第100話_下町からの警鐘と忍び寄る氷晶
先頭を歩くレベッカのポニーテールがふわふわと揺れる、その動きがいつもよりやや早いのを見上げながら、フラヴィは隣を歩くモカへと話し掛けた。
「あいつ、結構あっさり家に帰されたよね、身体は平気なのかな」
フラヴィが話題にする『あいつ』はイルムガルドのことだ。彼女らの耳にも、先日イルムガルドが家に帰ったことは伝えられていた。
「かなり消耗はしているみたいよ。だけどむしろ自宅の方が回復は早いということで、許されているようね」
そのようなことをモカが知っているのは、正午前に彼女も自身の定期健診の為に治療室を訪れて、聞いてきたからだ。命を脅かすような危険な状態でない限りは、多少の不安に目を瞑ってでも、イルムガルドは彼女自身が望む形でアシュリーの傍に置いておく方が明らかに体調は安定する。つまりまだ、体調が心配であることに変わりはない。
「電撃のダメージって話は聞かなかったよね、結局はいつもの『消耗』なの?」
「と、聞いているけれど、実際はよく分かっていないみたい。能力を使用する期間としては短いものだったでしょう?」
電撃を受けたことによる身体への損傷は見られていない。しかし今回のイルムガルドの消耗具合は異常で、今までに分かっている彼女の『限り』には当てはまらない為、電撃のダメージが別の形で出た可能性も否定できていないのだ。
「ややこしい奴だなぁ」
フラヴィはそう面倒そうに言いながらも、表情は明らかに彼女の身体を心配していた。そんな様子に微笑んだ後、モカはずっと無言を貫くレベッカの背中に目をやる。
「レベッカ」
「ん、なに?」
呼び掛けに対してすぐに振り返る彼女はいつも通りにも見えるけれど、モカは彼女に対し、やや困った様子で眉を下げる。
「歩くのが早いわ。フラヴィが可哀想でしょう?」
「あ、ご、ごめん」
「別に、僕は付いていけるよ」
彼女らは今、話題のイルムガルドを見舞う為に治療室へと向かっている。二人の会話を聞くほどにイルムガルドが心配になるのか、レベッカは歩調が早まっていた。無意識だったのだろう、モカからの指摘にようやく気付いたらしく、申し訳なさそうに二人を振り返る。彼女の歩調が早まっていて、小さな身体のフラヴィは辛かっただろうし、ほんの少しの変化の時点で気付いていたのだろうに、咎めようとはしていなかった。しかし治療室に至るまでこのペースでは疲れてしまうだろう。モカは何も言わず、心優しいフラヴィの頭を柔らかく撫でる。
「あれ? イルだ」
治療室の傍にある休憩室まで至ると、彼女の診察が終わるだろう時間より早く着いたつもりだったのに、休憩室にはイルムガルドの姿があった。
「何だよ、イルムガルド、早く終わったの?」
フラヴィがそう声を掛けるが、イルムガルドは傍に歩み寄ってくる三人をぼんやり見つめるだけで何も答えない。珍しく、テーブルに上体を乗せるようにして突っ伏し、まるで今からそこで眠ろうとでもするような表情をしていた。
「身体が怠いのかしら」
「イル、大丈夫? もう帰るだけなら、アタシが家まで運んであげよっか?」
レベッカが頭を撫でてくる手を抵抗なく受け入れながらも、イルムガルドは眠たげに瞬きをするだけで動く様子が無い。無理にでも抱いて連れて行くべきか、それとも医療班を呼ぶべきか。三人が顔を見合わせたところに、思わぬ声が入り込む。
「お前では無理だ、退け、レベッカ」
「えっ、ウーシン? 何で此処に?」
三人は一様に驚いた顔を見せた。ウーシンは誰かの見舞いに来るような性格はしていないし、勿論、丈夫で健康な彼がこんな場所に用があるとも思えない。驚きが先に出て、彼の言葉は後から飲み込んだ。促されるままイルムガルドの傍からレベッカが離れると、ウーシンがイルムガルドの身体をひょいと担ぎ上げる。抱き上げられた当人はまるでその展開を知っていたかと思えるほど無抵抗に、その腕に収まっていた。
