第26話_六番街に見つからない正解

 遠征からの帰還は既に夜であった為、イルムガルドが精密検査を終えればすっかりと深夜だった。

『帰ってきたけど、遅いから明日行く』

 イルムガルドはそうアシュリーに連絡し、シャワーを浴びる。上がった頃には、アシュリーから返事が来ていた。

『おかえりなさい。ゆっくり休んでね。もし良かったら明日、うちで夕食を取らない?』

『いいの? 食べたい。何か必要なものあったら買っていくよ』

 食事を作ってもらうのだからイルムガルドからすれば当然の申し出であったのだろうけれど、アシュリーからは何も要らないと連絡が返った。普段イルムガルドが差し入れている食材がまだ沢山あるからと。その返事に、無表情ながらもイルムガルドは少し眉を下げる。しかし、あまり過度に差し入れをしては困らせてしまうことも彼女は理解をしている。何か一押しの言葉を探した様子で首を捻っていたが、数分で諦め、了承の旨だけを送ってベッドに寝転がった。

 マットレスを交換してもらって以来、デイヴィッドと職員達に言われた通り、イルムガルドはきちんとベッドで眠っていた。結局のところイルムガルドは誰に対しても従順だ。願った本人から見えない場所であっても、言われたことを守ろうとしている。また、ベッドについては少なくとも最初の頃ほど落ち着かない寝心地ではなくなったというのも理由にあるのだろう。アシュリーの部屋で、彼女と共に眠る時間と比べてどちらがイルムガルドにとって快適であるのかは、彼女は語る相手を持たないけれど。

 翌日、イルムガルドは午後に検査結果などを聞く仕事があったものの、普段通り夕方には六番街へと向かった。遠征を挟んだ後に彼女の部屋へ向かうイルムガルドの足取りは軽い。情熱的なアシュリーを見られる為かもしれないし、そうでなくともイルムガルドが彼女に会いたいからかもしれない。

「おかえりなさい。怪我は無かった?」

「ないよ。ただいま」

 玄関で抱き合い、軽く口付けを交わす。普段ならばそのままイルムガルドが抱く力を強めたり、アシュリーが胸を押し付けたりする煽り合いが戯れに発生するのだけど、今日はイルムガルドがすんすんと鼻を鳴らしたことで、そんな甘い空気は霧散した。

「良い匂いがする?」

「うん、美味しそう」

 イルムガルドの声が僅かに弾んでいて、アシュリーは嬉しそうに微笑む。こういう時、興味を示す目をしたイルムガルドは、ベッドで見る彼女とはまるで印象が違って、年相応に無邪気だ。

「もう出来ているわよ、食べましょうか。手を洗ってきてね」

「はーい。あ、今日は下着並んでるの見える?」

「見えません」

 そう思って油断をしたところで、イルムガルドは流れるように軽口を叩く。そんなちぐはぐさが彼女らしいとも言えるけれど、毎回それに振り回されてしまうアシュリーは、手洗い場に行く背中を見つめて苦笑を零した。

「わー、すごい、ご馳走」

 イルムガルドが戻れば、ダイニングテーブルには多くの皿が並んでいた。チキンピラフのホワイトソース掛け、ミネストローネ、ポークソテー。他にもサラダなどいくつかの副菜。以前、アシュリーが見せた料理雑誌の中でイルムガルドが興味を示した料理ばかりだ。

「もっと太ってもらわないとね?」

 そう言って微笑むアシュリーにイルムガルドも笑って応えながら、椅子に座ってアシュリーを待つようにじっと見つめている。待てを言われた利口な仔犬のようだと思った言葉を飲み込んで、アシュリーは隣に座った。

「全部イルのものよ?」

「えー、アシュリーも食べようよ」

「私はあなたほど沢山食べられないの。でも、それじゃ少し貰うわね」

 小皿に取ってアシュリーも目の前に置けば、ようやく安心した様子でイルムガルドもフォークも手にして皿に向かう。隣で食べてやらなければ落ち着いて食べてくれないようなところも、アシュリーの目には愛らしい。

「すごい、おいしい」

「良かった。沢山食べてね」

「ん」

 何を食べてもおいしいおいしいと嬉しそうに呟いてイルムガルドが頬を膨らませている。写真を見て想像した味と同じだったかは分からないが、それでも結論が「美味しい」なのであればアシュリーには十分だ。元より多くを食べないアシュリーだけれど、イルムガルドがあまりに美味しそうに食べていくものだから、その光景だけで満足していてあまり進んでいなかった。幸い、目の前の食べ物に夢中なイルムガルドはそれに気付いていない。アシュリーは彼女が気付くまでにと――つまり彼女が目の前のお皿を全て空にするまでには間に合うようにと、自分用に取り分けた小さな皿をゆっくりと減らしていった。

 イルムガルドは意外と量を食べることができる。本人にその自覚は無い為、普段の食事量は少ないようだけど、身体の大きさに見合わない程に食べるので、おそらく食べ切れるとの考えでアシュリーは作っていた。しかしそれでも改めて見れば驚いてしまうくらい、あっさりとイルムガルドは完食した。アシュリーはぎりぎり間に合って小皿を完食し、静かに安堵する。

