第32話_流星ぶつかる六番街
「駄目だ、応答が無い」
何度も繰り返し掛け直すがイルムガルドの端末が応じることは無く、デイヴィッドは諦めて一度端末を机の上に置いた。唇を噛み、考え込むように額を押さえて俯く。
「……イルムガルドの外出姿を知っている者は、どれだけ居る?」
「外出姿?」
「ああ、色付きのゴーグルをするんだ。それで顔を隠している」
イルムガルドが下町に出る場合、住民らに囲まれてしまわぬように変装していることを知っている者は多くない。言われれば確かに必要なことだと分かるが、敢えてそんなことを考えることが無かったからだ。手を上げたのは、デイヴィッドと共にイルムガルドのゴーグルを選んだ三名の職員。
「可能性は低いが、何もしないよりはましだ。悪いが、私服に着替えて下町を探してくれないか」
「分かりました」
制服姿のままで下町を徘徊する職員が住民に見られることもまた疑念を抱かれかねない。そんなデイヴィッドの考えを正しく理解した職員らは疑問を呈することなく頷き、急ぎ足でその場を離れて行く。
「たった三人で下町を探し切れるのか! 俺も探しに出るか!?」
「いや、ウーシンは何処をどう隠してもバレるし目立ちすぎるでしょ」
呆れた様子でフラヴィが制止するのを見て、デイヴィッドが少しだけ表情を緩める。不安と緊張だけが漂うこんな部屋の中、敢えて二人が明るく振舞ったことが分かったからだ。続けたデイヴィッドの声は幾らか穏やかで、優しいものだった。
「あとは、イルムガルドが自ら戻ってくれることを祈るしかないが、……ずっと従順で居てくれたあの子だ、信じていよう」
モカに促されてソファに座ったレベッカが、不安を押し隠すことが出来ずに俯く姿を横目に、フラヴィは改めてデイヴィッドへと向き直る。
「で、結局あいつの不調って何? 『限り』のせいだったの?」
「俺もまだ詳しい報告を得ていない。医療班が確認中だと思っていたが」
イルムガルドの不在を知らせに来た職員にデイヴィッドが視線を向ければ、彼は持ち込んだ端末を操作しながら難しい顔を見せた。
「『限り』は要因の一つでしか無い、というのが医療班の現在の見解です。むしろ能力よりも問題なのは、あの子の『体質』のようでして」
話しながらも、職員は難しい顔を深めていく。言葉を選ぶようにしばし沈黙している様子を見ると、まだ報告する為に内容を整理できていなかったのだろう。イルムガルド失踪という不測の事態によって突然報告することになってしまい、今慌てて頭の中で内容をまとめているのだ。
「詳しく検査をしたところ、イルムガルドはホルモン異常がありました。どれも病気と言うには小さな異常ですが、ええと、甲状腺ホルモンを始めとする、複数のホルモンに少しずつ異常があり、全体のバランスによって……」
「難しいよ! 分かんないって!」
早々に降参を叫んだレベッカに一同が苦笑する。説明の真っ最中だった職員も表情を綻ばせた。
「すみません、そうですね、端的に言いますと、……イルムガルドは食べたものをほとんど身体に吸収しません」
「いやいやいやそんなの倒れるに決まってるだろ! あいつ戦場でどれだけ飛び回ってると思ってるんだよ! むしろ今までどうやって生きてたの!?」
大きく目を見開いてそう叫ぶフラヴィの心情はよく分かる。摂取できないまま、能力の影響で人よりも大きく消費されるエネルギー。彼女が倒れたのは必然でしかない。今頃になって症状に出たということが不自然とまで思えるほどに。
「……つまりイルムガルドは、『体質』と『能力』の相性が最悪だったんだな」
椅子に深く座り、手の平で額を覆ってデイヴィッドが天井を仰ぐ。もしもこのような『体質』でなければ倒れなかったかもしれない。もしもこのようにエネルギーを消費する『能力』でなければ倒れなかったかもしれない。彼女の不調は、相容れない二つを併せ持ってしまった不幸だったのだ。
とは言え何も吸収率がゼロであるわけではなく、人よりも非効率であるだけだ。昏睡している間に少しずつは回復していた。だが、その『少し』の回復を上回るような消費をしてしまえば、再び倒れる可能性は大いにある。まして能力など使用してしまえば命に係わる状態だ。
「……儚い最強だな」
それは、ウーシンが呟くにしてはあまりに小さく静かだった。誰に聞かせるつもりも無い言葉だったのかもしれない。彼は、何かを思い起こすかのように、一人、目を細めていた。
イルムガルドを腕に抱いていたアシュリーは、時折とろとろと微睡んだ。彼女自身も少し寝不足であったせいだろう。また、その原因でもあるイルムガルドが傍に居るという事実が、幾らか彼女を安心させた。それでもイルムガルドの体調に対する不安から、深く眠るようなことは出来ずに、目を覚ます度、イルムガルドが温かいこと、そして彼女から零れる寝息が穏やかであることを確認する。数え切れないほどそれを繰り返し、ようやくイルムガルドが身じろいだのは彼女が部屋に来てから四時間と少しが経過してからだった。
