第62話_二人きりの部屋、語られない言葉

「ホントに痛くないの?」

「ええ」

 掛ける声は優しく静かで、ともすれば、その音すらもモカの身体に響いてしまうと懸念しているかのようだ。返す言葉も同じだけ穏やかだったけれど、レベッカはそれに不満そうな顔を浮かべた。

「嘘だぁ」

「いっ……」

「ほらぁ」

 軽く手が肩に触れただけで声を漏らし身体を強張らせたモカに、レベッカは呆れた顔をする。簡単にばれてしまう嘘をどうして吐こうと思うのだろう。まだ少し力が入ったままの腕を慰めるように、レベッカの手の平が柔らかく滑った。

「こんなちょっと触っただけで痛いなら、動かすのもまだ痛いでしょ。やせ我慢しないのー」

「……不便は、特に無いのよ」

「アタシがそう言っても散々世話焼いたくせに」

 レベッカが怪我をしたのも、同じく左肩だった。『利き腕ではないから不便は無い』という主張までも一致しているのに、何故かモカは、レベッカに世話を焼かれることを許容しない。

「それとは別よ」

「なんで」

「レベッカは前衛なんだから、痛みが残ったら戦いに支障が出るわ。私は、座っていたって『視』れるもの」

「そう、かもしんないけど……」

 当然のように答えるモカは、日頃からそのように考えている節があった。前衛であるレベッカらの方がWILLウィルにとって重要で、怪我をしてしまった時は、モカのような後衛以上に大切にされなければならない。そして、後衛であるモカは、能力さえ使用できれば怪我は些末な問題であるのだと。

 確かにWILLウィルの運営だけを思えば、そういう見方は出来るのかもしれないが、レベッカがその言葉に納得するはずもない。

「あーもう、難しい理由はいいや。

 難しい理由で言い争ったとして、レベッカがモカを言い負かせはしないのだから。いつもと比べて幾らか幼い声で、レベッカは不満を訴えた。

「モカが痛いのはアタシが嫌だから、お願いだから、安静にして、もっと大事にして」

「……そう言われると弱いの、分かっているでしょう。ずるいのね」

「大事にしてくれるなら何でもいいですー」

 大袈裟に口を尖らせて唸るレベッカに、モカがくすくすと笑う。それに応じてレベッカも頬を緩めて笑った。

「それよりモカ、もうちょっとこっち来なよ、落ちるよ?」

 体勢を変えたのか、不意に二人分の体重を支えているベッドが軋む。レベッカがモカを背後から抱くようにして、二人は一つのベッドで寝そべっていた。

「落ちないわよ……レベッカが狭いでしょう」

「平気だって。こっち壁だし」

 確かに言う通りレベッカ側に壁があり、そちらに詰めている方が安全なのだろうけれど、元よりモカは寝相の良い方だ。ぎりぎりの位置で眠ったところで落ちるようなことは無い。出会った十四歳の頃から数え切れないくらい一緒に寝ているレベッカがそれを知らないわけがないのに、それでも彼女は心配することをやめない。モカの身体に緩く回していた腕に力を込め、モカの身体を自分の方へ引き寄せようとしていた。

「分かったから、待ってレベッカ、自分で」

 まだ振動ですら痛んでしまう肩をモカが案じたとは思えないが、レベッカの手で引き寄せられることは拒んだ。レベッカ側のスペースを気にするように肩口に彼女を振り返り、少し身体を起こして移動する。すると、モカを見上げたレベッカが何処か嬉しそうに目尻を下げていた。

「何?」

「んー、やっとこっち向いたーと思って」

 その言葉に目を瞬き、そして、身体を横たえたことを言い訳にするように、モカは視線を天井へと逃がした。

「左肩の怪我だから、そっちを向けないのよ」

「分かってるけど、そうじゃなくてさ」

 指摘されていることを当然モカは自覚していて、レベッカが気付いていることも分かっているのだろうに、それでも、彼女は肯定しない。

「帰ってきてから、あんまりアタシの顔見てないじゃん」

「そんなこと、ないわ」

「いやいや、流石に気付くって。元々モカはこっちが恥ずかしくなるくらい顔見てくるし、寄せてくるんだからさ」

 例えばイルムガルドのように普段から人の顔や目を見ない人間であれば分からなかっただろうけれど、モカは逆だ。不必要なほどに人の目を見つめ、無用に顔を寄せる。そんな彼女が視線を逸らすようになってしまえば、どんな鈍い人間でも分かってしまう。