「ああ、ウーシン来てくれたんだね、ありがとう、すまないが宜しく頼むよ」
その時、治療室の方から職員が足早に出て来て、ウーシンにそう告げる。それに応じてウーシンもただ頷いていた。
「どういうこと?」
レベッカが職員へと問えば、どうやらイルムガルドは先程、診察中に立っていられなくなったらしい。その為、急ぎではない検査は中止。早めに切り上げさせて、彼女を至急自宅に送り届ける為、運び役としてウーシンが呼ばれたそうだ。
「丁度いい、お前ら誰か付き添え。ご家族と親しいんだろう。俺様が突然行けば驚かれる」
モカとレベッカは顔を見合わせる。いくらアシュリーといえども確かに、ウーシンがイルムガルドを担いで家にやって来たら驚くだろうし、多少は怯える可能性もあると思えた。
「それはいいけど、なんでわざわざウーシンが?」
イルムガルドのように細く小柄な子であれば、職員の男性や、レベッカでも運ぶことは容易に思えた。しかしウーシンは歩きながらしっかりと首を振って否定した。
「お前にも職員にも無理だ。こいつは小さいが、重いんだ」
細さと背丈で想定される常人の体重に比べ、イルムガルドは遥かに重い。ウーシンほどではないが、司令くらいの体重ではないかとウーシンが話すのを聞いて、三人は驚愕していた。司令は身体を動かす仕事をしていないにも
そんな彼女を一人で運ぶには、怪力の能力を持つウーシン、または、浮遊の能力で重量を無効化できるアランだけだ。普通の人間が運ぶのであれば、男性職員二人以上で協力し合って運ぶ必要があった。イルムガルドは度々、戦場でウーシンの担いでいる岩の上に乗って彼から注意を受けていた。その折に、体積に見合わない重さをウーシンも気付いていたのだろう。
「この子の肉体が強靭であるのには、そういう特徴があったのね。そう……だから」
筋線維、またはもっと広義に細胞自体の密度や性質が、常人とは異なるのだろう。そう納得をしながら、同時にイルムガルドが攫われる時の敵軍の様子をモカは思い返していた。あの時、敵軍は妙に手間取っていたのだが、単にイルムガルドという存在が怖く、腰が引けているだけだと思っていた。しかし実際は、異常に重くて驚いたのだろう。
そして更に記憶を辿りながら、モカは何気なく抱いていた疑問をもう一つ解消した。
「だから当初、誰にもこの子の『正常値』が分からなかったんだわ。倒れるまで弱っても、体重では気付けなかったのね」
身体は明らかに細く、倒れるほどに消耗していたのに、数値に出なかったという医療班の話には僅かに疑問が残っていた。多少落ちても本人が不調を訴えず、戦場では飛び回っていたのだから、その点で見落とされたのかとも考えていたけれど、元よりイルムガルドは体重が重すぎたのだ。減少したところで標準体重は悠に上回る。判断が難しく、『様子を見る』措置が取られたのも理解が出来ることだった。
モカの説明に、レベッカとフラヴィも納得の表情を浮かべ、ウーシンに抱かれている彼女を窺う。抱き上げられた際から変わらず大人しいが、角度的に表情が見えなかった為、レベッカはウーシンの右側、イルムガルドを抱いている腕の方に回り込んだ。
「わー、何かイル、すごい落ち着いてて可愛いよ」
レベッカが確認すると、イルムガルドはウーシンに抱かれた状態でうとうととして、眠りかけていた。普段から、誰かに触れられても大人しい彼女ではあるけれど、モカが抱き寄せた時などは「離れて」と訴えて眉を寄せるような様子もある。例える相手が悪いかもしれないが、何にせよ腕の中で眠ろうとしている様子は、普段の『懐かない仔猫』のようなイルムガルドには見えない。
