第31話_星を見失う零番街

 静かに持ち上げられた目蓋は、天井の光を嫌うように一度下がり、何度か震えた。

「――イルムガルド、分かるかい?」

 覗き込む職員がその光を遮って影を作れば、ようやく正しく目は開かれ、声の元を見つめる。再び繰り返された二度の緩やかな瞬きは、相槌であるようにも見えた。

「凱旋パレードから離れた後、倒れたんだよ、覚えてるかな」

「……うん」

「そうか、うん、記憶がはっきりしているなら安心だ。……過労だったよ、疲れが溜まった状態だね」

 続いた言葉に対してもイルムガルドは瞬きをのんびりするだけで、反応は少ない。ただ、青白い肌、少し落ち窪んだ目は彼女の疲労を色濃く表した。顔に出るまでに少しのラグがあることは、どうやら体質であるらしい。

 イルムガルドが倒れてから今日で四日目になる。丸三日の昏睡。その間、医療班が懸命に治療を施し、少しずつ彼女の身体は回復をしていた。

「だけどまだ絶対安静だ。しばらくは何も考えずに、ゆっくりと休んでくれ」

 言い含めるようにイルムガルドを見つめて丁寧に告げる職員。それにも彼女は特に返事をしなかったけれど、小さく息を吐いて身じろぐ。

「ああ、起きてしまえば気持ち悪いのかな、すぐに外してもらうよ」

 多くの管が通された身体に対する不満と受け取ると、職員は微笑んで医療班を呼んだ。共に入室した医師による問診を受けながら、医師の指示の下、宣言通りに管は取り外されていく。イルムガルドは珍しく眉を顰めていた。抜かれる感覚が気持ち悪いのだろう。ずっと健康で生きていた彼女にとって、こんなものはまるで経験の無いことに違いない。

「今、手が足りていなくてね、少し離れるけど、ブザーを鳴らしてくれたらすぐに来るよ、何かあったら呼んでくれ」

 問診が済むと、医師と医療班が立ち去った部屋で職員がそう告げる。彼の指先がブザーの場所を指し示すのをイルムガルドの視線が正しく追った。その様子を確認すると、返事が無いことも気にせずに職員は柔らかくイルムガルドに微笑み、そして急ぎ足で退室する。本当に忙しくしているようだ。その背が扉の向こうに消えるのを横目に、イルムガルドは大きく深呼吸をした。


「――まずは少し落ち着いてくれ、モカ」

 司令室で仕事に追われていたデイヴィッドは、その手を止めて難しい顔を浮かべる。彼が見上げる先で、モカが目を細めていた。

「私は落ち着いているでしょう? だから、こうしてお話しをしています」

 その声は確かに静かで、話す速度ものんびりとしたものだ。ただしその語気はあまりに強く、優しさを感じられない。彼女は両手を机に付き、司令を詰問するかのように身を乗り出している。そんな彼女の後ろで、レベッカはおろおろと困った顔をしていた。

「だからさ、モカ、アタシは大丈夫だってば、何でもないんだよ」

 ちらりと視線だけでそんなレベッカの様子を確認するも何も答えず、またデイヴィッドへと視線を戻す。ゴーグル越しの鋭い視線に、デイヴィッドは緊張の色を隠し切れていない。

「明らかにレベッカの落ち着きが無く、元気がありません。けれど私が聞いてもこの状態。加えて凱旋パレード以来、イルムガルドの姿も無ければ噂も聞かない。……イルムガルドに何かありましたよね? 口止めなさっているのは司令でしょう。教えて下さい」

 その問いに、デイヴィッドの眉間へ深い皺が刻まれる。何も答えない意志表示であるのか、それとも他意は無いのか、デイヴィッドは唇を噛んで静かに息を吐いた。

WILLウィルのことを全て話せ等と言うつもりはありません。情報をお控えになるのも、考えがあってのことでしょう。だから私が気に入らないのは二点だけです」

「き、気に入らないって……」

 彼女らしからぬ言葉に、レベッカが驚きをもって繰り返すが、モカは言葉を止める様子も、訂正する様子も無い。

「私に嘘を吐かなければいけない状況に、レベッカを追い込んでいること」

 モカの瞳に浮かんだのは明らかな怒りだ。ぎらぎらと炎を燃やすようなその色に、デイヴィッドは息を呑む。非戦闘員である彼女に武力的な恐れは無いが、能力を考えれば

「そして、この子が何かに苦しんでいるのに、私が何も出来ないように制限されていることです」

 机に付かれた手はいつの間にか握り締められ、はっきりと力を込めている。周りの職員も、何も口を挟むことが出来ず、まるで息を潜めるように誰一人として微動だにせず沈黙していた。

