第74話_早鐘は細腕の中で

 深夜零時はすっかりと過ぎて、タワー内の人影も少しずつ減っていく。首都以外と比べればそれでもまだまだ人の気配は多い方なのだろうが、この街も、人々が就寝へと向かう時間だ。奇跡の子らもそれは同じで、のんびりと並んで廊下を歩いているモカとレベッカも、自室へと向かっていた。フラヴィは先程二人が、部屋まで送り届けたところだ。三人で行動していると大体最後は二人で歩くことになる。登録番号が並んでいるモカとレベッカは、割り当てられている部屋も近いのだ。とは言え、隣同士ではなく背中合わせのような配置なので、ぐるりと廊下を回らなければ互いの部屋には行けないのだけど。

「レベッカ」

「ん?」

 少し後ろを、黙って歩いていたレベッカを、モカが振り返る。足を止めても、レベッカはそのまま隣にまでは来ることは無く、一歩手前で、同じく足を止めてしまった。二人の部屋まではまだ少しある。モカは少し笑った。

「何か言いたそうな顔をしているわね、ずっと」

「あー、いや、うーん……」

 レベッカは落ち着かない様子で視線を彷徨わせた。此処のところ、レベッカは妙にモカの前で大人しかった。フラヴィや他の誰かが傍に居ると普段通り笑みを浮かべて振舞っているけれど、それでも時折、何か考えるように視線を落とす隙がある。モカの前であればその割合が逆転して、隙だらけだった。

「言いたいことがあるような気がするけど、……何か、上手く言えなくて」

「そう」

 一歩分、空いていた距離をモカの方から詰めて、レベッカの目の前に立つ。こうして並べば、レベッカの方が数センチ背が高い。それを見上げて、モカは僅かに首を傾ける。

「今日、一緒に寝る?」

「んー、……うん、寝る」

「ふふ」

 そんな短いやり取りだけを交わして、二人は一度自室へと戻る。そしてそれぞれ寝支度を済ませた頃に、レベッカがモカの部屋を訪れた。二人で眠るにはどうしても狭く感じるシングルのベッドに、レベッカはいつも通り壁際へと身体を横たえている。何処か元気が無いままの彼女を見つめながらも、モカは何も触れない。何かを考えているようだから、下手に邪魔をしてしまわないようにと思っているのだろう。それでもこうして傍に居ようとするのは、言葉に出来るようになった時に、すぐに聞いてあげようと思うからなのかもしれない。ゴーグルを外してベッドサイドに置き、モカは彼女の隣へと身体を滑り込ませた。

「目」

「ん?」

「あれから、特に変わりない? また落ちたりしてない?」

「ええ」

 長い髪を互いの間に巻き込んでしまわないようにと少し整えてから、モカは顔をレベッカの方へと向ける。

「こうして裸眼であなたを見ていても、表情が良く見えるわ」

 そう言ってモカは笑った。一番酷く落ちてしまっていた時は、この距離でも、暗さも相まってレベッカの表情は今ほどはっきり確認することは出来なかった。今、レベッカの視線が少しだけ落ちて、長い睫毛が際立っていることも、あの時であれば見付けることは出来なかっただろう。

「大したことじゃないと思っていたけど、実際こうして見えるようになると、ほっとするものなのね」

 手を伸ばして、軽くレベッカの頬に触れる。このような触れ合いは二人の間ではよくあるもので、特別なことは何も無いのに、この日に限ってはふとイルムガルドに言われてしまった意地悪をモカは思い出してしまった。『誰の話』なのかと。信頼を損なうような行動ではないと思っているし、あの言葉もイルムガルドが本心でモカを咎めたわけではないと、もう知っているけれど、それでも少しだけ居心地が悪く感じていた。モカの想いを知っている者からすれば、こうして一つのベッドで一緒に寝ているようなことも、そう思われてしまうものに違いない。しかし、今まで当たり前に繰り返して来たことを、自覚した時点で急に誘わなくなり、断るようになってしまうのも、この関係を続ける意味ではおかしなことで。誰に対する言い訳なのか分からないが、モカはつらつらとそのようなことを考えて天井をただ見つめていた。少し表情を変えてしまったのだろうか、横顔を見ていたらしいレベッカが、微かに眉を顰める。

