第25話_北に見る地平線

 遠征で外に出たイルムガルドは、アシュリーに言われた通りに地平線を眺めていた。アシュリーの傍に居る時のように表情は動かないけれど、飽きもせず見つめ続けている様子は、傍から見れば何か面白いものでも見えるかのようだ。

「何も無いじゃん。一体何を熱心に見てるのかと思ったのにさ」

 それが今回、フラヴィであったことは幾らか珍しいことだ。イルムガルドがそれを『珍しい』と認識しているかどうかは怪しいが。声を掛けられたことは分かっているのだろうに、イルムガルドはフラヴィに視線を向けることも無い。フラヴィはそんな無反応を一瞥し、イルムガルドの居る場所まで登ってきた。その少し下にある岩陰にはウーシンとレベッカが立っている。イルムガルドのように岩の上へと立つ必要は全く無い為、二人は登ろうとする様子も無い。フラヴィが来たのもつまりは興味本位であり、また、暇つぶしの為だろう。

 今回は出撃するかどうかすらも未定となっており、彼らは戦場から少し外れた場所に待機させられていた。他国の戦闘機に動きが見られるとのことで、それが飛んできた場合にだけ応戦することになっているのだ。

「イルムガルドって外に来るとよく高いところに登るよね。好きなのかな、高いところが」

 隣に並び、同じように地平線を眺めながらフラヴィが問い掛ける。しかしイルムガルドは応じない。少し不満げに、フラヴィが眉を寄せた。

「煙とバカは高いところが好きだって言葉あるの知ってる? まあ本当にバカだったら知ってるわけもないけど」

 嫌味ったらしい話し口調はいつもの彼女だけれど、慣れない者が聞けば不快になってしまうものだろう。レベッカは一瞬だけ気にするように二人を見上げる。すぐに介入してくる様子が無いのは、フラヴィが自らイルムガルドへと話しに行ったこと自体が珍しいと思うからだろうか。実際、フラヴィにどれだけの特別さがあったかは分からない。そのフラヴィに応じたのか、それともただの気分によるものなのか、イルムガルドは軽く首を右に傾けて、それだけ。他に何も反応を見せず、言葉を返す気配も無い。フラヴィがやれやれと諦めたように首を振った。

 その時、突然強い風が吹き付ける。小さなフラヴィは容易く煽られて、足を滑らせた。様子を窺っていたレベッカと、我関せずに別の方向を見ていたウーシンも咄嗟に助けようと動く。だが、イルムガルドが早かった。フラヴィが身体を落としてしまうよりも先に、彼女の身体を片腕で難なく抱き、元の場所へと引き戻す。真下ではレベッカとウーシンが、ほっと息を吐いていた。

「フラヴィ」

 腕の中で目を丸めていた彼女の名を、イルムガルドが呟く。記憶する限り、フラヴィの名を口にしたのはこれが初めてのことだ。

「ここは風が強いし冷えるから、二人のところに居た方がいいよ」

 ゆっくりと腕を緩めてフラヴィを解放したイルムガルドは、真正面からフラヴィの目を見ていた。話し掛けていた時には一度も視線を向けなかったのに。そしてその視線は不意に移動し、レベッカ達の方へと落ちる。

「あっちなら風も弱いから」

 再びイルムガルドの視線が戻ってきたのを見たフラヴィは、ようやく自分が呆けた顔をしていることに気付いて、慌てて口元を引き締めて彼女から離れた。その顔は少し赤い。

「お、お前のそういうところが嫌いなんだよ!」

 苦虫を噛み潰したように顔を顰めると、レベッカ達の方へと下りていく。いくら話し掛けようと見向きもしなかったくせに危なくなったら手を差し出してくるような対応を『そういうところ』とフラヴィは言ったのだろうけれど、当然、イルムガルドには伝わっていない。少しだけ眉を上げて息を吐き、イルムガルドはまた地平線の方向へと身体を向ける。