「他言いたしません。お話し下さい。もしくは、私へ話す許可をレベッカに」

 デイヴィッドは低く唸りながら後頭部をがしがしと乱暴に撫でた。少しの沈黙を挟み、また大きく一つ溜息を零す。それは諦めの音だった。

「そうだな、悪かった。レベッカが思い詰めることは分かっていたのに、ただ口止めをする対応は酷だったよ。……ちゃんと俺から話そう」

 他言無用であることを重ねて強調した後、デイヴィッドからモカへ、イルムガルドの件が伝えられた。過労と思われる症状で倒れたこと、その要因が『限り』であるかもしれないこと、そしてまだ意識が戻らないままであること。話し終えるまで黙って聞いていたモカは、机から手を放して姿勢を正すと、難しい顔をして少し視線を落とす。

「そうですか、あの子にも『限り』が……」

 当然、イルムガルドの身体に対する心配もあるだろうが、今、モカの頭の中には彼女自身の『限り』のことも浮かんでいることだろう。モカに対してイルムガルドが少しの関心を示したことが、もしも自身の『限り』に気付いた上のことであったなら。考え込むモカの様子に気付いていないのか、デイヴィッドはそのまま言葉を続ける。

「ゆっくりだが、回復していると報告を受けている。意識もそろそろ――」

「し、失礼します! あ、……す、すみません、あの、ご報告があり」

 唐突に飛び込んできた職員の声に、全員が肩を震わせる。驚かせた張本人は部屋の中に漂う異様な空気のことよりも、部屋にモカとレベッカが居ることに戸惑った顔を見せた。司令と彼女らを見比べるようにしている。彼と目が合った瞬間、レベッカはその表情を変えた。

「イルに付いてた職員さんだよね、何かあったの?」

「あ、いえ……ええと」

 職員は明らかな狼狽と共に視線でデイヴィッドに助けを求める。溜息交じりに、デイヴィッドは笑った。

「顔の覚えが良いのも考えものだな。構わない、このまま報告を、」

「それ、僕らも聞くから」

 再びの乱入者は、フラヴィとウーシンだった。少し乱れた前髪を整えた様子からして、彼女も幾らか急いで廊下を進んできたようだ。だが、どうしてこうもタイミングよく現れたのか。何故、と怪訝な目を向けられていることを正しく認識しているフラヴィは、右の口角だけを器用に引き上げた。

「職員の顔くらい、僕も覚えるんだよねぇ、大慌てで司令室向かってたら、あいつに何かあったってことくらい分かるよ」

「す、すみません司令……」

 くだんの職員は、申し訳なさそうに肩を縮めている。彼が廊下を急ぎ足で進み、この部屋へ飛び込んだだけで漏れた情報が多すぎた。しかし、元より事情を知っている者以外には察することも出来ないものだ。デイヴィッドはそれを咎めるつもりは無かった。

「いや、急ぎの用件であれば仕方が無い。もういい、このまま報告しろ。ここに居る全員が事情を知っている」

 そうは言いつつ、これ以上の乱入は阻止するように、近くの職員に指示を出して部屋をロックさせている。これからの報告の中、まだ知るべきではない全くの第三者が来てしまえば困るからだろう。その間に呼吸を整えることは出来たはずなのに、職員の焦りは入室時から少しも損なわれることがないまま、報告の第一声に引き継がれた。

「い、イルムガルドが居なくなりました」

「はぁ!?」

 大きな声で反応を返したのはレベッカだ。他の者は彼女の声に負ける形で掻き消されたものの、小さな驚きの声は同じく室内に居た職員達からも上がった。デイヴィッドも、驚愕の表情で職員を見つめる。