「モカ」

「なに?」

 呼ばれるのに応じて振り返り、目尻を下げる。ただの反射に近い。レベッカが名前を呼ぶから、表情が緩んだ。けれどレベッカにはそれが、どのように見えていたのだろうか。呼んだのはレベッカで、モカは間も空けずに応じたはずなのに、レベッカは何も言わず沈黙した。そしてまた、「モカ」と名だけを呼び、沈黙を続ける。一体どうしてしまったのだろう。モカは身体をレベッカの方に向けて、改めてその頬をゆっくりと撫でる。

「どうしたの、此処に居るでしょう」

 そう言ってもレベッカから言葉が紡がれることは無く、彼女はただ眉を下げていた。しばらく様子を見守ってみても、少しも動かない。モカはそんな彼女を無視して目を逸らしてしまう気にもなれず、見つめ続けて思案する。いつものように額や頬に口付けて、慰めてみようか。最初に考えたのはそれだった。傍から見れば突拍子の無い発想かもしれないが、そんな触れ合いも二人の間では特別ではない。レベッカは何だかんだ言いながらも、そうして触れると笑ってくれるし、心を解いてくれる。動きを見る為だけでも、やってみようとモカが少し上体を持ち上げようと体勢を変えた。するとレベッカの手がモカの腕に触れ、それを留める。いや、レベッカの方に留める意志があったかどうかは分からない。ただ、彼女の手が触れたことでモカが動きを止めた為、結果的にはそうなった。

「レベッカ?」

 手が腕に触れたことに意味があったかどうかも分からないのに、どうしたの、と言う意味を込めてモカは彼女の名前を呼んだ。視線を落としたままの彼女だったけれど、やはり何かを言おうとしているような気がしてならなかったからだ。

「……て」

「え?」

 彼女の唇から漏れたのは、レベッカにしてはあまりに弱々しく、掠れた声だった。聞き取れずに、モカは少し身体を寄せた。腕に触れていたレベッカの手に、力が込められる。

「どうして、……アタシじゃなかったのかな」

 顔を上げれば、レベッカが眉を顰めていた。何かを堪えるようにして、歯を食いしばっている。

「なんでアランとか、イルじゃないと、だめだったの?」

 その声があまりに感情に濡れて震えていて、戸惑いに、モカからは言葉が出てこない。

 レベッカは、モカに目のことを打ち明けられた時、今まで隠していたことを一言も咎めなかった。訳を聞くことも無かった。ただそれは疑問に思わなかったからではない。問うべきではないと考えたからでもない。そんなことよりもずっと、先に知っていた人が別に居て、モカを助けることが出来たのが自分ではなかったというショックがレベッカの心を覆っていたからだった。自分では駄目だったのだという落胆が先に来て、その奥に「どうして」という疑問が埋まっていて、彼女はそれを掘り起こすまでに時間を要していた。モカの腕に添えられているレベッカの手が、酷く震えていた。

「アタシが一番、モカを、大事にしてると、思っ、て……」

 言葉は最後まで紡がれなかった。レベッカの声は震え、瞳が揺れていた。今にも零れてしまいそうな涙が目に溜まっていて、レベッカは唇を噛み締め、息を潜めてそれが零れぬようにと引き止めている。モカは息を呑んだ。

「勿論よ」

 モカはレベッカの手に、己の手を重ねて握り締める。

「あなたが誰より、私のことを大切にしてくれているわ」

 レベッカは質問を重ねない。「ならどうして」と言おうとしたのか、口を開いたのに、その瞬間、彼女の目から涙が一滴零れてしまった。再び、レベッカは口を噤んだ。

「私が弱かっただけ。少しもレベッカのせいじゃないのよ。ごめんなさい、そんな風にレベッカを苦しめてしまうだなんて思いもしなかった。……本当に、ばかだったわね」

 今まで黙っていたことを、モカが心から悔いたのはこれが初めてだった。話してしまった後は、多少なりと心が楽になったものだが、それでも黙っていたこと自体を後悔などしていなかった。レベッカがこんなにも悲しんで傷付いてしまうということを、モカは少しも考えていなかったのだ。黙っていたことを怒られることはあるかもしれないと思ったのに、とは思いもしなかった。

「私は誰にも言いたくなかったの。だから、『自分から言った』という意味では、レベッカとフラヴィが初めてなのよ、……黙っていたことには、変わりないのだけど」

 これは本当のことだ。モカはアランにも、自ら伝えてはいない。彼の方が気付き、指摘された際に仕方が無く認めただけ。イルムガルドやアシュリーが気付いた経緯を説明した後、モカは続けてアランが気付いた経緯も説明しようとした。あの日、モカはアランの部屋に居た。