「この子もしかして、男性には大人しいのかしら」
「あー、それでアランにも?」
「かもしれないわね」
という理由であれば、多少はレベッカの慰めになるのではないかと考え、モカはそう口にした。『男性に対しては』という説を立てるにしては例が少な過ぎる為、本気でそんな風には考えていない。「そっかー」と軽く答えているレベッカに効果があったどうかはともかくとして、普段からイルムガルドを可愛がっているにも拘らずあまり見返りを得ていないレベッカに、少なからずフォローをしてあげたいと思うのだろう。
「まあ、司令は殺されそうになってたけどね」
フラヴィは徐にそう呟くと、肩を震わせてくつくつと笑った。司令が不可抗力でアシュリーを泣かせ、イルムガルドを怒らせた状況を思い出しているのだろう。モカも苦笑いを浮かべた。
「司令は別枠なのよきっと」
とりあえずモカにとっては先程の説を推しておきたい為、適当な言葉を付け加える。こんなもので良いのかとも思うが、レベッカは楽しそうにけらけらと笑っていた。
「確かに、司令だもんね~」
「怒られるぞお前ら……」
上司に対するにしては散々な言い草に、流石のウーシンも眉を寄せて口を挟んでいる。しかし話題の渦中にあるイルムガルドは相変わらず何も聞こえていない様子で、のんびりと目を閉じていた。
こうしてチームメイトが四人揃ってイルムガルドを自宅まで送り届けると、レベッカ達が懸念したほど、アシュリーはウーシンに驚いていなかった。担がれているイルムガルドを可笑しそうに見上げ、「抱っこしてもらえて良かったわねぇ」と言って、柔らかく笑う。そしてウーシンの助けを借りてイルムガルドを寝室へ運んだ後は、送り届けてくれた四人に紅茶を振舞っていた。
そのような場に縁の無いウーシンは、終始、居心地の悪そうな顔をしていたが、アシュリーがそんなことを気にする様子も無い。フラヴィは辞去後、「思った以上にすごい奥さんだな……」と呟き、レベッカとモカを笑わせていた。
レベッカらが帰った後は、二人きりの静かな部屋に戻る。アシュリーが眠るイルムガルドをただぼんやり見つめて過ごしていれば、彼女は三十分ほどで目を覚ました。
「……あら、起きた? 具合はどうかしら」
アシュリーは穏やかな笑みを浮かべ、まだ寝惚け眼のイルムガルドに話し掛ける。心配をしていないわけではないが、ウーシンらが来る前に職員からはきちんと連絡が入っており、『数値上は以前に倒れたような状態ではないので安静にしていれば問題ない』と説明を受けていた為、まだ冷静に受け止めることが出来ていた。何よりアシュリーは、彼女らやイルムガルドの前で、不安をあまり外に出したくないのだ。
「ん、もう大丈夫」
柔らかく答えながら微笑み返すイルムガルドには、多少なりと、伝わっているのかもしれないけれど。イルムガルドが寝返りを打てば、くう、とお腹が小さく空腹を訴えた。二人揃って笑みを浮かべる。
「何か食べる?」
「うん、あー、甘いもの、ほしいな」
「じゃあパンケーキ焼きましょうか」
アシュリーの提案にイルムガルドが嬉しそうに目尻を下げる。そして欠伸をしながら、ゆっくりと身体を起こした。眠そうにはしているものの、ふら付くような様子は見られない。
「ベランダに居る」
「ええ、出来たら呼ぶわね」
共にリビングへと移動すると、イルムガルドはそう言ってキッチンとは逆の方へと歩く。アシュリーはしばらく窓越しに見える彼女の影を目で追っていたが、いつも通りにベンチに座って寛いだらしいのを確認すると、改めてキッチンへと向かった。するとその時、アシュリーの通信端末が着信の音を鳴らす。確認すれば、母、サラからの着信だった。
