第72話_吐露を受け止めた右肩の上

 イルムガルドの治療室通いは一度倒れてしまってから毎日のことで、時間はその日によって異なるとは言え、事前に医療班へ問えば何時に来るかなど容易に把握できてしまう。特に、それを問うのが奇跡の子であり、当人が秘密にしてほしい等と願っていない限りは、医療班もそれを隠すことが無い。今更ながら『拒んでしまえば良かったのかもしれない』と誰かに捕まる度にイルムガルドは思う。けれどこうも頻繁に捕まっている以上、拒んだことが知られたらそれはそれでまた面倒になることも、想像に難くない。今日もまた健診を終えて治療室を出ながら、一つ息を吐く。

「煩わしいとまで言わないけど、……帰る時間を読めないのがね」

 口元だけで小さくイルムガルドは呟く。結局、憂鬱に思うのはその点だけだ。治療室での検査は毎回同じものである為、掛かる時間は大きく前後しない。ただその後、不定期に誰かに捕まってしまうせいで、何時に帰るかをアシュリーに明確に告げられないことが増えた。もうここ最近は、無事タワーを出てから『今から帰る』とメッセージを送ることにしていた。

 そして今日も例に漏れず、休憩所を通り掛かったイルムガルドは見覚えのある小さな姿を見付ける。フラヴィが、一人でそこに座っていた。しかし彼女と目が合ったイルムガルドは、二度瞬きをしてから、そのまま立ち止まらずに通り過ぎた。レベッカやモカならば自分に用事かもしれないと少し迷った可能性はあったが、イルムガルドの中で、彼女は最も自分に対して用が無いと思える相手だった。

「何で素通りすんだよ!」

 しかし、そうはいかないらしい。イルムガルドを睨み付けて怒鳴る姿に、渋々、イルムガルドはその足を止める。

「……わたしに用事?」

「そーだよ、お前に用事。っていうかそうじゃなくても挨拶の一つくらいしろよ」

 尤もな指摘だ。彼女らはチームメイトなのだから。だがフラヴィからすればそうでなくとも、奇跡の子同士、顔を合わせれば挨拶くらいはするものだと言うのだろう。イルムガルドがそのような指摘に従うかはともかくとして。フラヴィは何も言わないでぼんやり立っているイルムガルドの傍に歩く。本当に、レベッカやモカは一緒ではないようだ。

「モカ姉とのこと、聞いた」

 イルムガルドはのんびりと瞬きをする。何も応えようとはしない。

「でも僕は怒鳴ったこと、謝んないからな。泣かせたのは事実だろ」

「うん」

 分かっている、と言わんばかりに頷きを返したイルムガルドに、フラヴィは何処か不満げに表情を歪めた。何も彼女に傷付いてほしかったわけではないのだろうけれど、それでも、承知の上だと当然に受け止められてしまうこともまた、フラヴィには面白くなかった。

「それで、お前さ」

 話し始めようとして、フラヴィは一度沈黙した。彼女は普段、口を開けばほとんど止まることなく、相手が言葉を挟めないような話し方をすることが多い。けれど今日は違った。珍しく言葉に詰まり、逡巡している。イルムガルドは俯いてしまった彼女の小さな頭を黙って見下ろしていた。そして数秒間の沈黙の後、顔を上げてイルムガルドを見つめる瞳は、まるで助けを求めるように切実な色を見せる。イルムガルドは少し目を細めた。

「お前、モカ姉の気持ち知ってるんだろ?」

 彼女が明言を避けるのは、ほぼ確信していながらも、もしも知らないなら教えることが出来ないと思うからなのだろう。だがその立場はイルムガルドも同じものだ。何も言わず、その瞳を見つめ返す。

「レベッカのこと、どう思ってて、それから、僕、のことを……」

 曖昧な表現に努めながら、続けた声は重たく、弱々しい。小さな手が柔らかなフレアスカートを握り締めているのを見つめ、イルムガルドは首を傾ける。

「嫌ってはいないよ」

「そんなことは分かってる。分かってるよ、モカ姉は、僕にいつも優しいんだから」

 初めて出会った時から、モカはフラヴィに優しかった。レベッカに紹介された時、彼女とは全くタイプの違う落ち着いたその雰囲気に、実のところ、フラヴィは幾らか緊張していた。モカはそれに気付いていたのだろうけれど、何も知らない振りで、おっとりと話し掛けていた。そしてレベッカが傍に居ないような時はいつだってモカがフラヴィのフォローをしてくれていた。今でこそ、職員らに対しても物怖じせず話すことが出来るフラヴィだが、加入当初からそうであったわけではない。そんな彼女をレベッカも、そしてモカも、わざとらしくなく、いつだってさり気なく、当たり前みたいに支えてくれていた。