「順を追って説明しますと、ええとイルムガルドが意識を取り戻して、それから……」

 声が何度も上擦って、彼の動揺を表している。それでも必死に抑え込み、冷静であるようにと努めて丁寧に説明をする姿は、責任を負わされるかもしれない可能性の中、それでも行方知れずのイルムガルドを守る為だけに動いているようでもある。

 意識を取り戻したイルムガルドは、医師らの問診で意識障害は全くないと判断された。そして彼女を一人きりにしていた時間が三十分弱。病室から姿が無くなったことを気付いた直後、急いで監視カメラを確認し、イルムガルドが一度自室へ戻ったこと、そして十五分後に自室から出たことも確認。ただし、エレベータに乗り込んだ後の足取りが分かっていない。

「足取りが分からないって何で?」

「中央のエレベータにはカメラが付けられておらず、どの階で降りたのかが分からないんです。それに今、イルムガルドの為に配置された職員が三名しか居ないこともあって、全フロアのカメラを確認する手が足りません」

 イルムガルドの件は機密事項となっていた為、割り当てられた職員は少数だった。この部屋に居る司令の側近と、レベッカ達以外にはまだ伝えられていない。それが裏目に出て、今、イルムガルドが追えていない。当然、少数でも可能な限りの捜索をしており、当たりを付けて一階や食堂のある階など、イルムガルドが行きそうなフロアに限定して順に確認をしているようだが、どうやら普段全く使わない階から降りたらしく、その姿が見つけられない。

「なんだよそれ……逃げてるみたいな行動」

 フラヴィの言葉に、その場の全員が一様に眉を顰める。明らかに、イルムガルドはこのタワーから、もしくは職員の目から逃れようとしていた。

「とにかく、そういう状況でして、至急、検問の許可を頂きたく」

「なるほど、それでわざわざ此方へ来てくれたんだな。分かった、最優先で処理する」

 ゼロ番街から三番街までは、各区域の境に警備が配置されており、全ての通行人に対してIDチェックが行われる。ゼロ番街から出ることを許可されていないフラヴィなどは、一番街へ入るチェックで止められるシステムだ。しかし、イルムガルドは四番街以降も立ち入りを許されている子である為、まだ不調を隠している状況では警備に通達がされていない。彼女が望めば、一切の躊躇なくそこを通してしまうだろう。よって職員が今求めているのは、すぐに警備へ通達し、イルムガルドが外へ出るのを防いでもらうことだ。

「まず履歴を確認、通り抜けていない箇所へ絞っての通達にしてくれ、出来るだけ情報は外に出したくない」

「分かりました」

 申請書のやり取りをしながら、短く指示が飛ぶ。許可され、発行されたパスを手に、職員は近くの端末に走った。パスさえ発行されればどの端末からでも操作が出来る便利なシステムが敷かれているが、当然、権限は限定的であり、許可された範囲の操作しか出来ない上、一度使用すれば権限を失う。必要な制限ではあるものの、このような急務の中ではもどかしいだけだ。

「ああ、……クソ」

 たった十数秒で、職員は端末の前で頭を抱えて項垂れる。彼が告げるだろう結果はもはや予測できる。落胆しつつも行動を止めるまいと背筋を伸ばして司令へと向き直った職員だったが、その肩は明らかに落ちていた。

「七分前に、イルムガルドが三番街を出ています」

「クソッ、遅かったか。なら検問は意味が無い、通達は保留だ」

 四番街より先は、IDチェックが無い。強いて言えば街の出入りでチェックされるが、そこはイルムガルドも元より許可が無い部分だ。敢えて今働きかけるべき箇所とは思えない。つまり、彼らは完全にイルムガルドの行方を掴む手段を失った。