「イル~」

 しかし、レベッカがその名を呼んだ為、肩口に振り返った。彼女は下から、イルムガルドに向かってひらひらと手を振った。

「フラヴィ守ってくれてありがと、照れてるだけだから気にしないでね」

「照れてないよ!」

 本人は否定をしているが、気にするなと言うようにまたレベッカは手を振る。イルムガルドは軽く首を捻ってから、何も言わずにまた前を向いた。その背にはもう、レベッカは声を掛けない。と言うより、隣から軽いパンチを食らっているのでそれどころではない。怒っているフラヴィを宥めるべく、視線をそちらへと落とした。

「待て、あれは――、おい、敵国の戦車じゃないのか!」

 ずっと黙り込んでいたウーシンが突然叫ぶ。イルムガルドを含む全員が一斉に彼を振り返り、その視線の先を見つめた。イルムガルド達は戦いとは関係が無い場所に『待機』していたはずだ。自国の戦車が通りかかるならばともかく、敵国の戦車が悠々と走っていることなど考えられない。しかし、誰が確認してもそれは自国の旗を持たず、見覚えのない他国の旗を掲げていた。そして、大砲が明らかに彼らを狙っている。

「――回避だ!」

 砲撃音と同時にウーシンが叫ぶ。レベッカはフラヴィを抱いて数段下へと岩壁を駆け下り、ウーシンはそれを見ながら同じく跳ぼうとした。しかし、砲弾は彼らに到達するより早く、何も無い空中で爆発する。

「え、何……?」

 怪訝に目を瞬くレベッカは、戦車を警戒しながらも腕の中にいるフラヴィの無事を視線で確認した。怯える目を見せているものの、怪我などをしている様子は無く、大人しくレベッカの腕に収まっている。一方、ウーシンは忙しなく視線を彷徨わせていた。

「……イルムガルドは何処だ」

 はっとしてレベッカもイルムガルドを探すが、その姿が無い。ウーシンが叫んだ回避の合図で離れた可能性はある。彼女の速度ならば、遥か遠くまで逃れることが出来るのだから。三人が行方の把握を諦めそうになったところで、地面を踏み締める音がウーシンの真上に響いた。

「ここ」

 一瞬前まで、その場所に姿など無かったのに。音が響いたということはおそらく今戻ったのだろう。何処に居たのやら。しかし、誰もそれを問うことは無かった。先程の砲弾を着弾前に処理したのがイルムガルドだと分かっていたからだ。

「良かった。イル、怪我は?」

「ない」

 戦車の方はまだ新しい動きを見せない。着弾しなかったことを戸惑っているのだろうか。その隙間で、通信機から声が響く。

『イルムガルド、しばらくみんなを守ってくれ。退避場所を指示する』

 デイヴィッドの声だ。状況は見えていたらしい。その言葉に誰より早く応じたのは珍しくもイルムガルドだった。

「足場が悪くて自信が無い、早くして」

『分かった』

 いつになく早口だったことから、本音であるらしい。微かに眉が真ん中に寄っていた。

 だが結局イルムガルドは飛んでくる砲弾を全て着弾前に処理し、ウーシンらはその間にデイヴィッドの指示に従い、砲弾が届かないよう、岩壁の裏側へと通り抜けた。戦車は岩壁を大きく回り込まなければ彼等側には移動できない。すぐには追って来られないだろう。

「一体どうなってるの、司令」

『軍が抑えていない方向から戦車が来た。軍の対応が遅れているようだ』

 デイヴィッドの口調にも苛立ちが滲み出る。勿論彼は奇跡の子らにそれをぶつけるつもりは無いだろうし、本当ならば見せたくもなかったものだろうが、咄嗟のことで抑え切れなかったのかもしれない。気付いたレベッカは不満をぶつけるようなことをせず、続けそうになった文句を飲み込んだ。それを横目に、ウーシンは不必要に声を張る。