「それでモカ姉は、僕にいつも言うんだ、『気が向いたらレベッカに世話を焼かせてあげてね』って」

 イルムガルドもその台詞には聞き覚えがあった。彼女も、モカと初めて顔を合わせた時にそう言われている。フラヴィに気付かれぬよう、イルムガルドは小さく息を吐く。いつもそうしているのだろうと想像は出来ていたが、改めて、その献身にいくらか呆れているのかもしれない。

「レベッカがどうして僕をやけに構うのかも、僕は分かってる」

 彼女が続けていく言葉に、イルムガルドが少し居心地悪そうに首筋を擦った。

「モカ姉はレベッカが大事だから、レベッカが望むならって、僕の傍に居させようとする、だけどそれは、モカ姉にとっては」

 これではもう確定だ。フラヴィはレベッカとモカについて、イルムガルドが気付いている範囲ほとんどを正しく捉え、認識している。彼女はとんでもない板挟みに、挟まれながらもきちんと理解していたのだ。

「分かってるのに、なら僕はどうしたらいいんだよ、レベッカを酷く突っぱねたとして、それでレベッカが傷付いたり悲しんだりしたら、モカ姉は絶対に悲しむ。そしたら……僕は、どうすれば」

 苦しげな呼吸が、小さな身体から漏れる。いつも胸に抱かれている兎のぬいぐるみが強く抱かれ過ぎて形を変えていた。

「二人の問題に僕なんか関係ないって、何も言わなくていいって思うだろ、僕だってそう思うよ、だって僕は二人からしたらずっと子供なんだから。だけど僕はもう、レイモンドの時みたいな、思いは」

「……誰?」

 知らない名前に、イルムガルドが首を傾ける。No.5、レイモンド。一年間に殉職するまで、フラヴィ達のチームメイトだった男の子だ。フラヴィがそれを淡々と告げるのを聞いて、イルムガルドは小さく頷いた。

「レイモンドは、……レベッカのことが、好きだった」

 彼はいつもレベッカを見ていた。そしてレベッカの為に、誰よりも強くなろうとしていた。フラヴィはそんな彼の努力や、強い思いを、何度も見付けていた。

「だけど、死んだんだ、レイモンドはもう居ない、僕が……僕だけが、レイモンドの気持ちを知ってて、レベッカは、何も知らない、僕は」

 フラヴィの声が大きく震えた。その目から大粒の涙が零れ、兎のぬいぐるみを濡らしていく。

「僕は、どうしたら、良かったの……」

 懺悔に近い、吐露だった。知ってしまっていたからこそ、彼女は苦しんでいた。今更伝えたって仕方が無いとフラヴィは理解していた。当人はもう何処にも居ない。そんな状態で伝えたところで、きっと酷くレベッカを悲しませるだけだ。だから今まで、フラヴィは誰にも言えなかった。

「でもそれなら、レイモンドの気持ちは何処に行くんだよ、僕なんかが持ってて、どうするんだよ」

 しゃくり上げて泣いているフラヴィに、イルムガルドは声を掛けるでもなく、手を差し伸べるでもなく、ただ傍に立ち、見守っている。幸か不幸か、廊下には誰も居ない。誰かがやって来る気配も無かった。

「僕は、後悔するのはもう嫌だよ、イルムガルド、お前なら分かるのか、僕はどうしたらいい、どうしたら、レベッカもモカ姉も苦しませないでいられるんだよ」

 彼女は小さな身体の中に、大人でも苦しくなるほどの大きな感情を預かってしまっていた。声も、身体も震わせながら助けを求める彼女に、イルムガルドは少しだけ困った様子で眉を下げる。

