第28話_六番街の昼食
アシュリーは枕に吐息を染み込ませていた。背中に乗るのは軽いイルムガルドなのだから何も無ければ苦しくも何ともないだろうけれど、行為に呼吸が乱れる中では、いつもよりも彼女は苦し気に息を漏らす。背中のあちこちにイルムガルドの唇が落ち、後ろから回された手が自由にアシュリーの身体に触れる。イルムガルドがこんな風に背後から触れてくるのは初めてのことだ。アシュリーは何度も、不安げに彼女を振り返る。十回振り返って、十回とも、イルムガルドと目が合わなかった。
「イル……」
「ん、なあに」
呼べば返る声は何も変わらずに柔らかなものだ。何処か安堵した様子で、アシュリーは目を細めた。
「ねえ、何か話して」
「うん?」
真っ最中であることを考えればアシュリーの訴えは不自然でしかない。イルムガルドは不思議そうな声を返し、体勢を変えてアシュリーの顔を覗き込む。ようやく目が合って、アシュリーが嬉しそうに目尻を下げた。そこで初めて、イルムガルドはアシュリーが不安そうな顔をしていることに気付く。
「どうしたの、アシュリー」
「……ちょっと仕事を思い出すだけ。イルの声が聞きたいの」
触れる手付きは他の誰とも違う優しさであり、触れているのがイルムガルドであることは疑いようもない。それでも後ろから触れられているという状況だけで、呼吸と呼吸の合間にふとフラッシュバックのように思い出しては、イルムガルドを振り返っていた。どれも思い詰めるほど辛かった記憶ではなかった。アシュリーにとっては少なくともそうだったのに、今それらの記憶は嫌な塊となってこの時間を邪魔していた。柔らかな表現でそれを伝えたはずだったが、イルムガルドはぎゅっと眉を顰め、心配そうにアシュリーを見つめる。決して、アシュリーの視界から逃げていこうとはしない。
「ごめん、前からする」
「……このままで、平気よ」
「でも」
「イルが、上書きしてくれたらいいわ」
笑ってアシュリーがそう言えば、イルムガルドは面を食らった様子で目を瞬き、そしてすぐに眉を下げて笑った。
「そんなに印象的に抱けるかなぁ」
「ふふ」
そう言っていつになく強く抱き締めてくるイルムガルドの優しさに、アシュリーは頬を緩める。行為の名残で潤んでいた目からは容易く雫が零れ、枕に一滴の染みを作る。イルムガルドがそこまでを見付けたかは分からない。腕の力を緩めると、アシュリーの耳元に唇で触れた。
「アシュリー」
「ん」
「このまま話しながらするけど、大丈夫?」
「だい、っ、……ちょっとまって」
アシュリーの反応に、イルムガルドが吐息を震わせて笑う。それが耳に触れて、アシュリーは思わず肩を跳ねさせた。しかしその振動はイルムガルドの手を止めさせるような障害にはならない。彼女はこの反応を最初から知っていたのだ。
「前から思ってた、ちょっと耳弱いよね」
「し、らなかったわね、イル、待って」
「どうしようかな」
耳元で楽しそうにイルムガルドが笑うほど、アシュリーへの甘い刺激になる。分かった上で、イルムガルドは離れようとはしない。何度も何度も、アシュリーの柔らかな耳に口付けを落とす。逃げるようにアシュリーが肩を竦めても頭を傾けても身体を捻っても、追い方を知り尽くしている彼女から逃げられないでいた。
「そんなに近くで、お話してくれなくても聞こえるから、イル」
「あー、でも中の様子が気になるから、このまま」
「そ、っ、ちょっと、悪趣味じゃないかしら?」
「はは」
イルムガルドは耳へと甘噛みを繰り返しながら、アシュリーの足の間に手を滑り込ませる。気になると言った中の様子を探りに行くらしい。行為を進めることを望んだのは確かにアシュリーの方だったけれど、この展開は彼女の予想の遥かに斜め上だ。アシュリーは、優しいイルムガルドのことだから、普段以上に甘い言葉を扱いながら普段以上に優しく抱いてくると予想していた。いつもより執拗さを増す程度の弊害なら飲み込めるだろう、よくあることだ。しかし一瞬悩んだアシュリーは、早々と白旗を掲げた。
「えぇと、やっぱり、待って」
「んー、やだ」
示した白旗は無かったことにするようにイルムガルドの短い言葉で沈められる。この後アシュリーは仕事の記憶など、思い出す隙間も与えられなかった。
アシュリーが目覚める時に、イルムガルドの腕に抱かれているのはいつものことだ。ただ、顔を上げた時、イルムガルドに動きが無いのは初めてだった。アシュリーを抱いたまま、イルムガルドがまだ眠っている。そんな彼女を刺激しないようにとアシュリーは視線だけで部屋を見回す。部屋が明るい。イルムガルドが居る朝にしてはあまりに陽が強い。違和感に時計を確認すれば、それはもう正午前を指していて、驚きに何度も目を瞬く。