「それで、数は分かるのか!」

『七両だ』

 回答に、フラヴィが大袈裟に項垂れた。

「十を超えないだけマシだけど、多いよ。僕らの頭数以下にしてよ」

 敵国が連合し始めたことから、一度に来る敵の数が明らかに増えている。すぐに軍の対応を期待したいところだが、あれが別動隊であって、軍は現在本隊と交戦中であることを考えれば難しいだろう。デイヴィッドも作戦を思案しているのか沈黙している。そこへ、またイルムガルドが口を開いた。

「――ボス、西からも来てる」

 戦車に狙われても悠に回避が出来る彼女は一人、岩陰に隠れる様子も無く高い場所からまだ敵戦車を見下ろしていた。その目で、新しい戦車を確認したらしい。

『十一両だ。どうやら我が軍の一部が突破されたな』

「だから十を超えるなって言ってんの」

「ねえ司令、軍ちょっと手抜いてるでしょ、アタシらが居るからって」

 フラヴィとレベッカが同時に文句を言うが、デイヴィッドにはそれぞれの声が正しく届いていた。しかし、彼はどちらにも応えない。レベッカの指摘については特に、『可能性は大いにある』と感じて彼も憤っているのかもしれない。そのまま数秒間の沈黙を挟むと、結局その問いに答えることなく指示を出した。

『イルムガルド、出てくれ。見える範囲の戦車を』

「嫌。行かない」

 その瞬間、通信機はしん、と沈黙する。そしてそれに驚いたのはデイヴィッドだけではなく、同じく通信を聞いていた職員達だけでもなく、レベッカ達も同じだ。彼らも一様に目を丸めていた。

『……イルムガルド?』

 どれだけ耳を疑っても、彼女がデイヴィッドへ返した言葉ははっきりと端的で、聞き間違いようのない拒絶だった。常に従順なイルムガルドの初めての抵抗に、動揺を隠さずデイヴィッドが聞き返す。それに声を返したのは本人ではなくレベッカだった。

「イルが嫌って言ってるからその案は却下。アタシもイルを一人で戦わせるのは嫌」

『そ、そうは言うが、この状況では』

 何かを言い掛けたデイヴィッドの声を掻き消すように突然、フラヴィが悲鳴を上げる。

「後ろからも来てる!!」

 フラヴィが指を差した方角に、新しい戦車が三両見えた。大砲がやはり彼らを狙っており、砲撃音が響く。

 先程と同じくそれもイルムガルドが着弾を阻止できたものの、依然として砲口は彼らを見つめている。先程逃れてきた岩壁の向こう側には何も変わらず十一両が待ち構えていて、彼らは逃れる先が無い。

「クソッ囲まれているぞ! 司令!」

 合計十四両の戦車が、たった四人の子供を囲い、その命を奪おうとしている。デイヴィッドの沈黙は十秒に満たなかった。

『今見えている方の戦車を先に叩け、ただし全員、一か所に固まって戦うんだ。イルムガルドは三人を守れ』

「いいよ」

 短い了承の言葉に、デイヴィッドが何処か安堵した吐息を聞かせる。レベッカは少し怯えているフラヴィの肩を優しく抱きながら、前に見える戦車を睨み付けた。

「あの距離なら真下に水柱立てられる、アタシは戦えるよ」

「その前に下まで付き合え! 俺の武器が無い!」

「オッケー、全員で降りよう!」

 全員揃って岩壁を降り、戦車三両の内、二両はレベッカの水柱で破壊。残り一両はウーシンの投石ならぬ投岩で破壊した。岩壁を挟んだ向こう側にある十一両についても同様の戦法で一つずつを確実に処理し、四人は全員、無傷で戦闘を終えた。

『軍の方も、本隊との交戦は終えたと連絡があった。我々は撤退だ。すぐに迎えを出すから、警戒を怠らずに待機してくれ』

「そっちも警戒怠らないでね~司令」

『……ああ、気を付けよう』

 今回の戦いでは敵の動きをことごとく見落としてしまった。伏兵がまだ残っている場合、奇跡の子らだけではなく総司令達も安全ではない。

 おそらく、この戦いは奇跡の子を狙ったものだった。どんな優勢な戦場も彼らが到着することでひっくり返されているのだから、当然の戦略であったとも言える。戦闘機に動きを見せて奇跡の子を戦場へと誘い出したことも、軍と交戦していた本隊すらもただの陽動だったのだ。