「ふふ、恥ずかしく思ったことなんてあるの?」

 楽しそうにモカは笑って、少しだけ話題を横に避ける。身体は仰向けのまま、顔だけをレベッカに向けた。『そんなことない』を実行しているつもりなのだろうが、レベッカからすればもう今更なことだ。勿論、顔が見られることは嬉しいのだろうけれど。

「えー、あるよー。っていうかモカ、色んな人に顔寄せすぎなんだよねー、みんな大体困ってるでしょ」

「そうだったかしら?」

 笑みを深めて応える声は弾んでいる。困らせたことに気付かないような彼女ではない。大体が、困らせることを分かっていて、むしろ困らせる為に、人と距離を詰めるのだろう。一緒に居る時はレベッカが他の子を気遣って引き剥がすことが多かった。

 視線をまた天井へ戻していると、徐にレベッカがモカの頬を撫でる。応じて再び顔をレベッカの方へ向ければ、優しい視線とぶつかり、今のモカには酷く居た堪れない。思わずシーツに落ちて行った視線を、レベッカは咎めようとしない。ただ少し眉尻を下げ、モカを慰めるように繰り返し頬を撫でた。

「自分を責めないでいいよ、モカ」

 モカは瞬間、息を呑み、思わず眉を顰めた。部屋が暗くとも、すっかり目が慣れたレベッカにはそれはよく見えていたのだろうに、彼女は言葉を止めなかった。

「誰もモカを責めてないよ。それはモカに、モカ自身を責めてほしくないからだよ」

 彼女の怪我が決して痛むことが無いように優しく身体を抱き寄せ、頬を撫でていた手が、モカの頭を撫でる。震えてしまう呼吸をモカは必死に押し隠しながら、静かに息を吐く。

「あんまり、優しくしないで」

「そんなの無理だなぁ、世界中の人がモカに冷たくなったって、アタシは無理だよ」

 どんな言葉を返したとしても、レベッカはこの言葉を覆しはしないだろう。そんな未来が本当に来たとしても、この言葉を真実にしてしまうだろう彼女だから、モカの心はどうしたってレベッカから離れることが出来ない。抵抗を諦めるようにして、モカは身体から力を抜き、レベッカの肩に額を押し付けた。

「――……モカ」

 しばらくの沈黙の後、レベッカは少し頼りなく、掠れた声でモカを呼んだ。普段聞かない音にモカは驚き、すぐに顔が上げられない。モカの頭を撫でていた手はいつの間にか止まっていたのに、応えずに沈黙すれば改めて抱き直すように動き、モカを引き寄せ始める。慌ててモカは今の距離を保つようにレベッカの腕に触れ、顔を上げた。

 しかし視線の先のレベッカは、すっかりと夢の中だと示すように、穏やかに寝息を立てていた。

「……今の、寝言なの?」

 残念であるとも、安堵したとも取れる複雑な表情でモカはそう呟き、静かに息を吐く。レベッカが動く様子は無く、モカが指先を伸ばしてその頬を突いても、それは変わらなかった。

「あなたは夢の中でも、私を呼ぶの、ねえレベッカ」

 レベッカは、一度眠ってしまえば滅多なことで目覚めない。戦場は意識が違うのかその限りではないが、タワーで眠る彼女はどのベッドでもそうだ。たっぷり八時間の睡眠を取るまで、例え何かのはずみで目を開けたとしても起きた時には覚えていない。もう五年の付き合いとなるモカはそれを良く知っているから、あまり彼女を気遣うこと無く言葉を掛け、少し体を起こす。軋んだベッドの音は、その上に今一人きりでないことを教える音をしていた。

「あまり可愛いこと、しないでよ」

 他に誰も居ないのに、レベッカも目覚めはしないのに、それを知っていてもモカは一瞬浮かべた泣き出しそうな顔を、丁寧に飲み込み、いつもの笑みを浮かべる。そして再びベッドを小さく軋ませて、レベッカの額に柔らかく唇を落とした。


 モカやレベッカが眠る時間なのだから、イルムガルドであればとうに就寝しているはずの時間、彼女のマンションは未だ照明が明るく室内を照らしていた。家の一番奥にある本の部屋を覗き込み、アシュリーが苦笑を零す。

