第73話_見失った夢を探すグラスの中
この日、司令室は数日振りに静寂を取り戻していた。しばらくは戦闘服の新調や、一部の奇跡の子らを元の遠征先へ返す対応などに追われて騒がしかったのだが、急を要するものに関しては昨日で一通り片付いている。そして今、デイヴィッドは溜め込んでしまった書類を黙々と処理していた。大きなディスプレイを見つめ続けた目は疲れを訴えているのだろう、一度身体を椅子の背に預けると、デイヴィッドは深く息を吐きながら目頭を押さえた。
その瞬間、司令室の扉が開く。目を閉じていて一瞬反応が遅れた上、視界がぼやける。デイヴィッドは何度も目を瞬いた。
「何だい、居眠りするところだったのか、デイヴィッド」
我が物顔で入り込んできたのはカミラだ。右腕には何か布の包みを抱いている。
「そう出来れば良かったが、残念ながらまだまだ仕事がある」
机の前まで歩み寄って来た彼女の包みを気にしてちらりと視線を向けつつも、デイヴィッドは自分を見下ろすカミラの視線に応えることを優先した。目を合わせて、笑みを浮かべる。
「どうした、カミラ、何か用か」
「ああ、ちょっと付き合え」
ドンと大きな音を立てて、カミラは包みを机の上に置いた。布を取り払い、現れたのはウイスキーの酒瓶だ。デイヴィッドは項垂れて、額を押さえる。
「……勘弁してくれ、俺は仕事中だ」
「そう言うなよ、他に付き合ってくれる奴が居ないんだ。それとも何か? そこらに歩いてる未成年の奇跡の子を誘えばいいって言うのか」
その言葉に頷いてしまう訳にもいかないが、当然、はいそれと仕事を放り出す訳にもいかない。重苦しい溜息を零しながら
「また時間を作ろう、しばらくは立て込んでいるが、そうだな、三日後には」
「あー嫌だね、あたしは今が良い」
「カミラ」
機嫌を取りつつ諦めさせる言葉を考えたが、にべも無い。どうしたものかとその表情を窺えば、カミラは口元に笑みを浮かべたままですっと目を細める。
「最後にベッドでゆっくり眠ったのはいつだ?」
デイヴィッドはその問いに答えられずに沈黙する。カミラは長くその様子を眺めようとはしない。彼が言葉に詰まるであろうことを、彼女は予想していたのだ。
「オイオイたった数日のことも覚えてないのか? まだ四十二を過ぎたばっかりだっていうのに、
大きな机に身を乗り出してゆっくりと問い掛けるカミラは笑顔だが、その圧力はレベッカやモカに詰め寄られている時の比ではない。沈黙を続けているデイヴィッドを見つめ、カミラはいよいよ笑みを消して眉を顰める。続けられた声は幾らか低かった。
「書類仕事くらいもうちょっと部下に回せないのかあんたは。そんなにもあんたの部下は無能なんだな」
「俺の部下は有能だ」
「だったら回せ。頼れ。寝ろ」
ようやく口に出した反論は己の首を絞めるばかりだ。再び彼が沈黙すると、カミラは背筋を伸ばし、彼の傍に控えていた職員らを振り返る。
「ほら、あんたらも早くこのバカから仕事を掻っ攫わないか、今がチャンスだぞ」
声を掛けられた者は少し迷った様子を見せつつも、一度大きく息を吸い込むと司令の傍に立つ。
「し、司令、もう二十三日間、お部屋で休まれておりません。お持ちの仕事はこちらでも把握しておりますので、どうか此処で区切りを付けて頂きたく」
彼らはカミラが来るまでにもきっと何度もこうして声を掛けていたことだろう。それでもデイヴィッドが聞かなかった結果、二十三日という数字が出ている。説得の言葉に違いは無くとも、今、彼の目の前にカミラが立っている。ただそれだけで職員は、司令がこの提案を受け入れてくれる光明を見ていた。そしてカミラも、そのことを良く分かっていた。
「本当に部下は有能だな。バカはあんただけだよデイヴィッド」
「……そのようだ」
彼の返答に、職員は続く言葉を理解して表情に安堵の色を宿す。カミラはそれを直視しないながらも、職員らに同情の念を抱いた。この上司はあまりに手が掛かることだろう。
「すまんが、少しカミラと飲む、その後は自室に下がるから、後を頼む」
「はい」
