や軍の方々が考えているから。まずは焦らず、情報を待ちましょう。無策で再び私達を前に出そうとするほど、この国も愚かではないわ」

「うん……そうだよね」

 頷くものの、そう簡単に彼女の不安は払拭されない。フラヴィの表情を見つめ、モカの声色が更に優しいものに変わる。

「昨日も、ずっと過去の現場資料を読んでいたんでしょう? フラヴィ、あまり根を詰め過ぎないでね」

 そっと肩を撫でる優しい手に、フラヴィの身体から力が抜ける。フラヴィはモカを見上げて、微かに首を傾けて笑った。

「そうだね、レベッカみたいに、いざ遠征って時に機内で寝ちゃわないようにね」

「えー、それはもう謝ったじゃ~ん」

 急に話題を振られたレベッカは降参のポーズを取って笑っている。本当に反省しているのか疑わしいという目を向けるフラヴィに対し、「現場で寝るよりは良いでしょ?」と宣うのだから、やはり全く反省はしていないようだ。モカは二人のよくあるやり取りに、楽しそうに笑った。

 その時、レベッカの通信端末が着信を知らせる通知音を響かせる。彼女の端末は他の子らよりも頻繁に職員や司令から連絡が入ることもあり、それ自体は珍しいことではない。しかし、誰よりもそんな突然の連絡に慣れているはずのレベッカが、取り出した端末に戸惑いの表情を浮かべたことが、見ていた二人にとっては珍しかった。

「どうかしたの?」

「いや……ウーシンからだ」

「え、珍しい」

 レベッカの言葉に二人は同時に目を丸める。まずウーシンが誰かに端末を利用して連絡を取ること自体が珍しい。彼は会って話せば普通に会話をしてくれる人ではあるが、自ら進んで誰かに連絡を取るような性格をしていない。基本、遊ぶことに興味が無い人だ。一にも二にもトレーニングだと言って訓練室やトレーニングルームに篭っている彼が、進んで誰かに連絡を取ったなどと言う話は、此処に居る誰も聞いたことが無い。

 だが戸惑いはほんの少しの短い時間であり、レベッカはすぐに受話ボタンを押して端末を耳に近付ける。

「はーい、どうしたの?」

『ああ』

 彼は最初に一言、それだけを零した。掛かってきた電話を取ることはあっても、誰かに掛けることが無いせいだろうか。「もしもし」や「今いいか」などの言葉は全く無く、唐突に本題を告げた。

『イルムガルドが訓練室で倒れた。今から治療室に運ぶ』

「えっ!?」

 レベッカは、すぐに立ち上がった。彼女の様子に傍らの二人も驚き、手元のカップをテーブルに置く。此処に居る全員が、チームメイトなのだ。何かの呼び出しかもしれないと二人は瞬時に身構えた。

『とにかくお前も来い、もしまた家に送ることになるなら、付き添え。……俺はこいつの奥さんが少し苦手だ』

 最後に付け足された言葉にレベッカは思わず笑った。つい一瞬前は深刻な表情をしていたのに、突然緩む彼女の雰囲気に、会話内容が分からない二人は戸惑って目を瞬いている。

「あーうん、何となく分かるけど、とにかく了解、すぐ行く、治療室だね!」

 向こうからも了承か何かの言葉が返ったのだろう。レベッカは一つ頷いてから通話を終えた。そして目の前の二人に早口で事情を説明し、彼女らの反応を待つこと無くレベッカは急いで部屋を飛び出して行く。残された二人はすぐに顔を見合わせた。

「モカ姉」

「ええ、私達も行きましょう」

 十秒足らずで二人も廊下に出たものの、もうレベッカの気配が無い。例によって例のごとく、駆けて行ってしまったようだ。モカとフラヴィは少しだけ笑って、彼女らは走らずに急ぎ足で廊下を進む。聞いた限りでは今から治療室に向かうとのことだったから、検査や診察があることを考えれば、このペースで行っても充分に治療室で合流できるだろう。逸る気持ちが無いわけではなかったが、二人はレベッカほど気軽にルールを破れる性格をしていなかった。

「っていうか、訓練室って、言った、よね」

 モカとフラヴィには大きな身長差がある。急いでいるとは言え、モカは少しだけフラヴィを気遣って進んでいた。しかしそれでもフラヴィは、やや小走りになる瞬間がある。少しの弾んだ足音に、モカは微かに歩調を緩めて、振り返った。

「ええ。私もそれが気になっているわ。何故あれだけ弱っているイルムガルドを、訓練室に入れる必要があったのかしら」

 しかも倒れたとなったら尚更、訓練室に居たという状態が違和感でしかない。また何かの実験だろうか。まだ回復し切っていないイルムガルドに対してそんなことをすれば、この事態は充分に考えられたはずなのに。疑問ばかりが浮かぶ。ただ、それを二人で話し込んでも詮が無いことはどちらも理解していた為、会話はそこそこに、自然と二人の歩調は早まった。