「お母さん、どうしたの? 今ちょっと調理中だから」
『どうしたのじゃないわよ、イルムガルドちゃんの具合が悪いんだって話をしてから、何の連絡もくれないんだから! 何日経ったと思っているの?』
「あー……ごめんなさい、イルなら、もう自宅に戻っているわ」
しばらくタワーから帰れなかった頃に一度連絡をして、それからは、ばたばたとしていてすっかり忘れていたのだ。通信端末の向こうでは幾つかの文句の後で、『何にせよ、回復しているなら良かったわ』という言葉と、安堵の溜息が聞こえた。
アシュリーは右肩に挟んでいた端末を左に移動させながら相槌を打つ。どちらにせよ調理の邪魔だったが、母の心配も指摘も尤もだと思うからか、切ってしまう様子は無い。
『最近は不穏な話ばかりが聞こえてきて、心配なのよ』
「不穏な話?」
『あなた、新聞は読んでいないの?』
アシュリーが乾いた笑いで読んでいないと答えれば、母の反応は少し呆れた様子だった。奇跡の子の家族なのだから、多少は気にしていた方がいいとの指摘もあり、それもまた尤もだとアシュリーは軽く項垂れる。
サラが告げたのは、先日デイヴィッドらが話題としていた記事についてだ。この国はもうすぐ本格的に敵国に攻め入るのではないか。もしかしたら奇跡の子らがそれに駆り出されるのではないか。そのような不安をサラは抱いている。
『私はイルムガルドちゃんが身近に居るから、この話を嫌だと思うけれどね、……下町の雰囲気は少しもそんな感じじゃないわ。だから、余計にね』
下町は敵国への進軍に肯定的な意見で溢れているらしい。むしろ妙な盛り上がりを見せ、祭りか何かでも始めるような雰囲気だ。彼らにとって、軍も、奇跡の子も、戦争も、ただの他人事であり、一種のエンターテイメントであるかのようで、それがサラは幾らも不快に思う。
「機関からはまだ、そういう話は聞かないけれど……」
『そう。不安にさせるようなことを話してごめんなさいね。とりあえず今は、イルムガルドちゃんの身体を良く見てあげて、手伝えることがあったらいつでも連絡をするのよ』
「ええ、ありがとう」
通話を終えたアシュリーがベランダに視線を向ければ、また白い煙がふわふわと彼女の影から立ち上っている。甘いものが欲しいと言っていたから、例のお菓子を咥えているのだろう。嫌な考えを振り払うように、アシュリーは軽く頭を振った。
ベランダでは、アシュリーから見えている通り、イルムガルドはベンチに深く腰掛けて、煙草紛いのお菓子を咥えていた。甘い甘い煙を肺にたっぷりと吸い込み、ゆっくりと吐き出す。ただ、その耳には珍しく、通信端末が押し当てられていた。
『――こんにちは、イルムガルドちゃん』
端末から微かに漏れる声は透き通るように美しい。のんびりと瞬きをしているイルムガルドは、声の主、ヴェナのことを少しでも考えているのだろうか。通話中とは思えないほど無言のまま、彼女は繰り返し煙を吸い込んでは、吐き出すを繰り返している。
『良いお返事ありがとう。体調はどうなのかしら。身体を十分に休めてからでいいわ。それから――』
ただの一度の返事も聞かせないままに、彼女は一本を吸い切ると、足元に転がして圧し潰した。そして飽きる様子無く、新しいものを一本、口に運ぶ。カキンと小さな金属音を合図に灯る小さな火。再び空に昇る白い煙。通信端末からの声が途切れると、イルムガルドは空を仰ぐようにやや上を向いた。
「……わかった、いいよ」
何かを問い掛けられたか、答えを求められたのだろうか。イルムガルドはただ一言だけ、端末へとそう囁いた。
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