デイヴィッドが立ち上がれば、ずっとそれを待ち侘びていたかのように職員らが代わりに机に向かう。三名の職員が手分けして作業を始めるのを横目に、デイヴィッドとカミラはソファに移動した。
「まあ安物だが、寝酒には十分だろう」
そう言いながらカミラが酒瓶をテーブルに乗せると同時に、職員が氷の入ったグラスを二つテーブルに置いた。カミラは少し笑いながらそれを受け取り、礼を述べる。
「相変わらず何でも出てくるね、この部屋は」
「奇跡の子らの好みに合わせているからな。だが此処で酒を飲むのはお前が初めてだよ」
「ははっ、そりゃあそうだ、成人してる奇跡の子がまず少ないだろ」
「まあな」
二人の間に乾杯を意味するような言葉は特に無く、どちらも何も口にしないまま、ただグラスを鳴らしてそれぞれに
「久しぶりに飲むと、キツく感じるな……」
「はっはっは! 疲れが溜まってるせいだろうさ。立てなくなったら、ウーシンを呼んでお姫様抱っこで部屋まで運ばせてやる、心配するな」
「それこそ勘弁してくれ」
想像もしたくないと言わんばかりに頭を振ったデイヴィッドだが、そのせいで酒まで余分に回ったのだろう。また何度も目を瞬いて軽く天井を仰ぐ。カミラは一人で遊んでいる彼にくつりと笑った。
「身の回りまで部下が見てくれる、子供はわんさか居る。それでもうあんたは満足なのかもしれないが、その無謀さを治すには伴侶でも見付けた方がいいんじゃないかね」
彼女の言う『子供』とは当然、デイヴィッドの本当の子ではなく、奇跡の子らを指している。彼は以前にも奇跡の子らを『家族』と言っていたし、実際、『部下』として想う範囲を逸脱し、彼は子らに心を寄せていた。
「ああ、悪いがあたしは貰ってやらんからな。あたしは可愛い嫁を貰うのが夢なんだ。相手はまだ見つかっていないけどね。良い女を紹介してくれよ」
「話の流れではお前が俺に紹介してくれるんじゃないのか」
至れり尽せりの職員が置いたナッツをつまみながらデイヴィッドが笑う。カミラも笑みを浮かべるが、大袈裟に肩を竦めていた。
「あたしは久々に首都に戻ったんだ、無茶を言うんじゃない」
「それはそうだが、逆も無茶だ」
もし紹介できる女性が居るのであれば、自身の相手に困ることも無い、と言いたいのだろうが、本当に相手が居たとしても『忙しい』などを理由に彼は見向きもしないに違いない。喉まで出かかったその指摘をカミラは飲み込んで眉を下げる。カミラが言わずとも、「そろそろ結婚してはどうか」なんて言葉は数え切れない程に言われているはずだ。彼は一番街の生まれで、家柄も相当いい。カミラが知っている情報では次男だったと思うが、だからと言って子を望まれていないということは無いと思える。
それらを振り払い、煩わしい言葉を聞き流し、仕事に没頭する先に彼が見ているものは一体何だろうか。
「あんたの夢は叶いそうかい、デイヴィッド」
徐にそう問い掛けるカミラに、彼は首を傾けている。
「夢?」
「忘れたのか? 夢があったんだろう、あんたには。
特務機関
しかしこの立場はデイヴィッドが望んで就いたものであり、押し付け合いの末に彼のところに来たわけでは無かった。カミラはその流れを伝え聞いた上で、「彼には彼の野望があったのだろう」と踏んでいた。しかしその内容までは噂などでは到底分からない。
「何より出会った頃のあんたは、今みたいな子煩悩のパパじゃなかったよ。どう取り繕っても、子供になんて接したことの無い、野暮な男だった」
「はは、返す言葉も無いな」
出会った頃の彼を思い出すほど、カミラはこの予想を半ば確信していた。子守をしたい等と、露ほども思っていなかったであろう彼が、それでもこの道を選んだ。彼の家が、こんな新設機関を担わせたいと思ったはずがない。彼自身が望んでいたはずだ。その中に、彼個人の『何か』があったはずだ。
しかしデイヴィッドはその内容を語ろうとはしなかった。少しの沈黙の末、酒を呷って深く息を吐く。
「すっかり忘れてしまったよ、子供の前では、己の夢など」
「……本当に、バカな男だ」
もしもそれが真実であるならばと、カミラは心の中でそう付け足した。そして彼を倣うようにグラスを呷って空にすると、新しい酒を注ぐことをせずそれをテーブルに置く。
