第24話_星を知る六番街
「私も一つだけ聞きたかったのだけど」
「ん?」
ある日の六番街、いつも通りにベッドの中、行為の後。イルムガルドの腕の中で呼吸を落ち着かせたアシュリーが、ふと思い出した様子で呟いた。
「もしもあなたが嫌だったら、答えなくてもいいから」
「大丈夫だよ、なに?」
以前、イルムガルドがアシュリーへと踏み込んだ質問をした時、アシュリーは答えることを躊躇わなかったし、イルムガルドが質問してくることを喜ぶ様子さえあった。それでも、自分自身が持つ疑問をぶつけることには躊躇い、臆病さを垣間見せる。アシュリーはあの日に聞いた、泣き出しそうな声を思い出していたのかもしれない。
「あなたが『イルムガルド』と呼ばれたくないのは、どうして? その名前が、嫌いなのかしら」
「あー」
やけに丁寧に口にされた問いに、イルムガルドは少し困った顔を見せたものの、不快そうな顔は見せない。軽く唸って黙り込んだイルムガルドは、言葉を探している様子だった。
「少なくとも、名前が嫌いなんじゃないよ。アシュリーに『イル』って呼ばれたかったのと、そう呼んでくれるひとが、あー、『イルムガルド』って急に呼ぶのは、ちょっと悲しくなるだけ」
故郷の街では、彼女は『イル』と呼ばれることが多かった。しかし最後の日、誰一人として彼女を『イル』と呼ぶことは無く、直接話し掛けようともせず、彼女について職員と話す場合には『イルムガルド』と呼んでいた。それは政府関係者に対して正しい名前を扱っていただけで、口にした者達には他意は無かったのだろう。しかしそれでもイルムガルド本人にとっては、その変化が酷く冷たく、遠い音に聞こえていた。
「誰も家族じゃないし、本当はひとつも自分のものじゃないけど、うーん、故郷を離れる時に全部失くしちゃった気持ちになってた、のかな。アシュリーに名前聞かれた時、もう一回、あー、欲しくなったと言うか、……上手く言えないな」
語る間、イルムガルドは特別悲しい顔を見せはしなかった。己の心を表す適切な説明が見つからないのか、難しい顔ばかりを深めていた。
「なんかあんまり楽しい話じゃないね、ごめん」
「ううん。イルが、名前を嫌いじゃないなら良かった。私ね、その名前に少し思い入れがあるの」
「わたしの名前?」
意外そうに目を瞬いたイルムガルドに、アシュリーが微笑みながら頷く。その瞳は優しい色を濃くしながらも、何処か遠くを見つめていた。
「あなたと同じ名前の星を、知っているかしら?」
イルムガルドは首を傾け、そして、はっきりと首を振った。答えはアシュリーの予想通りだったのだろう。落胆した様子も無く、アシュリーは愛おしそうに彼女を見つめる。
「小惑星の一つで、とっても小さな星なの」
「しょうわくせい? えーと、『星』って、夜になると空で沢山光っているやつだよね、あー、この街では見えないけど」
「ええ、そうよ」
学校に行ったことも無く、親も知らないイルムガルドは『星』という存在そのものを理解していないようだ。それに気付くと、アシュリーは徐に身体を起こしてベッドから這い出した。
「教えてあげる。ちょっと待ってね」
妙に楽しそうな声でそう言うと、ベッドを降りて傍を離れて行ってしまう。その姿を視線で追いながら、イルムガルドも身体を起こした。すぐに戻ったアシュリーの手にはスケッチブックがあり、ベッドの傍に来るとそれを胸の前で広げる。ページは真っ白で、新しいものであるように見えた。
「さてこれは何でしょう」
「うーん、アシュリーの胸を隠しちゃう大きな紙」
「こら」
カーディガンを雑に羽織っただけだったアシュリーは一瞬前まで胸のほとんどが見えていたけれど、今はスケッチブックの向こうへと隠されている。スケッチブックよりも、イルムガルドにはそれが重要だったらしい。思わぬ言葉にアシュリーは項垂れ、カーディガンの前を寄せ合った。ところがイルムガルドはただアシュリーを
「スケッチブックだね」
「正解」
苦笑を残しながらアシュリーは再びベッドへと上がって、イルムガルドと並ぶように座る。
「こんなこともあろうかと、少し前に買っておいたの」