 そして二人が到着すると、案の定、治療室前の廊下にはイルムガルドの診察を待つレベッカとウーシンの姿があった。

「イルムガルドは?」

「まだよく分かんない。軽く見る限りは、いつもの消耗だろうって言ってたけど」

 診察の結果また家に送り届けるのが最良だと思われる場合、やはりウーシンに協力してほしいと言われた為、彼も此処に待機をしてくれているとのことだった。

「ウーシン、あいつ何で訓練室に居たの? 任務?」

 フラヴィが彼を見上げて問い掛ければ、ウーシンは腕を組んで立っている姿勢を崩すことなく、フラヴィを見下ろして首を横に振った。

「イルムガルドが来た時、職員らは驚いていた。聞いていたとは思えん」

「あの子の意志だったと言うこと? 一体どうして……」

 モカが続けて疑問を呟くも、ウーシンは再び首を横に振る。分からない、という意味だろう。

 普段通りにウーシンは今日も訓練室でシミュレーターを利用した訓練を行っていた。その為、別室で訓練に入ったイルムガルドが倒れた際、職員がすぐにウーシンに助けを求めたとのことだった。彼はイルムガルドが倒れた瞬間は見ておらず、詳しいことは分かっていない。医療班には、訓練室の職員から何か伝わっているのかもしれないけれど。

 四人が難しい顔を深めたところで治療室から出てきた職員は、彼らの表情を見止めたのか、安心させようとするかのように柔らかく微笑んだ。

「大事は無いみたいだが、一人で歩かせるには不安がある。ウーシン、申し訳ないがまたイルムガルドを自宅に届けてもらえるかい? 奥様には此方からご連絡しておくよ」

「ああ」

 職員の言葉に応じると、ウーシンはそのまま治療室へと入り込む。イルムガルドは奥の寝台に寝かされているようだ。前回同様、ウーシンが軽々と彼女を担ぎ上げて出てくる。

「すみません、少しお話を伺っても構いませんか?」

 モカはその傍らで、職員を呼び止める。そして職員が快く頷いた為、モカはイルムガルドの自宅へは付き添わずに残ることにした。

「僕も気になるから残るよ。モカ姉、いい?」

「ええ、勿論。じゃあ、レベッカとウーシン君、イルムガルドをお願いね。奥様にも宜しくお伝えして」

 モカの言葉に搬送役の二人が頷いて、廊下から緩やかな歩調で立ち去って行く。職員と共にその背を見送ってから、改めてモカは職員へ向き直った。

「ご存じだったらで良いのですが、イルムガルドは、あれから捕虜になった件について何か話しましたか?」

 此処に居る職員がそこまでを把握しているかどうかモカには確信が無かったものの、イルムガルドは毎日治療室へ通うことが定められている子だ。此処に配置されている職員が、彼女に対して最も多くの情報を持っている可能性が高いと読んでいた。予想通り、職員は分からない顔はしなかった。

「いいや、何も聞き取りが出来ていないと聞いている」

 当初、聞き取りをしようとしたのは、遠征に随伴した職員だったとのことだ。しかし、日を分けて何度か試みたものの、イルムガルドは何も語ってくれなかった。

「此方の問いかけに、頑なに黙り込んでしまうらしい。だから無理な聞き取りは彼女の負担になるかもしれないと、今は、僕らもその話題を制限されている状態だね」

「そうですか……」

 通信越しにアシュリーに語った吐露を思えば、攫われた恐怖ではなかったとしても、イルムガルドはあの件でかなり精神的にダメージを負っている可能性は高い。本人が話したがらないこともそういう理由であるならば、増々、今の体調については不安が残る。モカは少し黙ったけれど、これ以上この件を職員に掘り下げても仕方が無いと諦めたのか、別の疑問へと移る。

「それにしてもまた倒れてしまうなんて、あの子の身体、回復が出来ていないんでしょうか?」

「そんなことはないよ、順調に回復していたんだ。だから今日は本当に僕達も驚いている」

 職員の回答に、モカは違和感を覚えて咄嗟に沈黙した。その隙に、フラヴィが先に疑問を続ける。

「訓練室に居たってことは、能力を使ったんだよね、そのせい?」

「おそらくはね。ただ、昨日検査した時に確認した数値であれば、二、三時間程度の使用なら倒れるようなことは無い見込みだった」

 先日はまだ検査中に倒れてしまうほど弱っていたのに、今日までに順調に回復して、そう見込めるくらいには安定していたようだ。しかし、職員がウーシンや訓練室から受けた報告によれば、イルムガルドが訓練室に入っていた時間は三十分にも満たない。