「えー……しらない」

「何となく気付いてたけどお前ってそういうやつだよな!」

 フラヴィは渾身の力でイルムガルドの腕を叩いた。衝撃を逃がそうとイルムガルドはやや身体を傾ける。それなりに大きな音がしたが、フラヴィの手は大丈夫だろうか。ちらりとイルムガルドは視線を落としたが、叩いた手でそのままフラヴィは自分の涙を拭っている。痛めてはいないようだ。

「クソッ、お前に相談しようと思った僕がばかだった」

 ごしごしと手の甲で涙を拭っているものの、まだ喉は不定期に震え、涙が止まる様子は無い。見兼ねたイルムガルドはポケットを探った。

「あー、どっかに、アシュリーが入れてくれたハンカチが、ある……」

「持ってるから要らないよ! しかもハンカチ入れてもらって場所が分からないって小さい子供かよお前は!」

 ようやく見つけ出して取り出す頃には、フラヴィは自分のポケットから取り出したベビーピンクの可愛らしいハンカチで目を押さえていた。イルムガルドは仕方なく、役目を失ったそれを再びポケットの中へ戻した。しかしそのまま待っていても、フラヴィの涙は中々止まらない。イルムガルドは首を傾けた後、数秒迷って、そして彼女の前に屈んだ。

「う、わ!?」

 ハンカチで目を覆っていたフラヴィは、一瞬、何が起こったのかが分からない。イルムガルドが突然彼女を抱き上げ、右肩に担ぐようにして抱いている。

「な、何だよ!」

「泣き止まないから」

「慰め方が下手にも程があるだろ!」

 怒られている自覚が無いのか、イルムガルドは何も言わずに、背中をとんとんと叩きながら、抱いた身体をゆっくりと揺らしている。

「僕は赤ちゃんかよ……お前が何を考えてるのか未だに何も分からないけど、本当に相手を間違えたことだけは分かるよ」

 溜息交じりに呟くフラヴィの言葉など少しも意に介さず、イルムガルドはそのままのんびりと歩き始める。本当に、これで慰めているつもりなのだろうか。抵抗を諦めたフラヴィはその肩の上でまたハンカチを目に押し付け、ぐすんと鼻を鳴らす。すると背を叩くリズムに合わせるように、イルムガルドが静かに口を開いた。

「伝えなかったことにも理由があるんだろうから、レベッカは、知らなくて良かったんだと思うよ」

 声がやけに優しくて、ただそれだけで、フラヴィは言葉の意味を理解するより先に目が熱くなった。その声がフラヴィの身体に馴染むように浸透してから、イルムガルドがゆっくりと言葉を続けていく。

「その人が頑張ってたこと、レベッカはちゃんと知ってると思うし、ちゃんと見てたと思う。理由を知らなくても、そういうのまで見落とす人じゃないでしょ」

 レイモンドの気持ちに気付く様子は少しも無くても、ウーシンと競うように訓練室に通うレイモンドを見るレベッカの目はいつも優しかった。そんな光景を幾つも思い返して、フラヴィの目からまた新しい涙が落ちる。

「それでいいんだよ、多分。その人の気持ちは、その人だけのものだから」

「……うん」

 またフラヴィの声が震え始めたから、イルムガルドはその背を擦った。緩んだ心のままで口を開けば、フラヴィからはいつもよりずっと柔らかな弱い声が漏れる。

「モカ姉が伝えないのも、意味が、あるのかな」

「少なくともあの人の中にはちゃんと理由があるから、見付けるのはレベッカじゃないとだめだよ」

「レベッカ見付けるかな」

 のんびりとしながらも淀みなく続いていたイルムガルドの言葉が一度途切れる。珍しく、イルムガルドは小さく唸った。

「見付けないと思う」

「おい」

 フラヴィはがっくりと肩を落とした。慰めているのか落胆させたいのかどちらなのだろう。しかし、イルムガルドがそう言う気持ちも分からなくはない。フラヴィは此処に来てからずっとレベッカと言う人を見てきたのだ。彼女はきっと見付けてくれない。そういう点において彼女ほど疎い人間はタワーに居ないのではないかと思うほど、その兆候を見せないのだから。イルムガルドの右肩で溜息を吐きながら項垂れているフラヴィの背を、また優しい手がとんとんと叩く。