彼女の指す『こんなこと』は、アシュリーでも知っているような知識を、何も知らないイルムガルドに教えてやる状況のことだろう。言葉の意味だけならば、辞書と少しの補足があれば事足りるかもしれないけれど、図にした方が分かりやすい知識は多くある。『星』を意味として話せば『天体』でしかないし、もしくはイルムガルドが言ったように『夜空に光っているもの』というだけかもしれない。けれど、『星』と言って人々が当たり前に認識していることはそれだけでは決してない。
柔らかい口調で、易しい言葉で、時々絵を書きながら、アシュリーは知っていることを教えた。夜空に輝いている一つ一つの光はとても小さいが、それは遠く離れているからそう見えているだけで、本当はとても大きな物体である。そして、イルムガルドとアシュリーが生きているこの大地も『星』であり、違う星から見ればきっと同じように小さな一つの光でしかない。光を自ら放つ恒星と、その光を反射して光る他の星。二人が生きるこの星は後者である。
アシュリーの言葉は全てイルムガルドにとって新しく、好奇心に目をきらきらと輝かせてスケッチブックを見つめていた。
「イル、球体って形は分かるかしら」
「ボールと同じ形?」
「ええ」
正解を褒めるように微笑みながら、アシュリーはスケッチブックに大きな丸を一つ描き、その周囲に人や動物、木々、湖などを描いていく。
多くの星は球体で、核と呼ばれる中心部分に向かって引っ張られる力が働いている。その力を『引力』と言い、人や物、気体や液体もその影響で星の周りに留まっているから、星の外へ放り出されてしまうことが無い。アシュリーの説明に、イルムガルドは頻りに目を瞬いていた。
「えー、へぇー」
「まあ私も学校で教わった内容だから、本当かどうかなんて、空から確認したわけじゃないのだけど」
以前アシュリー本人も自らについて「賢くはない」と零していた通り、彼女は特別な教育など何も受けていない。この街が当たり前に与えている教育を、当たり前に受けただけだ。だから説明に不足もあるだろうし、専門的に言えば「厳密には違う」と言われるものもあるのだろう。けれど今スケッチブックを挟む二人に、そんなことはどうでも良かった。
「小惑星って、じゃあ星の小さいやつ?」
「おそらくね。詳しい定義は私も知らないけど……ただ、イルムガルドという小惑星がとても小さなものであると聞いたのは確か。私達の生きる『星』どころか、この国よりもずっと小さかったはずよ」
「へえ~」
星の外には『宇宙』が広がり、正しくはこの星も宇宙の一つではあるが、とにかく星の外の空間には人間が生きていられるような空気が無いとされている。
「えーと、さっきの『引力』で星の周りに留まってる空気とは、違うから?」
「その通り。イルは賢いわね」
アシュリーの言葉にイルムガルドは嬉しそうに笑う。酸素や窒素やその割合などといった難しい話はアシュリーも詳しくないが、自分の理解が乏しいこともまとめて説明しながら、とにかくこの星が纏う空気は人間の生きられる成分と配分になっている旨を伝える。ただこの国に限って言えば空気が汚染されている為、少し話が変わって来る。だがそれも、国の悲願を叶える為に致し方なかった。少なくとも、この国の者はそう訴えている。
「この国は何度も宇宙探査を試みていて、探査対象とされた沢山の星の内の一つが『イルムガルド』だったの。結局、まだ行けていないのだったと思うけれど」
人工衛星の打ち上げにはいくつも成功しており、無人の宇宙探査機にも成功した例はある。しかし、『イルムガルド』という小惑星に至ることは出来ておらず、また、有人の宇宙探査は例が無い。
「この辺りは学校じゃなくて、父から聞いた話なの。私の父は昔、その宇宙探査機の、――部品製造をしていたんですって」
そう言うと、聞いた当時を思い出すようにアシュリーはくすくすと楽しそうに笑った。
「父が『探査機の製造を手伝っているんだ』なんて言うから最初は驚いたのだけど。詳しく聞くとネジとかそういう小さなパーツだったのよ、もうがっかりしちゃって。ああでも、本当はそれでもすごいことなのよ、でも、子供心にはね」
立派な仕事であったことには変わりないが、アシュリーの父が大袈裟な言い方をして自慢していたことも、事実を知って落胆させた一つの要因だろう。結局、小惑星『イルムガルド』の探査は失敗に終わったが、アシュリーの父は生前、何度も探査機開発に携わっていたらしい。