「……消耗率が上がっているんですか?」

「可能性はある。となると、今後の遠征制限は更に厳しくなるかもしれない。今日のデータを医療班で詳しく解析して、司令とも相談する予定だ」

 彼の答えにモカは少し考える様子で俯いたが、すぐに顔を上げ、話の時間を取ってくれた職員へ丁寧に礼を述べてフラヴィと共に治療室から立ち去った。

「……顔色は、あんまり変わってないと思ったけど」

 モカの後ろを付いて歩きながら、徐にフラヴィが呟く。

「あいつ前に増して喋ってない気もするし、身体とか、気持ちが、しんどいのかなぁ」

 言われてみれば、タワーへ帰還してからイルムガルドが口を利くところを二人はほとんど見ていない。いつも無表情であるから分かりにくいが、イルムガルドはやはり身体と、もしかしたら心も、深くダメージを残している状態なのだろうか。

「とにかく話をしてくれないから、あの子は何も分からないわね」

「そこだよなぁ」

 二人でやれやれと溜息を吐きながら、モカは考える。イルムガルドの消耗の主な原因は、『ストレス』と考えられていた。アシュリーの傍に居る間だけ緩和されているものだ。今回の件でそのストレスが大きくなって、悪化している可能性はゼロでは無い。しかしそのことを知る奇跡の子はまだモカだけだ。隣を歩くフラヴィが難しい顔で考え込んでいるのを一瞥し、結局モカは口を噤んだ。多くを抱えているフラヴィに、これ以上の懸念を植え付けるべきではないと、そう考えたのだろう。

「イルムガルドのことも、まずは情報を待つしかなさそうね」

 モカは殊更優しい声でそう囁くと、続けて「カフェオレを淹れ直すわ」と言い、チームの指揮役の肩の力を抜くことを優先した。


 ウーシンとレベッカに自宅へと運ばれたイルムガルドは、二人の帰宅後に一度眠り、目を覚ましたのはそれから一時間後。顔色を確かめるように覗き込むアシュリーを見上げたイルムガルドは、柔らかく微笑み、目尻を下げた。

「アシュリー、ごめん、また驚かせた」

「本当にね。ウーシン君に抱っこされてくるあなたは面白いけれど、心配なのは心配よ」

「うん」

 頬を撫でればイルムガルドは心地良さそうに目を閉じる。そんな無垢な反応を見せる一方で、徐に伸びた腕が、アシュリーをベッドへと引き込んだ。

「イル?」

「一緒に寝よう、アシュリー」

「それは構わないけれど」

 誘われるままに、イルムガルドに寄り添ってアシュリーもベッドへと入り込む。しかし添い寝を誘われたはずが、身体を寄せてきたイルムガルドの手は、意志を持ってアシュリーの身体を辿り始めた。

「こら、イル。お休みするんでしょう?」

「だって最近、できてないよ」

「あなたがまだ弱っているからでしょう。よりよって、倒れた直後になんて」

 難色を示しているものの、アシュリーはイルムガルドの手を止めようとはしていない。するすると器用に片手で外されているボタンをのんびりと見下ろし、イルムガルドの唇がデコルテを滑っているのを受け止める。

「倒れたのは、アシュリーが足りてないのかもしれない」

「あのねぇ」

 前にもこのような言い分は聞いた気がする。アシュリーは思わずと言った様子で笑った。しかしイルムガルドがぐっと腰を引き寄せてきたところで、抱き返しながらも、ようやくその動きを止める為に自らイルムガルドの唇にキスを落とす。

「じゃあ、ほら、此処で眠って?」

 はだけた服を整えることなく、晒された胸を手の平でとんとんと示せば、イルムガルドは素直にそこへと頬を寄せる。ただ、納得した顔はしていない。

「満足できない?」

「……気持ちいいけど、うーん、アシュリーは平気?」

 まるでアシュリーが欲求を溜め込んでいるかのような質問に、流石に彼女も苦笑を零した。しかし彼女はそれを否定することはしなかった。肯定の意があったわけではなく、ただ、彼女の中ではそれを『無粋』だと感じたからだ。

「触ってくれるのは幸せだけれど、あなたが疲れている時くらい、我慢できるわ」

「んー」

 不満そうな声が谷間付近の肌をくすぐっている。しかしアシュリーがのんびりと後頭部を撫で続けてやれば、イルムガルドの身体からはゆっくりと力が抜け、いつの間にか再び彼女は眠り就いていた。その穏やかな寝顔を見つめ、アシュリーは悲しげに眉を下げる。

「……もうずっと抱いてくれなくてもいいから、早く、元気になってね」

 何度も倒れるイルムガルドを、不安に思わないわけではないのだ。どれだけ医療班が、命に別状は無いと丁寧に説明をしてくれているのだとしても。長い前髪を指先で払い、起こさぬようにと優しくその額に、アシュリーは一つ口付けた。

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