「イル、もう遅いから、そろそろ寝ましょう?」

 声に応じて顔を上げたイルムガルドは、壁に掛かる時計を見て目を丸めていた。

「あれ、ごめん、もうこんな時間だったんだ」

 そう言うと、手元の本に目を落とし、そして辺りをきょろきょろと見回している。アシュリーは笑って、彼女の真後ろに置かれている栞を拾った。

「それと、熱中するならリビングのソファにしてね、身体を悪くしちゃうわよ」

 探し物の栞を渡してやりながら、彼女の傍にアシュリーが膝を付く。本の部屋には椅子や机を置いていない。イルムガルドは、床に直接座り込んで、過ぎる時間の長さも知らずに本を読み耽っていた。いくら丈夫な身体とは言え、冷えてしまうかもしれないし、腰や背中を悪くするかもしれない。当然そんな自覚の無いイルムガルドは彼女の言葉に首を傾けているが、アシュリーが言うから、「はあい」と素直に頷いていた。

 部屋には少しずつ本が増えていた。置いてあるものは童話が多く、それ以外はイルムガルドが興味を示した分野の図鑑。童話については半数近くが図書館で借りてきているものになるが、イルムガルドが気に入って何度も読み返すようなものは購入して置いてある。

 座っていた場所の周りに積んでいた本は、読もうと思っていたか、または読んだ後だったのだろうか。立ち上がったイルムガルドはそれらを拾うと、丁寧に本棚に並べた。アシュリーもそれを横目に、手に持っていた分厚い本を本棚の一角に入れると、振り返ったイルムガルドが首を傾ける。

「それなに?」

「これ? これは私の。栄養に関する本よ、イルには、つまらないかも」

 そうは言いながらもアシュリーは一度入れた本を取り出し、イルムガルドに手渡してやる。受け取ると、イルムガルドは興味津々といった様子で本を開き、まじまじと中の文字を見つめた。

 イルムガルドはアシュリーの作った食事しかまともに身体へ吸収できていないことから、彼女の栄養管理をアシュリーが一任されてしまっている。しかしアシュリーには専門的な知識は全く無く、奇跡の子の体調管理を任されるとなると責任重大で困っていたのだ。その旨をWILLウィルに相談したところ、日々の献立を共有してアドバイスを受けられるようになった上、予備知識の無いアシュリーにも理解しやすいような本をいくつか支給してもらえた。その本で、アシュリーは暇を見付けて少しずつ勉強している。つまり、こんな時間になるまでイルムガルドに声を掛けなかったのは彼女を気遣ったのではなく、アシュリーもそちらに集中してしまい、気付いていなかったせいだった。これでイルムガルドが体調を崩してしまえば本末転倒だ。明日からはちゃんと気を付けようとひっそりアシュリーは反省する。

 隣で難しい顔をしながら本を見つめるイルムガルドに、そのような経緯をアシュリーは易しく説明したが、聞こえているのだろうか。しばらく中身を見つめた後、イルムガルドは軽く唸って首を捻った。

「んー、むずかしい。分からない単語しかない」

「あはは、そうね、私もとっても難しいわ」

 アシュリーが読んでいても『聞いたことはあっても理解できていない単語』が多く記載されているし、勿論、全く馴染みのない言葉もある。イルムガルドが読むにしては難解だったことだろう。また、これは最初から順に読み込んでようやく理解できるような作りだ。半端に開いたページを見るだけでは、そうなるのは仕方が無い。アシュリーが頭を撫でてそう慰めると、イルムガルドは眉を下げながらアシュリーに本を返した。

「わたしにはアシュリーが居るけど、……みんなには、誰か居るのかな」

 アシュリーが本を棚に入れている横で、イルムガルドが徐にそう呟いた。この本をどうしてアシュリーが読んでいるのかという話は、ちゃんと聞いていたらしい。彼女が指した『みんな』とは、タワーに住む仲間達のことだろうか。

「心配なの?」

 そう問い掛けてもイルムガルドはただ小さく首を傾けただけで、何も応えない。不意にそんなことを考える程度には、イルムガルドも仲間のことを想い、気に掛けているのだと分かる。けれど彼女は決してそれを当人らに見せようとしない。言葉を交わすことすらも最低限、いや、最低限すらも下回り、まるで無視をしているかのような対応も多い。

「イルはどうして、みんなとお話しないの?」

 彼女が『みんな』を嫌いではないことは、薄々気付いていたけれど、アシュリーに対しては出会った時から柔らかかったイルムガルドがWILLウィルに向ける態度が、その選択が、アシュリーにもよく分からない。イルムガルドは顔を上げてアシュリーを見つめると、力なく眉尻を下げて、不格好に微笑んだ。

「……わたしは」

 静かな吐露は、本と本の隙間に隠れるように、アシュリー以外の誰にも届くことなく、溶けて消えた。

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