「他の星には、この星みたいな空気ってあるのかな?」
「どうかしら。今のところ、人が生きられるような空気があると確認されているのは、この星ともう一つだけらしいわね」
「もう一つ?」
「
その星の名前を呟いて微笑んだアシュリーの瞳は、まるで色を深めるように煌めいた。
「父は酔う度に、小さな子供みたいに目を輝かせて話していたわ。この国の悲願なんですって。……この星に文明と文化を与えた
「ちきゅうじん?」
「
いくつも馴染みの無い言葉が続いたせいか、とうとう首を真横に捻ってしまったイルムガルドを見兼ね、アシュリーはメモを取る様にして言葉をスケッチブックへ書いていく。
約千年前。地球と呼ばれる青い星から、人がやってきた。当時、まともな文明も文化も持たなかったこの星の住民へ、彼らは多くの知識を伝え、星を急速に発展させる。今ではこの星全体に高度な文明があり、『国』としていくつもの文化があるが、その全ての起源が、彼らだった。
彼らがこの星へと到達してから数十年もの期間、到達に使用された宇宙船によって地球と交信が続けられていた。訪れた地球人だけでは足りない知識は通信することで補われていた。しかし、その通信は突然途絶える。地球はある日を境に、全く応答しなくなってしまった。前触れは何も無かったと語られている。
「来ていた地球人は?」
「通信が途絶えたことで帰る術も失くしてしまったらしくて、この星で生涯を終えたそうよ」
その地球人らにとってそれがどれだけ不幸なことだったかは、彼らにしか分からない。その時点で既に数十年間をこの星で過ごしていたのだから、快適な生活基盤はある程度、築いていたことだろう。けれど帰る場所を失くすことの慰めには程遠いものだったのではないかとアシュリーは思う。それは、イルムガルドの方がよく知っているのかもしれない。微かに眉を下げていた。
「地球はとても遠い星なの。何があったのかを観測できるような距離じゃない。それを知る為には実際に辿り着くしかない。だから、この国はただひたすら工業を発展させ、宇宙飛行の為に心血を注いだのだそうよ」
この国はその地球人らと最も交流が深かったのではないだろうか。彼らを故郷に帰してやる為、改めて宇宙船を開発しようとしたのかもしれない。そのような記録を聞いた覚えはアシュリーには無かったけれど、過度になってしまったその情熱には理由があったようにも思えた。
過度。進むことだけを考え、後先を考えない方法で発展し続けた結果、大気を汚染し、大地を汚染した。その末に他国と争いが起こり、今や宇宙機開発に手が回らないほど、戦争ばかりをしている。
「あー、じゃあ、スラムよりずっと遠くにある『研究施設』って、元々はそういう開発の為だったのかな?」
「ええ、よく知っているわね。もしかしてタワーから見えるのかしら」
職員から教えてもらった内容をイルムガルドが話せば、アシュリーは頷いてそれを肯定した。アシュリーの父は納品で何度か足を運んでいたそうだ。その話にアシュリーがまた笑うから、イルムガルドも一緒に笑った。
「ちなみに
「なんで?」
「ふふ。どうしてかしらね。地球に住む人々は、国によって違う言葉を使うそうなの。この星はそれを聞いて文化を作っていったから、私達が使う言葉は地球の色んな国のものが混ざっているらしいわ」
「えー、ややこしいね」
元より『言葉』には困っているイルムガルドだから、一つの意味を複数の言葉で扱うことは課題が増えたように感じるのだろう。今までに見たことが無いくらいにうんざりした様子で項垂れていた。今すぐ覚えるべきものではないと慰めながらも、アシュリーは楽しそうに笑う。
「あ、話が地球の方に逸れてしまったわね。最初の話だけど」
「ああ、わたしの名前」
ちゃんと覚えていてくれたことが嬉しかったのか、アシュリーは目尻を下げる。
「あなたの名前を付けたのは、お母様かお父様かは分からないけれど、もしかしたら私の父と同じように『イルムガルド』という小惑星に何か夢を持っていたのかも。星が好きな方だったのかもしれないわ。もしそうだとしたら、とてもロマンチックな名前だと思うのよ」