「イル……」

 弱々しく呟き、レベッカが俯くのを見つめ、モカは優しくその肩を抱き寄せる。寄り添う二人を見つめながら、デイヴィッドは重苦しく口を開いた。

「念の為に言うが、モカに探させることは出来ないぞ」

「……そんなこと分かってる」

「そうか。……いや、そうだな、すまない」

 レベッカはデイヴィッドを見ることなく、俯いたままで返答した。微かに苛立ちも感じ取れる。モカを誰よりも大切にしているレベッカが、分からないはずがないことを敢えて口にしてしまったと、デイヴィッドは申し訳なさそうに視線を落とす。モカは、指示されたもの以外を『視る』ことは禁じられている。何より、彼女自身が『視』たがらない。本来見えるはずのない隠されたものというのは、綺麗でないものがほとんどだ。そんなものばかりが詰まっている四番街以降の街を、住民のプライバシー全てを無視してモカが見下ろすというのは、当然プライバシー侵害の問題もあるが、まずモカへの負担が大き過ぎる。レベッカが案じるのは精神的負担だけだが、職員らはそこから更に、モカが抱える『限り』への懸念もある。小さく「すみません」と呟くモカに、責める気持ちなど誰一人として持てるはずがないのだ。

「あんな身体で何処へ行くつもりなんだ、イルムガルド」

 繰り返し通信を試みているデイヴィッドの端末から、応答を知らせる音が返ることは無かった。


 六番街、アシュリーの部屋は昼にもかかわらず少し暗い。それでも照明を点ける様子も無く、アシュリーはテーブルに突っ伏していた。普段通りの生活は送っていた。毎日出勤し、きちんと働いた。ただ、上手く眠れていなかった。今日にはきっと連絡が来ると待ち続け、仕事の合間にも何度も端末を確認し、眠る時にも身体から離さずに抱いていた。それでも、イルムガルドから返事は来ない。

 昼食を作る力も無く、テーブル端に置いたパンを一つ食べただけで、ずっと項垂れていた。今日には、そうでなくとも明日には。呪文のように頭の中で同じ言葉が巡る。しかしぐったりとしていた身体は、端末が震えた途端、何処に余力があったのかと思えるほど素早く起き上がった。慌て過ぎて一度テーブルの上に取り零すなどしながら確認すれば、間違いなく焦がれたイルムガルドからのメッセージ。

『いまから行く』

 鍵を与えてからも、必ず事前に行ってもいいかを尋ねる内容を送ってきた彼女を考えれば違和感のあるものだったが、そんなことよりも彼女から連絡があったというそれだけが、アシュリーにとっては泣き出しそうなほどの喜びと安堵だった。『待っているわ』と返したそれに反応は無いままで、予想したより遥かに早く、扉の前に気配が立つ。もしかしたらタワーからではなく、三番街か四番街から送ってきたのかもしれない。

 鍵が差し込まれた音に、アシュリーは慌てて立ち上がる。しかし、いつものように回らない。不思議に思いながらも、内側から開けてしまうと鍵を持つイルムガルドの手を痛めてしまうかもしれないと、静かに待つ。幾らか手間取った様子で開錠され、扉の隙間から入り込んだ姿は間違いようもなく、アシュリーが待ち続けたイルムガルドだった。

「イル」

 思わず駆け寄って抱き締めれば、イルムガルドも、ゴーグルを外しながらゆっくりとアシュリーの身体を抱き返した。

「アシュリー、ごめん、連絡くれてたのに」

「そんなことは良いのよ。……酷い顔色だわ、具合が悪いの?」

 薄暗い部屋でもはっきりと分かるその異常な顔色に、アシュリーの声は思わず震えた。イルムガルドは眉を下げ、安心させようとするかのように笑うけれど、ここまで顔に出てしまった状態では痛々しいだけだ。

「パレードの時に倒れて、ずっと寝てたんだ」

 ふと見下ろせば、鍵を持つイルの手はいつかのように震えていて、そのせいで鍵がうまく開けられなかったのだと知る。支えるようなつもりでアシュリーが握り込んだイルムガルドの手は、やけに冷たい。

「病気なの? 怪我?」

「ううん、ちょっと疲れてるだけ、過労みたいなのだって」

「……とにかく、座りましょう」

 立っていることも辛いのだろう、玄関の壁に身体を預けようとするイルムガルドを、アシュリーは部屋の中に引き込み、ベッドへと座らせた。だがイルムガルドは、座っていることすら容易く出来そうにない。ふらりと傾いた身体を、アシュリーは隣に座って受け止める。ジャケットを脱がせようとファスナーを下ろせば見えた鎖骨が、イルムガルドの身体が以前よりも更に痩せ細ったことを証明している。アシュリーは息を呑んでいた。