この街の者からすれば過ぎるほどに早起きなイルムガルド。彼女が起きる気配にいつもアシュリーは目を覚まし、タワーに戻る彼女を見送って、二度寝をすることが多かった。こうして朝、もう昼だけれど、アシュリーが目を覚ますまで眠っているイルムガルドを見たのは初めてのことだ。しかし先日は五日間もの遠征をしていたし、彼女も疲れているのかもしれない。穏やかな表情ですやすやと眠っているのを起こすことも忍びなく、アシュリーはただ静かにイルムガルドの寝顔を見つめた。自然と彼女が目蓋を上げたのは、正午を少し過ぎてからだった。
「ん、……あれ」
起きると同時に、イルムガルドも違和感を抱いたらしく、不思議そうな声を漏らす。アシュリーはその可愛らしさに、頬を緩めた。
「おはよう、イル」
「今、なんじ……?」
「もうお昼よ、十二時、ええと十四分」
「あれ……」
目を擦って起きようと努めているが、どうにも眠いらしい。アシュリーはその手を緩く撫でて、止めさせる。そんな風に乱暴に目を扱っていては赤くなってしまうだろう。
「急いでいないなら、ゆっくりしていって。イルもそろそろ、この街に慣れたのかしらね」
「んん、そうかも」
ふわふわと欠伸をしている様子も、アシュリーから見れば愛らしいばかりだ。優しく抱き締め、額と頬に触れるだけのキスを落とす。少しだけ目を瞬いた後、イルムガルドは嬉しそうに笑った。
「折角だから、お昼でも食べていく? サンドイッチ作ってあげる」
「あー、いいの? 食べたい」
「じゃあ出来るまで、もう少しごろごろしていてね」
そう言ってアシュリーは身体を起こし、簡単に衣服を身に着ける。背後で身体をぐっと伸ばしていたはずのイルムガルドは、アシュリーがベッドから立ち上がる頃には身体を伸ばしたままの状態で二度寝していた。思わず笑い声が漏れそうになるのを手の平で抑え込み、イルムガルドの身体が冷えてしまわぬようにと丁寧にシーツを引き上げる。
「――今日は、タワーで何かあるのだったかしら?」
ゆっくり三十分、眠るイルムガルドの様子を見ながら作ったサンドイッチとオニオンスープ。それらの匂いが部屋に漂い始めると、イルムガルドは自然と目を覚まして、起こすまでもなく自ら身支度を整えて行儀よくテーブルに着いた。アシュリーの言葉に、眉を下げて笑う。
「うん、夕方からなんかミーティングする。終わりが遅かったら、今日は来られないかなぁ。アシュリーは今夜仕事だもんね」
「ええ。でも、イルのお仕事が夕方からで良かったわね、以前のようにお昼からなら……ちょっと時間的には」
「ふふ、大遅刻だね」
楽しそうにイルムガルドはそう言うけれど、アシュリーは肝を冷やす心地だった。普段は必ず早くに目覚めるイルムガルドだったので少しも心配をしていなかったけれど、彼女もまたこの街の住民らしく昼頃に起きてしまうように変わっていくのなら、今後は予定によってアラームなどは掛けた方がいいように思う。
「ん~おいしい」
真剣に考え込んでいるアシュリーの横で、イルムガルドは食後の紅茶を飲んでのんびりと呟く。何にせよ今回は何も不都合が無かったのだから幸いだ。ふっと微笑んで、アシュリーも紅茶を傾ける。隣で、イルムガルドがまた小さく欠伸をした。
「イル、具合が悪いの?」
「え、ううん」
どうしてそう問われたのかが分からない様子で、イルムガルドはアシュリーを見て首を傾ける。顔色も、何も悪くない。けれどアシュリーはじっとその瞳を見つめ返して、気遣わしげに眉を顰める。
「今日は何だか眠そうね、もし身体が怠いならゆっくり休んで、職員の方にも相談するのよ」
「うん、でも大丈夫だよ」
何でもないと笑うイルムガルドを見ても、アシュリーの心配は消えていかない。イルムガルドは常日頃から、彼女自身の状態を捉えるのがあまりに下手だ。昼食を終えてタワーへと帰っていく様子は少しも不調そうではなく、足取りもしっかりとしている。それでも、アシュリーの心配は、再び彼女が部屋に来てくれるまで、払拭されることは無いのだろう。この部屋の外に居るイルムガルドに手を伸ばすことは、アシュリーにはどうしたって出来ないのだから。
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