「さて、たった二人で飲み干すような酒じゃあない、こんなもんで許してやるよ」
少し残った酒をカミラに合わせて飲み干そうとするデイヴィッドを手で制し、無理はするなと言わんばかりにカミラは軽く首を振る。強引なのか優しいのか分かりにくいそんな彼女に、デイヴィッドは眉を下げて笑った。
「ご馳走になってしまったな、次に飲む時は、俺の方で酒を用意しておこう」
「いいね、だがあたしに高い酒の味なんて分からない。反応は期待しないでおくれよ」
来た時と同じように酒瓶を布で包むと、酒気など感じさせない様子でカミラが立ち上がる。こうして共に飲む機会など無かった為に誰も知らないが、どうやらカミラは酒に強いようだ。『付き合ってくれる奴が居ない』と言う彼女だが、さて、何処で酒の味を覚えてきたのだろうか。疑問を口にするよりも早く、カミラはソファを離れて行く。
「さ、部下や子供に気を遣わせないうちにとっとと部屋に行って、温かくして寝なよ」
「ああ。ありがとう」
まるで子供に言うような台詞にデイヴィッドが笑えば、カミラも口元を緩め、司令室を立ち去って行った。少し残った酒に手を伸ばしかけたデイヴィッドに、職員が水の入った新しいグラスを手渡してくる。「身の回りまで部下が見てくれる」と言ったカミラを思い出して苦笑いを零し、酒の代わりにそちらで喉を潤した。デイヴィッドが少し残した酒は、職員がさっさと回収して、もうテーブルには何も無い。
「夢か……」
透明の水面に映る天井はいつもと何も変わらない。それでもデイヴィッドは、そこから何かの答えでも探すかのように、見つめ続けていた。
大人二人が昼間から酒を飲んでいた頃、イルムガルドは自宅のキッチンでボウルを覗き込んでいた。
「アシュリー、これくらいでいい?」
隣に立つ彼女に向けたその中身は、ジャガイモだ。茹でたそれは、イルムガルドの手で丁寧に潰されている。アシュリーは笑顔で頷いた。
「ええ、ありがとう。じゃあこれ入れて、まんべんなく混ぜてね」
「はぁい」
既に用意してあった調味料や食材の小皿をアシュリーが指差すと、イルムガルドは慎重にそれらをボウルの中に入れていく。手付きはまだ頼りないが、その分、大きな失敗は無い。零さないようにゆっくりと中身を混ぜている様子を横目に、アシュリーは新たに野菜をまな板の上で切っていく。
「それで、私に隠れてイルはレベッカにもモカにもフラヴィにも浮気しちゃったのね?」
「だから浮気じゃないって。あとフラヴィは流石に勘弁してよ」
思わず笑ってしまったイルムガルドの吐息で、ボウルの中の粉が少し動いたのか、小さく「わあ」と言っている。反応に、アシュリーも笑った。二人は昼食の調理を進めながら、先日の騒動の話をしていた。正確には、イルムガルドからの報告を、アシュリーが聞いていた。
「私以外の女の子は見ちゃ嫌だって言ったのに、あーあ、レベッカは特に心配だったのよね、胸が大きいし」
そうは言うアシュリーは何処までも穏やかで、声も表情も笑っている。イルムガルドもそれが分かっているから、慌てる様子無く笑っていた。
「モカを怒らせるのに丁度良かったんだよ。でもレベッカって、何かそういう目で見るの難しい人だよね。初めて会った時から思ってた」
「そうなの?」
つまり初めて会った時から胸については大きいなと思って見ていたのだろうけれど、アシュリーはその点を突くことはしない。イルムガルドの生きてきた環境を思えば、彼女が女性を幾らか品定めするように見てしまうのは癖の一種だと思えた。単純な嗜好も含まれているとは思うけれど、全てをそうと認識することも、アシュリーには少し気が引けるのだ。アシュリーがそんなことを考えているとは知らず、イルムガルドは首を傾けて言葉を探している。
「何だろう、純粋そうだし、あー、そういう目に、全く気付いてないとこ? なんか、悪いことしてる気になる」
「イルにそんな風に言われているなんて思いもしないでしょうね」
彼女をいつも『まるで仔猫』と思っているレベッカは、言葉で伝えてもきっと信じないだろう。苦笑するアシュリーを横目に見て、イルムガルドは軽く肩を竦める。