「あーごちそうさま、うーん嬉しい」

「ふふっ、そう言ってくれて私も嬉しいわ。お腹いっぱいになった?」

 その問いに、イルムガルドは頬を緩めて膨らんだお腹をぽんぽんと叩いた。大きくなったそれを、アシュリーも幸せそうに見つめる。

 イルムガルドが片付けを手伝うと言うとアシュリーは少し遠慮をしたが、差し入れも持ってきていないからせめてと言って食い下がる。少しの押し問答の末、アシュリーはイルムガルドに洗い物を任せた。食後の紅茶を準備しつつ片付けの様子を横目で見ていたが、お湯が沸くよりも早く全ての食器を洗って片付けた手際に、素直に感心していた。

「慣れているわね」

「片付けの仕事は色々あったからね」

「なるほどね」

 イルムガルドほどの若さであれば任せてもらえる仕事は限られていただろうし、何よりイルムガルドには学も無い。片付けや掃除、力仕事などが主であったことは容易に想像が出来た。

「ありがとう、紅茶が用意できるまではゆっくり座っていて」

 その言葉に応じてイルムガルドはテーブルに戻っていった。その様子はいつもと何も変わらなかったのに、紅茶を蒸らしている時間にふと振り返れば、彼女はテーブルに肘を付いてうとうと舟を漕いでいる。昨日の夜に遠征を終えて戻ったばかりだった為に、顔には出さないが疲れていたのだろうか。アシュリーは静かに歩み寄り、普段使っているカーディガンをイルムガルドの肩に掛ける。すると、イルムガルドはその感触、または気配に目を覚ましてしまった。

「ん……」

「起こしてごめんなさい、イル、少し横になる? 紅茶ならまた後で淹れてあげるわよ」

「うーん、平気、飲む……」

 声はふわふわと頼りない。何度も一緒に朝を迎えているアシュリーですら、こんな姿を見るのは珍しい。行為に至ることなくアシュリーの胸で眠った日以来だろうか。それでも、飲むと言っているのをアシュリーは断ることが出来ず、ちょうど落ちた砂時計を確認して、紅茶を運んだ。

 紅茶を飲み始め、飲み終えるまでは食事の際と変わらない程度にはっきりと話していたが、手を洗って二人でベッドに入る頃にはまた少し眠そうに目を瞬く。アシュリーは裾から入り込んでくる手をやんわりと握って、それを制止した。

「イル、一度眠りましょう、ね」

「んー……」

「起きたらまた構ってくれたらいいし、起きられなくても、明日でも明後日でも私とは会えるでしょう?」

 優しく静かな声で囁けば、イルムガルドの目蓋が何度か落ちて、そして彼女は身体をベッドに横たえた。その身体を温めるようにシーツを引き上げ、二人で包まる。

「……アシュリー」

「ん?」

 半分はもう眠ってしまっているような声で、イルムガルドが彼女の名前を呼ぶ。応じる声は、決してイルムガルドを刺激することのない、柔らかな音だ。

「……わたしの仕事は、正しいのかな、わたしは、……何人が死んだのかも、しらない」

 一瞬、アシュリーは呼吸を止めた。彼女の脳裏には、炎上する軍用車や戦車を背に立つ、イルムガルドの姿が浮かんだ。戦闘要員として戦場に立ち、戦い、帰ってきたというのは、……あんな映像など無くとも、そういうことだ。力無くシーツの上に落ちている手を握るアシュリーの手が、微かに震えてしまっているのを、夢現のイルムガルドはどれだけ覚えているだろうか。

「勿論よ、あなた達、奇跡の子はいつだって勇敢に、この国の為に……」

 まるで教科書の端で見たような、ニュースや政府からの通達で見たような言葉をアシュリーは咄嗟に口にするけれど、言い終えることは出来なかった。

「……ごめんなさい、私には分からないわ。子供達を戦争に出すことが、戦争で他国と争うことが、正しいかだなんて。例えそれで私達の生活が守られていたのだとしても、あなたが」

 No.103ではないイルムガルドを知る人間として、容易く頷いてしまえない。彼女を個人として想うアシュリーには、正しいと告げられなかった。一人きりで戦場へ立ったと聞いた時の恐怖。遠征に行くと連絡が来た時、そして帰ってくるまでにいつも感じる不安。どうして彼女でなければならないのかと考えたことが無いと言えば、嘘になってしまうのだ。黙り込んでしまったアシュリーの隣で目を閉じていたイルムガルドは、再び薄っすらと目を開ける。

「アシュリーに分からないなら、難しい、ことなんだね」

 彼女にとって、アシュリーは何でも知っていて、何でも教えてくれる人だった。そのアシュリーが分からないことならば分からなくていいと考えてしまうほどの大きな信頼がある。彼女の言葉からそれを知ったアシュリーは、優しく彼女の手を握りながらも、眉間に深く皺を刻んだ。嬉しい言葉かもしれない。けれど同時に悲しく、恐ろしい言葉だ。イルムガルドは、アシュリーの言葉できっと白にも黒にも染まってしまう。

「でも、……そっか、アシュリーが守れてるなら、いい」

「イル」

 最後は途切れ途切れで、掠れていた。そしてそのままイルムガルドは眠りに就く。眉を下げて、身体からくたりと力を抜いている彼女は、あまりに小さい。背丈はアシュリーと比べてそこまで大きく違わないけれど、過ぎるほどに華奢な身体がそう見せている。その彼女が、国民から英雄視され、戦場に立っている。何も知らない無垢なままで、言われるままに戦っている。

「ごめんなさい、イル、私には、分からないの……」

 思わず強く抱き締めてしまっても、ぐっすりと眠っているイルムガルドが目を覚ますことは無かった。

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