懐かしそうに笑みを深める彼女。喜びをたっぷりと込めてイルムガルドを見つめる瞳は、彼女の愛した亡き父への想いが含まれていた。
「イルが望むなら、私はあなたをずっとイルと呼ぶわ。だけど、イルムガルドという名前も私はとても好きだから。覚えておいてね」
「うん、ありがとう」
アシュリーから向けられる好意の理由が何であれ、イルムガルドはそれを嬉しそうに受け止めて頬を緩める。勿論その喜びにも、好意を得たことだけではなく、今まで知らなかった多くの知識を得たことも含まれているのだろう。イルムガルドは改めて、アシュリーが描いたスケッチブックの絵や記述を眺めた。
「でも、わたし達が住んでるところが丸いなんて、想像したことも無かったなぁ」
「そうね。今度街の外に出る時は、地平線を見てみて。ちょっと納得するわよ」
地平線や水平線は、この大地が球体であることを示すように、緩く弧を描いている。この街の中でだけ生きてきたアシュリーにはそれらは縁の無いものだが、写真では確認したことがあった。幼い頃アシュリーもそれを見て「本当に球体なのね」と感心したのだ。
「そもそも地平線も、球体だから、こう……」
「あ~、なるほど、へぇー」
先程描いた円の上に立つ人から見えている大地の境を示すように、アシュリーが矢印を引くと、イルムガルドは感心した様子で溜息を漏らす。
「すごいね、考えたことも無かったものに、全部ちゃんと理由があるんだね」
楽しそうにそう話すイルムガルドを見つめ、アシュリーは少しだけ眉を下げて首を捻る。イルムガルドはきっともっと多くの知識を必要としていて、所望しているのだろうけれど、『賢くない』アシュリーに出せる知識がこれ以上は無いせいだ。
「もし妹がまだ教科書、……学校で勉強する為に使われる資料のことだけど、それを持っていたら、今度借りてきてあげるわ。もっと詳しく書いてあるかも」
「へー、見てみたい。地球のことも載ってる?」
「ええ」
「『青い星』ってどんなのだろう。写真とかあるのかな」
その言葉に、アシュリーは残念そうに首を振った。彼女も地球の写真は見たことが無いのだ。この国の子供、地球を知る者だけに限られはするが、誰しも一度は「見てみたい」と大人を困らせた覚えがある。アシュリーも例外なくそんな記憶が蘇ったようで、一人、苦笑していた。
「教科書には、『とても美しい青』だと、それだけよ」
「へえー、アシュリーの瞳みたいな色かな?」
さらりと続いた言葉に一瞬何を言われたのか分からない顔でアシュリーは黙り、理解をすると長く息を吐きながら俯いた。耳が少しだけ赤い。
「……急に口説かないで」
「え、普通に思ったのに。わたし、アシュリーの瞳くらい綺麗な青は見たことないよ」
「だからね、イル」
「ん?」
イルムガルドはにこにこと笑みを浮かべている。最初は本当に思ったままを口にしたのかもしれないが、今のイルムガルドは明らかにアシュリーの反応を楽しんでいた。
「だけど私も、あなたの瞳の色が好きよ、地球の傍にある『月』と呼ばれる星も、こんな綺麗な金色なんでしょうね」
「月?」
ぱちぱちと瞬きすれば、涙が揺れてその金色がまるで自ら輝くようだ。光の動きに見蕩れたアシュリーはしばし黙って見つめてから、次は地球の衛星である『月』について説明をしてやった。それを聞いたイルムガルドは嬉しそうにアシュリーの身体へ両腕を回し、瞳が決して離れて行かないようにと引き寄せる。
「じゃあわたしは、アシュリーの近くに居たらいいんだね」
「新しい口説き文句を覚えたわね」
照れたアシュリーが視線を落とせば、誘いを受けたと認識したかのように口付けられる。そうじゃないと視線を上げれば、瞳の色を嬉しそうに見つめてくる。どう転んでも気恥ずかしいアシュリーは、頬を更に火照らせていた。
「流石に自分を地球に例えられるのは、恥ずかしいわよ、外では言わないでね……そんな機会も無いでしょうけど」
イルムガルドは微笑むだけで、何も答えない。けれどアシュリーは分かっていた。彼女はタワーの人間にアシュリーの存在を告げていないだろうということ。そして、今後も伝えないだろうということ。それはイルムガルドにとって、きっと、不都合でしかないのだから。
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