始めはまだ夢の中かもしれないとただ背を撫でるだけに留めていたが、アシュリーの胸に額を押し付けたイルムガルドは、口元を緩めて唐突にくすくすと笑った。
「どうしたの?」
囁くような優しさで静かに問えば、イルムガルドの目蓋が少しだけ上がる。
「良い目覚めだなぁとおもって」
「もう、本当に好きね」
肩を竦めて応えようとしたのか、イルムガルドの肩が軽く動いたけれど、横たわっている姿勢ではよく分からない。相変わらずその嗜好を隠す様子無く擦り寄ってきて、胸が揺れる。そんなことに嬉しそうに笑みを浮かべているイルムガルドを見て、アシュリーは何処か安堵したように小さく息を吐いた。
「体調はどう? 少しは楽なのかしら」
眠る前よりも、イルムガルドの顔色は良くなっているようにも見えた。ただし部屋は照明が落とされたままで明るくない。アシュリーが彼女の顔色を見慣れてしまっただけかもしれない。考え込みながら目を凝らすアシュリーに、イルムガルドは穏やかに笑みを浮かべる。
「うん、楽になったよ。ごめんね、突然来て、寝たいとか言って」
「それは全然、構わないわよ。どんな理由でも、イルが会いに来てくれるのが一番嬉しいんだから」
その言葉にイルムガルドは嬉しそうに頬を緩めた。寄せられた唇を何の疑問も持たずにアシュリーは受け止める。けれど、それが意味を持って深まり、イルムガルドの手が身体の上を滑り始めると、少し戸惑った。普段ならば、それを受け入れることに躊躇などあるはずがない。しかし今は彼女の体調が心配だった。このまま好きにさせても大丈夫だろうか。不調に対していつも鈍感なイルムガルドを思えば、アシュリーがきちんと手を止めさせて、しっかり休ませるべきではないだろうか。
頭ではそう思うのに、イルムガルドに触れられる喜びがアシュリーを甘く拘束していた。イルムガルドの行動を止めるべき手は、求めるように背に回ったままで動かない。このまま受け入れたとしても、アシュリーはきっとそれを後悔をするに違いないのに。
そんな葛藤を切り取ったのは、タイミングよく鳴り響いたイルムガルドの空腹を知らせる大きな音。
「あー……」
イルムガルドが自ら手を止め、アシュリーの胸元で項垂れる。思わず笑い声を漏らしながら、アシュリーは慰めるようにイルムガルドの背をとんとんと優しく叩いた。
「お腹空いたの?」
「うーん、そう、みたい」
引き摺り出された喜びはまだ身体の表面を漂うように疼いているけれど、一つ息を吐くことで、アシュリーがそれを切り替える。
「何か食べる? でもイルの身体を考えると、タワーの食事の方がいいかもしれないから……一度帰る?」
アシュリーが作る食事というのはあくまでも家庭料理だ。栄養について特別詳しい知識を持っているわけでもない。今のイルムガルドにとって必要な食事を考えるならタワーに帰す方が間違いは無いだろう。しかし、イルムガルドは緩く首を振った。
「わたしは、アシュリーのご飯の方がいい」
それは単純に受け止めればアシュリーには嬉しい言葉だけれど、心配であることに変わりはない。それでも、拒む気持ちなど持てるはずもなく、アシュリーは了承を示すように頷いて、ゆっくりと身体を起こした。
「あー、でも……」
「なに?」
「差し入れ、全然できてないから、うーん」
イルムガルドらしい言葉に、思わずアシュリーは笑う。ひと月近く部屋には来られなかったのだから、確かにもうほとんど彼女からの差し入れは部屋に残っていない。だが今彼女に何も作ってあげられないほど、アシュリーは食材に困っていなかった。
「そんなこと気にしないで。イルが前に沢山差し入れしてくれた分、今は少し生活に余裕があるのよ」
まだまだ残っていても追加を持ってくるほど、イルムガルドはまめに差し入れをしていた。生活が整うのに少し時間が掛かってしまって家賃滞納を知られてしまう結果にはなったが、以前に比べると今は幾らか余裕があるとアシュリーは話す。
「だから前に立て替えてくれた分も、今月末には返すわね」
「ん、ううん、あー、……いや、まあ、いつでもいい」
イルムガルドは何か物言いたげにしつつも要らないとは言わなかった。前に怒られてしまったことを気にしているらしい。目を泳がせている様子もアシュリーには愛らしく、少し目尻を下げてそれを見つめる。
「ところで、その体調で食事しても平気なの?」
「大丈夫だよ、わたし胃腸丈夫だから」
「……丈夫そうではあるけれど」
孤児であったことを思いながら勝手な印象を口にするアシュリーだが、真実だとしても今のような状態は話が別ではないかとも考える。ずっと寝ていたとだけしかアシュリーは聞いていないけれど、普段のように食事を正しく摂れる状況でなかったことくらいは察していた。つい先程まで、まともに座っても居られなかったのだから。
「まあいいわ。とりあえず作るから、気を付けてゆっくり食べるのよ」