「でも二人共、わたし達より大人だから、わたし達が何か考えて手を貸すより、二人で進んだ方が、ずっと大丈夫だよ」

「そうかな」

「うん」

「……そっか」

 静かに息を吐き、フラヴィは少しイルムガルドの腕の中で力を抜いた。たった一人で抱えていた不安や焦りは、まだほんの十二歳の彼女には苦しかったのだろう。お世辞にも上手とは言えない慰め方だったけれど、それでもイルムガルドの回答は、フラヴィを幾らも安堵させた。ただ、それはそれとしても、フラヴィには言いたいことが幾つかある。

「っていうかお前、そういう返しが出来るならあとスリーテンポくらい速く出来ないのかよ」

 振り返れば、無言で首を傾けているイルムガルドの横顔が見えた。もしもフラヴィが問い掛けてすぐに今のような言葉を続けてくれていれば、変に落胆せずに済んだのに。戦場では目にも止まらない速度を出すくせに、会話はどうにもずれていて、対応が遅い。アシュリーに対するそれはまた違うが、少なくともこのタワーでのイルムガルドはそんな印象が強かった。

 担がれていることにも何故か慣れてしまったフラヴィがその肩で揺られていると、分かれ道の一つからテレシアが歩いてきて、先にフラヴィと目が合った。瞬間、この状況がおかしいことを思い出し、フラヴィは気恥ずかしくなる。テレシアが足を止め、二人を見比べるようにして見つめているから、イルムガルドも気付いて足を止めた。テレシアは何か言いたげな顔を見せるも、その口からは何の言葉も発せられない。

「……用事?」

 数秒間の沈黙の末、イルムガルドがようやくそう問い掛ける。しかしその声に驚いたかのように肩を震わせたテレシアは、勢いよく首を振った。

「な、何でもない、です」

 言うや否や、そのまま走り去って行った。その背を振り返ることも無く、ただ音だけで彼女が遠のいたことを確認して、イルムガルドが軽く息を吐いた。

「何だあれ。お前、あいつに何かしたの?」

 再び歩き出したイルムガルドに、何も知らないフラヴィが無垢に問い掛ける。イルムガルドは少し間を空けて、小さく首を振った。

「別に。ただ、わたしのことが苦手なんだよ」

 観察するようにフラヴィはイルムガルドの横顔を見つめる。しかしそれはいつも通りの無表情で、フラヴィに読み取れるようなものは何も無い。再び前を向いて、とは言え担がれているせいで進行方向からは逆になるが、テレシアの走り去った方向をフラヴィは見つめた。

「……そうかな。僕には何か、違う気がしたけど」

 一瞬かち合った時のテレシアの目を思い出しながら、フラヴィは首を傾ける。何処かで見た覚えがある色だった。それは何処だったのだろう、遠い記憶だったようにも、ごく最近の記憶だったようにも思う。低く唸りながら思い起こそうと眉を寄せるが、そうしている間に辺りに人の気配が増えてきて、はっとイルムガルドを振り返る。

「お前、何処まで僕を抱いて歩くつもりなの?」

 迷い無く進んでいるイルムガルドは、周りの目など少しも気にする様子が無い。職員らは二人を見て、目を丸めたり、微かに笑ったりしている。フラヴィは段々恥ずかしくなってきたが、何処までと問われたイルムガルドは、初めてそれを考えようとした様子で、ゆっくりと首を傾ける。

「……フラヴィの部屋?」

「これでエレベーター乗るの!?」

 治療室と、奇跡の子らの居住域はフロアが離れている。フラヴィを部屋まで送り届ける為にはどうしてもエレベーターに乗る必要があった。そのルートは人が多い。エレベーターが二人きりになる可能性はとても低かった。フラヴィは一体何故、こんな辱めを受けなければならないのだろうか。

「もういいから下ろせって!」

 本気でそう訴えてみるものの、イルムガルドはまるでそれすらも涙の続きであると捉えて、背を優しく叩き、柔らかく揺らして歩く。エレベーターホールに近付くにつれ、フラヴィは焦っていろんな角度で訴えてみたが、結局彼女はその状態で部屋まで送り届けられる羽目になった。部屋の前でようやく床に足を付けたフラヴィは、帰っていくイルムガルドの背を見つめ、やはり相手を間違ったのかもしれないと深く息を吐いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る