「モカ達から連絡があっても応えないようにって言うから、何があったのかしらって心配してたけれど、そういうことだったのね」
あの一件でイルムガルドが最も心配したのは己の立場が悪くなることではなく、アシュリーの立場の方だった。アシュリーは彼女らと面識があるどころか、モカとは二人でも会っているし、連絡先も交換している。実際に揉めるのがイルムガルドであったとしても、『伴侶』として出会ってしまったアシュリーに火の粉が降り掛からないとも限らない。あくまで念の為と考えながらも、事態が落ち着くまでは接触させないようにする必要があった。しかし、イルムガルドには上手く全てを説明する器用さが足りない。「どうしたの」と聞かれても、「怒らせた」とだけ。
ただ、アシュリーに全てを説明しなかったことも、イルムガルドなりの理由がある。まさか司令が情に絆されてモカに事情を全て打ち明けてしまう等と思っていなかっただけで、アシュリーならば有り得るとイルムガルドは思っていたのだ。イルムガルドに甘い彼女だから、仲違いを心配して、ネタ晴らしをしてしまうかもしれない。そう懸念して、イルムガルドは黙っていた。しかし司令のせいでそんな気遣い全てが水の泡だ。そんな不満を含め、今日、イルムガルドはアシュリーに起こった全てを打ち明けた。
「あなたの思惑とは裏腹に、どんどん皆に愛されちゃっているわね」
モカに抱き締められたことや、フラヴィに頼られてしまったことを聞いたアシュリーは彼女らの認識の変化を思い、何処か嬉しく感じながらそう呟くが、イルムガルドは不思議そうな顔でアシュリーを振り返る。
「んー? そう?」
「え」
心底理解できないと言わんばかりの声に、アシュリーは静止した。何度目を瞬いて見つめ直しても、イルムガルドの表情は、冗談でそう述べている気配が少しも無い。
「別に、仲悪くならなかっただけだよ」
「……そう?」
イルムガルドはどうやら、己に向けられる好意に対して酷く疎い。それが生まれ持ったものなのか、故郷で付いた傷のせいなのかは分からないが、少なくとも今の彼女にはそれを感じ取る機能は無いようだ。良いことなのか悪いことなのか、考えるようにアシュリーが首を傾けていると、イルムガルドが「できた」と弾んだ声を出した。
「綺麗に混ざってるわね、味見してみてくれる?」
「うん」
ボウルの中を確認したアシュリーがそう言うと、イルムガルドは言われた通りにスプーンで軽く中身を掬って口に運んだ。
「おいしい」
「良かった。じゃあいつものサラダ用のお皿に盛り付けて――」
「アシュリー、あーん」
顔を上げると、アシュリーにも味見をさせようと、イルムガルドがまた中身を掬ったスプーンを差し出していた。何だか嬉しそうなイルムガルドの表情が愛らしく、アシュリーは素直にそれを口に含む。
「美味しいわね」
実際のところ味付けは調味料を用意していたアシュリーということになる為、この言葉で正解なのかは微妙なところだけれど、イルムガルドは満足そうだ。その顔が可愛くて、細かいことはまあいいかと思うものの、少し複雑な思いも湧き上がる。
「何処でこんなこと覚えちゃったのかしら」
今までは一緒に食事をしてもこんなことはしなかったはずなのだけど。しかしそう呟いたアシュリーに、イルムガルドの方こそ不思議そうに首を傾けた。
「え、アシュリーでしょ」
数回の瞬きと、沈黙。そして記憶を辿って、アシュリーが笑う。
「あー、……そういえば、したわね」
味見をさせる為に、何度か無意識に差し出している。アシュリーにとっては、妹にもすることだったので、特別では無かった為だろう、言われるまで気付いていなかった。
「イル、これは他の人にしないでね」
「分かった、アシュリーだけだね」
そう言われるのも気恥ずかしいけれど、と思いつつ、アシュリーは頷いた。
ただでさえ甘いのに、尚も甘く成長するらしいイルムガルドを思って苦笑すると共に、さて、好意に対する鈍さはどうしてあげるべきなのかと、アシュリーはイルムガルドに気付かれぬよう、静かに息を吐いた。
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