「うん」
軽く返る了承は、どの程度アシュリーの言うことを理解しているか分からない。苦笑をしつつ、アシュリーはキッチンに向かった。湯を沸かしながら肩口に振り返れば、イルムガルドはベッドに横たわったままで枕を抱き締めていたが、湯が沸く頃にはダイニングテーブルまで歩いてきた。そして手を洗いたいと言うので、いつもの手洗い場ではなく、すぐ近くの流しを使わせた。少しでも近い方が、今のイルムガルドには楽だろう。
「起きるのは辛くなかった?」
「へいき。アシュリーの居ないベッドはさみしいよ」
それはアシュリーにはどうしても嬉しく響く言葉だ。ただ、彼女の体調だけは気になるらしく、イルムガルドが椅子に座るまで何度も振り返って見守っていた。
普通に料理をしていればこの早さでテーブルに着かれても出せるものが無く困るものだけれど、アシュリーは粉末を溶かすだけの簡単なスープをテーブルに置いた。イルムガルドは何も出てこないと思って座ったのだろう、目を丸めている。
「え、どっから出てきたのこれ」
「あはは、インスタント食品のスープよ。これを溶かしただけ」
「えー、あー、びっくりした」
インスタント食品はイルムガルドも見覚えがあるようだ。すぐに納得した顔をして、置かれた温かいカップを両手で大事に包んでいた。
「お腹が鳴るほど減っているなら、早めに何か入れた方がいいかと思って。ちゃんとしたものはもう少し待ってね」
「うん、ゆっくりで大丈夫だよ、ありがとう」
ちびちびと小さく口を付けながら、何が楽しいのか、料理をしているアシュリーの背中をイルムガルドはじっと見つめていた。一方アシュリーはその視線に応える余裕もあまり無く、考えを巡らせている。イルムガルドが何と言おうとも、体調を思えば胃腸のことは気遣うべきだろう。出来る限り刺激が強くないようにと、柔らかで刺激の少ない食事から順に食べさせるべく段取りをしていく。
「あまり早いペースで食べちゃだめよ、急に気持ち悪くなったり、お腹が痛くなったりするかもしれないから」
「はぁい」
二品、三品と、出来上がる順に並べてそう告げれば、イルムガルドは嬉しそうに笑みを浮かべ、歌うように返事をする。本当に分かっているのかは怪しい。ただイルムガルドにとっての喜びは、空腹を満たす為に並ぶ温かな食事より、自分の為に料理をしてくれる誰かの背中だったのかもしれない。テーブルに置かれた瞬間は料理の方へ目を落としたが、アシュリーがテーブルを離れキッチンへと戻る頃には食べる手を緩めてその背を嬉しそうに見つめる。食べさせるものの良し悪しや掛かる時間などに頭を悩ませているアシュリーがその視線に気付くことは無かった。
「本当にすんなり食べるわね、気分は悪くない?」
「全然。おいしい、うれしい」
出されるもの全て、宣言通りにイルムガルドは容易く平らげる。食べる早さはアシュリーに言われたせいかいつもよりのんびりとしているけれど、何にせよ今日まで寝たきりだった人間の食べっぷりではない。恐る恐る最後に出したチキンときのこのクリーム煮や、ポテトとソーセージのグラタンも、イルムガルドは嬉しそうに目をきらきらさせるばかりで、不調になる様子は少しも無かった。
「うーん……」
しかし、完食まであともう少し、というところで、唐突にイルムガルドが小さく唸る。洗い物をしていたアシュリーはどきりとして振り返り、慌てて手を洗い流してタオル片手にテーブルに戻った。急に身体の調子がおかしくなったか、それとも料理の味がおかしかったか。首を傾けているイルムガルドを真似るようにして、アシュリーも首を傾ける。
「どうしたの? 味、何かおかしかったかしら」
「え、ううん、おいしいよ、そうじゃなくて」
そう答えてはいるけれど、イルムガルドは口に食事を運び込みながら、テーブルの何処か一点を見つめて何かを考え込んでいた。様子を窺いつつ、アシュリーは一度キッチンの方を振り返る。白湯か何かを飲ませて落ち着かせた方がいいかもしれない。もしくは。それとも。深刻に捉えているアシュリーを余所に、ペースを落としながらも食事の手だけは止めようとしないイルムガルドが、咀嚼していたものを飲み込んで顔を上げた。
「ねえ、アシュリー」
「ん?」
呼ばれるのに応じて振り返ったアシュリーは、イルムガルドの話を聞こうとする意識よりもほんの少し、彼女の顔色を窺う意識の方が強かった。だからかもしれない。続いた言葉に反応が遅れたのは。
「わたし、アシュリーと結婚したいなぁ。この街は女同士では結婚できないの?」
いや、そうでなくとも、どうしたってアシュリーはきっと今と同じ表情で、同じだけの長さを固まっただろう。瞬きすらもせず
「…………なんて?」
アシュリーの驚きも戸惑いも、その理由を少しも理解できないような顔で、イルムガルドは不思議そうに首を傾けた。
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