「アシュリー」

 そんな彼女の動揺を知ってか知らずか、静かな声でイルムガルドが彼女の名を呼ぶ。

「なあに?」

 努めて柔らかな声で、彼女自身が感じている不安や恐怖を決してイルムガルドに悟らせないように、アシュリーは応える。

「一緒に、少し寝たい、ちょっとだけ、……お願い」

 声は頼りなく、目蓋はもうゆらゆらと揺れて落ち始めている。こんな状態で、タワーからこの部屋まで歩いてくるのは辛かったのだろうに、それでもイルムガルドにとって、タワーは心身が休まる場所ではなかったのかもしれない。多くを与えられ、何一つ不自由など無いだろうあのタワーと比べてこの場所がどうして選ばれるのかは、アシュリーには分からない。しかし少しでもイルムガルドの休息になるのならばと、深く頷いた。

「いいわ、じゃあ、お休みしましょう」

 ジャケットを脱がせ、ジーンズも寝苦しいだろうからとアシュリーの普段着に替えてやる。イルムガルドには少し大きく、腰回りは頼りなく、丈も余っているが、寝るだけならば問題ない。何よりアシュリーは、いつもより冷たく感じる彼女の身体を少しでも温めようとしていた。

 二人で並んで横たわり、胸へとイルムガルドを抱き寄せる。柔らかな感触に触れて、イルムガルドは少し頬を緩めた。

「ん、アシュリーの匂い」

「ふふ、何か匂いがする?」

「甘いにおいするよ、いつもの」

 おそらく香水の残り香だ。アシュリーは出掛ける時には必ず同じ香水を使用し、眠る時にも少量付けることがある。その香りと比べるように、アシュリーはイルムガルドの髪に鼻を寄せた。

「イルはいつも何の匂いもしないわね、うーん、石鹸の匂いかしら」

「あー、シャワー浴びてきた、アシュリーと会うから」

 返る言葉にアシュリーは少し沈黙して目を瞬く。この体調でシャワーを浴び、髪までしっかりと乾かしてくるのは、いくら短い髪とはいえども体力を使うことだっただろうに。疲れ果てている彼女を労うように、その髪を指先で梳いて地肌を撫でる。イルムガルドは心地良さそうに目を閉じ、息を吐いた。

「そんなに気を遣わなく良かったのに、体調が辛いなら」

 そう言う傍ら、アシュリーは普段のイルムガルドの行動を思い起こしていた。イルムガルドは必ずシャワーを浴びてからこの部屋に来る。早くから来ている場合はベッドに入る前、シャワーを浴びたがる。手を洗う習慣と合わせて、何か彼女の中ではルーチンのようなものなのかもしれない。案の定、イルムガルドはただ生返事をするだけで、行動を改めそうな気配は無い。仕方なく、アシュリーは別の提案を口にする。

「どうしても気になるなら、体調が辛い時は私が入れてあげるわ」

「ふふ、それ、いいなぁ」

 微かな笑いと共に漏れた吐息が谷間に掛かる。イルムガルドはもう目を閉じていて、彼女の身体から少しずつ力が抜けていく。アシュリーは言葉を止め、静かに彼女の背を撫でる。完全に眠り就くまでに、一分も掛からなかった。

 寝顔は穏やかだけれど、その肌は明らかに青白い。アシュリーは眉を顰める。この体温が、起きたら無くなってしまっているのではないかという恐怖ばかりが身体の奥に這い上がっていた。しっかりと身を寄せ、イルムガルドの体温を直に感じても、その不安は少しも消えそうにない。

 背後で、イルムガルドの端末が静かに彼女を呼び続けていることを知りながら、アシュリーはそれが決して腕の中には届かぬように、弱るイルムガルドをシーツの中へ閉じ込めた。これも積み重ねた罪の一つかもしれない。だが今回ばかりは見逃されることはないかもしれない。分かっていても、アシュリーはその腕を緩めることが出来なかった。

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