「キスする時に外すでしょう、そしたら」

「その話は、いい」

 まだ冒頭だったのに、レベッカが低い声で制止してモカは黙る。レベッカの眉間には深い皺が刻まれており、続けるのは良くなさそうだ。彼の話というのはそもそもレベッカにはまずかったかもしれない。

 あの時、アランはモカが手に持っていたゴーグルをふざけて掛けようとして、度が入っていることに気付いた。イルムガルドやアシュリーのような観察眼とは幾らも違うものだったので、二人が特別なだけで、『気付けなかった』等と思わせないように伝えるつもりだったが――、レベッカが不要と言うなら、もういいだろう。そう考え直して、モカは続きを完全に飲み込んだ。

「とにかく私は、あなたが誰より私を大切にしてくれていると思うから、余計に、悲しませたくないと思ってしまったの。でも、……逆効果だったわね」

 その言葉を聞き終えてもまだレベッカが顰めた眉はいつもの穏やかな形には戻らない。レベッカは一つ、小さな溜息を零す。

「何でも話して。他の誰かの方が、モカを知ってるのは嫌」

「それは、……とても可愛い言葉なんだけど」

 レベッカが願うなら叶えたい。モカなのだから当然そう強く思うのに、話せないただ一つ、それは他でもない話せない。この時のモカはいつもと比べて正直過ぎた。もっと曖昧な言葉を選び、煙に巻くことが出来なかったはずがないのに。……これも、イルムガルドが仕掛けた意地悪の続きだろうか。モカの心はあれから幾らかの無防備さを得てしまっていた。

「アランとかイルが知ってて、アタシが知らないこと、他にもあるの?」

 沈黙は肯定だ。他でもないモカがしてしまったら、レベッカがそれを見逃すことは無い。不満な表情は色を濃くして、『しまった』と思うのに、上手い言葉がモカの口からは出なかった。

「私はただあなたを困らせたり、悲しませたりしたくないだけよ。レベッカのことを誰より大切に想っているわ」

「困らない。モカが悲しいことなら、アタシは一緒に悲しくなりたい」

「……レベッカ」

 考えを巡らせても、モカは彼女を諦めさせる案が出せなかった。この時きっと考えるべきは『諦めさせる』案ではなく、別の悩み何かを嘘でも作り上げてしまう方が良かった。最初から選択肢を間違えていたことに、モカが気付いたのは翌日以降のことだけれど。長い沈黙を挟んでもレベッカが引く様子も、拗ねて「もういい」と言ってくれる様子も無く。諦めたのは、モカの方だった。

「ごめんね、レベッカ」

 怪訝に形を歪めた眉に一度だけ唇を触れさせ、何かを言おうと動いたレベッカの唇をキスで塞いだ。唇に口付けを落としたのは、初めてのことだ。当然それは、今まで繰り返した親愛のものとは意味が違った。目を丸めて呆けているレベッカに、モカは少し笑う。

「な、なに? ええと、え?」

「ううん、何も」

「何もって……」

 キスの為に少しだけ起こした上体を再びベッドに下ろす。目を白黒させているレベッカの表情は可愛らしかったけれど、見つめて楽しむ余裕は流石のモカにも無かった。

「レベッカは何も考えなくていいわ。そのままで。私の隠し事はこれでおしまい。だからもう寝ましょう」

「え、いや、……今の、は」

 モカはレベッカを強引に腕の中へと閉じ込めると、シーツを引き上げ、彼女を覆い隠す。そしてそのシーツに向かって「おやすみ」と告げ、強引に話を終わらせた。レベッカはその状況を無抵抗に受け入れたものの、納得していたはずもない。けれど彼女が動けなくなったのは、モカの心臓が酷く高鳴っていることに、腕の中で気付いてしまったからだ。キスと合わせて改めてレベッカは意味を理解し、まるで上せたように顔中が熱を持つ。明るい場所であれば誰が見ても驚いてしまうほど、この時のレベッカは赤くなっていたことだろう。

「は、はぁ……?」

 言えたのはそんな言葉だけだった。モカは黙らせようとするように、また少し強く抱き締める。この夜、彼女らの間にはこれ以上の言葉は無かった。

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