 幸い、この戦場でこれ以上の伏兵は見付からなかった。イルムガルド達は何事も無くWILLウィルの迎えによって回収され、全員が無事にタワーへと帰還した。

「イルムガルド、お前はフラヴィより先に、後方の戦車に気付いていたのか?」

 タワーに戻って最初にデイヴィッドはそう問い掛ける。指示に背いたことを咎める言葉ではなかった。ただ、その理由を知ろうとしていた。全員の視線が集まっていることに気付いているだろうに、イルムガルドは相変わらずつまらなそうに余所見をしており、部屋に沈黙が落ちてから、ゆっくりとデイヴィッドを見た。

「全然。でも何か、離れた方が危ない気がしたから」

「……そうか。いや、そうだな。お前が離れずにいてくれて助かった」

 もしもあの時にイルムガルドが離れ、岩壁の向こう側に行ってしまっていたら、残された三人だけでどれだけ回避し続けられたかは分からない。三人が全滅した可能性は高かったのだろうと、誰もはっきりと口にはしなかったけれど多くの者が思っていた。

「さて、じゃあ順に精密検査に入ってくれ、フラヴィからだ」

「何で僕?」

「いや~フラヴィ抱いたまま激しく動いちゃったからさー、心配なんだよ」

「レベッカが言ったのか……まあいいけど」

 不満そうな声を出しながらも、フラヴィは職員に連れられて別室に移動していく。どの道、全員が受けるものなのだからそれ自体が億劫ということはないのだろうが、司令が全員分用意してくれたカフェオレを半分も飲んでいないから、後の順序が良かったらしい。立ち上がる寸前、名残惜しそうにカフェオレを一瞥していた。

「もう一部屋もすぐに準備ができる。そちらにはイルムガルドが行くといい。あと二人は、それぞれが終わるまで待ってくれ」

「はーい」

 のんびりと返事をするレベッカの隣にいるイルムガルドは、司令の言葉に頷く様子すらない。出されたカフェオレに手を付けることも無く、俯いて指先を弄んでいる。少し首を傾けてレベッカは顔色を窺ったけれど、見る限り不調そうではない。いつも通り、イルムガルドの気分なのだろう。しかしイルムガルドも多くの砲弾を処理していたことから、レベッカが心配をして優先にと司令に掛け合っていた。ウーシンはそれに気付いているのか、それとも掛け合う瞬間を知っているのか、後回しにされたことを何も言おうとしない。

 そんな子供達の様子を見つめ緩く微笑んでから、デイヴィッドは彼らに背を向け、職員と今回の遠征について話し始める。今回は想定外のことが多く起こっていた。軍の対応について物申したいことは多くあるかもしれないが、軍の改善を待っていてはWILLウィル側の被害が大きくなるばかりだ。彼らの方でも出来うる限りで安全策を講じる必要がある。漏れ聞く限り、話の内容はそういったものだ。漏れる声を敢えて聞いていたのは、イルムガルドだった。

「……沢山壊してるのに、どうしてそれでも来るんだろう」

 小さく彼女が呟いた声を拾ったレベッカが、視線をそちらへ向ける。

「イル、なんか言った?」

 しかしレベッカには内容は聞き取れなかったようだ。聞き返すけれど、イルムガルドは顔を上げようとはしない。デイヴィッドも様子を気にして一度振り返るが、彼女はどれにも応えない。

「わたしは、何人……」

 その後、イルムガルドは口を噤んだ。レベッカやデイヴィッドが聞き返しても、何を問い掛けても口を開くことは無いままで、検査室の準備が整ったと職員が呼びに来る。それにだけ応じ、彼女は席を立って出ていく。デイヴィッドとレベッカは目を合わせて首を傾けるものの、イルムガルドが黙ってしまえば、彼らには知る手段など無い。何も汲み取ってやれなかったことを悔やむように、二人は項垂れていた。

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