第29話_帰りたい場所、六番街

『このまま遠征に行くことになった。長くなりそう。戻ったらまた連絡する』

 イルムガルドはそうアシュリーへとメッセージを送る。緊急の出動要請であった為、職員らも忙しなく動き回っている。奇跡の子らは小一時間ほど準備時間が与えられていた。ウーシン達もイルムガルド同様、おそらく自室に戻って支度をしているのだろう。イルムガルドは軽くシャワーを浴びて、着替えを済ませる。

『気を付けて行ってらっしゃい。連絡、待っているわ』

 アシュリーからの返信に、柔らかく目を細める。通信端末をポケットに仕舞い込み、ジャケットの内ポケットからアシュリーの部屋の鍵を取り出す。戦場には持っていけない。ただでさえ動くだけで服をぼろぼろにしてしまうイルムガルドだ。服のどのポケットも、安全な収納場所にはなり得ない。そうでなくとも戦場では何が起こるか分からないのだから。

 この部屋は相変わらず殺風景で、何も置かれていない。ただ、机の引き出しの中には一枚の紙切れが入っていた。アシュリーの連絡先を書いた紙だ。彼女から貰ったものを捨てられなかったのか、万が一端末を壊してしまった場合の予備なのか、それとも、にこの部屋を片付ける誰かにこれを見付けてもらい、彼女へ連絡をしてもらう為なのか。目的ははっきりとは分からないけれど、それは大切に残してあった。

 それと同じ場所へ入れようとした合鍵がイルムガルドの手から滑り落ち、引き出しの角に当たって床へと転がっていく。イルムガルドは小さく息を吐き、その鍵を両手で丁寧に拾い上げると、改めて紙切れの上へとそれを置いた。音も無くきっちりと閉じられた引き出しの中、たった二つだけの小さな『大切な物』。

「……早く帰って来られたらいいな」

 自室を出る寸前に、誰にも拾われることのない独り言を零す。きっと戻りたい場所は、無感動に施錠して背を向けたこの自室ではないのだろう。その奥、引き出しの中に仕舞い込まれた鍵を使って入れる六番街の部屋。


 生まれて一度も、イルムガルドが知らなかったもの。

 おかえりの声が聞こえる、温かな部屋。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る